負け組ゆとりの語り場

社会に取り残された男が日々を語る

昔の旅行記を見ると懐かしさと幻想を抱ける

ここ数日間読書の秋らしく、古本屋で買った昔の旅行記を読んでいる。

1980年代の旅行記はまだ新しい状態で残っていて日本人がよく海外旅行に行っていた時代の文化が面白く、更にその国の当時の事情も知れて興味深い。

海外であること、そして過去であることがどこか独特な懐かしさを感じさせる。

更に文章を元に想像することによってその幻想的な風景は「もう存在しない遠い場所の遠い過去」へと変貌する。

 

特にアジアの旅行記は日本に近いこともあってどこか肌身で感じるような感覚を持てる。

インターネットが現実の延長線上のものになったり、日本という国自体が衰退して来て自分の人生も上手くいかなくて"現実"が嫌になっているときに古本の世界に閉じこもることは「ここではないどこか」への思いを馳せるためのよくツールとなる。

 

例えば海外旅行に行く動機は「日常」から離れた場所にある非日常の空間に行く事だろう。

しかし現に海外旅行に行こうと思えば膨大な費用が掛かる上に、多くの人気スポット(=手頃に行きやすいために現実的な選択肢となる)には日本人がいるためどうも異国情緒を味わえない気がする。

 

例えばチリのウユニ塩湖はあの風景を見て幻想を持ってはるか南米の奥地に出かけたとしても、そこにはブームに乗ったミーハー的日本人が多く来客してきており日常に引き戻されることになる。今ウユニ塩湖はその評判を聞きつけた日本人で溢れかえっておりおり、そこに秘境にやってきたという感覚を抱くことは難しい。

これは自分が日本人が嫌いだからというわけではなく、どこの国にも共通している現象だ。たとえば高根の花だった日本旅行にやっと来たら自分と同じような中国人ばかりだという事にげんなりする中国人は多い。

 

誰も行かないような場所で日本人に出会うならば、それは親近感を持てる。

例えば村上龍の『愛と幻想のファシズム』は冒頭カナダの先住民がいる北方の辺境の酒場で同じ日本人と出会う事から始まる。

「こんなところになぜ日本人が?」という場所で出会うならば温かみを感じるが、海外旅行に行ったのに日本人ばかりで日本人向けに作られてる物ばかりだと何のために外国にやってきたのかと感じるかもしれない。

そしてそんなところに行っている時点で自分もそのミーハーの一人なのだ。

 

今の時代タイペイやソウルにいったところでインスタに乗せる写真を撮りに来たミーハーな日本人がそこらへんにいて萎えるだろう。バブル時代にハワイに行けば日本人ばかりでもはや実質的に日本語が公用語だったという話のように、人気の観光地にはどうしても日本という現実が垣間見える。

これはきわめて複雑な心理で同郷の人がいないところで同郷人に合えば親近感がわくが、現実から離れようとしている場所で現実に引き戻されるとそれが煩わしくなるという構造があり世界共通の現象だ。そうまるで自分を見ているようで、そしてそれが自分だと突きつけられるようで。

 

逆に自分が行きたいと思っている場所はロシア、モンゴル、中国、カザフスタン、北朝鮮などあまり日本人に人気が無い国だ。怪しげな場所に惹かれるというか、寂しげな場所に行ってみたいという思いがある。

日本でも北海道の定番スポットではなく、北海道の中の離島や寂れた冬の漁港に自分は行くだろう。

 

常に逆張りしたい、素直なことはしたくない、そんなひねくれ者的には旅行地や観光スポットでもなんでもないようなその国のその県の普通の場所に行ってみたいのだ。

ゾロゾロと誰もが行く場所に集団で行ったところでそれは「観光客を観光している」という状態にしかならない。

これはそういう人気スポットに行ける人に対する貧乏人の嫉妬も交じっているのかもしれないが、いずれにせよインスタに乗せるために日本人が良く行ってる場所に行っているだけの人にはあまり好感が持てない。

彼らの心理はカメラを首からぶら下げて写真を撮っていた頃の昔の日本人と変わっていない、ただカメラがスマホに変わっただけであり日本人が日本人の人気の場所にいって帰ってから日本人に話すという体験にしかなり得ないのだ。

初めから彼らの世界観は帰国後の日本人コミュニティに向いてしまっている。

 

そう言いながらも自分自身、樺太やカザフスタン、旧満州地区(例えば哈爾濱)などに行ってその体験を日本語で日本人向けに書いてスマホで撮った写真を載せたいと思っているというのが皮肉だ。

有名な観光地に行っている時点でその自分も周りの日本人と同族の一人であるように、結局そんな自分自身が日本人的なことをやろうとしている。日本人向けの旅ブログを作ることが自分の密かな憧れや夢でもある。

 

そんな夢を抱きながら読むのが古本屋で買った昔の旅行記だ。

当時の政治状況やその国の文化や、日本人にとってのイメージ、その国から見た日本のイメージなどは現代と大きく異なっている。

例えば自分が読んだのは『ソウルの練習問題』という1980年代初頭に韓国に行っていた人の体験記だ。これはどこかの古本屋で数年前に100円で買った物が読まずに眠っていたのを偶然発見したからだ。

情報として面白いのがソウルオリンピック以前の韓国では北朝鮮からの空襲に備えて防空訓練が月に1度実際に街で行われていたり、パク・チョンヒ政権時代は12時以降の外出が禁じられていたりという歴史を感じさせる記述だ。

更に当時の韓国は若者が行くような場所ではなく、風俗店に行く事が目的の中高年男性がツアーで行くような場所だったということを想像して読んでいた。

今の感覚で言えば日本人にとってフィリピンが若者のいくスタイリッシュな場所というイメージではないように、「あっ(察し)」的な場所だったところからここまで劇的にイメージが変化したことには彼らの国家戦略の凄さを感じずにはいられない。

今旅行の定番となっているような場所も、日本人がそれほど行っていなかった時代の旅行記はどこか懐古感情を抱かせる。

 

逆に海外から旅行先としてみた日本もイメージや傾向がここ最近変わりつつあるように思う。

海外旅行が庶民の手に届くようになった中国人が真っ先に行くような場所というイメージになっているのではないか。

 

ちなみに自分が感じた日本に来る観光客の印象は「凄く日本に興味があってきた人」「なんとなく来てみた人」の両極端だ。

観光地に近い場所にあるバーでたまたま隣に座っていた外国人がアメリカ人で、その人がかなりの戦国時代オタクだったことがある。

更に言えばもう一人知っているアメリカ人も「戦国BASARA」きっかけで日本の戦国時代に興味を持ったという人で、自分の地元の大名の話をしたら「すげぇ!」みたいな反応をされたことがある

 

これは自分がスペインから来た観光客に「地元のクラブはセビージャなんだよね」と言われたら、サッカーファンとして「すげぇ!」と思う事と似ているかもしれない。

他にはなぜか岡山県に行こうとしているフランス人がいたり、バックパッカー的に旅をしているドイツ人にもあったことがある。

そしてスペイン人はほぼサッカーの話で盛り上がれる。「イニエスタ」を知っていればブロークンイングリッシュでも大体話せるぐらいに、ワールドカップ決勝でゴールを決めた選手は英雄のようだ。

 

それにしても岡山県に行こうとしていたフランス人二人組は未だに謎だ、ちなみに「シャルル・ド・ゴール」は通じたのに「シャンゼリゼ」は発音がフランス語と遠すぎて通じなかったというエピソードがある。

ただその岡山に行こうとしたフランス人がまさに真の旅行者であり、自分も海外旅行に行くならば観光客がいかないような普通の場所に行ってみたいと思う。

それで言えば日本の中でも「興味ない県」を巡ってみることもいつかしたいという夢がある。

このきっかけがなければ一生訪れることもなかったという街ほど印象に残る。

岡山県の人には申し訳ないけどリアルに自分は岡山に何があるのか知らない、著名な岡山県出身者も一人も知らない。

「大都会岡山」とネットでネタにされていることしか知らないのだ。

 

それゆえに逆に行ってみたい、岡山県に。

よく都道府県の魅力度ランキングというものがあるが、その最下位でもないけど順位的には低いような場所に行くのは面白そうだ。

確か茨城県が毎回最下位ということで「日本で最も魅力がない県」と言われているけども、46位とか43位ぐらいの県とかの居酒屋巡りをしたら中々楽しそうである。

そんなこと言いながらも自分の地元は茨城が大都会に感じるほど田舎である。

 

埼玉県とか「ださいたま」と言われて散々ネタにされてるけど、自分の感覚で言えば「埼玉とか静岡は都会」というイメージがある。まだ関東に合って電車でチョットすれば東京に行けるだけ都会だ。自分など東京には修学旅行で一度訪れたことしかない。

埼玉は「あの渡辺麻友を生み出した上に浦和レッズがある憧れの都会だ」と自分は考えている。

埼玉県出身の渡辺麻友と大分県出身の指原莉乃ならば、前者の方がまだ都会育ちという感覚だ。東京や大阪からすればどんぐりの背比べかもしれないが、「フローゼルは厨ポケ」的なニュアンスで「埼玉は都会」である。

埼玉に行けばまゆゆのような美少女が普通に歩いているのだろうか、そんな慕情も「埼玉人はそんな美人じゃない、あれが例外」という現実に打ちのめされるだろう。

別に自分の地元を見ても、その県出身の美女やイケメンが普通にいるわけではない事と同じだ。

 

ここで個人的に「旅をしたいと一切思わない県ランキングTOP5」を発表したい。

本当にその県出身の方にはジャンピング土下座をしなければならない程申し訳ないがこれが率直な印象でもある。

1位:岡山県

もはや何があるのかすらわからないし有名人を1人も知らない。一切特徴が無く特産物すらも分からない。あのフランス人が何を求めて行ったのか今でも謎でしかたない。

 

2位:三重県

ギリギリ西野カナと伊勢神宮を知っているが、それぐらいしかしらない。

 

3位:滋賀県

実は関西に住んでいたころ暇だから琵琶湖を見に行ったことがあるのだが特にもう一度いく理由は今の所無い。琵琶湖も一度行ってみれば「普通だな」とシンガポールのマーライオンや北海道の時計台並にがっかりスポットである。水がそこまで綺麗ではない、適当に近くの海に行ったほうがマシ。ただ近くの露店にあったアイスクリームは美味しかったため、むしろそのほうが思い出に残っている。

 

4位:佐賀県

行くなら長崎か福岡で、わざわざ行く理由は特にない残念な場所。せいぜい昔エンタの神様ではなわがアピールしてたことしか知らないが何をアピールしていたかは覚えていない。

 

5位:和歌山県

関西に住んでいた頃和歌山行きの電車はちょくちょく見かけたがついに乗ることは無かった。関西の秘境どころか、もはや関西というイメージすらない。

 

この5つの県に住んでいる人本当にごめんなさい、と謝りたいぐらいに自分の中で特に魅力を感じない、いやそれ以前によくわからない。

ただよくわからないがゆえに「何があるのか」という興味もそそられる。

むしろこの5県を1人自転車で一周するという旅は中々面白そうだ。観光地でもない地元民しか立ち寄らない居酒屋や食堂を周りたい、むしろそういう何気ない普通の場所に自分は惹かれる。

変わり身が早いのが自分で岡山県で凄く優しい人に出くわしたら多分自分の中の岡山県の自分内魅力ランキングはFIFAランクで日本代表がザックジャパン時代に12位ぐらいにまで上り詰めたとき並に爆上げするだろう。

 

県の魅力やイメージとして気候は大事な要素のように感じる。

例えば富山県や福井県は石川県ほどではないけども「北陸」というイメージがあって行きたいとは感じる。(石川県を自分の創作キャラクターの出身地に設定しているほど自分は北陸に憧れがある。)

南国でも北国でもない上に、特に田舎だとネタにされることもない中途半端な場所はどうしても興味を惹きつけにくい。

 

そういう意味でいつか「和歌山県を自動車や自転車で一周」みたいな旅行記を描いて見たいとも考えている。和歌山にはみかん以外こういう物がありました、的な旅だ。

というよりその県在住の普通の民家、それも特別田舎というわけでもなく住宅街にあるような普通の家を訪れてみたい。

観光地観光地した場所というのは前述のようにどうしても人が集まってしまうため却って魅力を感じない。

むしろ観光地が無い場所の方が真に魅力的であり、日本再発見ができる。

観光スポットがある駅のひとつ前の駅で降りてその街を散策したほうが思い出になる。

 

例えば国際的に「秘境」のイメージがあるチベットは今やその神秘性を求めた観光客が世界中から集まっていて秘境でもなんでもないだろう。

青い空の下にそびえ立つ荘厳なポタラ宮を見て幻想を持ってはいけない、どうせアメリカ人や中国人が大勢いる。チベットの誰も訪れない寺院には真のチベットの姿があるが、ラサではなく名前すら知らない集落の方がよほど魅力を持っているはずだ。

幸せの青い鳥と同じで、案外「遠い場所にある秘境」というのは地元の自分しか知らな場所だったりする。

「最果ての地」を求めて放浪しても、結局は自分の知っている場所への思いが強くなる。

 

「世界のどこかに綺麗な海があるんじゃないか」と探し回っても、自分が最初に知った海の光景には敵わない。

行ってみたいなぁよその海、しかしどれだけ世界の港町を歩き回ってもその"幸せの青い海"は自分が良く知っている場所だろう。青い海ですらなく、そこまで綺麗ではなくともエメラルドグリーンやオーシャンブルーの観光地よりも自分の知っている海に愛着を感じる。

スペインのマラガにまでわざわざ出かけたところで、ただのリゾートにしか感じない現実が待っているだろう。

 

それゆえにやはり本なのだ。

「過去」と「海の向こう」を兼ね備えた昔の旅行記は憧憬を抱かせる。

結局ゲームは発売前、遠足は前日が一番楽しいのと同じで想像しているときが一番面白い。

創作の世界の景色も同じように旅情を感じさせる。たとえばジブリ映画やポケモン映画、RPGゲームに出てくるような街は存在しないとわかっているがゆえに、その作品の登場人物やストーリーの魅力と共に懐かしい思い出になる。

昔の旅行記を読むというのは、これまたある種の創作だ。旅行記の文章をヒントに自分の中で別の世界を作り上げているからそこには現実と違う世界が生まれる。

旅行記に限らず小説で文章を通してイメージした景色は現実であれ創作であれ、結局読者がイメージする風景は千差万別だ。

 

最近はそうではないかもしれないが「声優」も実際に顔を見るとがっかりすることが多かった時代がある。声だけで想像するから幻想があるように、文章だけで存在するから幻想がある。

憧れの場所には行かない方がいいことが多い、想像を上回ることはほとんど無い。

アメリカの有名なクリスマスソングを作詞した人が実はあまり雪の降らないカリフォルニア州出身だったように、期待に満ちた想像のほうが時には美しい。

 

その意味でまさに昔の旅行記は実際にはほとんど架空の世界のようなものであり、それゆえに想像は膨らむ。

例えば夏目漱石が執筆した『満韓ところどころ』という作品は、漱石が当時の満州や朝鮮を旅した文章だ。

つい最近、姜尚中がその旅程を巡って漱石の視点で見つめるというようなドキュメント番組を見たことがある。これは某公共放送制作で多少左巻きな作りだったが、「日本が攻め落とした203高地から見た旅順港の景色」を取り上げていて当時の浪漫と現実の交錯する感情を読み取ることができた。

 

前述のソウルオリンピック以前の国際的に地位を高めようとしてた頃の韓国面白そうみたいな話で、韓国併合前年あたりの消えゆく大韓帝国の景色を実際に見て見たかったという思いもある。

ちなみに歴史の話をすると思想も関わってくるが、自分としては日本統治時代の朝鮮半島にも憧れがある。当時の歴史の流れで言えば正当性が無かったと断言はできないと考えている。

そんな時代の京城帝国大学や朝鮮総督府が現役で機能していた頃に行ってみたいという旅情だ。同じように日本統治時代の台湾や満州国にも憧れがある。満州国の悲惨な結末の前にあった夢や理想、それもまた想像や架空の話であるがゆえに現実とは違っていて美しい。

 

想像ほど美しい物は無い、そして現実ほど悲しい物は無い。

五族協和を掲げた満州国の理想は美しかったが最期は日本人が集団自決を繰り返しながら故郷に命からがら逃げ延び、逃げ切れなかった人々は悲惨な終わり方をした。

端的に言えば旅情とはそういう物だ、知らないから、その時には遠い未来だから憧れがある。今書かれるSFよりも鉄腕アトムぐらいの時に懸れた未来物のほうが浪漫に満ちていることと同じだ、現実は想像力を削いでしまう。

大陸の浪漫や異国への憧憬、秘境への慕情は現実という鋭い刃に無残に切り裂かれる運命にある。

そして幸せの青い鳥のように、今この場所と現実が自分の心の在り処だと気付く時が来る。世界のどんな海を巡っても、自分が知っているあの海が懐かしいと感じるように。