負け組ゆとりの語り場

社会に取り残された男が日々を語る

将棋を海外に普及させない方がいい理由

最近の藤井聡太旋風を見て確信したことがある、やはり将棋は世界に普及させない方がいいということだ。

世間一般の話題としては突然現れたように感じる藤井聡太は「将棋ブーム」にも似た現象を巻き起こした。将棋道場に入る人が増えたり将棋盤の売り上げが向上したり有名棋士の勝負飯が注目されたり、とにかくエンターテイメントの話題として面白く久しぶりに明るい話題で盛り上がった。

 

それを見てやはり日本は「内輪文化」で盛り上がることが一番良いと思ったし、将棋に盛り上がっている人が楽しそうに思えた。

藤井君がいく食堂の盛り上がりは非常にいい意味で日本文化らしくて、普段将棋に関心がない自分でも興味を惹きつけられた。

そんな町のちょっとした盛り上がりや、どこかの将棋道場のような場所で今日も盛んにいろんな人が将棋を指しているというこの日常文化の風景が風情を感じさせる。

将棋

その一方で、将棋は徹底的に日本の内需に特化したほうが良いと自分は考えている。

日本の将棋文化は十分に素晴らしい文化であり、様々な物が国際化していく時代にむしろ「保護」したほうが良いのではないか。

 

素直なことを言えば将棋というのは日本一国だけが熱心になっている文化であり、仮に世界基準のチェスを日本人が本気でやった場合今まで有名だった棋士は途端に無名になるだろう。

世界のレベルは高く羽生善治は実際にチェスのグランドマスターにもなれていない。もちろん羽生善治が幼少期からチェスの高度な環境で育っていれば世界的なチェス選手に育っていた可能性はあるし、現にヒカル・ナカムラという日系人がチェスの世界ランキング上位に入っている。

 

ただ現にヒカル・ナカムラは日本でほとんど注目されておらずチェスの世界は厳しい。

仮に日本で将棋の代わりにチェスが普及していたら、もしくは将棋が世界的な競技だったら羽生善治はテニスの錦織圭のようになっていただろう。

錦織は間違いなく世界的な選手ではあるが結局メジャー大会では優勝することができず、勝負弱いとさえ批判されている。

仮に羽生善治が世界との競争にさらされていたら今のように神格化された強さやブランドがあったとは言い切れない。むしろ一度も世界大会で優勝せず「結局羽生優勝できないな」と言われていたかもしれない。七冠どころかメジャー大会では一度も優勝できない無冠になっていた可能性すらある。

逆にテニスが日本人だけがやっている競技ならば錦織圭は羽生善治のように神格化されていただろう。

 

そんなことになるよりは日本だけで将棋をやって内輪環境で盛り上がる方が結局文化の面でも楽しいのではないだろうか。本当の世界的な競争も重要ではあるが実際に大事なことはそのプロの世界を見て、日常で多くの人がその競技を行う事なのである。

羽生さんや藤井君で盛り上がって、日常生活で将棋を指す人や将棋について語る人が数多く存在すればそれは素晴らしい文化だと言える。

 

戦国時代の歴史も一国の歴史だからと言って価値がないわけではないどころか多くのファンがいて様々な派生作品が登場し後世においても語られている。

必ずしも国際化や世界との競争だけが素晴らしいわけではない。

江戸時代も鎖国をしていたからあれほど町民文化や江戸文化が開花したわけであり日本文化の礎を築いたともいえる。

遡れば神道の時代や和歌、そして遣唐使廃止のように日本は独自の文化を作り上げていくことができる国であり、それが現に素晴らしい文化にもなっている。アニメや漫画も日本人が日本人向けに好きだから作っていたものが良い文化に育った。日本の芸能文化も昭和の時代から日本人だけが見ているから面白い芸能として醸成された。

 

個人的な考え方を述べるのであれば自分は実は鎖国の江戸時代よりも世界に出て行こうとした明治時代の方が好きであり、スポーツも世界で最も普及しているサッカーが好きである。

本来ならば国際競争の方が自分の好みではあり、もともとは日本にはチェスを普及させるべきだと唱えていた。

しかしその考えが最近変わってきており、ここまで頭脳競技が一国で普及して盛んに行われており多くの国民が注目するならばそれは良い文化だと思うようになった。

 

仮に将棋を普及させてSHOGIにしたら、これは柔道がJUDOになったというような事にもなりかねず、外国人棋士が本格的に参戦し始めたら囲碁や相撲のように日本の強さも失われてしまう。

 

囲碁も中国人や韓国人が席巻して結局最後はコンピューターに滅ぼされてしまったが、本因坊の時代のように格調高い美しいものとして扱われていた時代の方が風情があった。

相撲も大鵬が活躍して、昭和の子供が好きな3つのものとして「巨人・大鵬・卵焼き」と言われていた時代の方がスター感があって当時の人としては面白かったのではないか。国民的盛り上がりで熱狂した時代の方が、下手に海外との競争にさらされて勝てないという状態よりは良いのではないか。

日本の高度経済成長も実は内需に支えられて成し遂げられた、つまり日本人だけが盛り上がることは十分なエネルギーを作り出すのである。それがまさに今回の藤井聡太による将棋ブームだと言える。

 

国内文化が好きな人は相撲や野球を見て将棋を指して、国際競争をすることの面白さを感じる人はサッカーやテニスを見てチェスをする、そんな住み分けが合ってもいいのかもしれない。

将棋は無理にチェスになる必要もなく、むしろそれは悪手になり得る。

 

結局日本人は日本が勝てなくなると萎える傾向にある。

錦織圭も本当は世界ランキングで日本人テニス選手があの領域に入ることはもう二度と起こり得ない程の快挙なのだが、結局何度も世界大会で優勝できないと諦めムードになる。イギリス人ですら数十年ウィンブルドンで優勝できなかったり、スペイン人ですらサッカーのバロンドールは数十年取れていないのが世界の競争であり、メジャー競技で世界一になることは本来は難しい。チームとしてはオランダやポルトガルの様な強豪国でさえワールドカップで優勝したことがない。

 

ただ日本人は五輪で金メダルを獲る姿を見ることに慣れており、簡単に世界一を要求してそれができなかった萎えてしまう。その金メダルも実際はマイナー競技で獲っているに過ぎないのだが、それゆえに日本人は当たり前に世界一が獲れるものだと思ってしまい獲れなかったら錦織のように批判されてしまう。

 

またサッカーもワールドカップで一回惨敗しただけで一気に波が引いたように盛り下がり、Jリーグもなかなか盛り上がっていかない。ラグビーも大学ラグビーが人気だった時代はサッカーよりも人気だったが、国際競争にさらされて五郎丸登場まではマイナー競技だった。

相撲も最近は稀勢の里が優勝したが、つい最近までは外国人力士の増加が問題視されていたし囲碁も日本人が中国、韓国勢に押され始めて人気がなくなっていった。

 

結局のところ日本人は「世界で勝つ日本人」が見たいか、自国だけで盛り上がる内輪感を楽しみたい民族であり、厳しい国際競争にはあまり向いていないのかもしれない。

 

将棋がワールドワイドになれば、羽生善治が錦織圭になるだけであり、外国人が強くなって囲碁や五郎丸以前のラグビーのように盛り下がるか、JUDOになった柔道のように本来とは違う物になる結果にしかならないのではないだろうか。

日本文化を普及させたり競技人口を拡大したりすること自体は素晴らしいが、本格的な海外進出には懐疑的だと言わざるを得ない。

例えばNARUTOを見て将棋が面白そうだなと思った外国人が競技を始めることなどは素晴らしいことであり、絶対に外国人にやらせてはいけないとは思わない。

 

しかし鎖国やガラパゴス化は決して悪い事ではない。

むしろ日本人だけがやって盛り上がっている時期の方が実はいい文化が育つ傾向にある。日本は科挙を廃止して、漢詩だけでなく和歌や俳句という独自の文学を作ってきたように日本人だけがやっている文化というのも実は美しいのである。

 

国際化はもちろん必要な部分はあるが、全てをグローバル化させればよいとは思わない。

日本でこれだけ十分に盛り上がっているのだから無理に普及させて拡大していく必要はないし、普及させてしまうと却って国内の盛り上がりが落ち込む可能性もある。

拡大主義よりも自国を集中的に充実させることの方が良い結果になることは歴史が証明している。

 

将棋を外国人にも分かりやすくするために絵柄を変えて、和室で正座をすることは大変だから洋室で椅子と机ですることもスタンダードにしていくというような事をしてまで将棋をSHOGIにする必要はないのではないか。

サザエさんの波平さんとマスオさんが縁側で将棋を指しているのも日本文化の大切な風景であり、NHKが将棋解説の番組を放送して、新聞が様々な大会を主催しているのもまた文化なのである。

そういった風物詩や日常の風景に美を見出すことも重要であり、全てを競争原理だけで考えるのは少し偏っているようにも思う。

折角将棋がこれだけ一国で盛り上がっているのならば、内需特化や単一文化ということに拘っても面白いかもしれない。

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