負け組ゆとりの語り場

社会に取り残された男が日々を語る

広瀬すず「どうして大人になったとき介護職員になろうと思ったんだろう?」

広瀬すずの職業差別発言が少し前に話題になったが、自分が唯一理解できない仕事がいわゆる介護関係である。

自分自身は広瀬すずの発言に対して「自分が女優になりチヤホヤされてる人間にはわからないが、不本意なことをしなければならないのも大人」だと思っており、照明スタッフにも人生があるはずだと考えている。

主人公になれた人間は、主人公になれず自己実現を出来なかった人間の感情を理解できないだろう。そして自分も10代の時は負け組になることなど想像もしていなかったし、むしろ広瀬すずと同じような思考をしていた立場だ。

 

しかし現代においても介護職員だけは理解できない。

実は自分の身内にも介護関係の職に就いている人がおり、極めて近しい存在のため馬鹿にしているわけではない。介護職員を見下すというよりも、素直にあの給料であの内容の仕事をやっていることが凄いと尊敬さえしている。

その苦労の実態も良くわかり本当に疲弊した姿を見ているため、介護職に就いている人のことを貶そうとは思わない。

言葉は悪いかもしれないが紛れもなく"底辺職"の一つであり、人生を高齢者に捧げる事は自分には出来ない。

月給で換算した場合40万貰えるならばやっても良いという気にはなるが、その半分前後の給料であの仕事をすることは厳しい。

よく言われることだがあまりにも介護職員の給料は低く、その仕事についている人はもう少し報われても良いはずだ。

 

それにしても社会の構造として若者がただ人生や労力の殆どを高齢者の介護に捧げなければならないというのは非常に効率が悪いことだ。

単純に考えてエネルギーのある若年層が、高齢者のためだけに疲弊しているということは効率が悪い社会だとしか言いようがない。

全く介護以外の仕事が社会に存在しないというわけでもなく、何も生み出さない高齢者の世話をするためだけに若い人々のエネルギーが浪費されるだけで終わるというのはもったいないことだという思いの方が強い。

 

自分の身内も介護以外の職業についていれば他に何かを生み出せた可能性があるが、ただ老いていくだけの人間の世話をし続けることのどこに生産性があるのかは疑問だ。

そして同じような人々が多く存在しており、今の日本はただ高齢者に莫大な年金や社会保障予算だけを吸い上げられ、新しい世代が薄給で夢も希望もない人生をおくらなければらなくなっている。

まさに終わるべくして終わろうとしているのが超少子高齢化社会の日本だ。

 

別の言い方をすれば介護職員がいるおかげで介護をしなくて済むという人々も多くおり、その人達としては助かっているだろう。

介護を誰かに任せている人が何か生産的な行為をしていれば間接的には何かを生み出しているかもしれない。

しかし現実の問題として多くの人がただ高齢者層の為だけに疲弊している現実を自分は見てきた。この問題はいずれ決定的な歪として噴出するだろう。

 

介護職を始める人が少なくなれば、求人に対して応募が少なくなり給料が上がっていくのだろうかとも考えたことがある。

現状の労働条件であっても介護職を選ぶ人が十分に存在するため、老人ホーム側はその条件で従業員を雇うことができるという構造が存在する。

資本主義の基本的な構造として従業員が少なくなれば、新しい人材を雇うために給与を向上させなければならなず、適応できない組織は淘汰され廃業していくことになる。

 

一度介護職員が全国規模で組織的なストライキやボイコットを行ったり、デモをしたりすればよいが都合の悪い条件に対して言いなりになっている人が多いことも現実だろう。

こういった場合労働者は経営者側に対して不利になり酷使され続ける。

もっとわかりやすく言えばいじめっ子に対して逆らわない人間はいつまでもいじめられ続けたりパシられ続けたりする事と同じだ。

 

介護職員はブラックだという情報が世間に広がり過ぎたため今後希望者は少なくなるが、反比例するように要介護高齢者層は増え続け、勤務内容はよりハードになるだろう。その時に給料が上がるかという保証は残念ながら存在せず、仕事は増えるのに給料はほとんど増えない。そして現場の従業員は疲弊し、日本社会も疲弊していくという悪循環に陥るのではないだろうか。

 

自分は社会学や経済学の専門家ではないのだが現状若者が介護で疲弊している社会に希望を感じることはできない。末端で働いている介護職員はもちろん悪くなく、自分も身内もその一人である。

先の大戦も戦場の現場で戦っていた兵士が悪いわけではなく、腐敗した上層部の犠牲になったと言える。

現状の疲弊した介護職員の姿を見ると、犠牲になった尊い兵士たちにその姿を重ねて見ずにはいられない。なぜ彼らが犠牲にならなければならないのか、社会保障予算を吸い上げ食いつぶす高齢者層に薄給で奉仕する現場の人間に罪はないはずだ。

 

例えば海外に老人ホームを移転し、老後を海外で過ごすというライフスタイルを日本人の生活として普及させていく事は代案の一つなのではないだろうか。

詳しい実情を勘案したわけではないが例えば月6万で老人ホームに入っている高齢者が、月2万程で同じサービスを受けられる国に行けばその家族は大きく助かるのではないだろうか。

更に日本の賃金水準で日本人に介護サービスを行わせるという構造自体がそもそも間違っているのではないか。

 

月6万で最低限のサービスを受けなければならない高齢者側も、薄給でその仕事をしなければならない従業者側も現状は不幸だ。

同じ額ならばより良いサービスを提供できる安価な労働力を持つ国はいくらでも新興国に存在するだろう。

 

具体的に言えば日本にアジアの国々から介護職員を移民として呼び寄せて、彼らがその激務に耐えられず逃げ出すというケースが存在するが、日本人側がアジアの国々に介護を受けに行くということがあっても良いのかもしれない。

政府事業で海外に老人ホームを作れば現地に雇用も作り出せるのではないかと考えなくもない。

突発的なアイデアと言われればそれまでなのだが、海外の人件費でコストダウンをした介護サービスを実現するか、日本の同額ならばより良いサービスを提供するという考え方にシフトしていくべきではないのか。

 

例えば最低限のサービスで良いから残された家族に少しでもお金を残したいと考える高齢者層も存在するだろう。

また同じ額を払うのであれば至れり尽くせりの介護サービスを海外で受けたほうが幸せな老後だと考える人も存在するのではないか。

自分が高齢者になったときのことを考えた場合、老人ホームになかなか入れず、更に入ったとしても劣悪なサービスしか受けられないという老後の人生よりも海外で快適な老後生活を送ったほうが良いと考えている。

「海外の介護は日本人には合わない」というのも、相応の対価を支払えば十分に提供できるのではないだろうか。

脊髄反射的に考慮する前から否定をし始めるべきではないはずだ。

 

問題の本質をシンプルに考えた場合、日本で日本人に安い給料を払いながら過酷なサービスを要求しているという事にすべての原因が帰結する。

どう考えても現在の給与水準や人件費で介護サービスをさせようとすることは不可能なのだ。それを無理やり実行しようとしているから様々な歪が生じ、「介護はブラック」だと悪名高くなり従業員が集まらず、数少ない介護職員も退職を選ばなければならなくなっている。

その結果老人ホームに入ることが難しくなり、介護をしなければならない家族がいわゆる"介護疲れ"に陥ってしまう。

経済の基本構造に反したことを要求することで、結局消費者が苦労しなければならないのだ。

「お客様は神様」という考え方や「経営者は偉い」という思考は必ず矛盾を引き起こす。

 

経営者側は「サービスに対してしっかり対価を支払う」、従業者側は「支払われた額に対して相応しいサービスを行う」という基本中の基本が日本社会ではなぜか実現できていない。

質の高い労働に対して相応の額を支払う事は当然であり、少ない額に対してそれ以上のサービスを求める事をしてはいけない。

逆に従業員側も少ない額しか支給されないならば、それ以上の労働をサービス精神で提供する必要などないのだ。

 

欧米の基準では至極全うな考え方なのだが、民主主義や労働者の権利を努力で勝ち取った経験が少ない日本人にはこの原理原則が理解できていない。

空気を読んで定時に帰らない事やサービス残業を行うことが常態化している日本においてこの考え方は未だに根付いていない。

上から強いられる理不尽に対して「それは仕方がない事」だと考えてきた日本人の伝統的な気質からして、こういった権利の獲得は非常に難しい問題となっている。

歴史や文化の問題に飛躍して検証しなければならない程この問題は複雑であり「日本人だから」としか言いようがない部分も存在する。

近代化ができていない、自我の形成ができていない、そもそも日本人にそういう生き方は向いていない、そういう根深い問題に行き着く部分も存在する。

 

理不尽を強制する側が悪いと言うよりも「理不尽に従う事を美徳だと考えて、反抗せずに受け入れる人間がいつしかそれを強制する側になる」という構造が全ての根源ともなっている。

なぜ反抗せず権利を獲得しようとしない上にいつしかその理不尽を次の世代に強いるかと言えば、それは日本の歴史に遡る事であり「それが大和民族の性質だ」という説明が最も適切な回答だろう。

狩猟民族ではなく農耕民族なのが日本人であり、作物を黙々と育てて生きてきた伝統が存在する。

「苦しい時は皆で耐えよう」という価値観は農作物が自然災害で台無しになった時にどう乗り越えてきたかという農耕民特有の気質でもある。

 

経営者側が有利であり従業者側は権利を行使しようとせずむしろ従順に受け入れ、いずれ自分がその悪しき伝統を継承するというケースは日本社会のあらゆる局面に散見される。

そしてそういう事を考える新しいタイプの人間は「協調性が無く空気を読めない人間」とレッテルを張られ排除され淘汰されていくという構造が存在する。

理不尽をここまで美化し、それを人生の意味だとすら考えるような民族は世界中を探しても日本人以外に存在しないだろう。

 

勤勉なことは尊いという価値観を信仰して生きてきた日本社会は現在疲弊し、衰退しつつある。

それでも外国人にその勤勉さや真面目さを賞賛されれば、SNSでいいね!を貰ってはしゃぎ回るように日本人の優秀さに自己満足をして問題の根源など考えもしなくなるのだ。

この時代の変化や矛盾を感じ取ることができない大衆はいずれ破滅へと向かうだろう。

 

ただこれらはあくまで自分の主張に過ぎず、本当にこれらの考察が正しいかどうかはわからない。

しかし日本の介護制度に歪が生じ始め、更にカナダの人口に匹敵する3500万人もの高齢者層を抱える日本社会がこの問題と真剣に向き合っていかなければならないのは事実だろう。

都合の悪いことに蓋をし、問題の本質から目を背け議論を先延ばしにするという考え方はもはや通用しない。

絶望的な超少子高齢化社会に対して日本人がどのような解決策を選択するか、どうなるか様子を見てみよう。