負け組ゆとりの語り場

社会に取り残された男が日々を語る

なぜ中二病は革命を起こしたがるのか

中二病の妄想でしかないのだが自分はそろそろ日本に革命が必要な時期だと考えている。

現代の日本は完全に衰退時期に入っており、現体制を維持すれば困難な状況の直面するだろう。

現体制とは何かと言われれば、政治システム、憲法、社会制度、文化的な風潮、その全てを意味し根底から改革しなければならないと自分は見ている。

 

日本という国はより大きな枠組みを変えなければならず、根源的な改革を必要としている。

例えば自分が最も敵視しているのは「超少子高齢化社会」であり、この構造を変えなければならない。カナダの人口に匹敵する3500万もの高齢者層が存在しており、もはやこの国内に一国に相当する高齢者が存在する。

 

この構造を放置してしまえば日本がこれからも若者に不利になる状態が続き、新しいエネルギーは何も沸いてこないだろう。

高齢者ばかりが住み、何も生み出さない社会になった日本に価値はあるのだろうか。

 

日本はもはやシルバーデモクラシーの状態に達しており、「選挙に行かない若者」と揶揄されるがどれだけ頑張っても政治的に報われないという諦めにも似た感情が多くの人を支配している。

 

自分自身過去記事において「日本から脱出しなければならなくなるまでの猶予期間は20年」だと書いたが、この20年で大きな政変や社会システムの改革を実現しなければならない。

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今から20年後と言えば2030年代だが、ナチス・ドイツが政権を獲得した年が1933年であり100年前の出来事だと言える。。アドルフ・ヒトラーが全権委任法を成立させ文字通り独裁者になった年だ。

2033年の政権奪取を目標とするならば残された時間は非常に少ない。

国家社会主義ドイツ労働者党の設立は1920年であり、そう考えると2020年には既に前身となる革命組織や政党を作り上げていなければならない。

 

しかしナチス・ドイツのやり方は現代では再現することが難しい。

実はナチスは極めて民主的な方法で政権を獲得しており、「若者に有利な社会を作る」という大義名分だけでは実行できない。民主主義では単純に高齢者やその予備軍に数の暴利で滅ぼされるだけだろう。

 

そうなれば極めて強硬な手段に出なければならないが、今の時代に暴力革命を起こせる確率は低く、そのように獲得した政権が維持できるとも思わない。

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「革命をどう起こすか」ということについてまだ青写真の段階だが、2033年に間に合わせるには既に何かが始まっていなければならない。

戦争や紛争のどさくさに紛れて政権を奪取するという方法も現在の状況を鑑みたとき困難だろう。

絶対的に体制を変革せしめなければならない理由が少なく、むしろ現状維持を得策だと考える層の方が多い。

ナチス・ドイツの誕生背景は第一次世界大戦による敗戦、そしてワイマール体制の行き詰まりが理由だったが今の日本に誰もが抱える共通した不安や不満は存在しない。

人口構造の変革を目標とするだけでは、その変化を望まない層の方が多い。

 

これも中二病的な妄想でしかないが自分自身がアドルフ・ヒトラーやフィデル・カストロになる事よりも、例えばヨーゼフ・ゲッベルスやチェ・ゲバラのような役割でありたいとも考えている。

例えばカリスマ性のある演説を行う"総統候補"を擁立し、自分がその演説の下書きを書くことも面白いだろう。自分が直接大衆の前で演説するリーダーになることは難しいが、実は隠れた役割を果たしているというイメージを思い描いている。

 

強制収容所を作るかどうかに関しては、それ以前に人権意識の変化が必要だろう。今の時代は「人権」という鎖によりあらゆることががんじがらめにされている。しかし人権という概念自体常に時代によって変容してきた。

概念は形として存在するわけではなく、あるようで無い物だともいえる。それゆえにこの変化こそ最も自由な物であり、それによって新しい改革を実現できる。逆に言えば改革の実現には概念の変化が先立たなければならない。

その概念の変革がもし革命だとすればそれは可能だ。

 

問題は国際社会からの非難にどう耐えられるかだろう。

むしろ先進国が強制的な人口構造を変革しなければならない状態に来ていること多くの西洋諸国とも共通しており、長期的な社会システムを維持するにはやはり人口の"伐採"は不可欠だろう。

例えば安楽死制度を導入するだけでも十分な効果がある。

必ずしも高齢者を全員排除しなければならないわけではなく、生きていくことが困難な人が安楽死を選べるようにするということが理想に近い。

技術革新によって例えばシンプルな物で言えば「若返り」を実現したり再生医療によって介護が必要ない状況にまで回復させたりすることができるようになるだけでも大きな進歩が見込める。

 

社会保障予算の改革も必要であり、年金の一部を「若者手当」として若年層に普及させることも必要だろう。

若者が夢を持てず、行動をするための時間や資金が存在しないことが自分は停滞の根源だとも考えている。

 

革命家が社会を変革しなければならない思う背景には理由が存在する。

例えば古典的な例で言えば帝国主義者に弾圧されている民衆を見て立ち上がろうと決意する光景だ。資本家に搾取される民衆を解放させるために彼らは闘争を実行するようになる。

 

自分が社会を変えなければならないと思い始めた介護現場で働く身内の姿を見たからだ。更に「老老介護」とも言われているように、高齢化した子供が自分の親を介護するという構造も歪に思えてならない。

結婚もできず夢も叶えられずただ親の介護の為だけに生きているような人が存在することも事実だ。

そういう姿を見ているともう日本が何かを生み出す活力が無い事は必然であるように思わずにはいられない。

更に厚労省が年金を支払うべきだと主張する"プロパガンダ"に満ちたポスターで「自分たちが子供のころは恵まれていなかったのだから不公平ではない」という台詞を語る高齢者を描いており、「年金は投資ではない」というような説得も使われる。

そこまで嘘をつくのであれば年金という名前ではなく、「若者が高齢者を支えるための税金」として強制的に取り立てたほうがよほど潔いだろう。

 

そういう日本の姿を見ているとやはり海外に"脱出"しなければならないという思いにも駆られる。

自分自身決して日本が嫌いだから日本を捨てようと考えているわけではない。

あくまでこの20年で大変革が実現できなかった場合に見切りをつけようとしているだけであり、社会制度が変われば生涯暮らしていく価値がある国だ。

 

そしてこういったことを考えている人が現状少なすぎること自体が最大の問題だろう。

日本人は比較的社会に対して不満が少ない国民であり、仮に不満を抱いていてもデモをするより我慢を選ぶことが多い。

不満を発露することよりも耐え忍ぶことが美徳とされる農耕社会の伝統がある。

「今の社会が面白くないのは仕方がない」という諦めにも似た感情があるのだろう。

「どうせ変わらない」というフレーズは良く聞かれる言葉であり誰もが停滞を容認している。

 

おそらくこういう社会への不満や変革への強い意識を語っていた若者が多かったのが学園闘争を行っていた1960年代から1970年代にかけての時代だろう。

自分はゆとり世代としてある意味その時代の情熱が羨ましい。

なぜ自分が生きている現代はこれほど強い刺激が無い時代なのかとも考えている。

「革命を起こしたい」という考え方が中二病的な物だとすれば、そこにワクワクしている自分がいることも事実だ。

『愛と幻想のファシズム』という小説や、『コードギアス反逆のルルーシュ』というアニメを見て影響される中二病でしかないのだが、そういう刺激を求めていた人が多かったのが戦後昭和なのだろうとも思う。

 

もっと遡れば2.26事件で決起した将校や、右派による革命ならば三島由紀夫がクーデーターを実行しようとし自衛隊基地で演説を行ったときに付き添った青年たちのような情熱がなぜないのだろうかとも思わされる。

 

よくゆとり世代は大人しいと言われ、何かに逆らって行こうという意欲が少ない世代でもある。

「反抗」や「反逆」に対して惹かれるエネルギーすらもはやない若者が増えているのだろうか。エネルギーが無いと言うよりもはや抵抗が魅力に感じない世代なのかもしれない。

 

革命の起こし方を議論しているゆとり世代などもう存在しないのだろうか。

トロツキーが世界革命を主張し、スターリンが一国社会主義革命を選択した時代の情熱は当然存在しなければ、日本の大学生が互いにトロツキストなのかスターリニストなのか議論していた光景ももはや絶滅している。

「社会主義研究会」のようなサークルが存在してそこで政治議論が行われているような景色すらもはや存在しないのだろう。

既に「左翼は新しいことをし始める革新」だという認識すら古く、左翼がかっこいい物だと思っている世代すら既に高齢化しているだろう。

「左翼は新しい」という考え方が古く、その一方で右翼も稚拙になってきている。

友達同士でお酒を飲みながら政治議論をするわけでもなく、真面目に情熱的に議論すること自体が若者の間で避けられるようになってきてもいる。衝突を避ける若者が増えており、そもそもディベートやディスカッションのような習慣も無い。

 

サッカー日本代表の本田圭佑がバラエティ番組に出演しない理由を知っているだろうか。

彼は「自分は本気で話したいがバラエティ番組ではどういうトーンで話せばいいのかわからない」と主張している。

本気で語る人に対して傍観者が増えて冷めた目で見るようになったことは間違いなく、真面目な人間どころか情熱的な人間すらダサいという扱いになっている。

 

熱い人間やマジに語る人間というのが「絡みにくい人」になっているのが現代で、衝突を避けるタイプの人が増えたのだろう。

そんな社会世相を見ていると「今日日革命って起こるもんじゃないよな」とも思う自分がいる。昔のアングラ掲示板で社会変革やその手法について議論していたような人は消えて、SNSでイイネ!を押しあうだけの表面的な関係が増えたのかもしれない。

 

ゆとり世代がなぜ反抗しないのかとか、今の日本人が社会に不満を持たず行動しないとか、熱くなることがダサいとか、そういうのはおそらく「支配者」や「既得利権層」にとって凄く統治しやすく楽な事だと言える。

不良や問題児がいないクラスは教師にとっては凄く快適で秩序を維持しやすく問題が起きるリスクは少ない。

 

「最近の不良はなぜ窓ガラスを割らないのか」、そして「最近のオタクはなぜ国会議事堂を攻撃する計画を立てないのか」という議論に行き着くことであり、不良もオタクも別のベクトルで大人しくなっている。

元気な若者が減った論でいえば、退学処分されるような悪さをする不良も滅多におらず爆発物を作るようなオタクもいなくなった。

 

抽象的なことかもしれないが様々なジャンルで個性のある人は減ってきている。

ガチでヤバイ不良も減ったしガチでコアなオタクも減ったし、芸能人も昔のようなスターが減った。

よく「今のアイドルは普通の子ばかり」が言われるが、普通の人間が増えている現象があらゆるところで起きているというのが現代かもしれない。誰もが理想に興味が無くなり親近感があるようなアイドル持てはやされ、次世代の社会にする希求も存在しない。

 

不良すら存在せずちょっと悪いだけのDQNが大半で、暴走族も絶滅して暴力団ですら社会の常識に適応して、オタクや腐女子も普通の人が増えた。

SNSで炎上するような人も減り、ヤバいサイトを運営するような管理人も減った。

 

そんな状況から社会の概念を覆すような新しいコンテンツが生まれてくることも無ければ、革命者や革新者も現れないのは必然と言えるだろう。

 

なぜ「バカッター」が最近少なくなったかというと、これもやはり世の中に秩序が形成されたからだ。

バカッターが減ったことは間違いなく良い事なのだが、いざ減ってみると面白くないと思う自分もいる。

 

社会でヤバイことをやろうとしていた人間が徐々に減っていったように、ネットでヤバイことをやろうとする人間も減っていった。

精神的なエネルギーや衝動が減衰し、皆大人しくなっていくという現象はあらゆるコミュニティや社会において共通することなのかもしれない。

「なぜ最近の世の中もインターネットもつまらないのか」というと、結局皆大人しくなり嫌われないために無難なことをするようになったからなのだろう。

 

今のツイッターユーザーは悪いことをして目立とうという人よりも、誰かのタイムラインを汚さずフォローを解除されないようにすることを心がけるようになった。

常識のない人間が多かったはずのツイッターですら今では秩序を形成し、社会不適合者の多かった「2ちゃんねる」ですら普通の人が増えた。

 

個性を大事にしようとしていた時代の方が個性が無くなり、個性を弾圧していた時代の方が個性の強い人間がいた。

「先公」が竹刀を持って体罰をしていた時代の方が不良も逆らいたかったわけで、逆に学校全体が大人しくなればいつの間にか皆静かになっていく。

殺伐としていた2ちゃんねるも、普通の人が利用して常識人ばかりになると急に荒らしたり罵詈雑言を書き込んだりしたりする人も減った。

今の時代早口で何かを語りいつか何かやばいことをやり始めそうなオタクも減っている。

「秋葉原に行けばヤバいオタクがいるんだろうな」と憧れていたら、「どうせアキバにいってもただの観光地化してるだろ」と思うようになった自分がいる。

 

オウム真理教があった時代に「マホーポーシャ」 と呼ばれるPCショップがあり、信者が格安の労働力でパソコンを作っていたという伝説があるのだが、そういったアングラも今の時代見つけようとすると難しくなっている。

 

オタクに憧れた世代がオタクになると全体的に浅くなるのは、AKB48に憧れた世代がAKBになり始めると個性のあるメンバーが少なくなることと似ているだろう。

結局のところ「憧れて始めたような人間」というのは全てにおいて本家より劣化しているとも言える。

大学の学生運動に子供の頃に憧れてた世代も自分が大学生になっていた時は既にそういう革命ムードではなくなっており、AKBに小学生の頃憧れてAKBに入った子も今は神7もいなくなり世間のブームも終わっており、電車男のオタクに憧れていたら今の2ちゃんねるは雰囲気が変わりオタク文化も薄くなっている。

 

「黎明期」への憧憬は何事においても存在することであり、やはり何もないところから最初に始めた人々、そしてその存在にいち早く気づき始めた人というのは凄いのだろう。

「オンライン対戦やってるガチFPSゲーマーすげぇ」と思ってたら今の時代既にFPS自体が昔に比べて人気が無くなりつつある。マウスでFPSやることが最先端だと思っていたら、パッドでFPSやる層が主流になり最近ではスマホFPSにまで移りつつある。

それで似たような話で言えば「サバイバルゲーム」もにわか化が進んだコンテンツの一つだろう。

「サバゲーやってる奴らってマジでヤバい奴だろ、かっけぇ~俺もいつかサバゲーマーになるぞ~!」と思っていたら、自分がエアガンに憧れていた頃の雰囲気はもうなくなっている。

 

「軍事オタク」も萌えとミリタリーを組み合わせたようなジャンルから急増したファンが多くもう昔のような"精鋭感"はない。

そしてその"濃い"時代のサバゲーマーですら実は玩具のエアガンで満足しており、カラシニコフ銃を自作しサリンを巻こうとしていたオウム真理教に比べればカジュアルな存在なのだ。

 

それでいえばまさしくアドルフ・ヒトラーやナチスが好きな人も「にわか化」をしているだろう。

少し前の時代にヒトラーやナチスを賞賛していれば本当に危険思想を持った人物の様に見られていたが、「ナチスかっこいい」と言う事があまりにも普及しすぎたせいで逆にプレミア感が無くなったと考えている自分は変人なのだろうか。

自分が実際に中二病時代にヒトラーやスターリンを持てはやしていた時に比べて、ナチス再評価のムードは極めて浅い印象を受ける。

「10年前の軍事サイトやミリタリーマニアはもっとヤバかった」というのも思い出補正なのだろうか。

 

すげぇ奴らがいるんだろうなと期待していざ自分がその世代になったときに期待外れだったというケースは様々なジャンルで起きているのかもしれない。

「不良マンガ見て地元の不良高校に入って、ガチでヤバイことしようと思ったら案外皆普通だった」、「学生運動に憧れて受験勉強を頑張って入った大学では誰も革命を考えていなかった」という感覚のように、漠然とオタクやネットユーザー、軍事マニア、革命家に憧れていた自分は面白くない現実に直面している。

 

「もっとネットの奴らってヤバかった気がするんだよなぁ」という変な感情が自分を支配している。

こういう革命理論を語ったところで、ガチでこの話に共感して革命を持ちかけてくる人もいないわけで「2033年に政権獲れるわけねぇだろ」という見方をする人の方が大半だとも思う。

もうそういう熱いムーブメントが起きていくような空間ではなくなり、まさにネットはオワコン化しているのだろう。

革命やテロリズムについてアンダーグランドな掲示板で議論していると期待していたら誰もが「いいね!」の数を気にしているだけの一般市民でしかなくて、コアな話をしていると思ったら、なんJで定型文で馴れ合いをしている人ばかりだった。

「熱い奴」や「コアな奴」がインターネット上からすら姿を消しつつある。

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今のDQNは案外、人を殴ったことも無い人が多くて漠然と持っている反抗意識もかつての不良に比べれば小さい。釘バットを自作したり窓ガラスを割って、無免許でバイクを運転する不良はもはや絶滅危惧種であり、「校則」の範囲内で少しだけ悪いことをしている。

それと同じで、革命や独裁政権に憧れる人間も本気で最終戦争を行う気概も無く、強制収容所を作り戦犯として裁かれる覚悟も無い。

第三次世界大戦を起こして最終的に敗戦し、絞首刑になるか青酸カリを飲んだ後ワルサーP38やPPKで自害するかなんて覚悟をしている人間はいない。

東京で国会議事堂を燃やした後、北京かワシントンかモスクワのどれを攻撃対象にするか議論し合う仲間もいない。

アメリカ本土上陸を行う作戦について本気で計画する人間もいなければ、南京入城の再現を行おうと考えている人間もいない。

占領したパリでエッフェル塔を背景に写真を撮る妄想をする人もいないだろう。

 

もしかしたらそういう人は存在するのかもしれない。

しかしそういう妄想を安易に口にできないというのが現在のネット社会になっている。今のネットというのは誰か、いや「世間」が見ているという意識があまりにも強すぎる。

 

バカッターも2chの殺害予告も明らかに少なくなった、誰もがネットでも悪いことをしてはいけないという事に気付いた。不良が教師を殴って退学になる馬鹿をやらかさなくなったように、ネット掲示板ですら誰もが見ていることに気付き自由に書き込めなくなった。2chはまとめサイトにすぐにまとめられ、ツイッターですら取り上げられる時代になれば自由に意見を言えなくなる。

 

個人の独特な考え方が徐々に許されなくなり、そのコミュニティで反応が良いかどうかが優先されるようになった。自分のように個人ブログでガチで語るような人間は減り、ツイッターでリツイートされるかどうかが大事なった。

「ロックなアーティストが減った」と嘆くロックミュージシャンのように、自分は最近のネットから面白い反逆者が減ったと嘆いている。素行の悪い不良が殴りあうよりも平和な学校のクラスで楽しく過ごすことが重要視されるようになったように、今のネットはいいね!でお互いを承認することが大事になった。

 

「ワイン飲んだ後、総統地下壕で爆撃音聞いて青酸カリ飲みながら拳銃自殺する人生が理想だよなぁ」という意見に対して「悪いが俺はスターリンや毛沢東のように勝たせてもらう」と語り返してくる人もいない。

「じゃあおまえに日本初の水爆実験やらせるよ、政治犯を北海道で強制労働させるか」と語ることもない。

 

何だろう、俺の人生って大量虐殺した奴らの死体を処分する強制収容所を作ることも無く、開発された新兵器に名前を付けることも無く、核実験を断行することも無い上に、最後拳銃自殺で終わることも無く歴史の教科書に載らず虚しく死んでいくんだろうなぁ。