負け組ゆとりの語り場

社会に取り残された男が日々を語る

もう人生の負けが決まってしまってる奴wwww

現代人の人生には様々な不公平が存在する。

例えば世代間格差、これはどの世代も不満があるかもしれないが隣の芝は青く見えるため不公平に感じる。

更に同世代の中でも大きな格差が存在する。

 

世代別の格差は案外、自分とは世界が違うので諦めがつくものだが同世代間の格差というのは身近だからこそその差が顕著に感じられる。

ゆとり世代がその典型だが、日本が裕福になってから育った世代というのはその恩恵を受けられた個人とそうでない個人の差が大きい。

皆が等しく貧しかった時代というのはある意味、スタートラインがほとんど平等だったと言ってもいい。

 

しかし今の時代は生まれ持った何かがある人そうでない人、できる人とできない人、やる気がある人とやる気が無い人との差が非常に激しい。

 

陸上の為末大がこうゆとり教育をそう評している。

「ゆとり教育の本質は自分で考えられる層は徹底的に伸び、自分で考えられない層は押し付けられないので全く伸びないという、エリート育成システムだと思う。」

 

これはゆとり教育の本質が何であったかを的確にまとめているように思う。

結局自分はその後者の自分で考えられない層だったからこのように人生に負けてしまったのだろう。

この「自分で考えられない層」に補足をするならば、「できない層」「やる気のない層」も含まれるだろう。

自分のように出来の悪い奴や、やる気のない奴は、出来る奴において行かれるし、置いていかれているからといってそこまで押し付けられて干渉されるわけでもないのでますます置いてけぼりにされる。

その結果更にやる気も無くなり、負けが決まった人生に飽き飽きし、ついにはある種の安堵感さえ覚えるようになる

 

人生

また人生のスタートライン自体がそもそも違う。

日本人が等しく貧しかった過去の時代から、今は親世代の努力が引き継がれるようになっておりその時点で始まりからして違うことが多い。

都会に生まれた人、生まれ持った恵まれた才能がある人、習い事をたくさんさせてもらえて大切に育ててもらえた人、金銭的に裕福な家庭に生まれた人、様々な成功体験に恵まれ明るい性格に育った人、高学歴を得るために最大のサポートを受けられた人と、その逆に育ち方をした人ではまるで人種が異なるほどの大きく違う。

 

これはゲームに例えるならば強化アイテムや強化スキルを積みまくっているキャラクターと、何も特別な物を装備していないキャラクターとが勝負したところで勝ち目がないのと同じだ。

 

ネット上には「ホイカス」という言葉があるらしいが、要するにこれは保育園で育った人のことを揶揄する言葉である。

もう今の時代、幼少期の頃の教育からすでに人生決まっているのである。

ちなみに自分は生粋のホイカスであり、私立の幼稚園で育ったような人とは根本的に階層や身分が異なる。

 

日本がある程度裕福になってから育った世代になってくると人生のスタートラインは大きく異なってくる。

誰もが等しく貧しかった時代ならまだしも、これだけ生まれながらの差がある時代に努力だけで片付けてしまうのはどうなのだろうかと考えることもある。

人生のスタートラインが後方でも、せめて何らかの才能があれば逆転は可能だったがそれすら恵まれなかった人間は絶望的だ。

これまたゲームのキャラクターに例えるならば努力すれば強キャラに育つポテンシャルがある人と、そうでない人の違いは大きい。元から能力が高く、強化アイテムやスキルを積んでいて、さらに努力すれば伸びる人にはもう一生かかっても勝てないだろう。

 

校庭で行われる陸上の長距離走で例えるならば分かりやすいが、こういった負け組の人生というのは、一番後方にいるどころかもはや先頭を走っている人間に何周周りも追い越されているような状況に近い。

一番早い人には3,4周ほど差がつけられていてまた同じ人が自分の横を過ぎ去っていく時の虚しさは精神的に堪えるものだ。

 

最初は体力が無いながらも懸命に走っていたが、もはや走ることに疲れてただ歩いているだけ、いや座って休んでいるだけ、自分の人生を長距離走に例えるならばその状況にある。

自分は人生という競技に向いていなかっただけなのだ。

人生というゲームや競技は自分にはあまりにも難しすぎた。

昔は負けることがもっと悔しかったが、「安堵感」と前述したように感覚が麻痺してもはや負けていることが日常になりその内気にならなくなる境地に達する。

 

走り始めは後ろになるのはかっこ悪いと思う物だが、さすがに3,4周も差をつけられ後方を一人で走ってると開き直ってしまい、別に人生偏差値や人生ランキングが最下位でも仕方ないと諦められるようになる。

上位になりたいという欲求が最初からないわけではないが、慣れないことが分かるとその内欲求が消え失せてくるようになる。

よく現代人は欲が無いと言われるが、手に入らない物は脳が自然と諦めて興味が無くなるようにできているのかもしれない。

ただそれはそれである意味楽だとも言える。

何周も差をつけられた人生、それはそれでありじゃないか。

note.mu