負け組ゆとりの語り場

社会に取り残された男が日々を語る

ゲーム一切やらなくなったワイの生活習慣がこちらwwww

ゲームは現代人の生活に必要なのかという哲学的な問いについて考えてみよう。

あなたはゲームを常日頃どれくらい、どの頻度でプレーしますか?と聞かれた場合本当にやり込んでいるヘビーユーザーから、惰性でやっている習慣型のプレイヤー、そしてゲーム実況などで見ることに徹しているという層など多岐に分かれるだろう。

 

ちなみに自分の場合ゲームといった類のものは一切やっておらず、事実上ゲームの無い生活をして1年以上経過している。

「ゲームが無い生活」と言われて想像もできないし、自分は耐えられないという人も多いだろう。実際に自分もかつてはよくゲームをしていたし、小学生のころはゲームクリエイターに憧れ、ずっとゲームだけをして生きていく生活に憧れていた。

今でこそゲーム実況やeスポーツといったジャンルが確立されており、ゲームは立派な職業になっているので、仮にかつての自分が現代に生まれ変わっていたらプロゲーマーを目指していたかもしれない。

ゲーム産業自体については否定するつもりもないし、どちらかといえば応援している立場だが、現実に今のところゲームが無い生活に1年以上適応している自分がいる。

無いなら無いで困らなし、今まで大切にしていたデータも未練はないということを知った。

 

まず自分のゲームライフについて前提として整理したい。

・ソシャゲ→やらないし興味が無い

・携帯ゲーム機→好きだったタイトルに飽きた

・PC→グラフィックボードが稼働しなくなった

 

ソシャゲに関しては一切やるつもりもないので、コンシューマーゲームを推しているような古典的なゲーマーに自分は分類される。スマートフォンやタブレットの性能が向上すれば興味は湧くかもしれないが、どうしてもコンシューマー型に対しての信頼と、ソシャゲに対する偏見を自分は抱いている。

また現実的に人づき合いが限られているとコミュニケーションツールとしても始める機会が無いし、そもそも話題ならばスポーツや芸能の知識、教養で補えるのであまり必要性を感じないという事情もある。これはもちろん人によるので、今のところ自分は必要性が無いというだけの個人的な話だ。

リアルの知り合いが自分と同じくコンシューマー型の人間であることと、相手がソシャゲをやっていたとしても惰性でしかなく、それ以外でコミュニケーションが成り立つという場合、やはり始める理由は見つからない。

ゲーム仲間から人脈が広がっていくケースもあるのて、その点については否定しない。

 

携帯ゲーム機に関しては具体的なタイトルで言えばポケモンシリーズをメインにプレーしていたものの、昨今のオンライン対戦やレーティングシステムの導入によって、ユーザーの雰囲気が変わってしまい自分自身冷めてしまい遠ざかってしまった。

一度遠ざかると別に自分の生活にとって必須ではなかったことに気付く。

レート対戦が導入されて、ポケモン対戦がメジャーになる以前から自分は俗に「三値」といわれるシステムを理解し育成していたが、それはあくまで本当にコンテンツ愛のある趣味人がワイワイしていた雰囲気が好きだったからこそ継続できていたのかもしれない。

ゲームのシステムそのもの自体よりも、その界隈のユーザーたちが作り出すコミュニティの雰囲気が好きだったのかもしれない。

 

それが本当にガチの競技化したり、ゲーム実況に浸食されたりすると、そのかつてとは異なるネットの雰囲気にはついていけなくなり段々と情熱は失われていった。

今ではオンライン接続率もかなり下がり、こういったガチ化路線に多くの人が疲れているし、社会人になってから今の環境でポケモンを続けるというのは非常に難しくなっている。

結局コンテンツの面白さというのはそれ自体のクオリティよりも、ユーザーの質やコミュニティの雰囲気であって、どうしても自分は今のポケモンに好意を抱くことができない。

遊戯王のようなカードゲームも似ていて、本来子供がやる物を少数の「大きなお友達」の人が陰ながら支えている状況が理想であって、そういった大友ユーザーが大手を振って歩くようになるともうこれは既存層が独占して新規層が入りにくい閉じコンの始まりだ。

すべてのゲーム型コンテンツについていえるかもしれないが、結局こういう運命を辿るようになると悟ってしまい、自分はゲームから去って行った。

 

パソコンのゲームについては今も一応、情熱や興味はある物の、3DCGのゲームを起動することが出来ない謎めいた状況になっており、やりたくてもできないという状況になっている。

普段の使用については問題が無いもののおそらくグラフィックボードに問題があって一度修理に出してみるしかないが、現状動画も見れてネットは普通に使えるのでそのままにしている。近いうちに一度PCのメンテナンスを見直したいので、この機会があれば復活するかもしれない。

最新のゲーム機を手に入れたりPCをアップテードしたりする経済力も無ければ、かといってそこまでして戻るほどの魅力も今のゲーム界にはないのが自分を取り巻く現実だ。

 

自分自身のゲーム環境の問題と、ゲームを取り巻く世の中の風潮や状況、この二つがどうも今の自分に合っていないというのがリアルな実情となる。

ではそうしてゲームをやらなくなった&できなくなった状況で、自分が何をしているかという本題にようやく移っていきたい。

 

1:読書時間がめちゃくちゃ増えた

これは物凄く大きな変化で、ゲームをしなくなった替りに何が増えたかといえば、単純に読書時間が増えた。

「やることがないので本を読むしかない」という暇つぶしとして、読書が今になって再浮上してきた。とにかく本を読む、読む、そして読み、自分自答して自分と作者の対話の世界に閉じこもるのが自分の生活習慣だ。

自分で言うのもなんだが、とにかく知識や教養は増えたし、自分で考える時間は本当に多くなった。本というものは値段に対してもっとも手に入れられるものが多いジャンルの一つと言っても過言ではない。

 

コスパの追求という意味においては読書に右に出る物は無い。

自分の場合過去に古本屋で最安値の本を数十冊も集めていたので、それを読んで処理することにしばらく時間を使っていた。図書館を利用すればもはやお金もいらないので、底辺の趣味としては読書以上の物は無い。

それだけでなく、読書で得た物をコンテンツに変換できれば有益な投資にもなるので、漠然とゲームをやっていた時に比べると何か有意義なことをしているような気分になる。

文字だけの世界を通じて想像した世界が、いずれ創作に反映されることもある。

 

正直なところゲームは上手くなったところでどうしようもないというか、「上には上が大勢いる」という途方もない現実に直面する。

自分が本当に好きになったゲームをやり込んでその世界で特別な上級プレイヤーになろうと憧れていた頃は情熱があるが、いずれゲームの世界も現実と同じような才能と努力の世界だと知るようになる。

今の時代ゲームは現実と同じぐらい鍛錬が必要な厳しい世界であり、それだったら最初から現実で努力したほうが良い。

 

ゲームがバーチャルの夢だった時代は終わっており、今や現実そのものがゲームに浸食してきている。

分かりやすく言えば、実際の格闘技の代替として始まった格ゲーが、今や現実の格闘技と同じかそれ以上に極めることが難しい競技になっている。

かつては現実でできないことをゲームならばできるという追求から始まったものが、今では現実かそれ以上に頂点に立つことが難しくなっている。

世間一般では無意味な能力も、一部の世界では極めれば認められるという時代から、その無意味な能力が現実で必要な能力以上に高度な能力になった。

 

それならば最初から現実で役立つことを努力していたほうが良いし、「現実ではくだらないけどもここには自分たちの居場所がある」というゲームに対する幻想も今では消滅しかかっている天然記念物になっている。

現実で活躍している人がネットでも活躍するSNSのように、ゲームも結局現実の一部なのだという悲しい現実がある。

 

2:ユーチューブとテレビを見るようになった

ゲームというのは能動的な趣味で自分でプレーする必要があるが、徐々に人は受動的な趣味を求めるようになる。

それまでゲームをするために使っていた時間で、自分はコンテンツの吸収と大義名分を打ってひたすら動画やテレビを見るようになったのがこの最近の習慣だ。

自分の場合動画と言っても、意識的に海外の動画を見るようにしており、事実上語学の学習として機能している。

 

例えば1時間ストレス発散のために惰性でゲームをするのと、同じ1時間に字幕も翻訳も無い海外のネイティブな動画を見るのとでは、意味合いが違ってくるだろう。

とにかく自分の勉強している言語の動画を調べてみるようになり、ゲームをやるなら語学という感じで勉強している。

特に英語に関してはリスニングならばこの習慣で、ドキュメント番組のような綺麗なナレーションならば大体内容はわかるようになってきたので、学習の成果はあったように思う。

これまでなんとなくゲームをつけるという習慣が、なんとなくyoutubeを開くという習慣になり、その結果これまで見たことのない情報の入り口になった。

 

3:お酒を多く飲むようになってしまった

ゲームをしなくなったことで全てが順風満帆なバラ色というわけではない。

酒は暇と孤独に付け込んでくるのだ。

正直なところ、ちょっとずつお酒を買うよりもその分を貯めていればゲーム機もソフトも手に入れられただろうなという後悔はある。DLCのような課金にしても一回手に入れればそれは残るが、お酒は後悔しか残らない。

何もやることが無い時の心の拠り所、あるいは精神安定剤としてゲームは呆然とやっているとなんとなく安心感に変わってくる。

漠然と何かを求めている時今までならばとりあえずゲームをつけて遊んでいれば気が紛らわせたが、今ではネットサーフィンか散歩、読書、テレビのような平凡な趣味しかなくなっている。

その結果安易にお酒に頼るようになった。

 

ゲームは傍から見ればくだらないことに熱中していて、どうでもいい数値を極めているように思えるが、向上心を満たして成長しているんだという錯覚は満たすことができる。

人間という生き物は時間を無駄に使っていると焦燥感を覚えるようにできているらしい。

自分の場合、ユーチューブを見て語学を極めたり、読書をして知識を得たりしてその気になっているが、そのやる気も無い時は虚無感を抱く。

そういったときゲームでスキルを磨いたりポイントを貯めたりすることに没頭していれば、何かしらの充足感を得られるのではないかとも想像するし、かつての自分はそうだった。

ゲームをやらなくなった隙間を埋めるように、お酒を飲むようになった。しかしその時間で、今まで知らなかった世界に触れていることを思えば、どちらが正しかったかと一概に判断することには迷う。

 

4:積んでいたプラモデルを作る

これは実はというともう「終わった」習慣なのだが、つい先日までプラモ作りに没頭していた。ひたすら過去に積んでいたプラモを何かに取りつかれたようにひたすら組んで、主にガンプラから、ゾイド、アーマードコア、マクロスなどロボット物を組み、哲学の道を歩くかのように思索の世界に自己陶酔していた。

この件についてはこれからいくつか作った完成品などを実物の写真で投稿していきたいと思っていて楽しみにしてもらったらありがたい。

 

プラモを作っているとまるで俗世間から隔離された世界にいる感覚になれるというか、黙々と作業をしていると安心した気分になれる。この静寂の時間に考える物が何か新しい物になってくれればいいなといろいろ妄想していた。

 

ただ過去に積んでいたプラモを今になって組み立てているだけで、新しく買い集めるとなるとプラモは敷居が高い趣味だも思う。

何より作ったとしても置く場所が無かったり、作るスペースそのものが無かったりする。

積んでいたプラモを作りきった今、この生活習慣を再開するにはしばらく時間がかかりそうだ。

 

5:現実への興味が湧くようになった

今の自分の関心はといえば、バーチャルの世界よりもリアリティな世界だ。

RPGの世界にある美しい街よりも、現実の世界を旅してまわりたい、そういった憧憬を抱く。ゲームの世界も所詮作り物で限界にあることを悟ってしまったのだろうか、ゲームの世界に登場する街よりも無名であっても人が住んでいる街に惹かれるようになった。

 

RPGのダンジョンに登場する酒場や喫茶店は同じプログラムの言葉しか喋らないが、現実だと店員さんや常連客との触れ合いがある。もちろんそこで得る情報も多いし、予想外のこともある。

「あのゲームをプレーしたい」という感情や憧れよりも、あの街やあの国に行きたいという感覚の方が強くなり、そういった番組も見るようになった。

昔RPGで訪れた町は思い出の中だと美しいが、実際に今プレーしてみるとそうでもないことに気付く。いわゆる思い出補正という奴だ。しかし現実にいつもより遠目に行った町は、今でも郷愁を誘う。

 

なんとかシティとかなんとかタウンみたいなものに子供の頃に憧れていたのも、いつか大人になればそのような街に行きたいという思いがあったからだ。現実に大人になればそう行動範囲は広がらないことに気付くし、たどり着いたとしても理想郷は無かったと悟ることになるかもしれない。

 

かといって今更ゲームの世界はある程度もう知っているし、それは行動の自由も大人ほどは広くない子供の頃に何も知らないから想像していただけのものでしかない。

 

現実世界は広くても実際に自分が辿り着ける場所は思っていた以上に狭い、ゲームよりも狭い、そのことを悟った現代人はゲームの世界に没入するようになる。

しかしやっぱりゲームも狭い、そして同じように現実しかない。

現実もゲームも大して面白くないというジレンマに直面しながらも、人は大人になった時どちらを選ぶのだろうか。

ゲームにしろ現実にしろ、どちらもあの頃のように輝いて見えるわけではないのは同じだ。しょうもないどちらかしか選ぶしかない。

じゃあどちらでもない面白い新世界を作る?

ハハ、馬鹿げてるけどもうそれしかないだろう。

後はそれができる奴がどれくらいいるかってだけだ。

???「僕は新世界の神になる!ドンッ」