負け組ゆとりの語り場

社会に取り残された男が日々を語る

なぜ平和主義者ほど過激な人が多いのか

平和主義者というのは文字通り平和を愛する人々であり、主に反戦や非戦を主張する人々を指す。特に日本では先の大戦により多くの犠牲者を出したため「平和」という言葉は崇高な概念として半ば神格化されている。

そんな平和を擁護する平和主義者だが彼らの言動を見ていると本当に平和を愛しているのか疑いたくなるような過激な言動が多い。

平和主義者ほど攻撃的であり、反差別主義者ほど自分の差別には無自覚である。

 

例えば自分の気に入らない政治家に対して口汚く罵り、時には彼らの生命さえ否定しようとする。そんなことを何の抵抗もなく口にできる人々が反戦や平和を掲げることに違和感を覚えずにはいられない。

彼らは平和の為なら何を言っても良いと思っている。

自分たちの正義の為なら何を言っても良い、というのは彼らが執拗に批判する全体主義者と変わらない。

 

「平和」「反戦」という言葉は美しく紛れもなく素晴らしい理念である。

しかしそういう言葉が暴言を吐く人々に悪用されているのも事実であり、むしろ彼らの方が反戦や平和という概念を汚している。

また彼ら自称平和主義者の言動や教養は非常に浅く、彼らが「平和」という言葉を声高に叫べば叫ぶほどその言葉が陳腐に思えてくる。自らの言動に既に矛盾が生じているのだ。

「平和を叫ぶ人はどこか怪しい」というイメージが付けば、本当に平和を望み実行しようとしている人々の活動まで疑われた目線で見られるだろう。実際に日本で左派が政治的に勝利することが少ないのは、そういった思想を掲げる人々の軽薄さが信用されていないからだろう。

本当の左派や平和主義者は存在せず、ほとんどが自分がインテリだと気取るためのファッション目的でしかないのだ。

 

平和、平等、反戦、そういった綺麗な言葉が品のない人々に多用されればイメージは悪化する。

こういった綺麗なフレーズは非常に便利であり、使えば自分たちを正しい主張を行っているという印象を作りやすい。それゆえに中身のない主張であっても綺麗なフレーズで着飾れば正しい主張であるかのように受け止められることがある。

逆に非常に論理的な主張であり現実を語っている主張であっても「戦争賛美者」などのレッテルを貼れば議論は有利に進む。

平和が大事だと言っていればなんとなく良い人のように見てもらえるのである。そして現実的な解決策を示そうとする人にはレッテルを貼れば悪人に仕立て上げることができる。

平和主義者

「平和叫んでる自分はかっこいい」

「いいこと言ってる私が好き」

彼らの真の目的は平和などではなく、単にその主張をして得られる昂揚感でしかないのだ。そんな人々に平和や反戦という言葉が悪用されてはならない。

単なる「革命家ごっこ」をしたいだけの平和主義者が日本には多い。

かつての革命家と同じ気分になりたい、帝国主義の打倒を掲げたい、そんな悪役と戦うシチュエーションに人というものは憧れる。

わかりやすい悪役ファシストとして右派の政治家をターゲットにして口汚く罵ればもうそれで立派な革命家ごっこが楽しめる。

 

戦争が大好きな悪役を仕立てげて攻撃すればそれが平和活動となる。

そしてその悪役に対して正義の味方として戦ってる時の快感を味わうのが日本の平和主義者だ。

議論の都合が悪くなれば「アイツは戦争が好きな悪い奴」と認定することで自分を正当化する。しかし彼らの言動を見れば非常に過激であり、平和主義者なはずなのに攻撃的なことが多い。

 

「平和」という言葉は魔法のフレーズであると同時に、危険でもある。

どんなに支離滅裂な考えも「平和」というシールを貼ればよい考えに見えるのだ。

そしてそれがこの言葉の危険な部分でもある。

色んな人がその効力を頼りこの言葉を使おうとするため当然悪用する人もいる。

間違ったことも「平和のため」と装えば綺麗に見える。

パッケージをよくすれば悪い商品でも購買意欲が上がるのと同じだ。

日本の政治議論が成熟させるためにはこういった表面的な言葉だけを投げつけあう体質を変えなければならないだろう。

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