負け組ゆとりの語り場

社会に取り残された男が日々を語る

読者のレベルに合わせた小説は面白くない

現代の文化というのは資本主義や商業主義に適合しなければならないため、大多数の人に合わせたカジュアルな物が多くなっている。

世の中頭がいい人と頭が良くない人、頭を使う人と頭を使わない人ならば圧倒的に後者が多数派なのである。

 

そのためその大多数の大衆に向けて簡単なものを提供するということが昨今の風潮になりつつある。たとえばこの傾向がもっとも顕著なのが文学界だろう。

 

東進の林修はテレビでこのような趣旨のことを発言していた。

とにかく今の小説は簡単になりなるべく難しい言葉を使わず簡単にサクサク読めるようになっている。本が売れない時代において出版社はなるべくカジュアルな小説を出そうとするため文章間のスペースも広くなり1ページ当たりの文字数も少なくなってきている。

逆に昔の文学は難しい言葉のオンパレードであり、1ページにびっしり書かれていた。

現代文のエキスパートは公の場でこのことを指摘した。

 

確かにその傾向はあるだろう、世の中が徐々に"長文アレルギー"になってきていることは間違いない。たとえばネットの掲示板も昔は本当に濃密な人々が喧々諤々議論を交わしていたのだが、今はそういう場所ですら長文は避けられるようになっている。

またツイッターという144字のSNSが普及したことでこの現象は加速しており、その144字すら完全に使い切ることは長文ツイートとさえ言われる。

今の時代は144字ですら長文なのだ。

実際ツイッターを見ても長文でしっかり描いている人はカジュアルな雰囲気の中で真面目に語っている浮いた存在のようになってしまう。

ネット環境も活字アレルギーの多数派向けに変化しつつあり、真剣に語る人は空気が読めない人になってきている。メッセージアプリなども長文で語ると少し面倒な人に映り、長い文章を書けない人や読めない人が急増している。

 

これはもしかしたら世の中の娯楽の多様化と、現代人の多忙化が関連しているのかもしれない。

やることがいくらでもあり一つの事に時間を費やせない時代に、悠長に文章の世界に時間を費やしていられないのである。

簡単に要点だけをまとめて重要な部分だけを効率よく取り入れることが求められている。

文学も空いた時間に簡単に頭を使わずに楽しむことが求められている。

本を読むという比較的知的な楽しみを求める層でさえ今はカジュアル化してきており、そしてカジュアル化は商業主義、資本主義、そして多忙化の時代においてダーウィンの進化論で言うところの適者生存なのである。

 

誰が悪いというわけでもなく背景に大きな構造が存在しており、これはもはや避けられないのかもしれない。

実際自分もこの傾向を批判しておきながら短い文章のやり取りやわかりやすい定型文による会話が繰り広げられる掲示板の書き込みやそれをわかりやすくまとめたものを見ることが多いし、報道なども先に要点をまとめているものの方がありがたいと思っている。

他人の長い主張や冗長な作品、煩雑な情報に付き合っていられない時代になっている。

 

また提供者側のスタンスも変化してきているだろう。

昔の文学者、具体的には戦前の文学者は「我々は高度なことを突き詰めたい、理解できる人だけがついてきてほしいし理解できない方が悪い」という考え方に近かった。

一部の選ばれたエリートが本を発売できていた時代において、文学は高尚な物であり読者側もそういった知的階級に憧れていた。また世の中の文化をリードしていくという自負があった。

 

しかし現代に近づくにつれ出版数は増加し、大量生産と大量消費の時代が訪れる。

更にテレビというメディアが増え、現代ではインターネットという新時代のツールも登場している。ラジオと文章しか大衆への状況提供手段がなかった時代とは違い、他の種類のメディアとも競争しなければならない時代になったのが戦後だともいえる。

戦前も勿論映画はあり、音楽もあったが戦後はテレビが国民的に普及し現代はネットで誰もが多数の情報にアクセスできる時代になったことでより伝わりやすい情報メディアが選ばれるようになる。

 

供給する側が選別され少なかった時代には難解な思索を思う存分追求することができたが、今の時代に置いてはより多くの人に理解されるために読者側に合わせなければならない時代になっている。

読者が文学者の知識に追い付こうとしていた時代から、文学者が読者の知識に合わせようとする時代になった。

 

そしてこれは文学だけに限ったことではなく、ありとあらゆる文化においても言える事だろう。たとえば前述のような短文SNSの登場はその象徴であり、現代人は一つの事にゆっくり時間を使えなくなっている。

アニメなども現在は1クール日常アニメが急増しており、「考えずに見られるアニメ」が求められている。またユーチューバーのように子供でも楽しめる娯楽が台頭しており、世の中が簡単で身近な物を希求し渇望し始めている。

 

現代人は考えたくもないし難しい事から遠ざかりたい、そんなことをする余裕はなく皆忙しく疲れているのである。

そして実は資本主義の時代においてこれは良い事でもある。実は賢い人が頭がいい人が多い社会というのはそれほど資本主義的にはあまり良くないのだ。

「コスパが悪い」という言葉があるが、頭がいい人は考えて商品を購入するため購買意欲が低くなる傾向にあり財布の紐が固いことが多い。

一方あまり考えない人というのは良くも悪くも行動がシンプルで、とにかく体力と情熱があり良く働き、そしてよく消費活動をする。実は資本主義社会において大多数の人が後者だった時代の方が活気があり盛況としているのである。

日本経済が低迷しているのは先のことを考え「コスパが悪い」という言葉を多用する人がネットだけではなく現実でも増えたことが原因でもあり、購買意欲が低く貯蓄率が高いのはこの問題と関連している。

中途半端に大衆の知的レベルが向上することは実は経済や資本主義の面で考えたときにそれほど良いことだとは言えない。

 

小説もこれと同じで、難解な小説を好む人が必ずしも出版業界や小説家、文学者にとって良い消費者だとは言えない。

一つの難しい本をずっと読んでいて、しかもそれが図書館で借りてきたような本ならば市場には何も影響をもたらさない。

それよりは世間で流行っているカジュアルな小説を話題についていくために読みもしないのに購入する消費者の方が出版関係者や書店としては助かるのである。

難解な事や高尚な事、真実に近づくことが正解だとは言えないのもまた真実だと言える。

時代が変化したことで正解も変わったのだから、簡単でカジュアルな小説が増えたことも一概に悪いことだとは言えない。

小説

しかし個人的な考え方としてはやはり読者のレベルに合わせたような小説は面白くないと思っており、むしろ一つの本をずっと読んで考えているようなタイプである。

世間で流行っているから小説を読もうと思ったことは一度もないし、流行についていきたければ素直に芸能の話題でも多く取り入れたほうが良いと思っている。文学というのはそういった流行からは閉ざされた閉じた濃密な世界であって欲しい。

中世ヨーロッパの哲学者が自室にこもり著書を執筆し、周りで起きている戦争に終戦まで気付かなかったというエピソードを聞いたことがあるが本来、文学や哲学というのはそういった探求の世界なのだ。

 

例えば今現在自分は歴史用語や専門用語が多用される小説を読んでいるのだが、これが非常に面白い。

自分がわからないことを書いている小説は面白く、理解することの喜びもあり新しい知識や視点を得られることも楽しい。

それが自分の興味があるジャンルに関連しているならばなおさら面白いだろう。

自分は漠然と「小説家は自分より凄い人であってほしい」と考えているし、芸能人やアーティストにも同じことを求めており昨今重視される"親近感"にあまり興味がない。

もちろん例外はあるが特に文学においては基本的に尊敬できる人物が書いた物を読みたいと思っている。

 

最近の"なろう作家"が書いたようなライトノベルに惹かれないのもまさにそれが理由で、やはり読書という比較的頭脳を駆使する行動においては高いレベルのものを読みたい。読書というのは労力がかかることであり、その対価として高品質な物や高度な情報を得たいと思っている。

労力をかけずに簡単に楽しみたいならば他にいくらでも娯楽があるためにそちらを選べばよくわざわざ活字を読む必要もないだろう。

 

親しい人が書いた小説ならば例外だが、基本的に無名の素人の文学を読むのであればそれは自分が書いたほうがいい。

しかしそんな批判をしておきながら自分もいつかは小説を書きたいと思っている。

元々大学も文学部志望だったため、この世界には憧れがあり現在もそういった創作活動の準備はしている。

 

そこでやはり思ったのが読者のレベルに合わせたような小説を書いても何も残らないという事であり、思う存分難しいことを書きたいと思っている。

最大限に難解なことを突き詰めたほうが自分にとっても成長になるだろう。

また一般の人が読者に合わせるような文章を書くというのは合わせるというよりもなんなるレベルの低下に過ぎない。

本当に知的レベルが高い人が大衆に合わせて書くのであれば良いが、そうでもない人が読者に合わせるようなことをしたらただ何に手を抜いているだけでありクオリティが更に低下する結果にしかならない。

つまり一般の人間は全力で書いたほうがちょうど良い難しさであり、難解なことを懸命にやろうとしてようやく知的レベルの高い人がが書いた大衆に合わせて執筆したレベルになるのである。

 

また現代の潮流として、むしろこれから高品質かつ難解な事への回帰が始まるのではないかとも考えている。

過度なカジュアル化や親近感重視の時代が進行し、それらが氾濫しすぎた結果、その反動として高尚な物への回帰が訪れるのではないか。人間というのはいずれ飽きるものであり、やはりレベルの高い物の方が面白いという再評価がされる時代が来るかもしれない。

「ネットには頭をあまり使わない人向けの質が低く中身のない物しかない」ということに愛想を尽かした人々がまた新しく何かを始めるのではないか。誰もがカジュアルが何も考えずに楽しめる物やただそこに生じるコミュニケーションやコミュニティばかりを求める時代は終わりを告げるのではないか。

つまり文化のルネサンスがこれから始まるだろう。

 

現に自分はネットに動画が大量に溢れている時代よりも、テレビがまだ力を持っていた時代やネットにおいて動画がレアだったフラッシュ全盛の時代を再評価し始めている。提供される物が選別されていた時代の方が、実は多様化細分化の時代よりも濃密だった。昭和の時代や20世紀にまで遡らずとも少し前まではその時代の名残があった。

消耗品としてネットの意見重視で1クールアニメが量産される時代やSNSの流行が大衆文化を席巻する時代がそれほど良い時代だとは思えない。

 

よく言われるのがプロ野球とJリーグの比較論でチームが多すぎると却ってよくわからなくなり一つ一つのありがたみや個性がなくなるという事に近い。自分自身はサッカーファン側なのだが、理論としてはこの考え方に賛同できる。

海外サッカーにおいても興味があるのは上位チームだけで、大部分は興味が無く冗長な存在でしかない。

毎回バルセロナやレアル・マドリードが下位相手に大量点差で勝つ余裕の試合をするのであれば、界のチームは連合チームでも作ったほうが試合内容自体は面白くなるだろう。サッカーのリーグ戦の面白さはそれだけではないのだが、世の中の文化としては選別されたものの方が良いという事は言えるだろう。

 

サッカーの話で言うならばチームは強くないが地元だから応援するといういわば親近感や愛着の問題であり昨今の文化もそうなっている傾向がある。

ネットに有名人は自分に近い感じがして握手会に行けるアイドルは自分のことを覚えてくれるから親近感を抱ける、そして応援に熱が入る。

いわば現代文化というのは降格圏や下部リーグにいる弱小チームのような人やコンテンツが増えている状態だともいえる。

自分もまさにその一人であり弱小チームの中で更に弱小的な存在なのだが、当事者でありながら昨今の傾向はいずれ終焉するだろうと悲観的に感じている。

 

まだサッカーの場合は弱小チームと言えどもリーグには20チームだが、現在の文化はいわば1部リーグに100チームほど混在する時代になっている。更に2部リーグにも500チームぐらい存在する時代においてもはやわけがわからない状態だ。

AKB48グループも年々、数だけは拡大しているが神7を多くの人が覚えていた時代に比べて華やかさは失われた。それどころか誰も知らないような謎のアイドルグループも増えている。

その結果有名人気取りをした誰も知らないような勘違いアイドルが増えている。

 

このように選べるものが増えるというのは実はそれほど良いことではなく、選択肢が増えるほどそれぞれの個性は低下することになる。

自分に合ったものを選べるというのは聞こえが良いが実際はそうではなく、「親近感」というもので錯覚しているにすぎないのだ。

 

ポケモンで最初の3匹が草、炎、水の3タイプだからよいわけであってこれが18タイプ全て選べたら御三家の意味合いが却って薄れてしまう。それどころか今の時代は18タイプに留まらず良くわからない必要のないような謎のタイプが追加されている時代でもある。

新しいタイプとして炎タイプに統一していれば良いのに熱タイプが登場しているのが現代文化だ。

そうなればどのタイプを選ぶかという議論もあまり活性化せず、それぞれが好きなものを選んでいるだけで皆それぞれ好きなものを選んでればいいし自分には関係ないという雰囲気になってしまうだろう。

 

そしてネットや現代の細分化時代はまさにその状態を引き起こしているのである。

ポケモンが18タイプ選べて、Jリーグに100チーム存在しているような状態が現代のあらゆるコンテンツに当てはまるのだ。

意味が分からないため本当に好きな人だけにしかわからないし、それぞれの質が低いため後世には何も残らない。

 

一見するとポケモンで18タイプを選べるならば本当に好きなタイプを選べるし、Jリーグなら本当に自分に近い町を応援できるだろう。

自分は御三家のタイプより氷タイプの方が好きなため、それを選べるならば確かに嬉しい。

しかし草、炎、水の3タイプから選ぶことで御三家選んでる感がありそれが大きな話題として盛り上がるのだ。本当は18タイプを選べることにそれほど価値が無いわけであり、自分が好きなタイプを選べてると言う事自体にに自己満足しているに過ぎない。仮に岩タイプを選んでいる人がいたら、氷タイプを選んだ自分にとってはどうでもいい他人でしかないのだ。

 

それよりは3タイプで何を選んだかという話題が盛り上がる方が本当は楽しいし、御三家も後の世代の人も話題にして覚えているのである。

例えばジョウト地方はヒノアラシ、チコリータ、ワニノコだということはポケモンファンならば覚えているがこれが毎シリーズ18タイプ収録されていればもはや次のシリーズの時には誰も覚えていないだろう。氷タイプや岩タイプで三段階進化する最初に選べるモンスターが登場したとしても、これまでの御三家に比べて印象にも残らない地味な存在にしかならずその時だけの楽しみにしかならない。

その時は本当に自分の好みに合ったモンスターが選べることが嬉しいが、後から振り返ったときに何も残らず誰も話題にせず消えていく。

 

サッカーも同じで現実にはチームが多いJリーグよりもチームが少ないプロ野球の方がわかりやすく盛況としている。それぞれのチームが閑散として一部のサッカーファンしか興味が無くメディアにも取り上げられないよりは、チームの数が少ないほうがファンも集中してどのチームが好きかというのが話題の共通項として盛り上がるだろう。

「このタイプを選べてうれしい」「地元にチームがあるのは嬉しい」「あのアイドルは自分のことを覚えてくれてうれしい」という事の裏で実は失っている者が多くあるのだ。

 

そしてこれは大衆文化の多くについて言えることでもある。

小説を筆頭に芸術もこれと同じで個人のレベルに合わせたようなものが乱造される時代には何も残らないだろう。商業主義としては前述のように間違いなく正しいのだが、商業とは無縁の個人までもがそれをするというのは何も文化的に価値がない。

 

自分も絵や小説を投稿し公開していこうとしている立場だがあまりウケを考えずにひたすら自分の好きなことを追求したいと思っている。自分はこれから小説を書くにあたって少し話をレベルを落とそうと考えていたが、むしろ引き上げて自分ができることを全てしたいと今は考えている。

前述の「一般の人は全力で書いて丁度よいレベルになる」論にも通じるが、ネット上の無名の投稿者までが大衆に迎合するようになれば本当の似た作品しか残らず、現にどの投稿サイトも独創性のないテンプレばかりになっている。

一時的に人気が少し増えたところで結局何も変わらないし夢は叶わない。

 

そしてこのような考えに至ったのは最近自分が読んだ小説を見てやはり作者が自分の高いレベルで突っ走っている作品は面白いと感じたからでもある。

そういう作品の方が結局は受けるし歴史に残るし、消耗品として終わらず大きな影響を与える。

ちなみにこれまで具体名を出してこなかったが自分が読んでいる小説は村上龍の『愛と幻想のファシズム』である。この小説は非常に多くのクリエイターに影響を与え、例えば新世紀エヴァンゲリオンの登場人物には愛と幻想のファシズムで使われていた名前の影響を受けたキャラクターが多い。その過激な作風はクリエイターに限らず多くの人に影響を与え、今も名作や問題作として語り継がれている。

 

この『愛と幻想のファシズム』を読んでやはりレベルの高い小説は間違いなく面白いと再確認した。

専門用語や固有名詞が多用され、作者の哲学が語られ、歴史の象徴的なエピソードが随所に記述されている本作品は非常に読みごたえがある。

小説投稿サイトで一時的に閲覧数を稼ぐためにそのサイト受けする人気のテンプレ小説を乱造してもその他大勢で埋もれてしまうのだ。少し人気になったという錯覚意外に得られるものなど何もない。

 

そしてこれは自分がイラスト投稿サイトでも感じていることだ。

見る人が微増することに意味は無く、そのために自分の信念を捻じ曲げても何も残りはしない。

 

それよりも何かを作る人間というのは大袈裟かもしれないが、本当にトップを取り時代に革新をもたらす覚悟で、チャレンジャーとして挑まなければならないのではないか。

それぐらいの覚悟がない人間が「ちょっとやってみた」程度でネットに参入してくることが現代文化が劣化していることの根源ともいえるだろう。

制作や創作をする提供者側が本気で自分のやりたいことを追求する時代に戻らなければ現代文化はただの一時的な消耗品となり、いずれ誰も見向きもしなくなるだろう。

即上達!60歳からの小説の書き方全極意 楽しい!!やりがい!!ボケ防止!!人に役立つ!!一 [ 五十嵐裕治 ]