負け組ゆとりの語り場

社会に取り残された男が日々を語る

ガンダムオタクが初代しか認められない風潮

ガンダムシリーズについて語る時、宇宙世紀の話は避けて通ることができない。というよりもむしろガンダム宇宙世紀や初代になっている側面すらある。

ガンダム芸人」というくくりで話される時も「ガンダムといえば当然初代だよな?」という風潮があり、ファンも高度な宇宙世紀への知識を求めていることが多い。

我々ガンダムファンはあまりにもこのジャンルを敷居の高い物にしすぎてきたのではないだろうか。

 

自分自身はガンダムファンを自認している一人だが機動戦士ガンダムSEED,機動戦士ガンダム00新機動戦記ガンダムWを中心に見ておりガンダムについて話すときもこの3つが多い。正直なところ宇宙世紀には基礎的な知識についてしか知らず知っているモビルスーツや登場人物もにわばにわか知識のような状態である。

 

しかしガンダムはそれぞれのガンダム観やガンダム哲学のようなものが存在するべきなのではないだろうか。あまりにもこのコンテンツは巨大すぎて、全てを知ろうと思っても難しい。そういって敷居を高くすること自体がコンテンツの寿命を縮めているようにも思えるし、今後の多様性や発展の可能性を考えたときこれ以上宇宙世紀という遺産にこだわり続けていても跡が育たないのではないだろうか。

 

ガンダムWだけがものすごく好きでそれ以外に興味がないという人もガンダムファンとして考えても良いし、そういった一つの作品しか見ていない人も世の中全体で考えたときに既にガンダム中級者なのである。

世間の一般的な人々はガンダムを1つのシリーズでもしっかり見たことがあるという条件になると極端に限られており、ガンダムについて語ったりガンダム議論をする事すらできないということが多い。現実においてもはやガンダムはかつてのブランド地位を失っており、好きな人だけが好きで、狭いコミュニティでしか話題にされないようになってきている。

 

そういう状況で更に宇宙世紀原理主義、更に言えば初代原理主義のような業界の風通しを悪くするような狭小なイデオロギーがはびこっていることに疑問を感じずにはいられない。

宇宙世紀ですら初代しか許されないという雰囲気があり、せいぜい逆シャアまでという意見が多い。

 

しかし実はガンダムファンの全員が宇宙世紀を見ているというのは間違いであり、実際の所初代の話をすべて見たことがあるという人はそれほど多くない。

自分自身これほどガンダムが好きであり、友人ともガンダム議論を交わすことがあるのだが一向に1stや逆シャアを見る気にならない。他のシリーズも少し見た程度で完全に見終わったものは現状00、SEED,Wしかない。

むしろこの3つが好き過ぎて、この3つの原理主義者になっている側面すらあるかもしれない。そしてガンダムファンとして3つ見ていればもうそれで十分なのである。

大河ドラマ仮面ライダーという別のジャンルに置き換えたとき、その作品群の中で3つ見ているだけでも十分そのジャンルのファンだと感じるのではないだろうか。

世間的に見たときガンダムシリーズを3つ見ていると言うだけで十分ファンであり、この広大なガンダムシリーズの中から3つ好きな物を選んで好みに合う物だけを見ていても十分ガンダムオタクやガノタの一員なのである。

 

そもそもアニメのガンダムを見ているという人ですら実はその時点で中級者で、ガンプラだけを作っているガンプラ勢やゲームだけをしているゲーム勢なども一定数存在する。また声優目的でそのキャラクターを見ているというファンも多く存在しており、こういった人も含めてガンダムファンである。

ガンダムはいわば多民族国家のようなものだ。

どんなファンがいても良し、それぞれが独自の楽しみ方をしていてもいい。

ガノタの作法」「ガンダムファンの教典」など存在しない。

それぞれがガンダムという広大なシリーズの中から好きな部分だけを楽しむ、そして独自の哲学を持ち、自分だけのスタイルで楽しむ、そういう多様性があっても良いのではないだろうか。