負け組ゆとりの語り場

社会に取り残された男が日々を語る

なぜ独裁政権の話はワクワクするのか

独裁政権の歴史を調べることが面白い理由はスケール感の大きさにあるのではないかと思っている。

例えばアドルフ・ヒトラーが第三帝国を作ろうとしたり、ヨシフ・スターリンが戦後核開発や宇宙開発を推し進めたり、毛沢東が文化大革命を行おうとしたり、とにかくやろうとしていることが大きく歴史の勉強としては非常にワクワクするものがある。

 

スターリンが水爆作ろうとしてた頃とか極秘の核施設を作ろうとしていた頃は本人も側近もかなりワクワクしていたんだろうなと思うし、その時代を想像するとかっこいいと思う自分がいる。冷戦初期の新しい秩序が形成されていく激動の時代に惹かれる。

スターリン様式の建築もかっこよくモスクワ大学は特にデザインがかっこいいし、計画だけで終わった建築も実際実現していた場合の姿を想像したくなる。

ソ連の秘密都市や閉鎖都市も、極秘感があってそういう物に惹かれるのは厨二病的心理がある。日本でも田中角栄が日本列島改造論を実行しようとしてロッキードで失脚するまでの流れは戦後史の中で非常に面白く、キャラとして独裁者や強力な指導者面白いよなぁと思うのだ。

 

朝鮮半島もパク・チョンヒVSキム・イルソンのキャラ濃い指導者同士が競い合っていた時代は面白そうで、いつ本当に朝鮮戦争が再開するかわからない切迫感をイメージせずにはいられない。

 

仮にドイツが戦争に勝っていたらゲルマニア計画が実行されて、ベルリンが凄い都市になっていたのだろうかとも考える。

独裁者にありがちなのが昔から権威を示すために巨大建造物を作ろうとするところであり、織田信長の安土城も一種の独裁者が作った建築物の一つだと見ることもできる。

あまりお城に興味が無い自分でも安土城には浪漫を感じるし、巨大建築物へのワクワク感はいろんな人に共通しているのかもしれない。一昔前世界最大級の廃墟と言われていた北朝鮮のリュギョンホテルや、北朝鮮版凱旋門なども魅力があり共産圏の独裁者変な物作りがち説はよく言われる。

 

良くも悪くも民主主義だとできないことを好き勝手やれるからスケール感のある事ができるのが独裁政権だろう。

とはいえ日本も戦後初期の新幹線が作られていく時代の開発に懸けるエネルギーや高度経済成長の時代の話は光と影があって体験して見たかったという思いもある。

漠然と今の世の中につまらなさや閉塞感を感じていると過去に思いを馳せるようになる。

冷戦初期のソ連で北極に近い場所を移動するソ連軍戦闘機や艦船などの姿を想像すると浪漫あるよなぁとも感じるし、独裁政権や悪役陣営の怪しいイメージが自分は好きなのだろう。

 

機動戦士ガンダムで言えばジオン公国の首都ズム・シティも憧れがある、そういう創作の世界の話も想像してワクワクする自分がいる。ガンダムSEEDの方プラントのアプリリウス市とかもかっこいいと思うしその辺設定もっと見てみたいな。プラントでザフト軍用のモビルスーツ作ってる姿も見たいし、カーペンタリア基地のように基地系列もかっこいいなと思う。

「大規模感」というか「大正義感」というか、スケールのでかい話がやっぱり面白い。強いエネルギーで発展していく雰囲気自体への憧憬とでもいうのだろうか、街が変わりゆく激動や刺激を自分は求めているのだろう。

田舎にいると気付くんだよ、また一つ店が閉鎖したなという事に。子供の頃に合った店がどんどん無くなっていくことのあの何とも言えない寂しさを日本人の多くが今リアルタイムで経験しているだろう。

その寂寥感とまさに正反対なものが発展していく激動の世の中の情熱だ。

 

仮にこれから大規模感のある開発が行われるとしたら宇宙開発だろう。

ただこのこの宇宙開発も現代ではコストパフォーマンスが悪くて割に合わないものになっている。冷戦期だったから米ソの威信をかけた開発が行われていたが、今は宇宙開発も徐々に下火になって来ているらしい。

米中冷戦の時代が激化すれば国力を競うために宇宙開発がもう一度盛り上がるかもしれないが、今は残念ながらそういう時代ではない。

大規模な建築物や巨大な開発が行われない時代になって来ているのは少し寂しい。軍事でもどこも軍縮ムードで、税金の無駄遣いができないからしょぼい物しか作れなくなってきている。

ドイツという敵に続きソ連という敵が消滅して西側もやることが無くなった感は否めない。ソビエトというラスボスを倒した後に訪れたのは情熱の無い寂しい世界だったとアメリカ人は思っているのではないか。

ただのテロ対策が精いっぱいな時代になって、弱小国に対してワンサイドゲームをする時代になった。少し前のイラク、そして最近ではシリアで大正義感ある争いは無くなってきている。

戦争をエンタメやスポーツ感覚で語って不謹慎ではあるが、ワールドカップで言うとグループリーグのどうでもいい試合ばかりで、準決勝や決勝のような組み合わせが無いことは盛り上がりに欠けるよなぁと。

 

発展していく感が味わいたければやはり中国や東南アジアに旅行しにいくのが一番なのだろう。

マレーシアは今本当に来ているらしく、首都のクアラルンプールはかなり日本人が過ごしやすいとも言われているし、インドネシアのジャカルタやベトナムのハノイもエネルギーがある。

そういう旅番組が自分は結構好きで、少し前にみた旅番組の景色が懐かしく感じることもある。

中国も共産党一党独裁だからできることもあり、日本で言う大阪規模の都市が中国全土に存在するほど巨大国家になっている。冷静に考えてアフリカの総人口以上の人口が中国一国に存在するというのはスケールが大きくて当たり前なのかもしれない。

 

それで言えばインドとアフリカもかなり今来ている国で、10年前の未開なインドというイメージは無くなってきている。中国が人民服を着て自転車で走っているというイメージもとっくの昔のことになっていて、子供の頃にちょっとだけそういうイメージがあったぐらいだ。

これからインドが中国のようにイメージが変わっていくだろう。インドの核開発の話もワクワクするもので、インドの技術者がどんな感じで核開発をしているのだろうかという現場への想像力も掻き立てられる。

 

日本がエネルギーある開発をしていたのは明治の近代化か戦後復興の時代だろう。

これも意見が分かれる物で、明治時代の東京近代化戦後昭和の高度経済成長どちらがワクワクするかというのも意見が分かれる。東京駅のような西洋風の建築が作られていく過程か、東京タワーが出来上がっていく過程かどちらがワクワクするだろうか。

 

「花の都東京」として日本人が東京に憧れた時代の話は今にないエネルギーがある。

日本にそれまでなかったものが東京から出来上がっていく感は今中々ないし東京に憧れる理由も減ってきている。

「東京に凄い物できたらしいぜ」的な話題は今の時代無くなってきている。せいぜいハロウィンで仮装大会をして、それを冷めた目で見るという時代になって来ている。

東京が偉そうな時代で、東京から何か新しい物が発展していきそれが全国に波及していくというやり方が実は日本にとって最も適したスタイルだった可能性はある。

「東京に行けば凄そう」みたいな漠然とした憧憬は無くなって気付くけど、今になってみればやっぱり必要だったなとも思う。昭和や明治の頃の東京への憧れ凄かったんだろうなという思いもあるし、大正時代のハイカラ文化で喫茶店や洋菓子店が普及し始める頃もかなりワクワクする。

 

浪漫で言えば満州国の完成形を見てみたかったなという思いはある。五族協和の王道楽土、日本の生命線、首都新京、アジアの多民族国家、そこに憧憬がある。

満州国は悪いイメージで語られがちだけども、建築物や施設を見るとかっこよく日本にはない最先端の設備もあったようだ。

日本植民地時代の京城も興味があるし、当時の大連や旅順なんかも夏目漱石の「満韓ところどころ」にあるような旅情がある。

「行ってみたいな、よその海」という歌詞があるけども知らないから幻想や旅情を抱けるのかもしれないし「ここではないどこか」に思いを馳せて旅に出たいと思うのは人間の本能なのだろう。

 

独裁政権の話で言えば、スペインとポルトガルの大航海時代に新大陸を目指して海出たというのは当時の国王や女王が支援していたという話も聞く。そういうことができるのがやはり強固な政権なのだろう。

現在の日本でも青年海外協力隊というものがあるが、あれは簡単になれる物なのだろうか、そんな簡単なものではなさそうではあるが興味を持ったら調べてみたい。

 

冷戦時代のモスクワの街並みや、毛沢東がいたころの北京、ヒトラーが作ろうとしていた第三帝国の世界首都ゲルマニア、今は存在しない満州国、今より閉鎖的だったころの平壌、想像と現実は違うのかもしれないがそういった場所に憧憬を抱く。

日本人がパリに行ったらがっかりするという事は良く言われるが、知らないから良いのかもしれない。

過去は甘美だ、知らないから幻想を抱けるのだろう。

壮大な計画でエネルギッシュなことが進んでいく激動の時代、その空気感や情熱に思いを馳せることも体験していないからむしろ楽しいのかもしれない。

ここではないどこか、今ではない過去か未来、つまらない今と対極にある幻想にも似た世界が自分の心に今日も一滴の希望を与えてくれる。