負け組ゆとりの語り場

社会に取り残された男が日々を語る

インターネットの片隅から革命を起こすことは可能か?

自分は最近のインターネットに関して少し残念に思う事がある。

コアな人々が少なくなりアングラ感が消えたという極めて抽象的な事なのだが、漠然と最近のインターネットに面白みを感じなくなったと思っている。

昔のネットにはもっとヤバイ情報が溢れかえり、危険人物が大勢おり、いつ彼らが何かをしてもおかしくないという雰囲気があった。

中二病と言われればそれまでなのだがインターネット全体が「ヤバイ奴らの集会所」というようなイメージがあった。

 

それらはおそらく自分が多感な人間ではなくなり、またネットが普及したことにより時代に適応せざるを得なかったという事情が存在するからだろう。

もうすでに自分はインターネット環境を手に入れてから既に10年以上が経過しいつの間にか立派な古参ユーザーになっている。

ツイッターどころかyoutubeすらなく、フラッシュ動画というものがありネットの規制も緩かった時代を自分は少し知っている世代だ。

 

しかしそのような世代でさえ実はアングラなコア感が既に消えかけていたと言われており、2ちゃんねるでネオ麦茶事件があった時代もリアルタイムで経験していたわけではない。

『電車男』や『魔法先生ネギま!』のハッピー☆マテリアル騒動より少しあとに本格的にネットに入り浸り、ハルヒ世代に近い存在だと言えるかもしれない。

ただそれ以前から小学校の授業などでインターネットに触れておりまさに典型的なパソコン室で「フラッシュ動画」「2ちゃんねる」を開いてドヤ顔をしていたようなゆとり世代の一人だ。

 

問題はそんな実はネットにおいて"にわか"だったはずのハルヒ世代やらき☆すた世代ですら既に10年選手になっており、いつの間にかセリエAのインテルで長友佑都が最古参の選手になってきていることと似ている。

長友が最近インテルに入団したと思っていたらいつの間にか一番在籍年数が長い選手になっていたというような話であり、いろんなことが結構昔のことになっているのだ。

指原莉乃がブログから成り上がったと思いきやいつの間にかブログというツール自体がSNSに駆逐されつつあり、指原自身ツイッターばかり更新している。しょこたんも既にネットの女神ではなくなっており、今では中皮ファー子だと揶揄されている。

 

つまりこういった時代背景においてもはや「ネットにはヤバイ奴らがいる」という漠然とした認識は老朽化しつつあり、ネットの地下組織から次世代のムーブメントが起きるであろうという期待を抱くことは難しい。

漠然と存在した「ネット民」という共同体幻想は崩壊し、もはやネットの向こう側にいる人はただの一般市民でしかないという現実に誰もが気付き始めている。

インターネット

ここ数年インターネットを見ていて「実はネットユーザーにそれほど濃い人はいない」ということに気付きつつある人は多いのではないだろうか。

もう自分自身ネットを見ていても面白い物を見つけられるという期待感が無くなり、古本屋で買った小説ばかり読んでいる。

 

ネットという世界が徐々に現実の延長線上にあるものになり整備されてきたことがここ10年の大きな流れだろう。

「インターネットにいる人達はヤバイ」という認識で語ること自体が古くなっており彼らはもはや普通の人でしかない。スマートフォンの普及によって日本人総ネットユーザー化が進んでおり、SNSのアカウントを持ちユーチューブを見ているという事が平均的な習慣になっている。

インフルエンサーが次世代の流行を創り出すことは世界的にも進んでいる現象であり、インターネットが危ない人たちの"溜まり場"どころか最先端のファッショナブルな場所にすらなっている。

 

こういったディープな場所が徐々にクリーンなものに変化していくというのは必ずしもネットに限ったことではなく、例えば戦後初期の東京の郊外が徐々に整備されオシャレな街並みに変わっていくという現象は多い。

「インターネットがつまらなくなった」という意見は、「下町文化が無くなった」と嘆く感覚に近いのかもしれない。

「東京タワーが建設される時はワクワクした」という意見も2ちゃんねるが台頭していく時代の昂揚感に近いだろう。今では2ch自体高齢化しており、ニコニコ動画でさえユーザー数が減っている。

普通の人たちが普通に利用するものがインターネットでしかないという冷めた感情に自分自身が支配され始めてきている。

 

この停滞感を打ち破る人たちが登場して欲しいという思いもあるが、もはや「ネットのヤバい人たちが行動を起こす」というシナリオ自体10年前のライトノベルでしか見かけないような使い古されたパターンであり、更にそれは実際にネットで起きるものではない。案外ネットユーザーというのは一人一人は普通の人たちであり、そういった気概も無ければ"危険思想"を持った人もそれほど多くは無い。

危険な考えを持った社会不適合者が革命を起こす、というストーリー自体もはやネットから生み出される物ではない。

 

アングラサイトに最先端の知識を兼ね備えた人々が集まり、世界の転覆を狙った革命を計画するという光景など存在しないのだ。

自分の身の回りには存在しない未知なる人々が独自の空間を創り出しており、何やら新しいことをしようとしているというわけでもなく、大部分の人々が現実と同じように与えられた何かに従っているだけでしかない。

ネットの世界にしか存在しないような突出した個人は結局のところ存在せず、良く見れば極めて普遍的な一般市民なのだ。彼らは本気で世界の転覆を狙うような革命家ではない。

 

スマートフォンの普及によりネットに普通の市民が増えたのか、それとも古参ネットユーザー自体が冷めてしまったのか、それとも元々ネット民自体がそれほどコアな人々ではなく自分が世間知らずだからそう勘違いしていただけなのかはわからない。

結局「最近のネットはつまらなくなった」という漠然とした認識の背景には様々な要因が存在し複雑に絡み合っているため一つの明確な回答を見つけることはできない。

 

しかしワクワクするような地下のアングラ社会はどこに消え去ったのかと嘆いたところで、インターネットが登場しアメリカの工科大学の"ギーク"がコーラを飲みながら徹夜で次世代の潮流を創り出そうと思っていた時代は戻ってこないだろう。

 

『オタクイズデッド』の講義で知られる岡田斗司夫はオタク文化論について最終的にこのような結論を出した。

「今やオタクは消滅しつつあるが、自分が好きな物について周りの人たちに語り継いでほしい」という趣旨の事でありとにかく好きなことについて熱く語るべきだと主張した。

 

しかし自分はそのことに反論したい。

今ネットユーザーやいわゆるオタクという層が語る事はホリエモンとひろゆきの対談タイトルではないのだが「なんかヘンだよね」という事なのではないだろうか。

 

世の中を変革しようとするならば現状の体制について疑問を持つ人が増えなければならない。それは決して右翼と左翼の論争や現政権の打倒をしなければならないという話ではない。

政治議論でネトウヨVSパヨクという稚拙なレベルの話をしたいわけではない。現在のインターネット上における左右の論争はもはや語るべくもない程レベルの低い話であり、ネトウヨにもパヨクにもインテリジェンスは感じ取ることができない。

より根源的な論争が現代は求められており次世代のムーブメントとは何かという事を考察する層が登場してこなければならない。

その為にはおかしいことに対して声を上げなければならず、まさにインターネットというツールはその役割を最大限に担うことができる。

 

左右の論客がお互いをレッテル張りで非難し合っているがそのことからは何も生まれないだろう。文化論や政治議論というのはこれほどまでに稚拙だったのかという危機に現代は直面している。

むしろこの時代において極左と極右は手を取り合う事すら可能だ。彼らが共有しているのは現状に対する強い問題意識だ。また右翼や左翼という問題ではなく、世の中が間違っているというもっとプリミティブな衝動が現代を変えていく原動力になる。

右としての抵抗か左としての抵抗かという問題ではなく、より強い抵抗運動が必要になる。体制への反発というのは必ずしも政治問題に限らずあらゆる局面や慣習、制度について言えることだ。

 

しかしながら現代のインターネットはそういった強い衝動を発露する場所ではなくなってきている。

SNSを利用したことがある人ならわかるかもしれないが、"リアル"以上にインターネットは空気を読まなければならない空間になりつつある

そのコミュニティに相応しい空気感で発言しなければならずそれができなければ"リムられる"という表現のようにフォロワーを解除されてしまう。その空気にウケるような発言をすればいいね!がもらえてリツイートされて自己のアイデンティティを承認された気分になることができる。

 

「リアルっておかしいよね」という事を発信するツールだったインターネットが今ではその現実以上におかしな空間になりつつある。むしろ現実以上に空気を読み慣習に従わなければいけない場所になっている。

 

人間は社会を形成する生き物だと言われている。

そういう意味で今インターネット上では次々と社会が形成され始め、そのコミュニティに空気を読んで適合する意見が徐々に求められつつある。

リアルに反抗していたネットが今では現実の延長に存在するものになり、その現実以上にその場所に従わなければならない者になっている。

周りを気にせずこれまでの既存の社会に縛られず自由に発信できるツールだったはずのネットが現実以上の社会性を生成しつつあることは皮肉な現象だろう。

 

もし以前のインターネットにあったものがそういった「反発」だとすれば、現在は徐々にそれが「順応」へと変化している。

まるでディープな下町や歓楽街がクリーンなオフィス街へと変貌していくような感覚を現在のネットには感じる。

 

抵抗運動のツールとして台頭し始めたインターネットが現在は社会を形成し始めている。現実と同じようにただ空気を読み従うためのものでしかなくなりつつあるネットにおいて何ができるのだろうか。

本当に発信しなければならない考え方や姿勢は何なのか、一人のネット市民としてその"使命"に思いを馳せずにはいられない自分がいる。

自分に大きな革命ができるとは思わないが、少なくとも最近の風潮には反発し発信をし続けたい。