最近のインターネットはなぜワクワクしなくなったのか
よくインターネットが面白くなくなりワクワクしなくなったという話を聞くし、そういった懐古話を見ることが好きになっている自分がいる。
漠然とネットがつまらなく感じるようになり、昔は良かったという感覚だけが自分を支配している。
しかし実はここには一つの構造があり、世の中が面白くなくなったわけではなく自分自身がつまらない人間になったというのが真実に近い。
「最近のネットはワクワクしない」と言っている以上、当然昔のネットも知っているということになる。例えば自分がインターネットを始めたのは大体2004年ごろからでありそう考えると既に10数年ネットに入り浸っているということになる。
本当にもっと昔からネットを知っている人からすれば「その程度懐古厨を気取るな」というレベルでしかないが、それでも既に10年を超えた古参ネット民になっている。
ユーチューバーにハマっている最近の小学生が生まれる以前からネットをしており、そういう子供たちからするともはや自分は「戦前や戦中の昭和を知っているお爺ちゃん」レベルの存在に映っているかもしれない。
戦前や戦中の世代が1990年代のADSLや電話回線の時代のネットだとすれば、自分のように21世紀に入ってからネットをし始めた世代は戦後初期の世代なのだが、いずれ同様に昔の人間としてくくられ区別もされなくなるだろう。
子供たちが考える10年前というのは我々が考えている以上に昔の事であり、自分自身90年代ですら遠い昔のように感じ「ソ連があった時代すげぇ」と思っているゆとり世代だ。
つまり今の小学生が「ユーチューブやツイッターが無かった時代すげぇ」と思っていても不思議ではなく、これから自分が子供だったころどんなサイトを見ていたのかというのが当たり前に話される時代になっていくことは間違いない。
「俺の頃ヒカキン流行ってたわ」という世代が今後出てくるわけであり、自分自身既に「厨ポケ狩り講座時代のもこう懐かしい」と言っている立場でもある。
結局のところ自分がネットをし始めたときに見たものを懐かしく感じるわけであり、誰もが「自分は幸せな時代に生まれた」と言いたがるのだ。
「子供の頃ネットが無くてよかった」「昭和っていい時代だった」と言っている人も、いざ今の時代を子供の時に体験していれば「ヒカキンやはじめしゃちょーをリアルタイムで見れたことって幸せだよなぁ」と言っているのである。
「メッシとクリスティアーノ・ロナウドは大したことない。元祖ロナウドの化け物感の方が凄かった、ロベルト・バッジョのほうが本物のファンタジスタだった」と言ってる懐古サッカーファンと同じで誰もが自分の時代を美化し懐古厨になっていくのだ。
ユーチューブなくその代りに個人サイトやフラッシュ動画があった時代の方が面白かったと言ってる自分もマラドーナやロマーリオを美化しているファンと変わらないのだ。
不便だった時代を美化すれば老害になったという証拠なのかもしれない。
土田晃之が最近のサッカーに熱狂できなくなったと言っているが、サッカーのレベルはむしろ向上しており本人が熱狂できない人間になっただけでしかないのと同じだ。
しかし楽しめなくなった人が悪いわけでもない。
10年インターネットをしていれば徐々に刺激が無くなり、昔の頃のように楽しめなくなるのは当然の事でありなのだ。
フラッシュ動画はもう帰ってこないし、今youtubeで再投稿されたものを見ても実はそれほど面白くないことに気付く。
アソパソマソや恋のマイヤヒの動画を見ても当時のような感動は無い。スマートフォン登場以前に少数の人だけがネットをやっていた時のプレミア感はもう再現できないし、その感覚に自分が戻ることもできない。
その一方で自分は「感性が衰えることは仕方がない」という一般論だけで終わるつもりはない。
結局のところネットは整備され、ユーザーのネットリテラシーが高くなったという事に問題の要因があるのではないだろうか。
昔はネチケットとも言われていたのだがそんな言葉ですらもはや古くなっているが、とにかくネット民のマナーが良くなり治安が良くなり民度が高くなったのだ。
それを良い事と捉えるか、悪い事だと考えるのか、いずれにせよ功罪の両面が存在することは事実だ。
昔の東京の下町が懐かしいというオールウェイズの夕日理論でいえば、昔の下町は間違いなく治安が悪かったという悪い部分も存在する。
そして日本人の民度自体も間違いなく今より低かった。
その一方で下町に暖かさがあったことや、日本人に今よりも人情があった側面も存在する。
よく2ちゃんねるからヌクモリティやノリの良さが無くなったと言われるが、同時に昔の2chは荒らしや誹謗中傷も多かった。2chに限らず昔の掲示板の過去ログなどを見た場合、真面目に議論が成立していないケースも多く、今では存在すらしないようなファンサイトなども必ずと言っていいほど荒らされていた。
個人のサイトなどでも荒らされていたり業者のスパムなども多かったが、今はそういうことはほとんど見かけない。
今ではパワハラだと問題にされるようなことも昔ではまかり通っていたのと同じように、今では大きな問題になる書き込みも当たり前のように誰もが書き込んでいた。
一般市民の人権が考慮されるようになったように、今はネットユーザーの人権も保障されるようになった。
間違いなく良い時代にはなったし、生きやすく安全が保障されている。
昔のサイトやホームページのような光景を見たければ今はyoutubeのコメント欄が近い姿をしているだろう。
しかし一度民度が高い状態に慣れてしまえば、もう下の民度には戻れないのだ。
自分は最近はニコニコ動画も一切見なくなっており、youtubeもコメント欄は見ないようにしている。強いて言うならばまとめサイトのコメント欄を見ているが、そこも比較的ユーザー層が良い場所を読んでいる。
業者的な人が多いのは現在ツイッターに代表されるSNSだが、そこも一度整備されたものに慣れてしまうと足が遠ざかってしまう。
ネットの治安が悪い時代を懐かしみがらも、あの頃には戻れない自分がいる。
先進国の暮らしを知った国民が、途上国の時代に戻れない事と同じで民度が低い場所にはネット上でも戻ることができない。
結局のところ自分がネット初心者のキッズだったから、キッズが多い場所に馴染むことができただけであり今低年齢層が多い場所は見ていられない。逆に今youtubeのコメント欄で喧嘩し合っているような子供も、将来は民度が高い場所しか見なくなっているだろう。
自分がそういうユーチューバーキッズみたいなものを批判しようと思わないのは、自分がフラッシュキッズだった過去があるからだ。
その一方で今更自分がユーチューバーで笑う子供には戻れない。
荒削りだが面白い物というのは今も探せば存在するが、良質なものに慣れてしまえば興味がなくなってしまう。
「最近のネットがつまらなくなった」と言っている自分は、実はそれほど新しい物を探そうとしなくなっている。結局いつも見ているところしか見なくなり、探すこと自体が億劫になっている自分がいる。
youtubeなども最近流行のユーチューバーなどには興味が無く、公式のものや海外のものを見ることが日常的な習慣になっている。
「ヤバイもの」を求めているし探せば存在することも事実なのだが、それを探さなくなっている自分もいる。
興味関心というものが徐々になくなっていくのが人間だ。
例えば自分は近所の子供が木に登ろうとしているシーンを見たことがあるのだが、そういえば昔の自分も木を見たらどう登ろうか考えていたと懐かしくなった。
木を見て何も思わなくなったらそれは大人になったという事なのだろう。木に登るというのは危険な行為だという認識の方が強くなり冒険しようとしなくなる。
自分にとってちょうど良い良質なものを知ってしまえばそれ以上のものを求めなくなってしまう。まるで昔ながらの同じ菓子パンばかり毎日買っているような高齢者のように、毎日同じサイトやホームページを巡るようになってしまう。
この問題を自分は数年前から認識し始めて、何か探そうと努力をするようにしてはいるものの結局「もうネットって何もないな」と思って自分が更新することか、その体力がないときはテレビや本といった既存のものを見るようになっている。
自分の場合テレビの録画が結構溜まっており、それを消費することを最近では優先するようになっている。
文章を読むにしても結局既成の本のクオリティの高さにも気づき、ネットの素人はそんな面白い物やヤバイものを書いているわけではないと諦めてもいる。自分が文章を書いている立場でそういう事を考えているのも変なことだが、「マニアックで濃い人は減ってきているな」と思い始めている。
まさに浄化されて整備されたのが最近のインターネットであり、「昔の下町にいた面白いおじさん」みたいな人は徐々に町が発展すれば姿を消していく。
ネットにいる人間が凄いオタクでマニアな人たちだと漠然と思い描いていたが、案外普通な人が多いことにも気づく。
「コアでヤバい人」の居場所はどんどんと消滅していき、結局テンプレのような普通の人たちが増えていく。
2ちゃんねらーは全員ヤバイ奴らという認識は古くなり、普通の人たちが普通に利用する場所になり、それは民度が良くなって読みやすくもなっているが昔のような過激さも無くなっている。
悪い人も減ったが面白い人も減った。
それを最も感じている一人が自分であり、こうやってブログ記事を書いたりピクシブにイラストを投稿してもほとんど悪口や反論を書いてくる人に出くわさない。
昔だったら自分はもっと反論されて叩かれても仕方がないような事を書いているはずなのだが、特に文句をつけてくるような人にすら会うことが無い。
ネットリテラシーが良くなったことで「ネット上であっても人に悪口を言ってはいけない」という考え方が浸透して、悪口を書かれるという事はほとんどない。
基本的にピクシブでもブログでもほぼ無反応で、見ている人はいるがいきなり何かを言ってくるという事もほとんどない。
それは良い面と悪い面の両方があり、何かに対する批判に対して反論があるわけでもないが、同時に情熱的に本気で語っても特に反応が無いという寂しさもある。
これは自分の投稿だけに限らず多くの人に言えることで、ブログやイラスト、そして小説の投稿に対して何もコメントが無いというシーンは多く見かける。
悪口を言ってはいけないというネットリテラシーが高くなったことでいきなり荒らすような人も減ったが、同時に共感や賞賛に対しても「書いてもいいのだろうか」と遠慮するようになった。
下町や田舎では会った人に挨拶をしたり距離感が近い部分があるが、都会では街を歩いていれば全員話しかけてはいけない他人でしかない。
まるで街中で何かを演説する人と同様、インターネット上でも熱く語る人は"絡みにくい人"になった。
自分が田舎に帰ってきて一番驚いたことが、家族連れに挨拶されたことである。
「そういえば田舎って人に挨拶してたな」と思ったし自分も挨拶をしていた。しかし都会に住んでいたことでその感覚に違和感を覚えるようになった。
まさに今のネット民というのは「全員他人」だと教えられている都会と同じであり、知っている人にしか話しかけてはいけないという暗黙の了解が存在する。
ブログやピクシブもいつもコメントし合っているユーザー同士で社交辞令のように話しているようなケースが多く、いきなり匿名で何か書いてくる人というのはマナーが無い人のように見られる傾向がある。
実際自分も自分のブログにはいつでも長文で本気で議論をしてくれても良いと思っているが、いざ他の人のブログを見たときに中々コメントする勇気は無いのが実情だ。
自分が長く語っていることに対して本気で語りかけてくる人がいても一向に構わない一方で、自分が逆の立場になると話しかけにくいという感情もやはりある。
ピクシブなどもいつもコメントし合っていた人と疎遠になれば、本当に誰もコメントしなくなり閑古鳥が鳴いているのだがネットが徐々に他人行儀になってきているという側面もある。
ネットリテラシーが高くなるというのはマナーが良くなることと同時に、他人でしかなくなるという問題もある。
いきなり絡んでくる不良や輩、チーマー、ヤンキーのような人も減ったが、下町ならではの人情も無くなったし挨拶もする人が減った。
今の時代に不良の集団に絡まれるというのは余程治安が悪い場所でしか存在しない漫画の中だけでの光景でしかないのと同じで、こうやってブログで何かを批判しても真剣に反論して来るような人もいない。
そのためむしろ今の時代ブロガーはやりやすい時代になっていて、コメント欄を閉鎖しなくとも誰も荒らしてくることは無い。
自分はもう一つのブログでこの前久しぶりに絡まれたのだが、それに対して懐かしくなった自分もいた。
自分はサッカーでバルセロナが好きなため良くバルサについて書いているのだが、この前ライバルチームのレアル・マドリードのファンから煽られたことがある。
野球の阪神ファンが阪神タイガースについて書いていて、巨人ファンから絡まれるという事もそんな無いのではないだろうか。
逆に自分がレアル・マドリードについて煽るようなことを書いてなおかつその記事を見ている人は存在するのだが、煽り返されたことは数えるほどしかない。
確実にネットの治安は良くなっており、業者がスパムを書いてくることも無ければ荒らしてくるような人も絶滅危惧種になっている。
その一方で共感したことに対して熱心に語り返してくるような人も減っており、誰もが他者を攻撃しない一方で傍観者になっているという寂しさも感じている人は多いのではないだろうか。
ネットが整備された都会になっており、いきなり他人に話しかけたりおかしなことをする人がいるような場所ではなくなったのが大きな流れだと言える。
まとめコメント欄ですら昔に比べれば明らかに民度が高くなっており、議論のレベルは高くなくても少なくとも何かを話そうとしている人は多く、関係ない荒らしは少なくなっている。
現代において「治安が悪い場所」として残されているのは、youtubeコメント欄のような場所しかなくなっており無法地帯の象徴だったニコニコ動画も最近はユーザーの数が減っている。
漠然と昔のネットに懐かしさを感じている人というのは治安が悪いヤバイ場所やカオスな空間に思いを馳せている一方で、いざ自分がその時代に戻ろうとしても民度が高い空間に慣れてしまっているため戻ることができない。
いきなり悪口を書いてくるマナーの良くない人も減って快適になった一方で、みんなが遠慮し合う他人行儀な空間になったことも事実だ。
街が整備されて治安は良くなった一方で人情が無くなったのと一緒で、ネットでヤバイことをしようとする人も減り、健全な物は増えたが特別面白い人も少なくなってしまった。
ネットが少数の人しか見ていない暗い地下の空間だったから存在したような人はもう絶滅危惧種に近い。
「インターネットがリアルの延長線上にあるものになった」というのはもう聞き飽きたフレーズなのだが、実際にそうなっており悪いことをしてはいけないし悪いことを言ってはいけない空間にもなっている。
「俺らの時代、あの高校もっと荒れてたからね」とか「昔はもっとヤバいチーマーやヤンキーがいた」と懐かしむ人のように「昔のネットはもっとヤバかった」と語っているのかもしれない。
漫画ごくせんやクローズに出てくるような不良高校生はもはや存在せず、窓ガラスが割られて学級崩壊を起こすような高校もほとんど浄化され絶滅している。
不良集団同士で抗争して「他校の奴らと喧嘩して来たぜ」なんてヤンキー高校生はもはや漫画の世界にしかいない。
自分が育った地域でヤバイと言われていた高校があって、身内が進学したときに行ったのだが極めて普通の高校で礼儀正しい生徒が多かったことに驚いた。
高校生の喫煙率が昔に比べて低下しているというニュースを最近読んだのが、それは間違いなく良い事である一方でそれを懐かしむ人もやはり存在する。既に少子化の時代で学生が減っており彼らのマナーも非常に良くなっている。
おそらく10年後のネットのは今以上にユーザーが高齢化し、民度の低いキッズもそれほど多くは無くなっており逆にレアな存在になっているだろう。
不良高校生が消えたのと同じで、ネットから荒らしが消えた、そしてその内少子化で学生自体が少なくなりネットからキッズ自体が減っていくのではないか。
掲示板を見れば意味不明な文字列を書こうとしていた人は減り、徐々にネット慣れしたマナーの良い大人ばかりになり非常に快適になっていくことは良い事でもある。
その一方でネットにいる人がただの他人になり、悪口を言ってはいけないが同時に良いことも言えなくなっている側面がある。
インターネットを誰もが利用するようになり、ネットリテラシーも向上しているが逆にマナーが良くなりすぎてカオスさも無くなっている。
しかしそんな昔のネットに戻れない自分もいる。
「元ヤン」の人がいざ今ヤンキーに戻ろうしても難しいのと同じで、ネットの掲示板を荒らしまわっていた人も今ではネットリテラシーのある常識的なユーザーになっているのだろう。
ヤンキー高校生にカツアゲされる不安が無くなったのと同じで、今の時代は自分のブログやサイトが荒らされることもないわけで、それは良いこともでもある。
その一方でガンを飛ばされたり喧嘩を売られなくなったことの寂しさを感じている元ヤンの人もいるし、ネットの民度が良くなった事を少し寂しく思う自分もいる。
youtubeコメント欄で本気で喧嘩してるキッズをみて「ネットの誰かに熱くなれた元気なころが俺にもあったんだな」みたいな変な感情もある。2年前ぐらいに自分のピクシブのイラストに指摘してきた人がいてその人と反論し合ったことがあったのだがそれですら今では懐かしい。
街を歩いていても喧嘩を売られることが無い安息もある一方で、喧嘩していた頃が懐かしいと思う元ヤンキーやチーマーの人もいるのと似ているのかもしれない。
「俺のころヤバかったからね」と言う不良高校の番長だった人も既におっさんで、"あっち系"の映像に残ってる女の子も今では既におばさんなのと一緒で、昔のネットのヤバさを懐かしむ人間もいずれ高齢化していく。
これからどうなっていくかはわからないが基本的に日本に限らず社会という物は治安が良くなっていく方向ある。目が合えば喧嘩をしていた時代が終わったように、掲示板やコメント欄は荒らす物だった時代は終わった。
大衆の民度が高くなったように、ネットユーザーの民度も高くなりいろんな規制も厳しくなった。
「社会」になったものは徐々にクリーンになっていき浄化されていく。インターネットというものが社会の一部になり遂に浄化され整備されるものとして扱われるほど巨大になったともいえる。
ネットですらちょっとした冗談で変なことが言えない時代になっており、アングラ社会は消えつつある。
なぜワクワクしなくなったかと言えば、それはあらゆる社会性のあるコミュニティが整備される運命にあるからだと言えるかもしれない。
日本人の民度が高くなり下町がオシャレで綺麗な都市になっていったように、ネットユーザーのネットリテラシーは高くなりバーチャル空間も"綺麗"になっていくのだろう。