負け組ゆとりの語り場

社会に取り残された男が日々を語る

自分の中だけで愛着のあるオリキャラっているよな

最近オリキャラ創作熱が下がってきているし、個人のオリキャラってやっぱ限度あるのかなぁと思ってもいる。

ただそれでも昨日ふと自分のオリジナルキャラクターが懐かしくなった。どれだけしょぼくてもやっぱ自分が考えたキャラって愛着あるよなぁと。

 

自分の中でガンダムKindのキャラは特別であり、唐突に自分の妄想した世界が懐かしくなる。

城ヶ崎建嶺、空良快晴、軌流洵作、花鏡時久、坂之上高行の5人は今でも特別というか思い入れは今もあるしそのキャラの過去編を脳内妄想しているという完全に痛い行為をやっている。その内作中でも登場させようかなと考えているが、一向に制作は進まない。

最近では酔ってセンチメンタルな気分になると、創作していた頃が懐かしくなって続きを妄想することもあるし「いつか完成させたい」と言いながら先延ばしにしている。

 

まだ自分の場合公開しているから最低限自己満足じゃないという感覚はあるが、自分の友人のレベルになると完全に自分の為だけに小説を書いていてそのキャラに愛着があると語っているから面白いし、そういう創作論を話すことも楽しい。

創作している人同士の創作議論というのは非常に面白い。

 

その友人が書いているのが彼が好きなTCGやガンプラを競技にした甲子園ストーリーのあだち充的な作品なのだが、最近彼の中だけで愛着がわいて何度も読み直していると語っている。

それで言えばその友人から数年前に見せてもらったガチ身内を登場人物にしたようなガンダムSSがあるのだが、今となってみればそれを読んでいた頃すら懐かしいし、その時に想像した世界も「また行きたい場所」のようになっている。

ガンダムKindの脳内世界に関しても友人から見せて貰った個人創作小説にしても、本人の中で独自の世界観が形成されていて、形になっていなくともその想像した世界が自分の中だけの居場所にもなっている。

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その「居場所」でいえば小説を読んで想像している世界というのも一つの空間なのだと思う。

村上龍が『愛と幻想のファシズム』に登場する3人のキャラクターは『コインロッカー・ベイビーズ』の3人のキャラの生まれ変わりでまた他の小説にも登場するとあとがきで書いている。

そういう作家の製作裏事情は面白いしどの作家にも自分の中だけの愛着みたいものがあるのかもしれない。

 

自分の中の懐古ブームで言えば、数か月前「愛と幻想のファシズム」を読んでいた頃すら既に懐かしく、もう一度読みたいと思っている自分もいる。いろんなシーンがふと旅情を誘う。

小説を読んで想像した世界というのは行ったこともないのに旅をしてきた気分になり後から懐かしくなる。究極にコスパの良い旅行と言えるかもしれない。

 

「身内SS」というジャンルがあるのかはわからないが、自分と友人間だけにある「俺らメンバー」的な存在がいる。

友人の大学時代の極左の名物教授がいてそこから全てのネタが始まっていて、最近ではその教授のライバルが池上彰という独自設定にまで発展している。

若干茶化しているおふざけの部分があって、その教授の弟子が自分と友人というオリジナル設定があり、友人がSS内でその教授を裏切って池上彰側に着くというテンプレ展開もある。本格的に書く小説ではなく本当に一発ネタでしかないがこれが結構楽しい。

 

他にもかつての中学時代のクラスメイトなんかが登場して、初期メンバーは本当の身内だけで固められていた。しかし池上彰のように政治家や芸能人もメンバーとしてカウントされるようになり特に自分が好きな指原莉乃は常連となっている。

他には友人が好きなミスチル桜井、そして自分が好きな嵐櫻井で「ダブル櫻井」というネタが合ったりする。

一発ネタで軽いSSを作って楽しむというノリで、いろんなメンバーが登場するようになっているし完全に身内の中だけで完結している世界観だ。

 

そのSSに登場する芸能人や身内というのもある意味では「オリキャラ」なのかもしれない。

ガンダムKindのオリキャラも自分の中では愛着があるし、友人との身内ネタで登場するキャラも愛着があるし、完全に自分の中だけのキャラも愛着がある。

この前の記事で愛と幻想のファシズムにインスピレーションを受けたアングラ革命小説も、今の所脳内で結構進行している。

昨日も第二次世界大戦のドキュメント番組を見ていたのだが、それを見ながらいろいろ妄想している自分がいる。

elkind.hatenablog.com

もはや自分ですら把握できない程に脳内にいろんなオリキャラがいて、そのキャラクターも芸能人やスポーツ選手を元ネタにしていたり学生時代の人をヒントにしたりしていたり境界線が曖昧な部分がある。

「ノートの落書き感」というのを自分は創作において大事にしていて、大したものではないけど身内や自分としては面白いというのがノリでもある。

ピクシブも本当はノートの落書きの延長から始まったようなもので、改めて自分自身その原点に戻る必要はあるのかもしれない。

 

創作歴が長くなり慣れてくるとどうしても本格的に作ろうとしてしまうが、初期の軽いノリで作っていくほうが結局完成するのではないかと思う。

最近ガチろうとしすぎている自分がいるというか、もっと適当感があってもいいとも自分で自分に言い聞かせたい。

 

上述の厨二病革命小説も、先回しにするよりも一晩で書き上げるぐらいの勢いでもいいのかもしれない。そういうのを何回も作っていくことで実力は伸びていくはずだし、適当でも作らないよりはマシだろう。

いきなり「愛と幻想のファシズム」並に作ろうとしても村上龍のようにできないのは当たり前で、最初の内はそのレベルのものを作ろうとしてはいけない。

 

一晩の勢いで書き上げられる小説ぐらいのほうがボリューム的にもちょうど良いだろうし個人創作というのは本来そのレベルでも良いのだ。

自分の中でハードルを高くして、理想を高く持ちすぎているがゆえに「今はまだつくる実力が無い」と先延ばしにしてしまう。

今ある能力でできることを精いっぱいやっていた頃の創作熱をもう一度取り戻す必要があると自戒しなければならない時期に来たのだろう。