宮川泰介君、日大アメフト部やめるってよ
先日記者クラブで行われた悪質タックル問題の会見、自分は生放送で断片的に見ていたがかなり大きな論争を巻き起こしているようだ。
最初この問題が起きた時、また世間が新しいバッシング対象を見つけて騒ぎ立てている程度にしか思わなかったのだが、今回の日大アメフト部による悪質タックル問題はこれまでの問題とは一線を画している。
ただ単に野次馬的に芸能人の話題を騒ぎ立てている事とは違い、もっと大きな構造的な問題や背景についての問題提起であり、日本社会が長年抱えてきた問題がここに来て噴出してきたといったほうが適切だ。
もっとマクロな視点でこの問題を見なければならないし、単なるバッシングとは違い明確な社会問題だ。
この会見で自分の印象に残ったことは大きく2つある。
・命令に逆らえない構造があったこと
・問題を起こした選手が自分の責任だと反省し、アメリカンフットボールから退くこと
どす黒い組織の闇として悪質なタックルを命令されたり、日本代表から招集されても行かせてもらえずスタメンからはずされたり、そういった理不尽なことは今回暴露された。
日本人の問題として、理不尽に苦しめば成長するという美徳を信じきっているところが諸悪の根源だ。悪気があることもあるが、時としてそれが悪気のない善意の名の下に行われている事さえある。
未だにこの価値観が社会に浸透しており、未だにブラック企業や上司によるパワハラ問題などが絶えない。
ちょうど働き方改革や部活動改革が議論されている時期に、こういった現場で起きているリアルな問題が白昼に晒されたころは大きな意義がある。
そして真に問題なのは、今回ある意味で組織的な構造の被害にあった立場の選手が、今度は自分がやられたことをやる側になるという問題だ。
これは社会や仕事、部活、学校の上下関係などあらゆる部分で散見されるが、自分がされたことを今度は上の立場になった時するという人間そのものが持つ悪習をどうしても人は辞めることができない。
これは日本に限ったことではなく、イギリスのスポーツ文化でも何度も問題にされている事であり、インドの映画でもそういったシーンが出てくる。
こういった悪い風習を自分の代で終わらせる勇気を持った人は定期的に出てくるが、それでも悪習を踏襲する側になる人の方が圧倒的に多数派だ。
また今回の問題を機に宮川泰介選手はアメフト部を辞め、今後アメフトとも関わっていくつもりは無いと会見で話したが、それに対して「辞めないでほしい」と考える風潮も問題だ。
アメフトが楽しいという感情がなくなったと彼は語っていたが、それは自然な感情だし辞めたいと思ったら辞めていいはずだ。批判されるべきは楽しいという感情を失わせた日本のスポーツ文化そのものが持つ構造の方である。
辞めることに対して残念だというネガティブなイメージで語られるが、自分はこれがむしろ腐敗した文化から抜け出し新しいスタートのきっかけになればよいと考えているし、やり直しがきく機会であってほしくも思う。
あくまで宮川泰介、ずっと閉鎖的な部活動という異質な環境で生きてきただけであり、知る機会や疑問を提起する機会を与えられなかっただけだ。
内田監督と話す機会もなかったと語っており、末端の人間だけが責任を問われ、上層部は雲隠れするというのは日本社会の闇を表している。
そもそも仕事は辞めてはいけないとか、続けることが美学だという日本のその価値観は変えていかなければならない。
「やり通す」ということを日本人はよく美化する。
それは良いことをやり通すなら確かに美徳だが、悪いことを続けたり弱い立場にある人を利用する言葉の魔術として使われていることの方が多いのではないか。
一度辞めた人や失敗した人に対する寛容さがこの社会には欠けている。
撤退することを転進と言い換えた戦前の構造と酷似しており、日本人は辞める事や諦める事に対してどうしても悪いイメージを持つことが多い。
自分の学生時代はまだ部活が強制入部に近い時代であったし、一度はいると3年間やり抜くことが一人前の人間になるための過程だという考え方が根強く、なかなかやめられない人を多く見かけた。
ここからが真の問題で、日本社会というのはどうしても部活動経験者が多く、そういった文化が労働文化にも強く持ち込まれている。
冷静に考えれば部活動的な上下関係というのは異常でしかないのだが、それが仕事や社会に広く持ち込まれているのが日本社会が抱える大きな問題だ。
その狭い世界観の中ではそれが普通の事だと考えてしまい異常なことに気付かない。
またそういった部活動文化の源流は、軍隊文化に行き着くところがあり、それが姿を変え部活動や社会に現代も蔓延している。
よく戦争の中ではその命令の理不尽さに気付かず、やるしかないのでやったという話を聞くが、組織の中にいるとどうしても正常な判断ができなくなってしまう。
特に日本人の場合「社会」や「組織」というものを信奉している部分があり、ナチュラルに個人を組織の下におく考えを持っている。
軍隊が人命を軽視した時代から、仕事に携わる個人の尊厳を軽視する時代になっただけであり日本の本質は変わっていない。
日本の仕事文化はどうしても末端の人間の善意や奉仕に依存しているところがあるのが現実だ。更に逆らえないことをいいことにやりたい放題であり、反対することができない日本人の国民性も上手く利用されている。
相手の選手にタックルして壊せと命令されて実行に移したケースは、かつて上官に抵抗しない捕虜を撃てといわれたら撃ったのと一緒であり、なんら変わるところは無い。
今回辞任した内田監督が旧軍の指揮官であり、宮川選手は二等兵だ。
今回、宮川選手は「命令されたとはいえ実行に移したのは自分なので反省している」と言っていたが、これが社会的に大きな問題になっていなかった場合彼は今後むしろいつか命令する側になっていただろう。
自分もそうさせられてきたのだから、そういった価値観は日本社会の中で何度も見かける光景だ。
そういった悪しき部活動文化を持ち込む人がまだ日本には多いし、部活動を経験していない人はまだマイノリティだ。
自分のように中学、高校共に帰宅部だった人間は部活動もやってこなかったのかと社会に出れば軽んじられる側であり、なおかつゆとり教育を受けた人間なのでそのギャップにも苦しむことになる。
学生時代ゆとりを持っていいと言われて育ったのに、いざ社会に出るとゆとりを持つことは禁じられ悪い風習を押し付けられる。
その上、部活動的な文化や価値観まで労働の現場には蔓延しており、立派な社会人になることが美徳だという効率の悪い価値観に染まらせられる。
今でこそ部活動文化に疑問を呈することは少しずつではあるが認められるようになってきた。しかし以前は部活動をしていないと言うだけで本当に、人間性に問題があるのではないかとまで見られていた時代があったし今もまだ完全には改善されていない。
部活や仕事というのはこの社会において、神聖不可侵の美徳や宗教のような存在である。
そこに適応できない者はマイノリティとして排斥され、白い目で見られる。
批判されるのは悪い構造ではなく、そこに適応できない個人の方だと見なされる。
日本的な労働文化や部活動文化に反対する人は非国民、これがまだ日本の現実だ。