負け組ゆとりの語り場

社会に取り残された男が日々を語る

ゲームをして残るのは結局は「思い出」に行き着くのではないだろうか

ゲームをしていて誰もが一度は考えたことがあるだろう、これをして何の意味があるのだろうかと。

ゲームと言えども楽しい事ばかりではない、勝てなかったり上手くプレーできなかったりすればイライラすることがある。

そんな時ゲームをして何になるのだろうかと考えるものだ。

 

特に最近はオンラインゲームやオンライン対戦、ソーシャルゲームが重要になっており全国や全世界との繋がりやそこでの立ち位置が重要になっている。中には自分のゲームプレー動画を公開する人もおり、当然ながらそこにも苛まれるような要因が発生する。

自分のゲームプレー動画を誰も見ていなかったり、自分が勝てなくなれば自信は失われる。

 

ゲームにおける順位、強さ、そしてプレー動画をどれだけの人が見ているか・・・などと考えていくと本来楽しかったものが楽しく思えてこなくなる。

子供の時に夢中でやっていたゲームがいつの間にか惰性で行っていたり誰かに評価されるためにやっていたりする。

こういった心理状態はまさに「見栄」を重視している状態だと言える。

 

しかし自分は思う、ゲームは儚い、そしてただ楽しければよかった原点に戻るべきだと。

ゲームをしている人ならば自分のゲーム内における順位やコレクション、勝率やレーティングなどの成績を気にするだろう。ゲームというものはこういった"数値"によって目的が発生しモチベーションが上がるように設計されている。

時としてそれはプレイヤー本人にとっては現実の物事より大きな価値を持つ事がある。

 

例えば自分は実力の段階が10段階に分かれているゲームでかつて上位を目指そうと真剣に考えていたことがある。そこに行ければもう何もいらない、それで幸せだとすら思っていた。

ゲームのレーティングで2000代を突破するとかレアアイテムを手に入れるとか、そういうことに憧れていた。

 

しかしここ1年近く自分はそういったオンライン対戦から遠ざかり気付いたことがある。

案外ゲームに対する執着心は無くなるものだという事に。

自分がプレーしていたゲームは主に3タイトル存在する。

・EA FIFAシリーズ(PC版)

・World of Tanks(オンラインゲーム)

・ポケモンシリーズ(3DS)

 

基本的に自分は数多くのゲームをこなすというより少ないタイトルを極めることを重視するプレイヤーで、人間そう多くのゲームをやる時間は無いという考えだった。

3つに絞って集中してその世界を極めようと思っていた。

しかしグラフィックボードの不調によりPCでゲームができなくなり、ポケモンもからも遠ざかり1年以上オンラインからは断絶された世界に合った。

 

そして気付く、自分が執着していたものはそれほど重要ではなかったことに。

例えばWOT(World of Tanks)という戦車ゲームで自分はかなりの時間プレーしていたし、かなり高ランクの戦車もそろえていた。ソ連ツリーを特に重視していて駆逐戦車を極めていた。

当然ながら今でもこのゲームに対する思い入れはあり課金もしてきたので再開の目途が立てばまたやってみたいと思っているが、無くても困らないとは思う程にその積み重ねたアカウントを重視しなくなった。

元々自分は戦車が好きだったことに加え知り合いに紹介されたことでこのオンラインゲームを始め、当初は毎日のようにやっていた。

とくに大学時代は狂ったようにプレーし相当頑張らなければならない戦車も手に入れた。

 

しかしPCのグラフィックボードが故障しプレーができなくなるとこのゲームから遠ざかり、ボイスチャットでプレーする機会も徐々に減少していった。

わざわざPCを修理してもう一度課金してまで始めようと思うとどうしても腰が重い上に、最近このゲーム自体全盛期に比べて過疎り始めてしまっている。

『ガールズ・パンツァー』というアニメが流行っていた時代は日本人ゲーマーも多かったが、後半は露骨に過疎るようになりマッチングにも時間がかかるようになっていく。

まるで永遠に続くように思っていたWOTもいずれはサービスが終了するという現実に気付き始めた。

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その知り合いと話していてよく話すのが「オンラインゲーム儚い論」である。

最初は彼が言っていたオンラインゲームはいつかサービスが終了するので虚しいという話も現実としては実感を抱くことは無かった。しかし実際にWOTが過疎り始めたことに加え、プレー休止期間が1年以上もあるとそれほど執着するほどのものではないように思い始めてきている。

あれほど積み重ねたアイテムも消えるときは儚い、消えなくても自分が価値を感じなくなったら意味がない。

楽しく身内だけで実況しながらプレーできていた時期は本当にわずかな時間だった。

 

またポケモンも一時は「嫁ポケ」と言われる自分が好きなポケモンだけで作り上げたパーティで対戦していたが、ある時途端に価値を感じなくなった。

ポケモンレート対戦が徐々にガチ化していきオンライン対戦の雰囲気が変わっていったことも自分のポケモンに対する帰属意識を失っていく要因だった。

そこに自分自身の私生活上の問題が加わり新タイトルサン&ムーンを買えなくなり、それを機に自分がポケモンに付いていくモチベーションを逸していくことになる。

そしてもはや今の時代ポケモン対戦動画はとにかく攻略情報が重視され、勝つことが至上主義になっている。

ダイヤモンド・パールのバトレボ時代が好きなポケモンを使う事の全盛期で、その後まだ第6世代まではそういった雰囲気が残り火のように存在していたがいつのまにかポケモンもガツガツとしたガチ化の時代になっていく。

現在ポケモンのオンライン接続率は低下しガチ勢しか残っていないような状態になっている。

 

WOTにしてもポケモンにしてもワイワイしていた場所がガチ勢が占拠する時代になると、雰囲気的についていけない時代になりゲーム疲れを起こすようになっていった。

自分としては3タイトルに絞っていたつもりがそれでもこれだけゲームを真剣にすることは普通の人間ならばできないという事に気付いた。

究めるタイトルは3つでも多い、人生には他にやることも多いという現実がある。

ポケモン自体に興味を無くしたわけではなく次回作に自分好みのタイトルが登場すればもちろん再開する可能性はあるが、現在でゲームに本腰を新たに入れていくことはやはり敷居が高い。

 

そんな自分が今かろうじてプレーをしているのはEAのFIFAシリーズである。

ゲームをやっても意味がないと言いながらもゲーム自体は今も好きなのが自分だ。

結局最後に残るのは本当に自分が好きなゲームで、成績やランクなど度外視してでも本当に楽しいからプレーするゲームだ。

 

今自分はオンラインに接続していないFIFAというサッカーゲームをやっているのだが、これに関しては本当にプレーすること自体が好きで毎日のように一人でやっている。古くなったオフラインのPCに入っていたFIFAを1人で延々とやっているのだが、これが十分に楽しい。

FIFAのようなスポーツゲームは毎年発売されるため数年前の作品でも基本操作は変わらず楽しむことができる。

つまり過去作でプレー技術を鍛えても十分に数年後の新作で通じるということになるので無駄にならない。

今はオンラインで最新タイトルができるわけではないが、オフラインでじっくり基礎技術を高めるという事に徹することができる。特に自分の場合複雑なコマンドを覚えるタイプではなく、シンプルな基礎技術を極めることが好きなタイプなのでこれから先も大きな変化はないことが保障されている。

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やはりゲームをやっていてそのタイトルやサービス自体が終了すること、大きくルールが変更することに左右されるのは大変なことだと気付いた。

結局何かを収集するゲームというのはある時突然そこに価値が発生しなくなる。

例えばソーシャルゲームはその典型だ。

ポケモンGOやパズドラ、モンストも全盛期に比べて勢いは失われ、そこに価値が生じなくなるとただの無価値なデータと化すことになる。

懸命に積み重ねたデータもある時"自慢する相手"が存在しなければ意味がなくなる。これは紙幣の価値が暴落すればただの紙切れになることと同じだ。

例えばポケモンGOもサービスが開始された当初にカビゴンやカイリュー、ギャラドス、ラプラスを持っていれば尊敬されたが今ではそこに価値は存在しない。

本家ポケモンもいわゆる「互換切り」という物が行われれば対戦で通用しなくなり意味がなくなる。

 

自分はポケモンXY時代に育てたモンスターに愛着を感じているが、対戦で使えなくなったり最新の環境で通用しなくなれば「どこに意味があるのか」と考えるようになっている。

現役の小中学生の時代に身内にプレーしている人がいてローカル対戦が成立していた時代は「自分はこのポケモンを使っている」というアイデンティティがあった。この町やこの学校でこのポケモンを使っているのは自分だけだという個性が存在した。

しかしオンライン対戦全盛時代になるといわゆるテンプレPTを使うのが正解で、最近はもはや育成せずともダウンロードで強いモンスターが使える時代になっていると聞く。

オンラインでの相対的価値が発生するゲームは自分の愛着だけではどうしても続かない現実がある。

 

結局こういうデータというものは儚く、何も残らないように思えてくる。

特にポケモンはオフラインでの対戦がそれほど充実しておらず、最新のものについていけなくなれば価値は大きく下がる。

あれほど自分が大切に育てたポケモンも、気づけば1年以上そのロムを起動していない。

「この服はいつか着ると思ってても結局着ない」という事を洋服やファッションが好きな人は良く言うが、自分の場合WOTもポケモンも1年以上起動せずとも案外平気だったことに気付く。

名残惜しいデータもいざ長期間プレーしなければそれほど大事ではなく執着するほどの物でもないと考えるようになり、成績や勝率、レート、レアアイテム、キルレシオなどそれほど大きな意味があるのかも分からなくなる。

 

更に言えば3DS以前のDS時代のデータに関してはもはや3年以上起動していない、案外こういうデータは意味が無く一人で楽しめないのならば意味がない。

逆に『ポケモン不思議のダンジョン』というシリーズはほぼオフラインが前提でサービスが終了しても充実しているダンジョンが存在する。本家ポケモンやポケモンGOのデータは今消滅してもショックはないが、不思議のダンジョンのデータはショックを受けるだろう。

本当に自分の中ではあの"冒険"の日々が大事で、1人だけで没頭できるRPGの世界は今だからこそ再評価されるべきなのかもしれない。

 

自分だけで楽しめる絶対的指標と、誰かとの比較によって生じる相対的指標の概念を考えると本当に残るのは前者だ。

紙幣もそこに価値があるから紙であっても大きな意味がある、データもそこに価値を感じる人が自分以外に存在するから意味がある。例えば10年後パズドラのデータに価値を感じる人がどれほど存在するだろうかという疑問はある。

 

そういう意味で「スキル」で残るゲームはアイテムや成績、アカウントで残るゲームより強いのではないかと自分は考えている。

例えばFPSはある程度タイトルが変わってもエイム力や立ち回りの判断力などはそのまま継続される。

自分の場合FIFAはEAが倒産しない限り今後数十年続くタイトルであるという保証が存在し、サッカーという競技が衰退しない限り存在価値がある。

世界的な大企業、世界的メジャースポーツという価値に支えられたFIFAシリーズは余程の事が無い限り廃れない。更に日本だけでなく外国人にも人気が高いため海外に行ったときにその人がFIFAを持っていればデータ関係なしにそこで対戦が成立する。

 

これは演奏スキルがあればある程度楽器をどこでも演奏できることや、チェスや将棋も道具があればその場で誰とでも対戦できることと似ている。

ユダヤ人は「教育は誰にも奪われないしどこにでも持ち運べる」という価値観を持っているように、ゲームのスキルはどんな場所にでも持ち運ぶことができる。

 

その文脈で言えばアナログコンテンツもやはり持続性が存在する。

データという物はサービス終了などの要因によって消えたり価値が存在しなくなるが、アナログコンテンツの寿命は長い。

例えばWOTでいくら強力な戦車を揃えてもそれはグラフィックでしかなく、プレー人口が減れば以前ほどの価値は無い。

しかし自分が懸命に作った戦車のプラモデルなどはおそらく10年後も懐かしく、そして実体や現物として存在している。

 

これに似たことで言えばTCGのようなカードゲームもカードとしてのコレクション性はいつでも持続するどころか古いものとしてより価値が上がっていくケースもある。

『マジックザギャザリング』の古いカードに高値が付いたという話は良く聞くことだ。

逆にポケモンの赤緑時代のリアルタイムのデータにどこに価値があるのかと言えば、それには疑問符が付く。

未だに金銀時代の環境を考察している人は存在する一方で、それが再現できるからと言ってどこまで意味があるのかはやはりどうしても最先端の「プレー人口」の多いタイトルが優先される。

 

その一方で前述のポケモン不思議のダンジョンは一人でも十分に楽しめるダンジョンが残されており、10年後も中々クリアできないダンジョンに挑むことができる。

対戦相手やその価値を承認してくれる自分以外のプレイヤーが存在しなくなれば成立しなくなるコンテンツは危うい運命にある。

 

未だに『風来のシレン』はレトロゲームとしてゲームマニアの間では重宝されていて外伝の女剣士アスカ見参!は高値で取引されていると聞く。オフラインでできるゲームはいつまでも自分でやりこむことができるが、オンラインが前提になっているゲームはいつかその価値が大幅に減ってしまう。

自分はこの前サモンナイトのクラフトソードシリーズというGBA時代のゲームをわざわざ始めたがそれはいくらオンラインがら断絶されていようとも、今の時代誰もやっていなくても楽しむことができた。

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相対的な価値に依存する物というのは結構危ういなと、特にソーシャルゲームを見ていると感じずにはいられない。

それはソシャゲだけでなく現在の主要コーンシューマータイトルに関しても同じことが言える。

ゲーマーの知り合いは『ガンダムバーサス』のPS4における最新タイトルをプレーしているらしいのだが、彼が言うには今相当に過疎状態に陥っているようである。ついには前作のPS3時代の作品の方がオンライン人口が多くなっており、結局彼はDLCで購入した好きな機体を眺めるだけになっているようだ。

 

最近のゲームにおける情勢というのはオンライン人口の確保がそのゲームの価値を左右するようになっているということに尽きる。

過疎ゲームや収集ゲームをやり続けることにどこまで価値があるのかという事を考えると、自分は遂にFIFAという超メジャータイトルしかやらなくなっていた。

ポケモンもいくら育てても環境が変われば意味が無く、時間をかけて今の段階でそろえることに何の価値があるのか、そしてWOTもいずれサービスが終了して過疎化していく運命にある。

 

スキルが持ち運びできる上にサッカーというメジャースポーツと、EAという大企業に支えられたFIFAは今自分がオフラインでプレー技術を磨いてもどこかに価値が存在する。

それに加えて純粋に自分としては楽しく、時として脳内でプレーしていることもある。

 

あまり自分が心の底から楽しめていないゲームを一時的な数値のためにプレーするのであれば、自分が本当に楽しめる好きなゲームだけをプレーし続けることの方が良いのではないかという事に最近気付いた自分がいる。

 

具体的な自分の例として『モンスターハンターシリーズ』の過去作を安く手に入れたのでプレーしたのだが、どうしても3D酔いしてしまい結局は挫折した。最初のボス的なモンスターを倒して自分の中では完全に満足で、仮にどこかの旅館に泊まって暇なときにやろうかなと"先延ばし"にしている。

 

携帯ゲーム機のいいところはこうして持ち運べるところで、いつか旅行に行く時に暇だったらやろうと先延ばしにできる。クリアできるだけで満足できるRPGはなおさらそこに価値があり、昨今オンラインというのは儚いと自分は思い始めている。

その結果自分がやり慣れたFIFAばかりやっていて、もはや最近それしかしていない。

逆に言えばモンハンばかりする人やFPSばかりする人もいるだろう。

ちなみに自分はFPSを上位者や経験者との間に絶望的に追いつけない差があると感じて、無理にそこで頑張るよりは自分がやり慣れて本当に好きなタイトルを極めた方が良いことに気付いた。

その結果FIFAしかプレーしなくなったという事である。

 

しかし自分は何もこういったオンラインゲームに価値が無いと言いたいわけではない。

例えばWOTにしても明日サービスが終了するとしても、自分が駆け抜けた"戦場"は今も思い出に残っている。

身内だけで実況や雑談をしながら大学時代にプレーしていたことはこれからもずっと懐かしいだろう。

「初心者はすぐKV1使うから困るんだよなぁ」と言いながらソ連のKV-1という戦車を使う人を批判しながらプレーしていた日々もあった。そう言いながらも自分も最初に作り上げた重戦車がKV-1だったのである。

 

そしてポケモンもXY時代にあれだけ真剣に育成したことは懐かしの思い出だ。

ポケモン熱があった頃の自分はポケモンのイラストを描いていたり、ポケモンセンターにグッズを買いにいったりしていた。ロムを起動すれば一応まだ愛着をもって育てたポケモンがいる。

「ポケモンセンターで対戦したアイツ、今も元気かな」と思いを馳せている。

一時対戦コミュニティにいたころのことも懐かしいし、配信されたダークライのダークホールをワンパターンで撃ってくる子供相手に大人げなく「しんぴのまもり」という技を打ち封じて、容赦なく倒したあの頃も今ではいい思い出だ。

 

懐古目的で少し前に10年以上の時を経てプレーしたアドバンス時代のゲーム、1人でやりこんだ不思議のダンジョンシリーズ、あの日駆け抜けたダンジョンが今は懐かしい。

 

FIFAやウイニングイレブンで決めたスーパーゴールは今でも時々思い返して、まるで自分がワールドカップで活躍したかのように一人で興奮する。

結局FIFAで一番楽しかったのが親戚の子供と対戦したことか、クリスマスに悲しく一人でオンライン対戦をしていたら相手の外国人が「メリークリスマス」と言ってきたことだ。

 

そして例のWOTやガンダムバーサスをやっている知り合いも、学生時代に『アーマードコア』というもはや新作が発表されないゲームで顔も知らない仲間とチームを組んでいた頃のエピソードを懐かしそうに話す。

 

ポケモンのBGMを聞くとすべてが懐かしく、そして戻れない日々だと気付く。

しかし戻れないからこそ思い出は美しい。

具体的に詳細な内容は覚えていないのになぜかおぼろげに懐かしい。過疎化した街や昔住んでいた 町が無性に懐かしいように、いくらゲームに意味がなくなったとしても自分だけが覚えていればそれは今も生き続けているのかもしれない。

elkind.hatenablog.com

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