負け組ゆとりの語り場

社会に取り残された男が日々を語る

ゲームを極めることに意味があるのかと考えるこの頃

ゲームをすることは非常に面白く、自分も昔からずっとゲームをし続けている。

「ゲームが人生」だと言えば大袈裟かもしれないが、自分の人生の中で真剣に追及していきたい物の一つでもある。

小中学生の頃の夢はゲームクリエイターになることでもあり、まさに人生の中で重要な物である。自分は決してゲームが嫌いなわけではない。

 

つい先ほどもゲームをしていてやはりゲームは楽しいと思ったし、ゲームを批判しようとも思わない。よくゲームは無駄な事だとか、子供にさせてはいけないとか、精神に悪影響をもたらすと言われるが、そういった偏見にはもちろん反対の立場である。

 

ゲーマーは様々なタイプに分類される。

・キャラクターや世界観を目的にプレーする人

・ゲーマーのコミュニティがもたらす楽しみを重視する人

・コミュニケーションツールとして考えている人

・プレーの質や実力を極めることを目的とする人

 

自分はどちらかというと最後の質を拾究めることを目的としたタイプである。

ひたすら自分がこれだと決めたタイトルばかりをし続けて上達するために練習し、向上することに喜びを見出す。

 

自分が上手いプレーができたときは一人で自惚れているタイプだ。エキサイティングな勝負を求め良いプレーや美しいプレーに酔いしれる、そんなプレイヤーである。

 

その一方で最近はふと考えることがある

「このゲームが上手くなって自分はどうしたいんだろうか」

「この先の果てに何が待っているのだろうか」

「正直そこまで上手くはならないのではないか」

 

もちろんゲームをメリットがあるかデメリットがあるかでやることはナンセンスであり、やりたいからやっていることは間違いない。

その一方で楽しいことをやり続けるだけが人生ではない。これ以上上手くなるのか、そしてやり続けてどういったことが実現できるのか、そういったことも考える必要がある。

 

自分は今やっているゲームにおいてオンラインランキング最上位層になりたいとも思っているし、世界的な有名タイトルでもあるため世界大会に参加したいとも思っている。

理想は世界チャンピオンになることであり、強くなりたいとも思っているし上手くなりたいとも考えている。結果と中身の両面を追求したいと考えており「魅せて勝つこと」を信条としている。

 

その一方で現実にゲームを極めようとした時その世界は途方もない。

自分はオンライン対戦の高度化を批判的に見ている一方で、やはりオンライン対戦がゲームを高度にしたことについても評価している。

そして自分自身も真剣にプレーを磨き練習している立場である。

 

今の時代どのゲームも高度化しすぎて忙しいと思っているが、同時に本当に自分が好きなゲームについてはやはりオンライン対戦や高度な競争があってほしいと思っている。

ゲームは競技の領域に差し掛かっており真剣にすることは決して悪い事ではない。初心者がなかなか勝てず、どのゲームもすぐに上級者や経験者に叩かれる状況になっているが同時にそれだけ洗練されていることだともいえる。

インターネットを知らなかった時代を懐かしみながらもいざ無くなったら困るように、今オンライン対戦がなくなったらそれはそれで困る。

 

しかしそのオンライン対戦がやはり「途方も無さ」を感じさせる。

昔は全国大会も世界大会も縁遠い事に過ぎなかったが今ではすぐにその世界に直結させられる。オンライン対戦であっという間に全国や全世界の上級者と対戦することができる時代だ。

「ゲームが上手くなる」ということが曖昧だった時代に比べ、今では明確に数値化される。

おそらくそのゲームにおいてオンラインランキングの上位半分に加わることができれば大抵の場合その地域コミュニティにおいて屈指の実力者になったと言えるだろう。

 

しかしオンラインになればそれでもまだ半数以上の人には負けてしまうのである。オンライン対戦における中級者になれば十分実力者と言えるのだが、同時にそれで物足りなさもある。

オンライン対戦がなかった時代には十分満足できた領域も今の時代では満足できない。

例えばスポーツにおいて全国大会出場者というのは、その競技人口全体における上位10%に確実に入るエリートである。誰もが頑張ればなれる領域ではなく途方もない努力や備わった才能を要する。

こういった全国大会出場者は世界大会やプロと比較した場合は末端に過ぎない。甲子園や高校サッカー選手権に出場しプロに慣れた無かった無名の選手など無数に存在するが、現実のスポーツではそれは十分名誉や誇りになる。

 

しかしゲームのオンライン対戦にはそのような指標が存在しない。

地域コミュニティや現実のスポーツにあてはめた場合十分な実力者でも、ゲームの場合は所詮広大なオンラインの中の1人に過ぎない。

いきなり全国や全世界を一まとめにしてその中で位置づけが決められてしまう。またゲームでそういった上位に入っていることは自己満足でしかなく、現実のスポーツのようにそれがリスペクトされることは無い。

 

現実のスポーツならば経験者や実力者として尊敬されるレベルでその競技を極めていても、ゲームだとそれはあまり価値がない物にしかならない。

レーティングやランキングを誇りにしたところで誰も理解できない無意味な自己満足にしかならない。そのためどうしても「そこまで真剣に努力をして意味があるのか」という疑問が投げかけられる。

勝利を重ね上位になることだけを目的にしていれば、それが実現できなかったときに虚無の境地に達することになる。

 

もちろんそういった自分独自の世界を追求し、その領域を楽しむことは素晴らしい。万人に理解されるよりも少数の人にしか理解できない特殊な世界観を楽しみたいのもまた人間だ。

「わかる人だけにはわかるプレーの質」という境地に喜びを見出すこともこういった競技やゲームの魅力であり自分もその部分を追求している。

自己満足ではあっても本当に自分が好きなプレーを極めたときは楽しい。

「練習は裏切らない」という言葉のように、練習し上達しプレーの質が向上したときに大きな喜びを得られる。

昨日よりも上手くなったことが嬉しい。

 

その一方で、練習は裏切らないがゆえにその世界が途方もない。自分にはこのゲームさえあればいいというモチベーションでひたすら極めている人には練習量で叶わないし追い付けない。自分の努力も裏切らないが、他人の努力も裏切らないのである。

スポーツのプロの世界で練習しなければ生き残るのが難しいように、ゲームもまた練習が必要となる。

そういったことを考えたとき「自分はこのゲームを練習し続けて何が実現できるのだろうか」という疑問に駆られる。

 

前述のように自分はゲームが非常に好きであり、未知の領域を極めたいという探究心もある。

しかし自分の人生はゲームだけではない。

仮に時間が無限にあるのならば自分は今やっているゲームを永遠とし続けるだろう。時が止められるならば気が済むまでゲームをやっていたい。

人生がゲームだけをしていれば良いのならば幸せだが、他にもやりたい事ややらなければならない事がある。

ゲームも好きだが他にも好きなことがある、それならばゲームに投じる努力を他の好きな事に使っても良いのではないか。

 

例えば自分が重視している「プレーの質や美しさ」を目的とするならば、最初から芸術方面に注力したほうがいいだろう。ゲームの世界はどちらかというと実力や勝敗が重要であり、芸術性を楽しむ文化がそれほど盛んではない。

そういった芸術方面での自己実現を求めるのであれば初めから文学や美術の方面で頑張った方がいいのかもしれない。

小説や絵は自分の想像を反映できるため好きなことができる上に自由度が高い。ゲーム以上に理想とするものを作り出せるだろう。

 

これから芸術に時間を使って実現できる世界とゲームに時間を使って実現できる世界とを天秤にかけたとき、どちらかが自分の理想とするものに近づけるだろうかと考えたとき後者の伸びしろはそれほど多くは無い。

ゲームの実力は確かに練習すればするほど伸びているのだが、今後数年やり続けても劇的にプレーの向上が見込めるとは思えない。自分の中では上手くなった程度で無数に上位層が存在する。

 

更にゲーマーというのは他人のプレーに厳しく、辛口な傾向にありよ程のことがなければ他人の実力を認めない。そんな厳しい世界で「上手い」という言葉を貰おうと思えば途方もない努力をしなければならない上に、批判の方が集まりやすい。

その一方で芸術関連の世界というのはゲームに比べたとき人の才能を評価する傾向にある。

芸術の世界というのは趣味や好みが重視されるため、実力や上手さ以外のものでも評価されることがある。

 

もちろん芸術も競争社会であることには変わりないのだが、ゲームよりは比較的「嗜好」というものを重視したり評価する傾向にある。

自分の場合本気でこれから極めるのであればやはりゲームより芸術の方が自己実現できる可能性は高いだろう。これは自分のケースにあてはめた場合だが、他にやっている趣味と比較した場合ゲームを本気でやるべきなのかどうかは多くの人が考える必要があることなのかもしれない。

綺麗なことがやりたいのならばゲームよりも絵や文学を志したほうが本当にやりたいことができるだろうし、勝利が重視される世界では理想だけでは戦えない。それどころかゲームの世界は年々勝利至上主義に傾いており、質や趣きを重視することは綺麗事とみなされるようになっている。

 

その一方で自分はゲームをやめるつもりはないと思っている。

日本古来の考え方として「道」という概念がある。

それは必ずしもすべての競争に打ち勝つことが目的ではない。日本の近代競技やスポーツの概念がもたらされる以前は武道は精神的な修行に近い側面があった。

例えば剣道をすることは決して誰よりも剣術に秀でた存在になることが目的の全てではない。

己を鍛え、限界に挑み、自分がこれまで会得できていなかった精神的な境地に達することが目的の一つであるともされてきた。

 

剣道をすることは全国大会や世界大会で競技として優勝することが全てではない。

昔、剣道のドキュメント番組を見たとき80歳を過ぎても最高段位になることを目指し鍛錬を続けている剣道家を見たことがある。

もはや彼らにとって精神修行の領域に達しているのだろう。世俗的な考えとは距離を置き、ひたすら自分の世界や能力を突き詰めることは美しい。弓道などでも大会で優勝することより自分の段位をひたすら極めていくために照準する人もいる。その立ち振る舞いの美しさや精神面の鍛錬に黙々と打ち込む。

剣道や弓道においてはただ結果を出すだけでは昇段することができない。

本質を理解していなければ段位を上げていくことは不可能であり、勝利以上に大切なものが存在する。

 

これは武道に限らず市民大会などで実施される競技においても同じことが言える。マラソン大会などは民間で数多く開催されているが、上位に入ることが全てではない。最下位だとしても完走することに喜びを見出す人もいるし、自分の前回の記録を1秒でも上回ることを目指す人もいる。

市民大会への参加と記録の向上を生きがいとしているお年寄りランナーは、決してオリンピックのマラソン種目に出場できるわけではないだろう。

登山などで難所とされている険しい山に挑むのもそういった「自分との勝負」が目的なのかもしれない。

 

まさに自分の限界と向き合い少しでも向上すること自体に喜びを見出しており、人に勝つ事だけが全てではない。自分と向き合い、自分の限界に挑む、そのことにエネルギッシュな喜びを感じることもまたスポーツの楽しみ方である。

そしてそういった末端の競技者が競技全体を支えている。

ゲームももしかしたらそういった考え方が適応できるのかもしれない。

ランキングに入れない末端のプレイヤーもそのゲームを支えている一員である。

 

さらに優れたプレイヤーの上手さを理解するためにも自分が経験者であるという事は理解の助けになる。

どの競技にも言えることだが、少しでも自分がその競技をした経験があるとその上手さが理解しやすくなる。上手い人のプレーを理解するためにその競技を行うという考え方もできる。たとえばサッカーのリオネル・メッシがなぜ上手いのかというのは、ボールを蹴ったことがある人と蹴ったことがない人では理解度に違いが出る。

本当にメッシの凄さを理解したいならば自分がドリブルやシュートの練習をしてみることが有効である。いくら映像で何度も見るよりも、自分で実際プレーしたほうがその凄さに気付くことができる。

 

末端の競技者であってもその世界の一員であり、経験者であることで上級者の凄味が理解できるようになる。

トッププレイヤーの上手さを理解するために末端のプレイヤーになるという考え方もできる。

ゲームにあてはめるならばFPSや格ゲーなどは世界大会も開かれているが、ほとんどそのゲームをやったことがない自分には上級者の質と初心者の質の違いが判らない。それゆえにその世界大会を楽しむことができない、なぜならば全員同じプレーにしか見えないからだ。

 

その競技のプレーの質は経験者や普段から観戦している人にしかわからない、この法則はほとんどすべての競技に当てはまる。

例えそのゲームや競技の上位層になれなかったとしても、最低限の実力があるだけ上位プレイヤーの質の違いが楽しめるようになる。

そう考えると強くなれなくても自己実現できなくても、その経験は無駄ではなくなる。

 

それは将棋や囲碁も同じなのだろう。

おそらく凄い世界が広がっており、高度な戦いが繰り広げられているのだろうが勉強したことがない自分にはそれが理解できない。

逆にサッカーの試合でワールドカップ決勝やチャンピオンズリーグ決勝が行われた場合「これは凄い」と自分は楽しむことができるし、見ていない人はもったいないとさえ思う。例えその世界の末端の人間であっても、その競技を知っているか知っていないかだけで楽しめる物の数が増減する。

その世界において最下層の競技者であっても、その競技を知らない人よりは最高峰の試合を楽しむことができる。

 

最高峰にたどり着くことよりも、最高峰のものを理解することが目的であっても良いのかもしれない。自分が実際にやってみる事で上位者のクオリティを理解するヒントになるのであれば、それはどんなに弱くても下手でも無駄な事ではない。

 

楽しいからプレーする、勝って上位になりたいからプレーする、自分の世界を追求し向上するためにプレーする、上手い人のプレーを理解するためにプレーする、そのコミュニティの一員になるためにプレーする、人それぞれゲームをする動機を持っている。

ゲームを極めることの意味や目的、それは人それぞれ多岐にわたる理由があるのだろう。 

ゲームをすることに迷った時は自分がこれまで考えていなかった理由を探してみたらより面白くなるかもしれない。

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