負け組ゆとりの語り場

社会に取り残された男が日々を語る

新元号の時代から日本は「脱90年代」をしていく必要がある

1990年代というのは戦後日本の極致であり、ある意味で完成形とも言える時代だったのかもしれない。

別の言い方をすれば、良い意味でも悪い意味でも90年代に答えが出てしまったことでこの30年間、つまり平成という時代自体が90年代の焼き増しをひたすら続けてきた時代だった。

 

社会構造から文化面に関してまで実は全てが90年代に答えが出ており、直接的にも間接的にもその時代の影響を受けた現代日本人は90年代型の人間が主流となっている。

おそらく今後しばらくの間、この「90年代型人間」というのが主力であり続けるだろう。それゆえにもう日本に新しい物は登場しないだろうし、大きな変化も無いと自分は考えており「まぁ日本ってもう変わらないし、変わる必要もないし、変わることを望んでもいないんだろうな」という心境に達している。

 

「新しい事はもう期待しないでください」というのが現代日本人に突きつけられている現実なのだ。

よくよく考えれば例えば漫画やアニメ、ゲームのようなオタク文化でも、今も続いている長寿コンテンツを見れば大半が原作が90年代に作られている物が多い。

名探偵コナン、ポケモン、NARUTO、ONE PIECE、どれも90年代に始まっている。

また芸能においてもブレイク自体は新世紀に入ってからの00年代だとしても、デビュー自体が90年代というケースは多く、ジャニーズの嵐はその典型だしSMAPもそうだった。V6やKinKi Kidsも今でも人気が高く、日本が本当にかっこよく最先端だった時代の申し子だ。

宇多田ヒカルやモーニング娘。などもそうだし、代表格として安室奈美恵はまさにこの30年の象徴だったと言える。

経済的には80年代が日本の黄金期だとすれば、90年代は文化の黄金期だった。

 

だからこそ安室奈美恵の引退と共に、文化的にも新時代が始まっていくことが自然な流れだが、現実問題として90年代のものを超える物や人は登場しないのではないかという問題も存在する。

 

例えば原作が90年代の物を超える面白い漫画やゲームが登場するだろうか?と考えると、正直そのイメージはわかないどころか今後しばらくの間90年代のものがまだ続いていく可能性の方が高い。

ポケモンと遊戯王はその代表格で、わざわざ新しい物を作るよりも続編が登場し続けることのほうが日本人にとっては面白いという構造がある。ポケモンに関しては日本人だけでなく世界でも人気があるので、まさに90年代文化の象徴だ。

 

「コンテンツ生産能力」に関して言えば日本人は90年代が最も高かった。

今も人気が高いコンテンツは大半が90年代に始まっている物ばかりだ。

声優などを見ても分かるように、昔の人材はあらゆることができる多種多様な能力があった。しかし現代の養成所で育っている声優は、「主人公やヒロインの声しか出せない」ということが多いし、漫画も「美少女やイケメンのキャラクターしか描けない」というクリエイターが多い。

 

コナンやNARUTO、ONE PIECEを見ればわかるように、とにかくいろいろな年齢のキャラクターが多く時には人ではないキャラクターも登場する。

「人以外のキャラクターが描けるかどうか」というのは問題で、遊戯王に関しても原作者のデザインが一番優秀で個性があるが、今のTCGは人以外のキャラクターを描けないのでどうしても人間系のキャラクターが多くなっているという構図がある。

声優はメインキャラクターしか演じられないし、デザインは人以外描けないというのが現在のクリエイターに共通している課題だ。

成功者の模倣をしている人は成功者になれないと言うが、その人にしか出せない声の演技というのは養成所では教えられないし、独自にモンスターをデザインする能力も誰かに教わる物ではなく趣味でやっていたらいつの間にかそうなっていたという説明できないもののほうが面白い。

このように本当に面白い物はオーパーツ的であることが多い。

 

90年代までの人材はいろいろなコンテンツだけでなく教養を吸収していたが、今の時代は好きな物だけを楽しむことが許されるし、それだけ好きな物が細分化して充実しているとも言える。

 

スマホやインターネットが登場する以前は漫画の種類も少なかったり、テレビ番組も決められた時間に見るしか無かった時代もある。

「今日は面白い番組はやっていないけど、仕方なくテレビをつける」とか「目当てのCDやレコード、書籍を探しているうちに他の物に出会う」ということが無くなっているのだ。

これは良く問題視されており、今はスマホやネットですぐに自分好みのものに行き着くことで新しい発見が無くなっているのが現代人の特色だ。

面白いテレビがやっていなかったらスマホで好きなユーチューバーを見ることができるし、録画機能なども現在は充実している。

食事中にスマホを使うことが良くないとされていた時代から、くだらないテレビ番組をみるくらいならスマホで情報収集をしたほうが良いなんて主張をするホリエモンのような人も現れている。

もう今の時代お茶の間で家族が同じ番組を見るという時代は終わり、一人でスマホを見ながら食事をするというのが現代人のライフスタイルだ。

 

だからこそ多種多様なことができる人材が今後枯渇する可能性もあり、それこそ「メインキャラクターの声しか演じられない新人声優」みたいな人材があらゆる分野で出現することになっていくだろう。

漫画に関しても一人でなんでもできる作家が減り、それこそ美少女キャラしか登場しない日常アニメばかりになっていく構図がある。

昔の漫画家は絵自体が上手く様々な物を趣味で描いていた経験がある。

その一方でけいおん!以降は本当に萌えキャラしか登場しない作品でも成り立つようになったし、作家は限られたことしかできないし、受け手も限られた物しか見ない時代になっている。

 

クリエイターに限らず一人の人間としての器のような物が現代は縮小していく傾向にあることは否めない。

人付き合いも結局大人になっても昔からの友人だけとしか話さないとか、同年代としか付き合わないという人も増えている。これは若者に限らず、例えば上の世代も結局上の世代同士の方が問題が共通しているので話が合うという時代になっている。

 

「昔から好きだった菓子パンをずっと買いつづけて、店舗から消えたら文句を言うおばあちゃん」みたいな人が現代人の主流になっており、新しい物を吸収しなくなっているのだ。

日本人全体の傾向として「昔からずっと好きだったものが好き」となっているし、新しい物にチャレンジしない風潮が形成されている。

「流行に騙されるのは逆にダサい」みたいな空気がネットによって形成されたことで、新しい物が好きだという感覚が現代人から消えている。実はそういった感覚は発展のためには必要なのだが、徐々に現代人は懐古傾向になっている事は否めないし自分もその一人だ。

 

別の言い方をすれば「新しい物に面白い物が無い」のも現実であり、昔の物のほうがクオリティが高いのも事実だ。

例えばよく懐古厨の間で「クレヨンしんちゃんの映画は昔の方が面白い」と言われるが、それがまさに典型で自分自身最近のクレしん映画は見ていない。

大人帝国で「昔にすがる大人になっちゃいけないよ」と教えられて育ったはずの子供が、今の大人になって同じく昔にすがる大人になっているというのが皮肉な現実だ。

 

「懐古するおとなを描いた作品を見ていた頃を懐古する」という二重懐古のような現象が起きており、本来は新しい時代を作るはずだったゆとり世代が単なる懐古厨になっているのだ。

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新しい時代に希望が持てないのは仕方がないし、夢を持たない若者より夢を持っても無駄な社会の方が当然悪いと自分は常々主張している。何より自分がその「90年代製」の人間であり、90年代の物にすがっていたほうが心地が良いというのも否定はできない。

21世紀生まれも実は90年代に作られたインフラや文化をそのまま享受しており本質的に大きな変化はない。

 

社会問題に関しても晩婚化や少子高齢化といった今に通じる問題は90年代に発生しており、その問題を解決できずに日本はこの30年の間、平成という時代を歩んできた。

それまでお見合いで誰もが結婚していた時代が終わり、結婚だけが人生ではないと言われ始めたのも大体この時代だ。日本人全員が同じことをするという時代ではなくなった30年だったとも言える。

 

国内的には1989年の昭和の終わりと1991年のソ連崩壊以降に作られた世界情勢の構図の中で、現代日本の形が作られてきた。

社会構造においても文化面においても約30年のこの時代はこれからもおそらくは続いていくだろう。

 

身の回りにある物は大体90年代にモデルが完成されており、例えばコンビニエンスストアなどもその典型だ。

よく日本の風景が「どこにもコンビニやイオンがあるだけで、80年代までのほうが昭和の香りがあった」と言われるが、脱80年代脱昭和を掲げて歩んでいった結果逆に脱平成脱90年代ができなくなり始めている。

中途半端に便利でそこに慣れている人が主流であることで、世の中が変わりにくくなっているのだ。

 

問題なのはそれを成し遂げられる人材が多くは無いという事であり、良くは無いかもしれないが変える力も無いので惰性で生きるしかないという人が増え始めている。

音楽はいつまでミスチルを聞いているのか、漫画はいつまでワンピースを見ているのかと言ったところでじゃあそれより面白い物が登場するかと言えばそれは難しい。

限られた世界だけで完結する傾向にある現代に比べて、かつてのクリエイターは人生経験自体が多種多様で、時代もまた激動に溢れていた。

ものづくりという面において人間が自分の作る物に反映するものは、必ずしもその分野だけの専門知識ばかりではない。関係ないと思われる別の分野のセンスや経験が、思わぬ形で通じていることは多い。

 

声優に関しても声優の養成所に入って既定の知識だけを学んだ人よりも、声優という職業がそれほどメジャーではなかった時代に、芸能界崩れや元ナレーターやアナウンサーという経歴の人がなっていたからこそ別の知識が生きていた。

元々は歌手志望だったがなれなかったので仕方なく声優をやっていたような場合の方が、人生経験に富んでいて演技に反映できるものが多かった。

それと違い今では声優という職業がまるでアイドルのように確立されており、最初からそこに憧れてなるので演技の幅の広さというよりも単にアイドルとしてどれだけファンを増やせるかという事の方が大事になっている。

漫画家やイラストレーターも萌え系の美少女キャラクターをどれだけ描けるかでしかなくなっているし、創作の幅という物が狭まってきている。

 

カイジやアカギが面白いのは作者自身が人生で様々な修羅を潜り抜けてきたからという意見があるが、まさにその通りで面白い作品というのは作者自身の人間力や魅力がどれだけ深いかによる。

もっとさかのぼれば手塚治虫はその典型で「スポーツ漫画以外全部やっている」という幅の広さがあり、なおかつ漫画という物が文化として確立されていなかった時代に試行錯誤を繰り返していたからこそ数多くの作品を作り上げられた。

そういう時代の作家が減り、けいおん的日常漫画や、俺TUEEE系なろうラノベばかりになると当然面白い物は減ってくる。

 

アイドルもAKB48自体は2010年代に入ってからの音楽業界を劣化させたと批判されるが、初期のメンバーは劇場に数人しか客が入ってなかった頃から活動していたからこそ全盛期を作り上げられた。

そしてこれが「AKBが人気になってから憧れてAKBになる世代」が主流になるともう劣化が始まり、突出した人材は現れなくなってくる。

逆にTWICEの日本人メンバーのように日本の中で芽が出なかった人が、海外に拾われて花が開くというケースも存在する。これも韓流で日本人がアイドルになるというモデルが確立されてから憧れて目指すことが普通になると、同じような問題が発生する可能性もある。

アイズワンでこの流れは加速するかもしれないが、逆にアイズワンまででその後は雨後の竹の子のように増えたバーチャルユーチューバーと同じ運命を辿るかもしれない。

 

結局のところ制度やシステム、トレンドが確立されてからだと最適解のテンプレ行動しかしなくなるという現象は何においても通じており、開拓精神がある人材というのはそう多くは無い。

ゲームやTCGも攻略wikiが充実し始めるともう皆同じものしか使わなくなり、「好きな物で戦う笑」みたいな風潮になり本当にそのコンテンツ愛がある人は去っていく。

本当にポケモンカードが好きで流行っていない頃からやっていた人が主流だった時代のほうが面白く、今のTCGガチ勢が流れてきて市場を荒らすようになってくるともう衰退の始まりだ。

 

ポケモンバトルも本当に好きで、「高校生になってもポケモンをやってるのはダサい」という風潮の中でバトレボをやっていた頃はワイワイとした温かい空気感があった。

これが好きなものにこだわる人が軽んじられて、ガツガツしたユーザーばかりになるとどうしても本当にコンテンツ愛がある人は去っていき結局は過疎環境になっていく。

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試行錯誤をして好きだからいろいろなことをやっている時代の方が何においても面白く、結論が出てからそれを模倣したり踏襲したりするだけになってくると後は右肩下がりとなる。

これがまさに「90年代から抜け切れない日本」の本質的な構造であり、そもそも明治の近代制度からも抜け切れていないと主張する落合陽一のような人材も存在する。

 

これからの日本を変えるならば落合陽一に続く人が現れなければならないし、彼こそが21世紀型の新しい人間として可能性がある。

しかし「落合陽一が日本に絶望して海外に行くとすれば、それは老害に絶望するよりも、やる気や情熱が無い若者に絶望した時」という声もあり、自分自身その意見に納得した部分もある。

 

「夢を持たない若者より、夢を持っても無駄な社会が悪い」というの事実だが、同時に若者劣化も事実は事実だという面もある。

それまでのやり方が通じなくなってきたときにこそ、新しいことを試すしかないし、そういう時に新しい人材は現れる。

しかし、しばらくの間日本という国はまだ過去の遺産に頼れる国なので新しいことをやる必然性がまだ高くは無い。

つまりポケモンはまだ面白いし、ワンピースも続くし、ジャニーズもなんだかんだでまだまだグループは出てくる。

安室奈美恵引退しても、宇多田ヒカルも西野カナもいるしみたいな時代でちょっと劣化していく程度ならまだ持つには持つので、これからも日本はそれほど多くは変わらないよというのが全体的な流れである。

 

しかし90年代に作った箱というものがだんだんと老朽化して時代に合わなくなってきているのは事実で、だからこそ新元号の時代になった時にどうなるかが問われる。

車と一緒で日本製は丈夫でもちが良いのは事実で、そこまで頻繁に買い替える経済力が無いのも事実となれば、しばらく変えなくてもいいよねという結論になるのは必然だろう。

中国が電気自動車を国策で開発してクリーンエネルギー時代やキャッシュレス時代に向かっているときに、昔の中古車と現金社会でいいというのが日本だという現実を受け入れるしかないのもまた現実だ。

国家プロジェクトで国益のために大規模な施設を作る国と、業者が利益を得やすいから予算の引っ張り合いで地方に誰も使わない建物を作る国、綺麗に分かれている。

そう考えると脱90年代というのは相当時間がかかるだろうし、落合陽一は海外に行ってしまう可能性の方が高い。

「新しい物を作る余力が無いので使い古すしかない」、この現実的な構造を変えるには別の角度から見た新しい視点が必要になりそうだ。