負け組ゆとりの語り場

社会に取り残された男が日々を語る

お酒を飲みすぎないために自分が心がけていること

飲み過ぎは良くないとわかってるのに飲んでしまう、ついそんな経験がお酒好きの人にはあるのではないだろうか。実は自分自身そんな経験が多々あり飲みすぎて起きてから半日ぐったりしていることは多い。

 

実際の所お酒を飲むことを自制できているわけではない自分がかろうじて心がけていることと言えば、なるべく休憩を取ることにしていることだ。

「これ以上飲んだら本当に大変だろうな」と察した場合飲まないことを心がける。酔っているときは「まだ欲しい、いつまでもこの時間を続けていたい」と願う物だがそういうときに「ここで飲んだら後々後悔する」という事を言い聞かせている。

お酒

自分は"禁酒"は不可能だと思っているが"減酒"は可能だと思っている。つまり本当にお酒をやめることはできないが量を減らすことはできる。

またお酒を飲むにしても一気に飲むのではなく、休息を挟むことを心掛けている。たとえば二日酔い対策として「迎え酒」という物がある。要するに寄って気分の悪い状態を更に酔いで吹き飛ばすという行為である。

この迎え酒は二日酔い対策として最もやってはいけないことだと言われており、「迎え酒はNG」というのはアルコール中毒者なら一度は聞いた事なのではないだろうか。

 

事実、自分も二日酔いでダウンしているときに迎え酒を飲んだことはほとんどない。本当にダウンしているときはもはやアルコール自体が吐き気を催す物であり口に近づけただけで気分が悪くなる。

 

また本当に深刻な二日酔いにならないために飲みすぎている中ではまだ飲みすぎていない領域をキープしている。結局のところアルコールを体内に入れないことが一番の解決策であり自分が決めた限度以上の量は飲まないようにしている。

こればかりは数回深刻な二日酔いを経験しなければ覚えることはできず、自分も始めてその経験をしたときはまるで永遠に飲めるような気がして限度を知らずお酒を口にした。そして翌日真昼を過ぎても酔いが冷めない地獄のような経験をして以降、前日に飲む量を制限することができるようになった。

アルコールというのは慎重に飲まなければならない

 

しかし現実にはそれでもやはり飲みすぎている。

「ここまで飲んだら二日酔いになる、戻してしまう」という基準が100だとするこれは絶対に超えてはいけないラインであり、ここは絶対超えないと自分で決めている。

この寸前の80~90の領域が自分は限度だ。決してセーブしすぎるわけではないが本当の寸前で止める、この技術や感覚をこれまで自分は研ぎ澄ましてきた。

100を超えれば本当に翌日後悔し「もう二度と酒は飲みたくない」と考えるようになる。その領域を寸前で回避することを自分は心がけており、これは自分の中の感覚になっている。

「この程度でいい」「これで十分な楽しみだ」と自分に思うわせるように心がければお酒は少しずつ減らせる。

またアルコールによる酔いは後から来るため、ここは一旦待つという考え方も大事だ。

 

翌日の自分を大事にするということを考えられるようになればあと少しの所で判別がつくようになる。休むときは休む、そのことを覚えたことで自分はこれまで深刻な二日酔いを経験していない。

お酒は飲み切らずともよく、余ったとしたら飲み切らなくていい。

むしろ飲みきることで体には相当な負担になり翌日酔いが冷める時間も数十分先延ばしにされる。そのわずかに残った量を思い切って諦められるようになったことで自分はこれまでお酒の量を減らすことに成功している。

 

いや、その日に飲む総合量ではむしろ増えているのかもしれないが、一気に楽しむということより長期戦で楽しむことを重要視するようになった。

とにかくお酒は"後"に来る。

今はまだ酔いが足りないと思っていても必ず後に来る。すぐに酔う為の即効性は重視せず、じっくりその時を待つ。急いで飲みすぎると必ず苦しむことになるため「少し待とう」と自分に言い聞かせる。

そして気分が悪くなれば潔く諦める。

どれだけ頑張ったところでアセトアルデヒドの分解には時間がかかることであり、飲みすぎた自分が悪い。その時は素直に横になりただひたすらに耐える。

「飲みすぎた代償」だと言い聞かせ自分と格闘する。

 

お酒を飲むことの理想はほどほどに楽しい感覚をなるべく長く続けることである。その瞬間に最高峰の領域に持っていこうとすれば必ず後悔することになる。自分のエネルギーは総合量が決まっており、お酒はこの総合量そのものを増やす物ではない。

 

飲んで後悔することはあっても飲まないで後悔することは無い。

余計な最後の一杯を飲まないことが大事なのではないだろうか。