負け組ゆとりの語り場

社会に取り残された男が日々を語る

今後インターネットでもローカルが重視される時代が来る

「日本全国」という概念が希薄になりつつあり、地方主義的なローカリズムやリージョナリズムが評価され始めてきている。

政治の話で言えば地方分権や道州制の導入などが議論され始めたり、アイドルの話で言えば48系列に代表されるように有名なグループもローカルを重視し始めているのがその象徴だ。

地下アイドルやローカルアイドルだけでなく、大手がプロデュースするグループも地方色を重視している時代になった。

 

漠然と日本全国という概念があり、中央集権や東京一極集中の時代だった過去においては様々な文化において東京が重視されていた。

野球ならば巨人がとりあえず全国の代表であり、東京のブームが全国のブームだとして扱われていた。

 

しかし近年「県民性」という言葉が流行り始めたり、ローカル番組やローカルアイドルが評価され始めたり、逆に東京の文化や風潮を敵視する時代になってきている。

例えばポケモンGOが流行らなくなったのは地方格差が原因で、昔なら田舎の意見はあまり重要ではなかったがゲームにおいて地方格差は深刻な問題として扱われるようになったこともその変化の一つだ。

また「ハロウィン」がいまいち地方で定着せず、むしろ「東京民がはしゃいでるだけ」と揶揄されることもある。

漠然と東京に憧れる人が減ったのかもしれないし、「マイルドヤンキー」という言葉も登場し始めたり、東京のブームが全国に波及しなくなったりしている。

自分自身は東京を敵視しているわけではないが、日本の首都という権威は昔に比べて低下したように感じる。

 

その一方で現在インターネットというのはまだ漠然と「日本のネット」という感覚があり、全国という概念が残っている。

現実に比べてそこまでローカル化は進んでいないように見える。

 

しかし地域ブログというのは昔から人気があり、本当に一部地域の人だけが見ているようなコンテンツも存在する。

例えばどこかの飲食店のブログや、学校や部活のサイトなどは独自のコミュニティを形成しており、本当に現実で知り合いの人だけが見ている場所がある。

結局のところ「距離感」でいえば誰だかわからないインターネットの向こう側の人よりも現実の知り合いの方が近しいのだ。

 

「インターネット」という空間が独自に存在した時代から、本当に現実の知り合いやローカル地域だけで通用するサイトなどが今後増えていくかもしれない。

例えばツイッターの鍵アカウントはその代表例だろう。もはやネットですら全国や全世界の不特定多数に配信する時代から、本当に顔見知りや一部地域だけに配信する時代が訪れようとしている。

SNSの鍵アカウントや裏アカウントでリアル身内向けだけに使うユーザーは存在し、不特定多数になるべく多く見てもらおうと考えている人ばかりではない。

 

これは個人の活動においても同じようなことが言えるかもしれない。

自分が昔から見ている創作関連の活動者がいるのだが、ある時からその人がリアル地域活動での話題を重要視するようになった。漠然と全国の不特定多数に向けて発信することをやめ、ある意味で地に足の着いたローカルな活動に特化するようになったのかもしれない。

結局ネットにおける活動も何となくインターネットという空間限定で活動するのは難しく、今後地方の商店街を拠点にした活動など現実的な活動が重視していく人が増えていくかもしれない。

 

例えば自主制作作品を全国に向けて発信した場合見ている人が少なければ満足はいかないが、初めからローカルや身内向け主体だと考えていればむしろ内輪感を楽しめる。

ただ数値として閲覧数に表示される物と、地域で現実の誰かに直接見てもらうのとでは発信者側も実感が違うのではないか。商店街での活動で地域を盛り上げているという意識の方が不特定多数のネットの空間よりも活動しているという実感は得やすいのかもしれない。

 

youtubeで数十回ほどしか再生されていない動画も、本当にその地域の知り合いが見ていればその数十回でも実は十分凄い事だとも考えられる。

誰もが有名ユーチューバーのようになろうとするわけではなく、本当にローカルや更に密な身内向けだけに特化した投稿者など無数にいるのだ。

 

そう言う意味で、漠然と「インターネット」という空間向けに何かを送り出そうとしているタイプの人間は旧式の人間なのかもしれない。ついつい全国基準で判断してしまいがちだが、実はその地域では十分凄いというのは例えばゲームのオンライン対戦などでも言えることだ。

全国ランキングでは下層のプレイヤーも、現実の仲間の間では無類の強さを誇っている可能性がある。オンライン対戦でほとんど勝てないようなユーザーもリアルコミュニティではそれなりの実力者なのだ。

 

「インターネットはリアルを持ちこんじゃいけないヤバイ空間」だという認識を持っているのは、ある一定の世代までで今後は現実の延長線にあるツールとして使う人が主流になるのではないか。

かつて全国のインターネット向けに活動していた人が今ではほとんどローカルやリアルに特化したことをして楽しんでいる姿がその傾向を象徴している。

 

「全国の人に見られている」という意識は新しい世代ほど希薄になっているだろう。

そしてもはや末端の個人が全国レベルになることが難しいほどネットが巨大化した。

昔のネットというのは広いようで実は狭い空間でもあったがゆえに、上を目指せるような感覚があった。

しかし今の時代、インターネットはあまりにも巨大化して個人で何か大きなことができる時代ではなくなった。例えばyoutubeで莫大な再生数に到達するには芸能人になれるレベルのユーチューバーでなければ難しくなり、オンライン対戦で上位に入れるのは本当にトップレベルの人だけになった。

 

新しい世代は実は最初からそのインターネットの巨大さをナチュラルに理解しており、昔からインターネットをやっていた世代は自分も含めて「ネットは限られた人がやっている独自の空間」という幻想から脱却できていないのではないか。

ユーチューバーが芸能人より有名な時代に、ネットで個人が何かできるという幻想を今後棄却する人が急増するかもしれない。

「ローカルでリアルな知り合いや身内が見ていればいい」という考え方が今後むしろ主流になっていくのではないか。

「こんな再生数の少ない動画誰が見てるんだよ」と考えるのは少し前の感覚で、これからは「リアル身内が見ていればこれも成立しているんだな」という時代になっていくだろう。

 

ユーチューバーやヒカキンの真似ごとをした小学生も、有名投稿者のようになれないのは当たり前だと考えていて、最初から「クラスのヒーロー」になれればいいと考えているのではないか。

インターネットというのは感覚が麻痺するもので、実は現実で数十人に見せようとしたら難しくその数字はリアル基準では低すぎるわけではない。

 

「こんなの見てる数百人がいるんだな」というのも、現実ならば結構大きな会場が埋まる人数でもある。

誰もやらなくなったゲームの過疎スレでも数人が話していれば、それは現実に置き換えると十分なコミュニティだと言える。

ツイッターでフォロワーが数十人しかいなくても、それが鍵アカウントで実際に交友関係がある人ならばその人はかなり人脈が広いはずだ。

インターネットだと一人一人が小さな存在に見えるが実はその個人というのは現実では大きな存在でもある。

ネットにおける拡大主義の終焉と言えば大袈裟かもしれないが、今後はより小さなコミュニティが成立していく時代になっていくかもしれない。