負け組ゆとりの語り場

社会に取り残された男が日々を語る

人生は本当に頑張らないといけないのか?

頑張らなくても何かを得られる人というのは少数派であり、自分も含め大抵の凡人は何かを頑張らなければ何かを得られない。運や才能に恵まれているわけではない人間は必然的に頑張らなければならない。

 

しかしその何かのために一生懸命頑張ることは当然大変な事である。

今世の中ほどほどに頑張りほどほどのものを手に入れるというのが主流の考え方になりつつある。

頑張ることで得られるものは他人からの評価、人脈、お金など様々でありそうやって得たものを喜びに帰るという過程が存在する。

頑張る→対価が得られる→その対価を更なる喜びに変換する→うれしいからもっと頑張る

基本的にこの循環が存在するのだが必ずしもこれらが上手くいくとは限らない。頑張ることで対価が得られないことがあるしその対価が喜びに確実に変わるとも限らない。そうなると当然次頑張りたいとは思えなくなる。

 

更に頑張ること自体誰にでもできる事ではなく、その段階ですでに躓くものもいる。たとえば自分は既に頑張ることでつまずいているタイプの人間だ。

その結果頑張ることは最小限にして得られる対価も最小限、そしてその対価から得られる喜びも最小限という何もかもコンパクトにした生き方になっている。

人が得られる当たり前のものすら得られず最低限の喜びで生きているのだが、逆にこういった生き方にも最大のメリットがある。

そう頑張らなくていいという事だ。

 

結局多くの凡人は何かを得られる代わりに頑張らなければいけない。喜びがプラスならばがんばることはマイナスであり、たとえ喜びが得られたとしても頑張ることがあまりにもハードならば合計値では必ずしも得をしているとは言えないのだ。

例えば自分よりお金を稼いでいる人がいたとして一見すると羨ましい場合でも、ものすごくハードな仕事をしていて絶対にその仕事がやりたくないものであった場合途端にその収入は羨ましいと感じなくなる。

つまり頑張らなくていいというのは実はその時点でそれ自体に魅力があるのである。

頑張らない事にも価値はある。何も得られないかもしれないが、逆に言えば何もしなくていいということがすでに価値があることなのである。

人生何かすごく大きなことをしたいと思えばそれだけ大変だし失敗するリスクもある。それよりは最初からそんなことを夢見ずに、今の最低限の生き方に満足するという事もまた一つの生き方なのである。

 

小さなことで満足したり、ものすごく頑張って凄い物を得るよりも最低限の労力しか使わないことのほうが楽と考えて生きたりすることもまた人生だ。

肉食動物みたいに狩りをして大自然を生きることよりもナマケモノのように最低限の動きしかせず喜びもそのために頑張ることも最低限にする生き方を選んでもいい。

肉食動物には狩りをする大変さもあるし、必ずしもうまくいくとは限らない。餓死してしまう可能性もあるし厳しい生存競争がある。

それよりはナマケモノとしてその辺の葉っぱを食べて最低限の動きしかせずダラダラ生きててそれで幸せだという生活のほうが楽だともいえる。

自分で喜びの基準や夢の基準を最低限に下げてしまえばそこまで頑張らなくても済むのである。

 

そもそもナマケモノに肉食動物のように速く動く能力も狩りをする能力もないのである。できないことをしてもしかたがない、ナマケモノにはふさわしい最低限の生き方があり肉食動物のようなことがそもそもできないのだ。そういうナマケモノのような体のつくりになってる人間がものすごく頑張るスタイルはできないのである。

頑張らなければそれなりの対価しか得られずそこから得られる喜びは少ない。
しかし多くの喜びを求めなければ得る対価も少なくて済む、そしてその対価を得るための努力も少なくて済む。
喜びを大きくしたいという前向きの生き方を選ぶ人生もあるし、努力を少なくしたいという後ろ向きの生き方を選ぶ人生もある。

 

喜びの為ならばなんだって努力をするというタイプと、喜びはいらないからとにかく努力を最低限にしたいというタイプ、間違いなく世の中にはその二種類の人間がいるのである。

常に動いていたいタイプとほとんど動きたくないタイプ、何かを得ることを求める作りになっている生物と最小限のエネルギーで生きていく作りになっている生物、その両方がいるのだ。

人間もまた同じ、ものすごく頑張ってものすごくいいものを得る人生もあれば、意識低いナマケモノ人生もあるのではないだろうか。

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