負け組ゆとりの語り場

社会に取り残された男が日々を語る

将棋を好きな人は戦争賛美者なのだろうか?

将棋にしろチェスにしろ世の中戦いや戦争をモチーフにしたゲームは数多く存在する。古来から人間の歴史は戦争の歴史であり、現在もそれは続いている。

人間とは昔から戦いを求める生き物であり闘争本能がある。

 

現在世界で最も人気のスポーツはサッカーであり、これもまた戦争といえば戦争だろう。「サッカーは戦争だ」という言葉は大きく聞き、欧州の都市国家の伝統により都市間の対立が前面に押し出され、ワールドカップなどの国際舞台に置いてはナショナリズムの発露が大会を盛り上げる。

またFPSを筆頭とした射撃ゲームのように軍事をモチーフにしたゲームも多く発売されており、人間は戦いが好きなのである。

どんな過激な平和主義者も一切争いごとをしないと言えば嘘になるだろう。いや平和主義者の方がむしろ過激な活動を行い攻撃的に見えるほどだ。

平和を叫ぶ平和主義者でさえ実は過激な興奮を求めているというダブルスタンダードにある。

将棋

そう考えたとき日本の将棋はまさしく「戦」をモチーフにしたゲームであり、西洋のチェスもまたヨーロッパの戦争の歴史の中で洗練されていった。元々はチャトランガというインド発祥のゲームも「象」が戦争の道具であったことを示している。

 

戦争は人類の文明を発達させてきた側面があり、また現代の日常においても争いは競争を刺激し、スポーツの試合のような勝敗を決める興行が成り立っている。

本当に争いごとを廃止し、平和な世界を成し遂げようとするならばスポーツのようなエンターテイメントも滅ぼさなければなくなる。戦争や争いに起因した文化を排除すれば、日常文化の多くが消滅する。

本当に争いごとを禁止し平等を推し進めればその内"じゃんけん"さえも禁止しなければならないディストピア社会が訪れるだろう。

 

どれだけ綺麗事を口にしても人間というのは本能で争いや競争の刺激を求めているのだ。

争い競い合うことでそこに進歩が生まれる、戦う事で前に進む、それは抗う事の出来ない人類の遺伝子なのである。

 

しかし現代で将棋やチェス、そしてスポーツの愛好者が争いを肯定した戦争賛美者だとは限らない。戦争ゲームが好きな人をそのまま戦争賛美者だと考えることは安直な発想だろう。

「過激なゲームをしている人間は危ない人間だ」というレッテル張りが昔は話題になっていたが、今ではそのことの関連性が低い事は通説となっている。

 

将棋をしている人はむしろ日常生活において攻撃性が乏しく、むしろ大人しい人が多い。サッカー部のキャプテンと将棋部のキャプテンならばおそらく後者の方が断然大人しいだろう。

将棋は戦争をモチーフとしているにもかかわらず愛好者は実は温厚な人々なのである。

世の中の文化から戦争を期限にしたものを排除していけば、おそらく面白くない物しか残らないだろう。第二次世界大戦が終結し、世界が平和を求めるようになってから大きく価値観は変わったがそれまでは戦争はむしろ美徳の一つでさえあった。

 

戦う事は宿命でさえあり、人生は戦うために合った。

古来から人類の歴史において戦いは重要視され、時に美化されてもきた。

現代では価値観が変わりつつあるが、実は人間というのは戦争と向き合ってきた時期の方が多いのである。古来人類の歴史において常に戦いは日常であり、人間には闘争本能が存在する。

どの国の歴史を紐解いても争いと向き合ってきた時期の方が長く、歴史は強い者が勝ち弱い者が負けてきた。

 

現代のゲームもまさにどちらが強いかを決めるものであり、弱い者は負ける、それが当たり前になっている。

戦争も根本的な本質を突き詰めればどちらが強いかを決める事である。

徒競走が全員同じタイミングでゴールすることが当たり前になれば何も面白くないように、優劣をつけないことが美徳になった社会はどんな発展も生み出さないだろう。

 

人間という生き物は日常から差をつけあい、競い合い、そして進歩する。戦っていたり順位をつけて競争してたりするような時にエキサイトするような遺伝子が備わっているのだ。

平等を矯正すればそこに待っているのは歪な社会であり、より長期的に見れば人類の滅亡さえ意味するかもしれない。かつてネアンデルタール人が滅んだように、次はホモサピエンスが滅ぶのではないか。

ホモサピエンスがネアンデルタールに対して打ち勝つことができた一つの要因としてその闘争本能の高さが上げられている。

我々人類をここまで導いてくれたのが実は闘争本能や競争心なのである。

 

将棋やチェス、そしてサッカーや射撃ゲーム、世の中には争いごと起源としたエンターテイメントが多いが、それは人類の本能に直に通じるからこそ多くの人を喜ばせる。

そういった争いごとを否定してしまえばそれは人類の歴史を否定しなければならなくなる。

しかし現実的に将棋やチェス、そしてサッカーは多くの人を熱狂の渦に包みこみ世の中を盛り上げている。これからは人類が本来持つ闘争心や競争心を良い方向に使っていく時代にシフトしていくのではないだろうか。