負け組ゆとりの語り場

社会に取り残された男が日々を語る

「マイルール」に従う事は実は面倒なことだと知るべき

冷静に考えて人間というのは一日にやることの量が多く、人々はここの日常で疲れている。

それに対して自分は最低限の生活をするようになってから曜日の感覚が分からなくなり、わりと適当に生きている。

要するに全てが面倒なのだ。

 

元日本一有名なニートであるpha氏が「ダルい」ということを主張し続けたのであるならば、自分は「面倒」ということを主張し続けたい。

とにかく、とにかくにも世の中にはいろいろと面倒なことが多すぎて疲れる。あれをやらないといけない、これをしないといけない、将来こうしなければいけない・・・などとと面倒過ぎる上にその日の中でやる作業量は多い。そしてそういったことを長期的に積み重ねれば社会のレールから外されてしまう。

 

そろそろこういった「物事を面倒だと感じやすい人々」のための生き方を考案して、普及させていかなければならない時期に来ているのではないかと思う。

 

もうとにかくいろいろ面倒だし、実務的なことがバリバリ出来る人のリズムに合わせて生きていくのはやってられないし疲れる。それは個人的な生活リズムに限らず、社会的な風潮としてもそうだ。

 

やることが複数に積み重なっている時、とにかく面倒だと先延ばしにすることで人は楽になれる。数年かけてやろうとしている事に対して、今の数日を重視する必要はない。もちろんそういったことの積み重ねが年単位なことになるという理屈は理解できる。

 

しかしたかだかこの先数日のことを適当に過ごそうが、戦略的な長期の影響はそれほどではない。そういった言い訳を繰り返すことで年月は過ぎていくのだが、その過ぎていく歳月の中で気付くことも多い。

こういったことを無駄な日々と考える人はセンスが無いと思うというか、少なくとも自分とは話が合わない。逆に言えばその感覚を理解できる人は自分の仲間だと言える。

 

とにかく面倒だ、面倒だ、明日のことを考えるのが嫌だ。ただそれだけのことを考えながら、人によっては無為に思われる日々を生きている。

 

こういう時人は誰からも理解されない。

自分がこういう時に将来に備えたスキルを磨きあげていることも、当然ながら他者には伝わらないし、何もしていないように思われる。伏線のような物を敷き、長期投資をしていたとしても理解されない。

何が花開くかもわからず、目の前のことに翻弄されている人達に言いたいが、将来的に何が役に立つかは神のみぞ知ることだ。

 

一度自分がこれまで築き上げてきたマイルールのような法則を思い切って打破してみればいい。むしろこれまで常識だと思っていたことを、思い切って破壊して発散することは快感だ。更に言えばマイルールの破壊後に、新しい習慣が生まれ、そこから何かが起きる。そしてそれがまた何かの影響をもたらす。

 

21世紀だとかAIの時代になるにつれてこれまで上手く行っていたやり方というのは通用しなくなっていくだろう。こういう時に過去に教えられたことや、過去に成功した人々の考え方を真に受けることはもはやリスクだ。

 

あらゆる方面から新たな考え方を取り入れ、そして自分で考える。

役に立たないマイルールを打破し、日々の生活習慣を思い切って変える。

これまでの社会の中に面倒なことは限りなく存在する。そういったものを乗り越えたときにこそ、個人だけでなく社会も前に進む。

 

何かの物事を面倒だと考えるのは人間の自然な感情でありおかしなことではない。

面倒だと思う事を辞めて、より面白い事や楽しい事、そして効率的な事をやっていくという方向に変えていかない限り世の中は変わっていかないのではないだろうか。

無意味で無駄過ぎる価値観に縛られ、発想を柔軟に出来ない人間には新しいコンテンツは作れない。そして新しい観念、概念を受け入れることはできない。

人生の中で、そういったことを考えなければならない程に世界は揺れ動いている。

この感覚が理解できない人と、理解できる人では違う人生が待っているような気がする。