負け組ゆとりの語り場

社会に取り残された男が日々を語る

主人公が惨めな小説って面白いよな

最近の自分の楽しみと言えば専ら読書になっている。

趣味や娯楽としての読書は心に安らぎや非日常の昂揚感をもたらしてくれる。自分のタイミングやペースで気ままに読んでいられるため、何も楽しみが無くつまらない人生を送っている人間にとってよき心の友でもある。

アニメのように決められた量を見る必要はなく、ゲームのように誰かより上手くなる必要はなく、人脈もお金も必要ないため何も持たなず人生に疲れている負け組にとっては数少ない娯楽だ。

 

しばらく自分は読書という趣味から遠ざかっていたのだが、ある日数年前に読んだ小説が懐かしくなり読み始めたらその魅力に再びとらわれた。惨めでつまらない自分の最底辺人生とは違う世界がそこには広がっている。

アニメや漫画に興奮するような10代のエネルギーがもはやない自分にとって、しみじみと小説を読む習慣は唯一の癒しなのだ。

とにかく底辺の貧乏人でもお金がかからないというのがこの趣味の魅力だ。

読書

前述の自分が読みたいと思った小説を探し出すため本棚を整理し、読みたい本以外は全てしまったのだが、それでも数年前に買いためた本がいくらでもあるためしばらくは困らなそうだ。

 

最近自分は世の中のあらゆるものがつまらなく感じるようになっている。

特にインターネットは面白くないと思うようになった。もうどうせ今の時代ユーモアや独特なセンスを持つ人は減り、くだらない事しか書いていないためわざわざネットの世界から面白いものを探し出そうとは思わなくなった。

 

自分がネットをし始めたころは無限大の世界が広がっているように思えたバーチャルな世界も、今ではそのくだらなさの方が目につくようになった。ネットから面白い人が消え去ったのか、それとも自分が面白くない人間になってしまったのかはわからない。

それよりは古本屋で買った、遠い昔に発売された本を読み解く方が未知の世界が広がっているように思える。

積極的にネットの世界から何かを探し出そうとは思わなくなり、机の上に置いてある本を手に取ったほうが面白いことや新鮮味のあるが書いてある、そう思うようになっている。

 

最近読破したのは村上龍の『愛と幻想のファシズム』で、過去にそのことについても触れているが30年前に発売された小説とは思えないようなリアリティや先見性があることに再び読んだことで驚かされた。ソ連崩壊前が舞台にされているため、当然ながらソビエト連邦も登場する。小説の内容が以前よんだ時に比べて理解できるようになったことは自分の中で成長したと言えるところかもしれない。

 

そういった自分が知らない頃にタイムスリップするという体験もまた心を躍らせる。

昔発売された小説を読むことでその時代に行く事もできるし、その小説を読んでいた数年前の自分に戻ることもできる。

愛と幻想のファシズム(上) (講談社文庫) [ 村上龍 ]

 

 

みすぼらしい惨めな生活の中の地味な娯楽だが、むしろそういう人生を送っている方が創作の世界に傾倒できるのかもしれない。小説に没頭するというのはある意味で逃避に近い行為でもある。

 

現実から逃げたい人間ほど小説の世界に自分の居場所を感じることができる。

自分がこれまで読んできた小説の世界はある意味で"思い出の場所"となっており、現実が悲惨な時ほどその世界に思い入れを感じやすくなる。

むしろ人生が上手く行ってない時ほど小説が面白く感じられるのだ。なぜならば読書という行為は労力や集中力を要する物であり、他に楽しいことがある時にわざわざそのようなつまらないことを私用とは思わないからだ。

本当に何もすることが無い時、読書はかけがえのない居場所となる。

 

そして今自分が新たに読み始めたのが同じく村上龍著の『オールドテロリスト』である。この小説も数年前に偶然書店で見かけて購入したのだが、とにかくこの本は自分の中で重要な著書になっている。

この小説に登場する主人公は非常に惨めな中年男性であり、実際に貧困を経験したことが無ければ描けず、そして読者側も共感できないような描写が存在する。

例えば妻子から見捨てられ、勤務していた出版社にはリストラされ、彼は安アパートで安酒をあおり生活していたという描写が出てくる。商品の値段が1円単位まで気になり、抑うつ状態に襲われ精神安定剤を常用し鬱病患者のブログなどを読み漁っていたというようなシーンもある。

『愛と幻想のファシズム』が若き新世代のカリスマのハンターを描いているならば 、『オールドテロリスト』は等身大の惨めな男性を描いている。彼が満州国出身の老人たちによる"世直し"を目的としたテロを取材していくというのがこの小説の構成になっているのだが、真の魅力はその生活感あふれる貧困生活の描写だろう。

オールド・テロリスト [ 村上龍 ]

 

 

自分にとってこの小説が重要なのは、人生が上手く行っていない時にまさにこの世界に逃避していたからだ。

自分の人生が虚しくやるせない時、同じような境遇の登場人物を描いた小説はどこか共感できる部分がある。

2年ほど前に自分はこの小説を同じく現実逃避のため安酒をあおりながら飲んでいた。そもそも村上龍の小説はなぜかお酒を飲むシーンが多い。これはきっと作者の経験が現れているのだろう。

自分もそういったアルコール依存症に陥っていたため、こういった描写は他人事だとは思えないのだ。また流行の曲や国際情勢を反映したリアリティのある固有名詞や場所も登場する為イメージが沸きやすい。そういった描写はただ映像作品を見るよりも、活字で想像したほうが思い出に残りやすい。

 

自分はそういった「過去に自分が読んだ小説」を懐古目的で読み始めているのかもしれない。人生が上手く行ってない時に読んだと上述したが、今はその時以上に上手く行っていない。

悲惨な底辺人生は今でも続き、この苦境を抜け出すことはできていない。自分はこの数年そういった貧困や、やることなすこと上手いかない状況と付き合っている。

そんな状況で辿り着いたのは読書だった。

そこには自分が住む世界とは違う世界が広がっている。

つまらない毎日とは違う世界がそこにはある。

 

村上龍の小説に共通することだがとにかく過激なことが起こる傾向にある。

そういった非日常の出来事があるというのもまた魅力だ。小説や創作というのはそういった日常とは違う世界を体験するためにあるのかもしれない。

「日常アニメ」も実際は本当の日常ではなく、欲しくても今では現代人の手に入らない理想の日常なのだ。

 

変わらない日常、つまらない事や理不尽なことが繰り返され何もうまく行かない人生の中で逃避する場所があっても良いはずだ。

そしてそれは自分が作る側でも同じことなのかもしれない。自分はいつか小説を書きたいと思っているが、この今のつまらない人生を送っているときに考えたことに影響を受けることは間違いないだろう。それが創作の土台となるはずだ。

 

小説や読書は人生が上手く行ってない時ほど楽しめる、そして自分が創作する立場になった場合もコンプレックスや虚しくやるせない思いがあったときの方が良い物が作れるのではないだろうか。

つまらない人生だなと思いながらこことは違う無限の世界が描かれた文学の世界に自分は明日も思いを馳せるだろう。

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