負け組ゆとりの語り場

社会に取り残された男が日々を語る

秋の風が吹き始めると切なくなるよね

つい最近まで夏の暑さにうなだれていたら、少しずつ肌寒さを感じ秋の訪れを感じる今日この頃を皆様どうお過ごしでしょうか。本当に少しずつ風が冷たくなってきていることをわずかに感じる。

そしてこんな辺境の寂れた場末を見ている人にはどうこの秋風を感じられるのだろうかと少し思いを馳せる日々だ。

 

秋はなぜ切ないのか、心地よく良い香りもする秋風がなぜか迫る孤独や厳冬を予感させることで寂寥感をくすぐるからなのか。昨日まで苦しんでいた暑さがいつの間にか終わり、それすら懐かしく感じるようになる。そして忍び寄る冬の寒さに少しずつ怯えるようになる。

そんな狭間のような秋はカーニバルと言われるように最も過ごしやすい季節だ。

気温が本当に最適で昼間はそこまで暑くなく、夜は丁度良い夜風が吹き付け散歩や散策には最適な季節だと言える。

 

子供のころは夏休みがある夏と冬休みやクリスマス、お正月のある冬が好きだった。冬や雪の美しさに傾倒していた時期も自分の中ではある。

しかし今になって最も素晴らしく美しい季節は「秋」だと感じるようになった。好きな季節はいつかと言われれば四季の中では秋を選びたい。

 

子供の頃の秋のイメージといえば虫好きの少年だった自分は「虫が少なくなっていく寂しい季節」だと思っていた。そうは言っても山に行けば未だにツクツクボウシがせわしなく鳴いているのだが、その音もいずれ寒さの訪れとともに静かになっていくのだろう。

夏休みが終わり昆虫採集ができなくなる季節が始まる、その時から自分は漠然と秋に寂寥感という肖像を抱いていたのかもしれない。

海やプールも水温が低下し入れなくなる、夏ならではの楽しみが無くなることに小学生は寂しさを感じるだろう。夏休みが終わったり、海水浴や虫取りというイベントが無くなったり、夏限定のイベントや映画がなくなったりいろんなものが寂しく感じる。

甲子園も無くなるし、ポケモン映画も公開されなくなる、かき氷も食べられなくなるし二学期が始まる、小学生のころはそう思っていた。

 

「日本の夏」というのはなんだかんだで美しい情緒があり、世界的にもビッグサマーや明るい夏へのイメージは存在する。そんな季節が終わる寂しさそのものが秋という季節が持つ寂寥感の正体なのかもしれない。

 

桜が散りゆく姿に思いを馳せるように、夏という盛況が終わりゆく秋に美を見出すようになればそれは大人になったという事なのだろう。

終わりゆくあの夏と迫りくる冬の間に挟まれた秋というわずかな時期が今自分の心に沁み渡る感覚がある。寂しさと寂しさの間に挟まれた秋という季節の中で何を思えばいいのだろうか、そういえば読書の秋という言葉もあるから哲学に思いを馳せても良いのかもしれない。

 

日本人は秋という季節とどう向き合っているのだろうか。

ハロウィンやカーニバルという文化が定着しているわけでもないし、桜の春や海の夏、クリスマスの冬というような邦楽の名曲もあまりない。秋を歌った有名な曲に聞き覚えがないのだが、四季の中では最も地味な季節であることは間違いなさそうだ。

この地味だけども大人になるとその旅情というか情緒みたいなものがわかるようになる。

 

秋と言えば紅葉だけども邦楽に歌われるような若者的スタイリッシュ感はあまりない。紅葉と言えば老夫婦が老後の旅行で紅葉狩りをしているというイメージがあり、秋の良さがわかる若年層はあまり多くない印象がある。

最大級に盛り上がる夏と、イベントが豊富な冬の間の中間地点のような立ち位置でせいぜい体育祭があるかという感覚だ。その体育祭も楽しかった夏が終わり面倒な行事が始まるという感覚で、当時はその練習の時に吹く秋風の心地よさも分からなかった。

「食欲の秋」と言われても子供の頃の味覚だと秋刀魚の苦味や茸の味わいよりも、かき氷やアイスキャンデイーのほうが甘美に感じられた。

秋

今となってはこの秋の味覚や寂寥感を催す秋風の心地よさの魅力がわかるのだが当時はそれも分からなかった。

子供の頃から秋が好きだったという人はかなり大人びていたはずだ。子供なんて夏休みに虫獲ってかき氷を食べて夏スペシャル的な番組見て心霊番組を怖がっているもので、冬はクリスマスやお年玉が楽しみなのだ。

そういう時何のイベントも無い中間地点の秋は何も魅力がないつまらない時期のように思えてくる。

 

しかし大人になるとこの絶妙な切ない寂寥感が不思議と魅力に感じるようになる。

切なく少し肌寒い風が頬を揺すると良い秋だなと感じる自分がいる。

虫の獲れない紅葉の樹木の華麗さも分かるようになり、しみじみと鑑賞できるようになる。

秋、それは夏と冬に挟まれた少しばかり落ち着く静かな季節なのかもしれない。