負け組ゆとりの語り場

社会に取り残された男が日々を語る

エネルギーが無い人間は駄目人間なのか?

自分が良く使う言葉として「無気力」というワードがある。

これは自分の中で頻出単語であり、やる気が無い、停滞感がある、ダラダラしてしまう、先延ばしにしてしまいがち、などとにかく駄目な人間が使いがちな言葉を良く使ってしまう。

 

ここ最近感じることが、情熱ある人はどんどん進んでいくなという事である。

というよりも情熱を傾けられるものを上手く見つけて、なおかつそこで活躍で来たり恩恵を受けられたりすると人は進んでいく。

自分が応援していたり気にかけていたりする人は芸能人にしろ、ネットにしろ、アスリートにしろ何人かいるのだが、気づけばどんどん先を進んでいる。

しかしそこに対して嫉妬という感情を抱くことは無く、好きで見ている人達なのでむしろ勇気づけられている。

逆に期待はしていたけど思ったほど成長していない人に対しても共感を抱くし、これから這い上がって行ければというモチベーションにしてもいる。

 

多分、本当の意味で情熱が無い人というのはいないように思う。

一般的に価値があると信じられているものに対してエネルギーが沸かないだけで、自分の好きなものや相性の良いものに対しては物凄く情熱を傾けられるというのであれば、気力が欠如しているとは言わない。

 

例えば自分は普通に仕事をすることに対してまるで情熱を感じられず、一般の社会人として溶け込んでいる人のことを尊敬するとまではいかないが、そこまでできるのは凄いと感じる。

それは身近な自分の家族を見ていても思うし、人づてに聞いた学生時代の級友の話しや、地元で見かける知り合いなどを見ていても思う。

 

しかし逆に彼らから見れば、自分が俗世間から離れ、ここまでどうでもいいことを追求して考える事の動機は理解できないだろう。

多くの人は「考えるより動く」ことに情熱を傾けているし、世の中では考える前に動くことが立派だとされているが、自分は典型的な頭でっかちな「動くより考える」というタイプだ。考えることが好きな人は世の中では面倒な人として扱われる。

その上それは知的労働や生産的な活動を行っているわけでもなく、無駄な事ばかり考えているので意味がない。

 

ただ今後、AIにいろんなものが大体されていく時代に人間ができる物とは何か考えた場合、こういった無駄なことを考える事が一つの人類の生きる道になるのではないかとも考えている。

これ自体が無駄な思考であり、別にこう考えたからと言って今すぐ自分に何かの恩恵がもたらされるわけではない。

 

しかし世の中、実は無駄な物の方が溢れていて、くだらないものほうが需要がある時代になっている。

自分が昔フラッシュ動画やMAD動画を見ていたのも、おそろしくくだらないからであり、今ユーチューバーを見ている人もそれがくだらないからだろう。

 

そんなことを言えば子供がやる遊びのほとんどが、大人からすれば滅茶苦茶意味がないように思えて何をそこまでやっているのかと疑問に思う。

 

つまりくだらないことに情熱を傾けられなくなったら、それは大人になってしまったという事なのだ。

社会というのは無駄なことを許さないし効率を求めなければ生き残っていけないようにできている。そこで人間は無駄なことをしないように成長していくし、必要な事しかしなくなる。いや、無駄なことをする暇などないというのが適切な表現だろう。

 

ただよくベーシックインカム論にあるように、ミニマムな生活して最低限に暮らしてるけど時間だけはあるというライフスタイルにも限界はある。

今の時代駄目人間や底辺というものが肯定されすぎていて、本来ならエネルギッシュにやっていたはずの人までこっち側に来てしまっているのではないかとも感じる。

人間というのはやらなくていいことは、どうしてもやらないようになってしまうし、そもそも昔から楽をするために様々な発明をしてきた。

 

いざ好きなことをしろといわれても、やることが無い人の方が多くて、例えば「趣味が見つからない」という悩みを持つ人は多い。

自分もものすごく好きなことを情熱的にやるときと、だらだらくだらない物を見ていたいだけの時がある。それどころか何もやりたくない時があり、最近は「何もやらないことが最適解」なんて言葉を考えてただゆっくり無気力に座るか横になる貸しているだけのこともある。

 

例えば電車の中でしきりにスマホをいじっている人が多いというか、もはやそういう人しかいないが、自分にはそこまでするものがあることが不思議で、それが仕事でなかったとしても世の中の人忙しいなと感じる。

 

かといっていつまでも何もすることが無い空白の状況に人間は耐えられるようにできていない。

結局大部分の人は自由に時間を与えられても困るだけで、何かやらなければならない状況下におかれているほうが幸せだったのではないかとも考える。

お見合いが衰退して自由恋愛の時代になって、好きな人と愛し合っていいと言う時代になると、逆に好きに恋愛することが分からなかったり、好きにやろうとしても上手く行かなかったりという問題が起きて未婚率が急増した。

 

恋愛に限らず、人生の生き方にしても、趣味にしても「好きにやっていい」と言われると実は好きにやれる人しかできないという状況になってしまうのだ。

ゆとり教育で個性を大事にしていいと言われれば逆に個性のある人が減ったように、反発する物が無ければ人は何もしなくなる。

労働時間が今より長かった時代だからこそ、それをどこかで発散しようとするから世の中にはいろんな活気があった。

 

結局のところ日本人は自発的に狩りを行う狩猟民族ではなく、計画や自然に左右されてその中で生きる農耕民族としての歴史が長く、近代になってからはそれが「社会」であった。

 

「社会人」などという言葉がステータスとして語られる国は世界的に見て中々存在しない。

パックンが「連帯責任という言葉は英訳するのが難しい」という言葉を使っていたが、厳密に正しいニュアンスで訳そうとすると「社会人」という言葉も日本的な意味では外国語に翻訳できない。

 

なぜ日本ではそこまで社会人であることが清く正しく求められるのかという疑問と共に、実は社会人というアイデンティティを押し付けられている方が日本人は居心地が良かったのではないかとも考える。

 

年齢や出身地、職種以外の事でいざ自分を規定するとなれば日本人にその習慣は根付いておらず、なかなか話の糸口が見つからないという事は多い。

 

自由恋愛になると恋愛できなくなるし、個性を容認されれば逆に個性がわからなくなるし、自由に生きていいと言われれば逆に路頭に迷う。

大部分の人は結局凡人でしかなく、レールに敷かれて上から何かを押し付けられていた時代の方が幸福度は高かった。

時間にしろ生き方、個性、恋愛、権利にしろいきなり「自由」を与えられても日本人はその使い方以前に概念が分からない。

FreedomとLivertyがどちらとも「自由」と造語されている時点で日本の近代化は独自の路線に行かざるをえなかった。

そんなことを考え、その概念が日本語に翻訳することの難しさに気付いていた人は既に明治時代にいて、それは福沢諭吉という超有名人である。

自由にしていいと言われると、逆に途方に暮れてしまうのが日本人だという事が明らかになりつつある。もちろん好きなことを出来る人も多く、出来る人と出来ない人の差が大きくなっているのが現代だ。

 

それでも今の日本では好きな事を追求する文化が発達しており、だからこそオタク文化が発展してきた。

しかしこのオタク文化も、既存の押し付けられた一般文化に対するアンチテーゼや逆張りだったからこそ濃密に発展してきた背景があるため、近年オタクが容認され市民権を得るようになると逆に浅はかな物になって来ている。

 

それどころかむしろオタクの世界の方がかつての上から押し付けられるものを、それが流行だと受け入れてきた一般文化のようになって来てさえもいる。

けものフレンズが流行れば皆で「すっごーい!」と言って一体感を味わえば幸福だし、バーチャルユーチューバーが流行れば皆そそくさとそこに行く。

結局大衆の本質は変わっておらず、忙しく疲れ切った現代の中で主体的に考える余裕などないのだ。

 

かつて流行にも興味を持たず、食後の飲み会を断ってでも、好きなことに情熱を捧げる協調性のないオタクが多かったからこそオタク文化は濃密さがあった。

しかしごく普通の人々がオタク文化に入らざるを得ないと、そこには同時に一般性ももたらされる。

 

つまり前述の昔だったら普通に生きてた人が駄目人間になれるようになった話と同じで、一般文化に流されていた人が今はオタク文化に行かざるを得ない時代になってしまった。

図工の授業などを振り返ればわかるように、「好きな絵を描いて良い」と真っ白な画用紙を与えられて、何かを描ける人はそこまで多くは無い。

画題やテーマを指定されればまだ描けるかもしれないが、それすらない場合何を描いて良いのかわからないという人が続出する。仮に描けたはいいとしても、それが良いものかとなると別だ。

 

このように大部分の人が「好きにやっていい」と言われれば実は困るわけで、それはまさに今の日本社会をあらわしている。

上手く情熱を傾けられる好きな物が見つかり、そこで生きていける人やそのために必要な努力ができる人にとっては今の時代まさに理想的な時代だ。

しかしいざ好きにやれと言われて出来る人や、それ以前に好きなことが見つかる人のほうが少数派で、現代はいろんな人が迷っている。

 

実は親の後継ぎで仕事をしていた時代や、縁談で人生が決められていた時代、社会のレールに従い、流行を押し付けられ、同調圧力の中にいた時代の方が安心感はあった。

周りを気にせず自分が独特な存在だと思い、自由という権利を心の底から謳歌し、それが至上価値だと信じられる外国人のような生き方は日本人には向いていない。

 

そうは言いながらも昔に戻ることはできないわけで、今の日本人はその過程にあるのだろう。

元々狩猟民族だった西洋人が数百年の歴史によって勝ち取った自由と、元々農耕民族だった日本人がいきなり急速に近代化を得て海外から学んだ自由は異なって当然だ。

自由というのは自分で考えてやらなければならないという事でもあるし、誰にでも上手くできるわけではないから難しい。

そのもどかしさのようなものが世の中を覆っているのが今の段階ではあるが、それが真の自由化の過程である証なのかもしれない。