負け組ゆとりの語り場

社会に取り残された男が日々を語る

正直ゲームで強くなってもまるで意味ないよな

よく大人になってゲームに対する情熱を無くしたという人がいるが、ゲームをやめる理由には様々な要因がある。なぜあれだけゲームに熱中できたのか、今思えば不思議である。

自分はゲームをやめたわけではなく現在も続けているがやるゲームのタイトルは年々縮小傾向にある。ここ最近まで3つに絞ってゲームをしてきたのだがついに直近の1年で1つのゲームしか実質的にやらなくなってしまった。

 

自分がこれまでやっていた3つのゲーム

ポケモンシリーズ

World of Tanks

FIFAシリーズ

このうち現在では専らFIFAシリーズしかやっていないという現状になっている。この3つですら絞って特化してやってきたが、ついにはこの3つの中から最後に残ったのはFIFAだけである。しかもそのFIFAですらプレイ時間は減少傾向にある。

元々自分は数多くのタイトルをやるより、本当に気に入っているゲームを極めて行うことが多かったが更にこの中から無駄を省いた結果最後に残ったのはFIFAである。

 

まずポケモンをやめた理由が結局ポケモンで強くなってもそれほど意味がないという事である。結局ポケモンは育成にかける時間があまりにも膨大であり、レート導入以降はは勝つためには好きなポケモン以外も使うというガチ勢の考え方が支配的になっており自分好みのゲームでもなくなっていた。

またポケモンが強い事の意味って何なんだろうなと考えたとき、「強くなっても意味がない」という境地に達するのである。

これがまさにタイトルの議題で、「ポケモンの強さ」とは世間じゃ全くリスペクトされない能力なのである。更にポケモンの強さというのもポケモンの特殊な世界でのみ通じる強さであり、あまり他のジャンルに応用できるものがない。

実際の所ポケモン特有の知識や読みであり、大半の時間は育成に獲られる。

以前はその育成にも楽しみを覚え、育成済みモンスターを揃えることに充足感を得ていたが今は正直データをすべて消しても特にショックは無いという程に冷めている。

結局あれってただのデータなんですよ、っていう基本的なことに気付く。

パズドラを未だにやってる人も惰性でやってるだけでサービス終了したら特にショックもなく受け入れられるという人が多い。

 

仮にポケモンの戦略性の奥深さを極めるのであれば将棋やチェスでもやったほうがよほど有意義だろう。そしてその将棋やチェスですら世間ではリスペクトされない能力であり需要もないのである。

仮にポケモンや将棋をやって何か得したことがあるという場合も、おそらく他のことをやっていればもっと得していたであろう。

「ゲームは好きでやっているわけであり損か得かではない」という考え方は一理ある。まさにその通りでポケモンや将棋が本当に好きで楽しいと思ってる人は辞める必要がないだろう。しかしちょっと好きなぐらいの人が無理に続ける必要もないのである。ある程度ポケモンファンになってくると、自分がレートで中級者ぐらいの実力は持っていたいと思う物だが別のあのゲームで弱くても恥ずかしいわけではなく無理にその地位を維持する必要などないのだ。

自分はポケモンの強さを誇りに思っていた時期がありこの世界を極めたいとさえ思っていたが、案外一線から退いてみると清々しい晴れ晴れしさがあることを知った。

最初は時間的な余裕ができたらもう一度復帰したいと思っていたが、もう今はそもそもポケモンをやろうと思わなくなり新作を一通りクリアするだけで十分だとさえ思っている。中途半端に続けるぐらいなら完全にやめたほうがよほど有意義に時間を使える。

「案外やめても困らないな」というのが正直な感想であり、その時間でもっと究められることなどいくらでもあるのである。

 

更に言えばそのゲームで集めたものや強さなどもそのゲームをやっている人にしかわからないのである。たとえばパズドラやモンスト最上位クラスの人のデータでさえ自分からみたらどうでもいいものにしか見えない。そしてポケモンで強いという事も、ポケモンに興味がない人から見ればその程度にしか見えないのである。

本当のトップですら世間から見ればどうでもいい扱いなのに、ユーザー上位の10%のガチ勢のほとんどは更にどうでもいい扱いなのだ。ネットや大会のコミュニティでは多少承認欲求が満たせるかもしれないがその10%に入る努力でもっといいコミュニティでの地位を築けるのである。

究めれば全く得しないわけではないが、現在どのゲームもガチ化しすぎていて極める事が難しい上に極めたときのリターンもそれほど多くは無い。もう今のゲームはほとんどの有名タイトルが努力なしでは勝てない時代になっており、努力を投資する対象としては効率が悪いというのが現実だ。

大部分はその上位層にもなれないのが現実で、金銭も時間も消費して終わるだけのことが多い。「努力の投資先」と考えたとき「中位層になっただけでも十分見返りがあるジャンル」を選ぶことのほうが効率がいい。ゲームは典型的な「上位層になることが難しい上に、上位層になってもそれほど見返りがない」という過酷なジャンルであり、努力の投資先という概念で考えたとき非常に効率が悪いコンテンツだと言える。

オンラインゲームで勝てないと思っている人は無理に強くなろうとせずに、早々にゲームが強くなっても意味がない事に気づき他の努力を始めたほうがよほど良い人生になるだろう。

 

よく「コミュニケーションツールで役に立つ」という人がいるが、これは特殊なケースでありこれはゲーマーが自分に言い聞かせるための理由づけに他ならない。世の中コミュニケーションツールで考えたとき実はもっと優れたものはいくらでもあるわけで、コミュニケーションツールとしてみたときは効率が悪いのが現実だ。

リアルで話題を広げたいならスポーツや芸能に興味を持った方がよほど効率が良く、コミュニケーションツールとして代替できるものはいくらもであるのだ。

現実にゲームをコミュニケーションツールにできて得をしたというケースは一部の人だけであり、運が絡んで来たりそもそもその人はゲーム以外にも別の能力があるということが多い。

ゲームそのもののメリットというよりも、その人は別の長所や能力を既に兼ね備えているのであり本当にゲームのおかげで得をしたという人は稀である。

そしてその努力をより効率の良いことに投資できていればもっとよい結果を得られていたかもしれないのだ。

 

つまり「ゲームが強いことを評価する人」というのが既に少数派であり、大部分の人はゲームが強いことなど気にも留めない。そういったニッチなジャンルにおいて更にその中ではガチ勢が競い合っている。その狭い世界観の中に属しているとそれが素晴らしい物に見えるが一歩引いた目で見たときは「なんでこんなことを頑張っていたのだろうか」と気づかされることが多い。

ゲームが強い事よりも語学や楽器、スポーツが上手い事の方がよほど評価されるわけであり人から評価されたければゲームなど早々に辞めたほうがいい。そのゲームのデータを理解できる人など少数派なのが現実だ。

 

実際ポケモンに関するケースはまさにそれで、「レート2000越えってすげぇ」といつかたどり着きたい夢として憧れていたが今思えば「レート2000になってどうするの?」という話に行き着くのである。ポケモン好きの自分ですらレート2000超えたところでその人が凄い人でないことに気付くのである。ポケモン廃人になって行き着く境地など人生で一切知らなくても良い物なのだ。

 

そもそも「ゲームが強いことを評価する人」というのは存在せず、実は更にタイトルごとに細分化しており「ポケモンという固有タイトルで強いことを評価する人」と更に分岐している。

ただでさえニッチで競争の厳しい業界に割って入ることは努力の投資として考えたときに非常に効率が悪く、ゲームを頑張ったおかげで金銭も人脈も得られたという人はそれほど多くない。一部の特殊な勝ち組であり大部分は名も無き敗者になる、それよりはもっと日常で役立つ能力人から評価されやすい能力を極めたほうがいいのである。

 

ただゲーム自体をやめたわけではないし、まったくやっていないわけではない。結局最後に損得度外視で残るのは本当に自分が楽しいと思ってやっているゲームだけであり自分の場合FIFAなのである。

世の中ゲームを続ける理由に見栄や積み重ねてきたものに対する未練のようなものがある。

例えばポケモンでレートを維持することは一部の世界で通じる見栄であり、その見栄すら本当は誰も気にしていなくて自己満足なのである。オンラインゲームやソシャゲのデータもそのバーチャルな中での順位やポイントへの満足感によるところが大きい。そしてそれがくだらない物や誰も気にしていないものだと気付いたときにどうでもよくなる。課金者のデータなど本人以外からすれば至極どうでもいいものばかりだ。

ゲームを自分の個性の一部にできている人は例外として、大部分のただプレーしてるだけの一般ユーザーにとってそういった見栄や未練から解放されたとき最後に残るのは本当に好きなゲームだけなのである。

自分はこれ以上ポケモンに拘ってもリターンは少ないだろうし、そもそもポケモンが強い事に感じていた憧れもなくなった。World of Tanksもしばらくやらない時期が続き、無くても困らないことに気づいた。いずれはサービスが終了する時がやってくるという現実があるのである。

どちらもかなり頑張ってきたゲームではあるが、正直その時間で他の努力ができたのではないかと思わずにはいられない。その時楽しかったからよいのだが、飽きたとき本当に何も残らないのがゲームなのである。

その世界で上位になったところで、リアルの自分の順位は下がり続ける、それがゲームだ。「その世界で上位になって何になるの?」と考えればすべてのゲームがどうでもよくなるし、ソシャゲに課金してガチャをしている人は見栄に縛られた愚か者である。それが本当に楽しいと思って価値を感じてる人まで批判しようとは思わないが、惰性で続けてる人には思い切ってやめる勇気をもつことができれば清々しい解放感を得ることができるだろう。

 

そう言いながらも実は自分はオンラインのWorld of Tanks「積み重ねたデータ」があり脱却できずに未練を感じている立場でもある。ただ依然ほど未練は無くなっている。

WOTは戦車知識もついたしメリットがこれまでなかったわけでもないし、いろいろな「戦場」で戦ったことはいい思い出だ。今でも再開できる環境があるならば再開したいとも思っている。リアルの友人とやっているため音声で通信しながらやる時が来るならばまたいつでも再開したい、しかしそれは決して今である必要はなくそもそも友人とのコミュニケーションツールならば他にいろいろあるのである。

 

そもそも現在なぜWOTをしていないかと言えばグラフィックボードが不調でそもそもプレーできないことと、暮らしているところの状況で夜にボイスチャットをしながらプレーできないからである。

このゲームに関してはやめたわけではないし、アカウントは存在するので再開できる時が来れば再開はするが長い期間やらなくなったことで、プレーしなくても困らないことに気付いた。

友人と話したければ文章で事足りる上に、家が近いため直接行けば十分なのである。

結局自分の中でWOTが楽しかった時期というのは、それが楽しめる環境があった時期でありゲームの楽しさは環境に依存するという話でもあるのだ。

つまらないゲームもそれが楽しく感じる環境というのは存在するわけであり、実はゲームの楽しさを左右するのはそのゲーム自体の完成度よりそのゲームを楽しめる環境があるかどうかなのである。

 

面白い奴と一緒にゲームをすればしょうもないゲームでも面白く感じるし、どれだけ良いゲームでも一人でやっていたらそれほど面白くないという不変の真理がある。一人で食べる高級な料理よりも、面白い奴とワイワイ食べるB級料理なのだ。

「ゲームが面白いのではなく、誰かとゲームをやるから面白いのである」という真理に友人と議論して気付いたのだが、もはや友人と楽しむことに関してわざわざゲームをする必要すら感じなくなったのである。

自分の中でポケモンが楽しかった時期というのも学校の中で流行ってて皆でやっていた時期であり、大人になって一人で地味にレートを上げても結局自分が広大なオンラインの中のその他大勢の一員に過ぎないという事にただ気付かされるだけなのである。

「この広大なオンラインの世界で俺は上位になる!」という情熱があったのは10代までであり、いい年してくると「ここで頑張って何になるんだろうな」という事に気づく。

更に言えば地域ローカルコミュニティの中でそれなりに強かった自分がネットのガチ勢の中に加わればただの一般ユーザーに過ぎないということに気付くのだ。

努力すれば何とかなるかもしれないが、そのためにわざわざ努力をするならば他のことをした方がいいというのが大人になって下す決断であり、損得度外視でゲームに没頭できる期間というのは有限という悲しい現実がある。

 

ではなぜ自分がそこまでゲームに情熱を無くしたのにFIFAだけはやっているのかというと、FIFAが自分に合っていて損得度外視で楽しめるからである。

まずFIFAのいいところがデータを積み重ねる必要がなく、積み重ねるのは純粋に自分の実力だけだという点にある。勝つために優れたデータを揃える必要がなく必要なのは自分の実力だけだ。

例えばFPSで鍛えた能力はある程度別のシューティングゲームにも役立つため、ゲームにおける射撃技術やエイム能力というのは次回作でも継承される。

鍛えた能力が無駄にならないという事は魅力であり、FIFAFIFAの技術は来年のFIFAでも通用するし、数年前のFIFAをやっても能力は通用する。

現にグラフィックボードが不調で今のPCではできないが、もう一台持っているPCに入っていた2年前のFIFAでも十分に楽しいのである。その設定でレアル・マドリードをものすごく強くして、ひたすらそのレアル・マドリードを倒すという事を日々自分はやっている。確実にFIFAの実力は伸びて実力が伸びているという楽しさも感じているから続いている。

 

そもそも自分はサッカーが好きであり、FIFAで得た感覚というのは実は実際のサッカーやサッカー観戦にも役立つことがあるからサッカーを楽しむ一貫としてFIFAもやっているのである。FIFAは「リアルなサッカーとは程遠い」と言われつつもルール上は実際の公式のサッカーと同じであり、サッカーっぽい要素が決してないわけではない。完全に同一視できるわけではないが、FIFAをやることでサッカー観戦のヒントになったりサッカー観戦をしたあとちょっと対戦したくなったらFIFAをやってみるという交互に楽しむことができる。

また実際に自分がサッカーをする立場になったときもFIFAで得た感覚は役に立つことがあり、実際の育成現場でもウイニングイレブンのようなサッカーゲームが取り入れられ始めているしサッカー選手の中にもサッカーゲームで学んだという有名選手は多い。

 

逆にポケモンやWOTの能力というのはあくまでその特殊な世界の特殊なルールの中だけで通用する能力に過ぎない。まったく応用できないというわけではないが、あくまでポケモンの中だけで成立しているようなことは多い。しかもそのポケモンはシリーズごとに毎回環境が激変するため継続性がない。

WOTに関しても15対15で第二次世界大戦の頃の戦車だけで綺麗に対戦が成立することなどありえないである。現実には地雷や空爆、歩兵からの攻撃もあり、あくまで戦車ファンが戦車を楽しむことに特化したゲームでしかない。少し前はガンダムオンラインをやっていた時期もあるが、こういったゲームは好きな機体動かして戦争の雰囲気を味わうことが目的でありその能力はその世界でのみ通じる限定的なものが多い。

WOTの強さというのもWOT特有の立ち回りであったり、WOT内における戦車の強さやマップの暗記に近い側面もある。その部分を感覚でやっているため実力が上がらないのだが、ポケモンに関してもWOTに関しても「知識ゲー」「作業ゲー」的な要素がモチベーションの負担になる時がある。

 

それに対してFIFAは大事なのは自分の操作であり、操作に自分の個性が出せるしアクションゲー的な側面もあり感覚や直感でやった方が上手く行く時もあるためやっていて精神的に楽でもある。データの積み重ねや知識の吸収を気にせずただひたすらに強くなるためにプレーし続けるということが自分にとっては非常に楽で楽しく感じる。

ゲーム内におけるデータやポイントを積み重ねる事よりも自分の実力を上げたいというタイプはこういったアクションゲームの方が向いているかもしれない。

自分は収集ゲーとしての楽しさよりも自分のプレーの質を突き詰める楽しさを優先するタイプであり、そのほうが結局残る物は多いのではないかとも思う。

またFIFAには頭を使ってプレーするという楽しさもあり、どう崩していくかというのは将棋やチェスに近い物もある。自分はFIFA脳筋ゴリ押しプレーをするタイプではないのでアクション的な楽しさも戦術的な楽しさもこのゲームで両方満たすことができている。

 

結局すべてを満たすことができるゲームを見つけてそれに特化したほうがいいんじゃないかなと最近は思っている。

ミリタリー的な楽しさや友人とのコミュニケーションツールと考えたときWOTをやればいいし、一人でゲームをするときは普段FIFAをやることにしている。あとFIFAでいいところは、いろいろ思索しながらプレーできることでFIFAのプレー中にひらめいたことをブログに書いたり、考えをまとめたりすることもある。

こういうアクションゲームをやりながら自分の中でいろいろ思考して考えをまとめているという人は世の中結構多いのではないだろうか。常に全力でそのゲームをあるわけではなく、自分が慣れたゲームをダラダラやって頭では別のことを考えると結構思索がはかどることがある。

 

そういう自分の日常生活の中のリズムを考えたとき、残念ながらポケモンには解雇宣告をしなければならない。正直自分の中でもうこのゲームを続ける必要性は感じないし、このゲームは結構究めることが大変なのである。

自分の中では弱くても楽しいというゲームではないし、逆に強ければ何でもいいというわけでもないため極めようとしたら本当に大変であり自分の理想やこだわりが高すぎるが故に精神的な負担になっていた部分もある。

ゲーマーがしばしば直面するジレンマとして「強さと個性」の両方を求めようと思ったとき日常生活のすべてをポケモンに捧げる必要が出てくるが、自分の人生はポケモンだけではない。それならばいっそのことやめてしまったほうが他の事に集中できるのである。

「強ければ自分の哲学の反したこともやる」というわけでもないし「弱くても自分の好きなポケモン使えてるから楽しい」という妥協もしたくない。自分はポケモンに対して理想とこだわりが強すぎたのかもしれない。その二つを両立しようとしたら相当大変であり、そこまで極めるならばもっと現実的な利益になるようなものを極めたほうが結局満足感を得られるのである。

自分の人生はポケモンだけが全てではないのだ。

このガチ化の時代に好きなポケモンや戦術で本気で勝とうと思えば並大抵の努力でできるものではない。ポケモンで強くなることは何かの資格を取れる程膨大な時間と労力が必要になるほど大変になっている。

「時間があって生活に余裕があってこのゲームで強くなることで利益が得られればできるんですけどね」という都合のいい言い訳を作ってきっぱりやめたほうが精神衛生上も良いという事に自分は気づいた。現実にポケモンマスターになったところで人から認められて食っていける人は少数派なのである。そして自分の趣味を何らかの利益に変える才能がある人は他のことをやっていればもっと上手く行くのだ。

 

別にこれはポケモンに限ったわけではなく自分の中でもうやらなくてもいいようなゲームを思い切って切るというのは他のゲーマーにとっても参考になるのではないかと思っている。

無理にやり続けるゲームなんてないんですよ、という話で「このゲーム頑張って続ける必要があるのかな」という問いは一度投げかけてみても良いかもしれない。

「強くなることが大変だし、頑張って強くなれる保証もないし、そして頑張って強くなったところで何か人生が劇的に変わるのだろうか」と考えたときに無理してつづけるゲームは限られてくるのである。

そのゲームの中で強くならないといけないという強迫観念から解放されると本当に心が穏やかになることに自分は気づいた。

心の底からゲームを楽しんでいる人ならばゲームをやめる必要はないだろう。人生は楽しむためにある。しかし無理して続けてる感覚に陥る時があるならば、アカウントやデータ、順位への未練を断ち切ることも必要だろう。ゲームを完全に止める必要はないが、案外やらなくてもいいようなタイトルを惰性で続けていることも多くそういった無駄な物から削減していくと心が穏やかになる。

人間関係の広さやプレーしているゲームタイトルの多さにそれほど意味はない。

無駄な物やそこまで必要のない物はどんどんと削減し密度を高める方向に向かうのもありだし、余計なものがなくなったことで得られる「スペース」は他の事に使える。

部屋と同じで、いらないものを捨てれば他の何かを置く場所ができるのである。

人間関係もやっているゲームも、部屋の置物もいらないものはどんどん捨てていく。そうすればまた新しい何かにに巡り合えるかもしれない。