負け組ゆとりの語り場

社会に取り残された男が日々を語る

人生は他人と比較してもそれほど意味がない

最近の自分のは他人と比較することの無意味さや虚しさに気付き始めている。

単刀直入に言えば優秀な他人と比較したところでそう簡単には追いつけず劣等感に苛まれるか、自分より下を見つけて情けない自己満足に浸り安心感を得るしかないからである。

 

上を見ればきりがない、下を見ても意味がない、それが世の中だ。

正直に言えばもう自分はこの際限なき比較や競争の時代に疲れている。誰かを自分と比べる事に疲弊しきってしまい、大切なものを見失ってきた。

 

とくに現代のインターネットの時代は誰かとの比較に晒されやすい時代になり、人間としての価値が数値に現れやすくなった。スマートフォンとネットの普及によりもはやバーチャルな世界は日常生活の一部となった。

それに伴いSNSや自分のアカウントのフォロワー数や、何かの閲覧数や再生数、いいね!の数などが明確に数値に現れそれが人間としての価値に直結するようになった。

以前に比べ現代人はより明確な数値によって自分の価値が決まり、マウントを取り合う時代になった。

正直なところフォロワーや登録者数、いいね!の数など上辺だけの社交辞令によるものが多く、実際にその中で見ている人や心の底から賞賛している人など半数にも満たないのだがそういった表面上の数字に踊らされる人が今は増えているのだ。

 

「自分に興味を持ってください!」と言ったところで、そんなことを言っている人間は他者から見れば鬱陶しいだけの存在なのだ。

ネットを見ていれば本人は頑張っているのかもしれないが他人から見れば面倒なだけの人間がいる。現実には一人の面白い人間なのかもしれないが、ネットではそういった者が煩わしく感じる。

 

そして皮肉なことに自分もまたその一人なのである。

絵を描いてイラストサイトに投稿すればどうしてもえ閲覧数や評価などが気になり、思うような賞賛が得られなかった場合精神的に苛まれ、世界から無視されたような気になる。

イラストサイト、動画投稿サイト、ブログ、SNS、今や誰もが情報発信者になる時代において「人からの反応」は重要な物であり、更に同じジャンルの場所で活動をしている「人気者」に対して嫉妬をせずにはいられない時代になった。

 

例えば自分は今ではツイッターをやっていないが、やっていた時期はフォロワー数が多い人に嫉妬していたし「リツイートのようなわかりやすい反応されないと見られてる実感がない」と他人の反応を求めていた。

しかし実際のところネットというのは多くの人が他人に対して無関心であり無反応なのである。

 

そして自分も誰かに興味を持ってもらいたがっているが、実際には他人にそこまで興味が無いのである。

「自分は他人に興味を持ってあげようとしないのに、自分は受け身で他人に興味を持たれたがっている」

そんな人間が大勢いるのがネットの空間であり、自分もまたその一人なのだ。

 

更に言えば反応をくれる人も実際は自分に対するお返しや見返りを求めていたり、社交辞令だから仕方なくやっているだけで人間関係がこじれればその日からどこかに去っていきお互い無視し合うのである。

そんな儚い上辺だけの関係に依存しても、結局は赤の他人でしかない。ただでさえ他人との関係は表面的なものに過ぎない中で、ネット上の関係など明日でも消えてしまう風前の灯のようなものでしかない。

その中で誰かとの比較をしても意味がないのだ。今のネットはすぐに全国レベルや世界レベルの上位者が目につく、そんな人と競争しても勝てないのは当たり前だ。

そして下層を見てもきりがなく、そこで安心しても現実の自分には何も成長が無い。

 

この際限なき他者との比較や誰かの反応や評価に依存する時代において、今誰もが「自分の立ち位置や評価」を気にしなければならない時代になっている。

インターネットを誰もが利用する時代になったことで、自分より優れた人も自分より劣った人も目につきやすくなった。

そうなれば誰もが他人を意識する。

 

その時代に本当に考えなければならないのは他者と競争してもそれほど意味がないという事である。

比較や競争というものが完全に意味がない物だというわけではない。

例えば誰かに憧れ、そこに近づこうとすることやライバルと競い向上していくことは悪い事ではない。

しかし世の中には自分が不幸になるだけの比較という物も存在する。

世の中には自分の気に入らない人間をネットでひたすら監視しているような人もいるが、そういった嫉妬や怨嗟に満ちた生活など幸せではないだろう。

 

結局のところ他人と自分は全てにおいて違うのである。

スタートラインも違えば、生まれ育った環境、生まれ持った才能、これまでの人生における運や生きてきた時代、人種や国籍、そのすべてが違う。

元々人間というのは不平等でありフェアではない。

当然ながらどうやっても勝てない人間もいれば、何もしていないのに勝てるような人間もいる。

そんな他者との比較に一喜一憂して右往左往していればただ疲れるだけなのだ。

 

それよりももっとも相応しい競争相手がいる。

それは「昨日の自分」だ。

自分の人生の信条として「今できることをやるしかない」という考え方がある。

どうジャンプしても追い付かない人と比較しても勝てないものは勝てない、そこに嫉妬して苛まれても仕方がない。そして人生が虚しくなり努力を辞めてしまえば何も進歩がない。

 

そうなってしまうよりも昨日の自分という丁度良い比較対象と競い合い、自分の中での成長だけを目指すことが大事なのかもしれない。

敵わない相手にいきなり追い付くことは無理でも、昨日の自分に比べて一歩だけでも進むことは決して難しい事ではない。そしてその積み重ねの先に大きな進歩を果たせることだってある。

人間というのは今できる範囲内の努力をするしかない。

無駄な他人との競争や比較に苛まれるよりも「昨日の自分に比べて成長した部分はあるか」と問いかけることの方が有意義だ。

他人は他人でしかない、そして自分は現実で今できることを努力するしかない。

 

サッカー日本代表の本田圭佑は「成功にとらわれるな、成長にとらわれろ」と言った。その意味は努力してもそう簡単に成功して結果が出るわけではないが、自分の中では進歩している部分があるならばそれはそれで素晴らしいことだという意味である。

 

世間的にも客観的にも上手く行かなかったかもしれないが、自分の中で間違いなく昨日の自分より進歩したならばそれは無駄ではない。

一朝一夕に明確な結果が出て誰かから認められるという順調なストーリーはそれほど多くは無い。

そういう時に言い聞かせなければならないのは、昨日の自分より成長できたならその成長は無駄ではないという事だ。

他人からの評価や誰かとの比較ばかり気にしていても、天才でなければなかなか思うようにはいかない。

 

凡人や凡才は、自分だけがわかる成長、そして誰も気にも留めない小さな一歩を着実に積み重ねていくしかないのである。

その成長や進歩を誰も褒めてくれないし、認めれくれないし気付いてもくれないだろう。

しかしそこで諦めてはいけない、自分だけはその成長がわかっているはずだ。

誰もが他人に無関心で無反応な時代において、最後に頼れるのは自分だけなのである。自分の本当の理解者は究極のところ自分しかいない。

 

ネットの馴れ合いや社交辞令は何も生まない。

途方もない相手と比較しても、それは追い付けないのが当然なのであり、遥か下の人間に勝った気になったところで虚しいだけだ。

上も下も他人も無数にいる時代において本当に見失ってはいけないのは自分である。 

本質や本当の価値を追求し、自分の出来る領域で着実に進歩を目指す、現実にできることはそういった地道な努力だけだ。

今できることを今の環境や条件で行う、その現実の積み重ねだけが次なるステージへ自分を導いてくれるだろう。