負け組ゆとりの語り場

社会に取り残された男が日々を語る

テキスト中心の外国語学習はオワコンになる

日本人にとって外国語学習とは翻訳を想定したテキスト学習が主体になっている。これは明治時代の近代化の時に西洋の文書を翻訳し先進文明を取り入れる必要があったことが大きな要因になっている。

 

学校の英語の授業を想像すればわかるように丁寧に文法を教え単語のスペルを一字一句間違わないように覚え正しい文章能力を求められる。

そしてこれが日本人の英語が海外で通用しない最大の理由でもある。

実は日本人の英語というのは格式ばっておりやや古風な表現が多く、日本語で例えるならば外国人が「ごきげんよう」「~でござる」という表現を最新の日本語だと思って使っているようにネイティブには聞こえるようだ。

 

つまり日本は口語的な英語や本当に使われているリアルな英語教育を軽視しており、あくまで受験で高得点を取り学習能力の高さを査定するツールとしてしか英語は機能していない。英語ができれば何となく優秀だろうという曖昧な価値観であり、実戦的な英語力は軽視されている。

 

更にこういった文章主体の外国語能力はいずれ必要とされなくなる時代が来るだろう。なぜならば現在翻訳ソフトの性能は非常に高くなっており、10年後は人工知能に取って代わられてもおかしくはない。

もう外国語を勉強していればそれだけで安泰という時代ではなくなっており、将来的にテキストを翻訳するという仕事はほとんどがAIに代用されているだろう。苦労して難解な文章の翻訳能力を身に着けても10年後は需要が消えているという事態に直面する可能性は高い。

 

こういった状況において次に必要とされるのはリアルな会話能力や外国人とのコミュニケーション能力になる。テキスト文章を機械的に翻訳することは人工知能で代用できるが、実際に人間同士が面と向かって会話したり信頼関係を築き本音で語り合うということはやはり実際に言葉で話さなければ不可能だ。

 

まず話し言葉を翻訳するというツールが開発されたとしても、個人個人の話し方やトーンによっては正確に翻訳できない場合があり雑音が多い場所などでは更に難しいだろう。辞書には載っていない個人の独自のフレーズも人間同士の会話には存在する。

また翻訳ツールを通したコミュニケーションには限度があり事務的な関係しか築けないため外国人と信頼関係を築いたり海外で生活するという事には大きな壁がある。

間に何か挟んで話すことと、直接自然なトーンで話すことは大きく違う。

正しい文章はソフトができるようになるが、間違っていても楽しい会話は人間にしかできない。

リスニング能力においても綺麗な環境で受験用に録音された台本通りの会話ではなく、雑音のある場所や何かの行動をしながら何気なくしゃべる物を聞き取り、それに対する返答も求められる。

 

テンポよく冗談を交えて話すことはいくら翻訳ツールが発達しても不可能であり、少なくともテキスト化された文章が完全に翻訳ソフトに対応しきるよりはさらに後の事だろう。近い将来において文章翻訳の需要な徐々にソフトで十分になり、かつて人力で行われていたものがロボットで代用されたことと同じ現象が起こる確率は高い。

 

もはや文章を翻訳し正しい文法知識を備えるという従来の日本的外国語学習はオワコンになりつつあり、これからの時代は外国語を使って外国人と何をするかという時代になってくるのではないか。

外国語はその時に必要な道具の一つになる。

 

言葉ができるようになることが目的だった時代から、「言葉を使ってどこで何をするか」というその先の行動が求められる時代になるだろう。

非常にあいまいな言葉かもしれないが「人間力」のようなものが試されるのではないかとも自分は考えている。いくら難解な外国語の文章を読めたとしても、外国人と堂々と話せなければそれは意味をなさないだろう。

 

シェイクスピアを原文のまま読む英語力は確かに高いかもしれないが、イギリス人で実際どれだけの人がシェイクスピアを読んでいるだろうか。

日本にはシェイクスピアやヘミングウェイが読めるのに、英会話はネイティブの小学生にも及ばないという人が結構多いのだ。

 

そういった難解な文章よりは彼らの今の文化を知り、今風の喋り方を理解しカジュアルな会話を嗜むことの方が実は重要なのではないか。

高度な文章を読んで理解することより、カフェやバーのような環境で簡単なフレーズを聞き逃さない事の方が実は重要だ。

 

一人で部屋の中で黙々と外国の古典や論文を読み進めるのは研究者がする事であって、本当に必要な能力はもっとリアルなものなのかもしれない。もちろん海外の上流階級の人と付き合うのであればそういった教養も必要だが、それ以前にどんな環境下でもコミュニケーションを取ったり何かの行動を積極的にしていくという事の方が求められているのかもしれない。

海外の論文などどはれだけ難しくてもその内AIに任せる時代が来る、しかし一人の人間同士として付き合うことがAIに取って代わられる時代はまだ当分先の事だろう。