負け組ゆとりの語り場

社会に取り残された男が日々を語る

ニート名言「今日無駄に過ごした日は誰かが休みたかった明日なんだ」

仕事を辞めて再びニートになって何気なく過ごす今日の幸せに気づく。

相変らず貧乏で夢も希望も無く、凄く面白いことがあるわけでもなければ安定した将来が保障されているわけでもない。

 

しかしそれでも「何もしなくていい」という幸せが自分にはある。

少なくとも今日何かしなければならないわけでもなく、明日も仕事が無いので何時に寝ようとも構わない。

今日と明日を心配しなくていい、ただそれだけの幸せがあればそれ以上のものはいらない。何も残らないし後から大変な思いをするかもしれないが、今さえ楽ならばそれでいいのだ。

 

何かの名言で「今日虚しく過ごした日は昨日亡くなった誰かが本当に生きたかった明日」というフレーズがあるが、今日何が何でも休みたかったのに今日出勤しなければならない人も世の中にはいる。

明日絶対に休みたいのに社会がそれを許してくれないという人もいる。

 

確かに自分は貧しいかもしれない、誰からも見放され社会から取り残されているかもしれない。それでも明日誰かに合わせて生きる必要は自分にはないという自由がある。

久しぶりに少しの間だが仕事をしてみて、明日大変なことをしなければならないという事への苦痛や不安を再確認した。いつまでこれをしなければならないのか、次の休みまでで長い、その休日すら明日は出勤しなければならないという不安に苛まれてしまう。

そんな苦しみを味わったことで、何気ない今日のありがたさを理解できるようになった。

 

残念ながら世の中にはパワハラやいじめといった問題が存在する。

今日その地獄からようやく解放されたとしてもまた明日パワハラを受けるために満員電車に乗って出勤しなければならない社会人もいれば、いじめられるために自転車で登校しなければならない学生もいる。

そういう話を聞くと世の中何のために人は生きなければならないのだろうかと思う。同調圧力に屈して残業をしたり入りたくもない部活をやっている人もいる。

一刻も帰りたいのにまだ時間外で拘束され、次も日も同じような日々が始まる。

それがいつまで続くかはわからない、しかし当分の間は続く。

 

社会人は懲役40年であり、学生はその懲役に耐える練習をさせられる。

そして現代人はその懲役から解放されたと思っても今度は年金がもらえず貧困にあえぐ老後を過ごさなければならない可能性が高い。もはや日本に生まれたというただそれだけで負け組や苦しい生活が確定している。

日本人に生まれてしまったことが原罪だと言っても過言ではないような悲惨な人生が待っている。

日本人はこんなにも苦しむために生まれてきたのだろうか?

もちろん仕事も学校も充実している人は存在するが、その人たちと同じ基準で語られ「仕事や学校を楽しまなければならない」ということを強いられる人々も存在する。

今は楽しくないかもしれないが我慢していれば報われるという神話も根強い。

よくスポーツで合わないチームに無理に居続けるよりも所属先を変えたほうがいいという事を聞くが、アスリートに限らずそれは一般の人々にも当てはめることができるのではないだろうか。

 

他者に対しても自分と同じように楽しむことを求めているのに、本当に楽しめるような配慮がなされていないというケースは多い。そして楽しめなかったとき協調性が無いというようなレッテルを貼られてしまうのが日本社会でもある。

仕事や学校を楽しんでいない人に対して偏見があり異様に厳しいのが日本という国だ。

そういう人たちがその環境から離脱することに対する寛容や、別の場所からスタートする工夫とういうのも足りない気がするのは自分だけだろうか。

 

登校拒否をする人や仕事を辞める人、社会に溶け込めない人が悪いというこれまでの考え方が既に偏見に満ちている。

学校というものが得に義務教育段階においては実質的に一つのものしかないという環境もおかしく、誰もが画一的に同じシステムになじまなければならないという発想自体間違っている。

そして仕事というものももっと簡単に手軽にやめても良く、「今仕事してないです」と堂々と言っても良い寛容精神にあふれた社会にしていく必要があるように自分は思う。

誰もが同じような学校に行っていなければならないのか、大人は誰もが仕事をしていなければならないのか、極めて同調圧力が強い日本社会において疑問に思う事は多い。

そしてそのシステムに従ったところで幸せになれない社会というものが既に欺瞞に満ちている。

 

つまり全員が同じように生きてればそれなりに幸せになれる時代が終焉しているにもかかわらず、世の中の風潮として未だに"同調"を求めて「皆で苦しもう」「自分も苦労したのだから君も苦労しなさい」という社会から変化できていない現実がある。

仕事も部活も、そして学校もより簡単にやめてもよい社会になっていいのではないだろうか。辞めた人に対する偏見がなく、更にもう一度スタートするチャンスや別の選択肢がある社会にしていくべきだろう。

多数の人を一つのやり方に当てはめるという考え方が間違いであり、「我慢」や「継続」を美化し続けられなかった人や途中で離脱した人を蔑視したり偏見の目線で見るという国は非常に生きることが難しい国であるように思う。

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