ワイ将、なんだかんだで輝夜月ちゃんの動画を見る模様
皆さんは「輝夜月」というユーチューバーをご存じだろうか。
昨今の世の中はユーチューバーと言われる人々が求心力を集めており、もはや芸能人以上の影響力を持つに至っている。
インターネットが誰にも知られていない世の中の片隅だった時代は遠い過去のことになり、今はネット上の有名人物が「インフルエンサー」として世の中に影響力を与える時代になっている。
その中で最近は「バーチャルユーチューバー」という人々が新たなトレンドを作りつつある。
「人々」といえば少し語弊があるだろう、なぜならば彼女らは実際には本当のユーチューバーではなく3Dグラフィックによるキャラクターであり、声優がそこに音声を当てている架空のキャラクターに過ぎない。
しかし今、もはやアニメのキャラクター以上にこういったバーチャルキャラクターが抜群に受けているのである。
特に「首絞めハム太郎」と揶揄される輝夜月(かぐやるな)というyoutuberは今、ネット上のトレンドの一つと言っても過言ではない。
このキャラクターの特徴を簡単に表現するならばそれは「うざかわいい」の一言に尽きる。
確かにうざったいし生意気だしズケズケと視聴者に話してくるという設定になっている。しかしこれが絶妙に"孤独な"視聴者の心をエグるようにできている。有名なハム太郎の中の人が、これまたハム太郎ボイスで話すのだから非常に奇妙なキャラクターになっている。
しかしアニメキャラクターというのはもはや理想のヒロイン像より、ちょっと「変なキャラ」のほうがウケる時代になっており、その変なキャラクターの極致と言えるのがカグヤルナなのかもしれない。
実際自分もなんだかんだでこのキャラクターが癖になり、youtubeで関連動画にあれば再生してしまう。うざいけれどもそのキャラが癖になる、何度も見たくなる、そんな構造がここにはある。
それにしても何か1人のキャラクターにネット上が盛り上がるということ自体久しぶりの現象である。
「涼宮ハルヒの憂鬱」や「けいおん!」のような京アニの作品、「灼眼のシャナ」や「ローゼンメイデン」、そして「魔法少女リリカルなのは」のようにネット上が萌えキャラクターに盛り上がる現象というのはもはや過去のものになりつつあった。
その後「艦これ」や「デレマス」のようにゲームのキャラクターに盛り上がる時代を迎えたものの、いまいち全盛期のネット上のオタク文化のような盛り上がりは存在しなかった。
正直に言えばネットが一つのキャラクターで盛り上がるのは「けいおん!」の4人で誰が好きかという論争を最後に過去の物として消えて行った。スマートフォンが普及したこともありネットの雰囲気は大きく変化し、「日本人総ネット民化」の時代が到来してSNSや動画サイトがそのまま社会に影響力をもたらす時代がやって来た。
そうすれば何が起こるのかというと、もはや架空のキャラクターにネット上のユーザーが集合して盛り上がるという文化自体が衰退していくことになるのだ。
社会から隔離されたネットだからこそ、ネット全体で一体感があったが今の時代にそれはもはや成立しない。
ネットの中でもそれぞれがコミュニティを形成し、もはやインターネットという現実から離れた共同体に対する幻想は存在しない。
それゆえにアニメや漫画の二次元や架空のキャラクターに萌えるという行為自体が古いものになり、その後の声優文化やネット上の配信者の時代に移行する。
つまり最近のオタク層はもはや架空のバーチャルな存在に夢を見られなくなっていた。
そこに久しぶりに登場したのがバーチャルユーチューバーという存在である。
アニメでもなく、そしてソシャゲのキャラクターでもない、それがバーチャルユーチューバーという新しい概念だ。
自分自身そういったAIのキャラクターを熱心に好きになっているわけではないが、確かにバーチャルyoutuberの動画は見やすい。一つ一つの動画が数分で終わるので、一つのアニメ作品を全話見て深く知識を兼ね備えなければならないという「強迫観念」にとらわれることが無い。
話しを深く理解していなければ本当のファンについていけないという強迫観念が底には存在しない。
従来のアニメファンにはストーリーを理解して深いことを語らなければ叱られたし、簡単に意見を言う事すらはばかられたが、そういった苦労がこういったカジュアルなコンテンツには存在しない。
ただでさえ日常の生活に疲れている人々にとって、頑張ってアニメを見て熱心に考察して深い事まで考えているオタクの先輩方についていくと言うのは中々大変な事なのである。
バーチャルユーチューバーは良くも悪くも底が浅い。
つまるところ所詮適当なキャラクターに過ぎないので、そこまで真剣に見る必要が無く頭をからっぽにしてみることができる。
もはや「けものフレンズ」以上に、頭を簡単にしてシンプルに楽しむことができる。
現代人は日常生活や希望の見えない社会に疲弊しており、今やアニメの世界に即自的な癒しを求めている。
時代の変化と言えばそれまでだが、何かしらの文化やコンテンツというのは簡単でカジュアルな方向に向かう運命にある。昔はオタクにとってアニメと言えば真剣にみて台詞の一つ一つを考察し、キャラクター1人を真剣に愛する物だった。
それが今はアニメキャラクターはその季節ごとの消耗品であり、かつてオタク層が忌み嫌った"一般人"のように洋服を季節ごとに切り替えて消費するかのごとくキャラクターを消費している。
そしてそれも時代の変化なのだろう、こういったカジュアルなユーチューバーの動画を一つ見れば簡単にファンやオタに慣れるという気軽さを体験してしまえばもはや面倒な過去の時代には戻れない。
なんとなくyoutubeを開いて、一つ数分の動画を見れば自分も「輝夜月」というキャラクターを知っているファンの一人になれるのである。一つの動画でも見ればその日からファン、その手軽さは何にも代えがたい。
いくら流行っているからと言ってアカウントを作ってゲームをする必要もなければ、数十話のアニメを見て話題についていく努力をする必要もない。
動画一つを見ればその瞬間からファンになれる、このカジュアルさが人々の心をつかんでいる。
誰しもが面倒なことは避けたがる、その象徴がバーチャルユーチューバーという概念なのだろう。
とにかく簡単で努力が必要ない、疲れる必要もなく夢を壊される不安も無い、それがバーチャルユーチューバーである。
もはや日常や現実に疲れ、"癒し"を希求する人々にとって、最終的に行き着く先は数分で楽しむことができる存在なのかもしれない。
なぜ最近のお正月は"正月感"が無いのか
お正月をエンジョイできているリア充と、そうでない非リア充がいるならば自分は後者になる。どうもあまりお正月だという実感がわかず、当たり前だが年が変わる事にそこまで意味がないことに気付かされる。
カレンダーの暦が変わるだけでしかなく、何かが去年と今年で革命的に変化するわけではない。世の中に劇的な出来事でも起こるのではないか、自分の人生が大きく変わるのではないかという期待は虚しくも泡沫のように消える。
正確に言えば変わる物ではなく、"変えていく物"なのだろうが特にやる気やモチベーションが新年になったからと言って湧くわけでもない。
情熱があった頃の自分は新年が始まったら気合を入れていたが、実はその時から3日しか続かなかった人間である。
「今年は毎日勉強しよう」という目標を立てるが、既に元日から何もしないタイプの人間だ。
またお正月特有のイベントも自分には無縁なのであまり楽しいという実感がわかない。
子供の時や学生時代ならばお年玉も貰えて、「さて、おもちゃ屋さんが開いたら買に行こう」と思えたがそんなことは大人になれば無縁になる。本来ならば自分がお年玉をあげる側になるのだが、独身であるのでそんなことも無い。
お年玉に関して言えば親戚の子に上げるというパターンもあるが、人間関係が希薄な昨今においてあまりそういう事も無い。むしろ上げるつもりなど無いし、上げる物も無い、自分が欲しいくらいだ。
また最近物欲が減衰し何か手に入れたいものが無いというのもこの虚しさに拍車をかけている。底辺の貧困層はその状況が続きすぎると、もはや何かが欲しいという感情すらなくなっていく。
カイジの遠藤理論で言えば「バスケットゴールが100m上空にあれば誰も投げようとしなくなる」という話であり、欲しい物が買えない状態が続くともはや興味も無くなっていく。一度底辺の貧困層に落ちぶれれば何かへの欲望さえも無くなっていく、だからこそ何もない新年が楽しくないのだ。
本当に虚しく情けないが、本来ならばこういう空白は恋人と過ごせば何の問題も無いのである。むしろ自分の年齢で言えば恋人と過ごしてリア充真っ盛りになっておかなければならないが、それができていれば特に苦労はしない。
ただそれでもお正月のテレビ特番などがあるが、自分はめっきりお正月にテレビを見て過ごすということが減った。元々箱根駅伝は見ないようなタイプだし、最近は高校サッカー選手権や天皇杯を見る情熱も無くしている。セレッソ大阪が優勝したというのをネットニュースで知っただけだ。
格付けチェックも見た人の感想をネットで見るぐらいでお正月特有の番組を見る労力は無くなってしまった。
何かを手に入れて楽しめるわけでもない、誰かと過ごして楽しめるわけでもない、自分にとって楽しいことがあるわけでもない、だからお正月感を実感できないという構造がここにはある。
世の中の人は楽しそうにしているのに自分はつまらないどん底にいる、だからこそ尚更虚しく感じる。劣悪な精神状態に陥ると、それまで楽しかったことが楽しく感じられるようになり何もかもが、そしてついには生きることそのものが面倒に感じる。
それでも大晦日は歌番組を見て過ごしたが、正直その時が楽しさのピークだった。
それが終わってしまっていざ新年が始まるとどっと現実が押し寄せてくるような虚無感に襲われる。やはり当たり前だがそれは暦という概念がただ変わるだけでしかない。
新年になって別人になるわけでもなく、相変わらず去年と同じ現実がある。
仮にドッキリ企画で世間から隔離された空間に何人かを移住させて、徐々に暦を変えていく企画をすれば誰も気づかないだろう。人間は日付の感覚をどこで分からなくなるかという企画があるならば、大抵の人は新年が変わる日のことを気付かない。
去年は散々だったから今年は"復興"の年にしていこう目標を掲げることはできる。
毎年今年こそ良い年にしようと意気込むが結局去年より酷い状況になることが続き、終いにはもうそんなことすら思わなくなった。
しかしそれで諦めていても、現実は続くのである。
例えば自分ならあまりにもお酒を飲みすぎているライフスタイルをそろそろ改めなければならない。昨晩の散々飲んで今日は朝から押し寄せる現実感が虚しくてたまらない。
新年の目標があるならば、もう一つ言語の習得にも本気を出したい。
かなり強いモチベーションを持てる外国語を見つけたので、1年で通訳なしで旅行に行けるぐらいに進歩するのが理想だ。モチベーションがある時は1年でも言語は習得できるが、逆にモチベーションが無い時は何年経ってもしゃべることができない。
それで言うのならば来年のお正月は海外で過ごしたい。
自分は日本特有のお正月の雰囲気が好きで、年末をハワイで過ごす人のことが理解できなかった。
しかし「非日常の異空間」という意味では海外で過ごすのもありかなと思うようになった。年末は台湾、新年は韓国というパターンで分けて過ごすのも面白そうだ。結局遠足は前日までが楽しいことや、ゲームは買うまでが楽しいのと一緒で旅行も計画を立てているときが一番面白い。
更に正月ではなく旧正月を中国で過ごすというプランも面白そうである。
中国は西暦の正月ではなく日本で言えば2月ごろにある旧正月を大事にすると聞く。中国人は旧正月を祝う事を本当に大事にしているらしく、そこで過ごすのならばお正月を2度楽しめて楽しいのではないか。正直日本で1番イベント感が無いのは誰も節分など興味ない2月なので、中国で代替するというのは一つの計画に入れたい。
しかし海外で何日も過ごすというのは経済的に大変な事でもある上に、昂揚感はあるが逆に落ち着かない可能性もある。
非日常感を求めながらも、落ち着く日常を求める複雑な心理があるのだ。
それならば素直に親戚の家で過ごすというのもいいかもしれない。数年前に辺境の山奥にある親戚の家で過ごしたことがあるのだが、今ととなってはそれが良い思い出となっている。
また家族が住む場所を変えたらしいので来年はそこで過ごしてみるのも計画の一つにしたい。
なぜお正月の番組を見る気分にならないかというと結局そういうお正月SPは一人で見るには長すぎるからだろう。特番というのは誰かと過ごしながらワイワイ過ごすから楽しく感じるのである。
近年はそれをSNSで共有して楽しむというライフスタイルもあるが、自分はどちらかというと旅行記を投稿している人の物を見ることが多い。
来年は自分が旅行記を投稿する側になれれば一つの夢が叶う事になる。
あるいは何かのイベントに参加するかお店で過ごすかというのも一つの選択肢にはいる。
自分が好きなアイドルのコンサートに行くことや、スポーツの試合を観戦しに行く事も楽しみの一つだろう。またはお酒が好きならば居酒屋やバーで過ごすことも、そこに来ている常連客の仲間との楽しみになる。
余り自分はイベントに参加するタイプではないが、例えば毎年コミケに行ってる人は漫画が欲しいと言うよりもその雰囲気を味わう恒例行事として行っているタイプの人が多いはずだ。
創作活動を頑張って自分がコミケに出店する側になるというのも夢の一つではあるが、それはあまりにも非現実的すぎる。成り上がるとか革命を起こすとか世界を変えるとか、そんな大層なことは考えずに一般庶民として現実的な目標を持つことの方が大事だ。
居酒屋で過ごすという目標であれば、それは海外旅行と組み合わせてもいいかもしれない。韓国や台湾の酒場的雰囲気の場所で一杯交わして現地の人々と片言の外国語で話すのもよいし、スペインのスポーツバーに行ってFCバルセロナの試合を観戦するというのも少なくとも革命や文学賞受賞に比べれば現実的だ。
よく年越番組で寝台列車で年末年始を過ごす光景を見かけるが、そのアイデアも面白そうだ。シベリア鉄道がこのシーズンも運行しているならば目標になる。
今年1年を無理にでもポジティブに妄想すれば少しは気分が上向いてくる。
子供にとっての遠足の待ち遠しさはは大人にとっての一人旅への旅情になる。
結局自分が子供ではなくなり刺激を感じなくなったという話で、大人になればいろんなことに新鮮味が無くなりつまらなくなる。それならば新しいことをしなければならないわけであり、それは旅行なのかもしれない。
オタクにとっての"約束の地"はコミケであり、サッカーファンにとっての約束の地は天皇杯であり、天理教徒にとってはそれが奈良県天理市へのお参りなのだろう。
皇室ファンにとっては天皇陛下の新年祝賀を聞きに行くこと、駅伝ファンにとっては箱根駅伝を見に行く事もお正月感を得る行事の一つになっている。
自分は今年の初日の出の時は前日に飲みすぎてうなだれていたので見れなかったが、初日の出を見るために山に登る人もある種の信仰の一つだ。
自分も何か毎年行くような場所を作って、その"聖地巡礼"のために1年を頑張って過ごすようにしていけばこの虚無感は無くなるのだろうか。
何かを熱心に追いかけているときや思いを馳せているときというのは楽しい。
今年のお正月はまるで買うまでがゲームは一番楽しい理論のように、新年を楽しみにしている大晦日とその雰囲気が続いている12時以降がピークだった。
アイドルの歌番組を見て、その後アイドルの動画配信サイトにコメントを書きまくるという頭のおかしいことをしていたがこれが結構楽しかった。
逆にリアルタイムでこれ見てる人達何なんだよと思いながらも自分もそこに混じっている一体感は中々面白かった。
しかし逆にそれが楽しすぎたがゆえに始まった新年の現実感に打ちひしがれている。
楽しすぎた大晦日からの何もない新年、このギャップが虚無感の真の正体なのかもしれない。
しかし人間誰しも時として変なテンションになる時が必要なのである。
まるで海外旅行に行ったときは非日常の昂揚感で性格が変わる人がいるように、自分の場合海外の異性アイドルに変なテンションになれることに気付いた。
コミケに行くオタクのように、正月シーズンにコンサートをしている海外アイドルを見に行くというオタ活も面白そうだ。
宗教にはまってる人達楽しい論でいけば一度キリスト教会のクリスマスイベントに参加したときはなんだかんだで楽しかったし、律儀にエホバの教会に年末も集まってる人たちを見かけたときは「居場所」があることとの重要性を感じた。
そういった熱くなれる習慣が今の自分にはないからこそ心に空白が生じる。
そのためには実際に新年に楽しいことがあるという状態を作れなければならない。
今年はその何かを探すための1年にしていきたいと思う。
非リア充なので脳内彼女達と年越しを過ごすことにする
クリスマスもアイドルばかり見て過ごしたが、大晦日の年越しもアイドルを見て過ごすことに決めている。
今年は本当に酷い年だったし夢も希望も無くなり精神的に不安定な年だった。何度もタヒにたいと思い、自分の存在を責め続けた。何もかも失い心の空白は日々大きくなるばかりだった。
何をやっても虚しい、つまらない、人生が楽しくない、そんな1年だった。
しかし1年も終わりかけようとしてる時、自分にとっての新しい希望が見つかった。それはTWICEとOH MY GIRLという某半島南部アイドルである。
今年最後の奇跡があるとするならばそれはミラクル(OH MY GIRLのファン)とONCE(TWICEのファン)になれたことかもしれない。
正直なところこの2つのグループを見つけることができて精神面もだいぶ上向いてきたのが今年の終わりだったと思う。
政治や宗教にはまっている人というのは、何らかの居場所やコミュニティを持ち何かと戦っている感を味わうことができるから本人たちは満足なのだ。
それと同じように「何かに向かっている感」「何かと戦っている感」というのは昂揚感の要因になる。
人間には時として幻想や"約束の地"が必要なのである。
それがどんなに儚い物であっても、心の支えとなる拠り所が無いのとあるのとでは大きく精神の持ちようが異なってくる。
自分一人だけではないという安心感を時として幻想によって補うことが必要となる時もある。それはもはや感覚的な問題であり、何が正解と決めることはできない。自分が感じるほんの少しの希望-Haktivah-が人間誰しも必要なのだ。
ここ最近の自分はほとんど夜中にお酒を飲みながら動画ばかり見て過ごしている。もしかしたら無理やり何かに熱狂しようとしているのかもしれないが、熱狂する物があるというのは何も楽しみが無い期間を経験すると貴重な物のように感じる。
無理やりにでもお酒を飲んで気分を盛り上げていくぐらいしかもう自分には楽しみが無いのだ。
本当は偽りだとわかっているはずのに、その偽りに酔おうとしているのかもしれない。
新鮮な感覚というのは時として有限だ。
正直これまで好きだったものに対する熱量は今年、前年に比べて減衰していた。
サッカーも全盛期ほど熱量があるわけでもなく、来年がワールドカップだという実感もあまりない。
2014年の頃のブラジルワールドカップに向かっていくという上向きな感情は今の自分にはない。ロシアワールドカップも正直あまり期待していないので自分は「向かっていく場所」というのが無いような状態だった。かといって自分の人生そのものがもう上向きになっていくことは無いんだろうなという空虚な感覚に襲われて、もう本当にタヒにたいと思う日が多かった。
戦わなければならない理由を無くした自分はまさに抜け殻のような状態だった。
そんなボロボロの精神状態の時に自分が心の拠り所にできたのは一度情熱を失っていたガールズグループだった。
自分の理想だったKARAが解散し、しばらくAKB48などを応援していた時期もあるが、失った心の幻想郷としてTWICEとOH MY GIRLに出会うことができた。
第三者から見ればこれはとてもクレイジーなことだが、クレイジーな状態というのは当の本人にとっては楽しくて仕方ないのだ。何かの一員として約束の地に向かおうとしている感覚はある種の昂揚感をもたらす。
政治のデモに参加してる人も、宗教のイベントに参加してる人も傍から見れば理解ができないがきっと本人たちは楽しいのだろう。
そういった自分しか知らないプレミア感という意味ではOH MY GIRLはかつてKARAが日本でデビューする前の時と似ているので好きだ。
今韓流といえば紅白への出演も控えているTWICEとBLACKPINKというグループが人気の絶頂にあるが、OH MY GIRLは丁度いい"少数派感"がある。
日本ではあまり知られていないからこそ、まるで地下バンドを応援するようなアングラな雰囲気がある。
これはかつてKARAを応援していた時と似ている。
その後日本でデビューして知られるようになるとなぜか雰囲気も変わり、逆に誰にも知られていない感が無くなり自分の情熱は衰退していくことになる。
来年2018年は2008年から10年後の世界だ。
ちょうど2008年ごろのKARAのような雰囲気、それを今OH MY GIRLからは感じる。
常に少数派の一員として戦ってる感を味わいたい自分にとってはおまごる(OH MY GIRL)は絶妙な地下アイドルのような感覚に似ているのかもしれない。
VLIVEという日本ではあまり知られていないサイトも、かつて黎明期のニコニコ動画のような自分しか知らない感覚に似ている。
ちなみに韓国語は一切わからないがリスニングの練習という大義名分を掲げながら見ている(なお実際はただアイドルを見たいだけの模様)
VLIVEでOH MY GIRLやTWICEの動画を見る、それは10年前のニコニコ動画を見ているような雰囲気にも通じるところがある。
「ネットが普通の空間になって来ている」という昨今の風潮に寂しさを感じる人間としては、こういった現実から少しだけ遠い異国の雰囲気というのがちょうどいいのかもしれない。
約束の地への旅情、忘れていたはずの慕情、少数派としてアンダーグラウンドで戦う昂揚感、そんな目標を再び見つけられた気がする年の瀬だ。
最近キズナアイなるユーチューバーが流行ってるらしい
負け組男性系やオタク系のブログを見ているとやたらキズナアイという名前に出くわす。クリスマス寂しいからこの動画見て過ごしたというようなことを書いている人が結構多いのだ。
調べたところによるとどうやら最近流行のユーチューバーらしいのだが、これが実は一味違う。
いわば初音ミクのようなCGに声優が声を当てているスタイルであり、そのキャラクターがユーチューバーのようなことをしつつも実際にはバーチャルだという様式になっている。
言ってみればアニメやゲームのキャラクターにそのままユーチューバーをさせるようなものであり、結構再生数もあり今オタク界では人気が高まりつつあるようだ。
自分はこの形式を見てなるほどなと感心したし、今後こういったバーチャルyoutuberが世の中のスタンダードになっていくかもしれない。グッズ展開もしているらしくもはや一人のキャラクターとして確立されている。
最近よく言われているのが「テレビはyoutubeに敗北した」という類の話だが、今後もはやアニメを1話30分で作っていく形式というのはこういったバーチャルキャラクターに駆逐されていくのではないだろうか。
・真面目に内容も作画も予算をかけて作ったアニメ→誰も見ない
・適当なCGで作ったけものフレンズ→予想外のヒット
・小規模な企業や個人で作れるCGのユーチューバー→ネットで人気になり始める
今世の中の人々はカジュアルな物を求めつつある、もはや真面目に凄い物を作っても見向きもされない時代になっているのが現代の潮流だと言える。
製作費用としてもコスパがよく、視聴者側も毎回リアルタイム視聴をしたり録画をしたりしなくて済む。もうわざわざ作る方もアニメをしっかり作る必要も無く、見る方もアニメをしっかり見る必要が無い。
今の世の中に急増している「日常に癒しを求める疲れた人々」にとってはこのスタイルのほうが気楽で良いのではないかと感じる。
アニメの虚しいところが放送が終了すれば流行が終息していくところにある。あくまで放送中に話題になれば華であり、放送後は忘れ去られていく。しかしこういったバーチャルyoutuberは明確な放送期間が存在するわけではなく、既に1年以上継続して活動している。
製作された話通りに順番に見る手間も必要なく、いつでも気軽に見られるという意味ではアニメを見る事よりも簡単だ。
もうゲームをコンシューマー機で本格的にする時代でもなくスマホで済ます時代になり、今度はもはやアニメを真剣に見る必要が無くなりカジュアルなバーチャルyoutuberで済ます時代になっていくのかもしれない、いや既にそうなって来ている。
ある意味「日常アニメ」の究極の形がバーチャルユーチューバーと言えるのではないだろうか。もはや話やストーリーを作る必要すらない時代になったとも言えるし、それゆえにフレキシブルに話題を変えられるので却って多様性がある。
もうアニメの決められた世界観だけで完結させ、毎回30分と決めてみる時代ではなくなってきているのかもしれない。
1話30分のアニメを見る事すら億劫なことになって来ているというのはもう数年前から指摘されている事であり、手書きのアニメが割に合わないというのも同様に数年前から言われていることだ。
またキズナアイというAI以外にも似た様なCGキャラクターは多く、今後架空のキャラクターもyoutubeが主戦場になっていきそうである。
更にこのキズナアイには同じCGのボーカロイドとは決定的な違いがある。
ボーカロイドの場合あらかじめ録音された音声を編集して声を出させるものだったが、バーチャルAIの場合毎回声優が音声を当てるのでボカロにあったような人工音感が無いので聞きやすいのが大きな違いだ。
正直自分は初音ミクをバーチャルキャラクターとして崇める人達が理解できなかったが、ボカロへの違和感の一番の理由だった声の不自然さは無い上に音楽ではなく毎回ユウーチュバー的な企画をやってくれるので確かに見やすくはある。
そしてこのこのユーチューバーという設定のバーチャルキャラクターにはアニメにはない決定的な特性がある。それは視聴者に向けて話しかけてくれると言うところだ。アニメの世界はあくまでその世界で完結するのでキャラクターのセリフや会話は視聴者に直接向けたものではない。
アニメの視聴者は行ってしまえばアニメキャラクターにとっては部外者であり気付かない存在だが、視聴者に向けて動画を制作しているという設定になっているAIのキャラクターには親近感を抱けるという構造がある。
自分に向けて話してくれるという形になっているのはこれまで恋愛ゲームのキャラクターだったが、このバーチャルユーチューバーはゲームのキャラクターとしての側面も兼ね備えている。
またyoutubeという直接のコミュニティで見られるため、わざわざアニメを掲示板やSNSで実況しなくとも誰かと同じ空間で見ているという一体感を味わえるというメリットもある。
昔の孤独な負け組層にとって癒しとなったのはアニメだったが、もはやそのアニメを見る事すら疲れた層がより気軽に見れるバーチャルyoutuberに移住しているのかもしれない。
それに加えて現実のユーチューバーは様々な問題を起こしているため、そこには悪い意味での日常や人間性を感じてしまい癒しを得ることができないという人々にとっても大きな役割を果たす。
どうせ現実のユーチューバーというのは酷いことをやっているわけでそこには親しみを感じられないという人にとっては、ちょうどアニメとユーチューバーの中間にあるバーチャルAIが人気を得るのは必然だと言えるだろう。
どうせ彼氏がいる三次元の配信者を自分の擬似的な彼女替りにするのは虚しいが、最初からCGだとわかっているから逆にスキャンダルもなく安心できるという構造がある。
アニメを見るのは大変で疲れるが、かといって現実的にスキャンダルまみれのユーチューバーには夢を見れない、そんな人々の求心力を集めているのがこういったバーチャルな存在なのではないだろうか。
しかし自分はここまでこの形式を評価しておきながら実は少し見た程度で熱心に視聴しているわけではない。正直見ていて小恥ずかしい上に、それを見ている自分が受け入れられないのだ。
ただお酒でもちびちび飲みながら見る分にはそんな恥ずかしさも感じず、自分の擬似的な恋人替わりとして楽しめそうではある。
それに加えて自分は動画サイトならば海外アイドルの日常映像のようなものを見ているのでわざわざキズナアイを見る必要が無いという事情もある。いずれにせよ今の寂しい負け組層の人は孤独を癒すために何かの"異世界"を求めているのだろう。
それが自分ならあまり言葉も分からない海外のアイドルであり、その一方でこういったバーチャルのCGに異世界の幻想を求める人もいる。
今の時代は本当に厳しく夢も希望もない時代である。
それゆえにそういった心のよりどころとなる存在は必要となる。
疲れている人は癒しを求め、孤独は人は一体感を求める。
少し裕福な人ならばガールズバーやキャバレークラブに行き、最近ならば握手会を開催するアイドルに会いに行く事もあるだろう。
しかしネット環境さえあればそれだけでカジュアルに楽しめる上に、元々CGだとわかっているのでスキャンダルなどに苛まれる必要もないこういったバーチャルユーチューバーという形式は今後新しい流行を生み出していくかもしれない。
クリぼっちワイ、アイドル動画を見てクリスマス2次会を始める
もう今年もクリスマスが終わろうとしていよいよ大晦日が訪れようとしている。本当にクリスマスはあっという間に終わる、つい昨日までの様相が急速に大晦日ムード、お正月ムードに変わる日本の激動の師走は独特の文化がある。
キリスト教文化圏ではわりと12月と1月が混同している部分があって1月の前半ぐらいまではクリスマスムードが続くらしいが、既に25日も終わろうとしている今クリスマスツリーは翌日に片づけられる運命にある。
ちなみに昨日のクリスマスイブ、自分はがっつりアイドルの動画を見てクリぼっちをエンジョイしていた。クリスマスをアイドルに頼るという情けなく虚しい行為をしながら昨晩を過ごしたが、25日の今日も起きてからずっとアイドル関連の動画ばかり見ている。
それしかできない現状に直面すると、世の中の寂しい人間に向けてプロに徹してくれるアイドルってなんだかんだでなくてはならない女神のような存在だ。
そもそもクリスマスというのは一部の幸せな人に向けだけのイベントであり、みんなが幸せじゃないといけないという全体主義の象徴である(ひねくれ者特有の考え)
実際の所クリスマスに幸せな人間のほうがレアで、大部分はクリスマスなのに虚しいし寂しいという本来なら味わう必要のない苦悩を味わわされるのである。まさに一部の特権階級のために持たざる者が犠牲にされている歪なイベントである。
そんなことを思いながらなんだかんだでクリスマスが無いと寂しい物で、自分なりに持たざる敗者として工夫した結果がアイドルを見るという過ごし方である。
もはや自分の中で惨めに過ごすクリスマスのほうが美しいという考えにすらなっていて、「戦場のメリークリスマス」のような世界観に惹かれている。
クリスマスに惨めに過ごしたという悲しみを糧に、いわば象徴を作るような格好でなるべく悲惨に過ごすことが大事だ。マッカーサーが「私は戻ってくる」と宣言しながら撤退したように、後に伏線となる負けも人生には必要なのだ。
そんな「伝説のクリスマス」として自分が選んだのはTWICEとOH MY GIRLというアイドルグループだ。昨日も深夜までお酒を飲みながらこの2グループの動画ばかり見て、今朝はクリスマス配信的な動画を見ていた。
結構今の時代インターネットの配信を見て過ごす人は多いのではないだろうか。
今の時代ツイキャス、ニコ生、ユーチューバー、など等虚しさを紛らわしてくれる"擬似恋人"はいくらでも存在する。
しかし自分は人間性の捻じ曲がったひねくれ者であり、どうしてもこういう国内のコンテンツでは斜に構えてしまい現実を感じてしまう性格なのである。
ついには国内アイドルはおろか、声優やアニメにも幻想を見れなくなり行き着いた先は某半島のアイドルだ。
某半島のアイドルは日本以上に厳しく育てられているので、プロに徹してくれるという意味では結構ありがたい。結局アイドルというのは印象や幻想が全てと言っても過言ではなく、なるべく現実を隠せるかどうかが重要になる。
真面目にアイドルをやる方が馬鹿だという日本の女性アイドルとは正反対であり、デビュー前はレッスン漬けの日々、そしてデビュー後はひたすらアイドル業務に邁進するというプロだ。
例えばTWICEならば普段から寮で生活し普段からメンバーと過ごしている。水着もNGで普段からガチガチのトレーニングを積むほどのスパルタアイドルだ。
某半島は競争が本当に過酷なので油断の隙も無く、更に日本人の自分にとっては外国なので幻想を抱きやすい側面がある。というよりも国内コンテンツからあまりに現実が透けて見えることが、アイドルに幻想を求める人間にとっては虚しく感じる。
結局アイドルというのはお酒のようなもので、現実はそうじゃないとわかっていても一瞬酔わせてくれるかどうかが大事なのだ。
いわばそういった現実逃避のための存在として、どれだけ現実から遠い場所にいざなうかがアイドルの仕事なのである。そのためには逆に自分もアイドルから遠い存在でなければならない、その意味で朝鮮アイドルというのは丁度いい距離感にある。
プロに徹してくれるという意味では、日本の女性アイドルが酷過ぎて逆に今時レアに映る。
日本の女性アイドルは典型的なこれまでチヤホヤされて人生イージーモードで生きてきた上に、アイドルとして成功して更に勝ち組の生活を送って遊んでいる。どれだけスキルが無くてもチヤホヤしてくれるファンがいるので努力の必要すら彼女らにはない。
そこに負け組の男性層が癒しを求めても虚しいだけでしかない、そんな風にひねくれ者の自分は考えるのだ。
それはもちろん向こうにも現実はあるのだろうけども、「外国」というフィルターがかかればそれは異国情緒を伴う慕情となる。
当然ながら海の向こうにもスキャンダルは存在するが、これはハリウッドスターのスキャンダルが気にならないのと同じ理論で"外国フィルター"というのは万能だ。
昔の自分はよくアニメを見て幻想を求めていたが最近は二次元の世界ですら今は昔以上に「声優」の存在感が大きく、その背景には現実がある事がわかりやすい時代になってしまった。
ネット配信してる素人なども結局ユーチューバー同士やファンと本当は付き合ってるとか、どうしてもそんなことを考えてしまう現実がある。自国であるがゆえに裏事情をイメージしやすい、それゆえに自分はあまり国内コンテンツに夢を抱けなくなってきている。
結局自分は国内の夢がほぼ壊れてしまったからこそ、海外に夢を見ているという典型的な社会の敗北者の思考をしているのかもしれない。
「ああ自分はなんて捻くれた悲しいことを考えてるんだ」、そう思いながらも半島アイドルを見てるとアイドルやアニメが好きだという失ったはずの感情を取り戻せる。
そもそも自分は異性が好きだという感情すら忘れかけていたのでTWICEでダヒョンは可愛いとかOH MY GIRLでアリン可愛いとか、そういうことを思えるようになったというのは自分の中で精神的に回復したという喜びでさえある。
普通の感情を抱ける喜び、朝起きた時タヒにたいと思わなくてもいい精神状態、それって当たり前に見えて貴重なんだなと気づかせてくれたのは意外にも一度興味を無くしていた異国のアイドルだった。
確かに情けないかもしれないが、それでもちょっとした幻想を抱きながら今年のクリスマスを過ごすことができた、そんな2017年だ。
伝説の高校生クイズ優勝者 田村正資が語る今の高校生クイズ
高校生クイズのファンにとっては伝説となっている開成高校チームの、田村正資と伊沢拓司が対談するという非常に俺得な動画を見つけた。
なんといっても自分はこのチームが優勝した第30回大会に当時リアルで出場したことがあり、それが今でも懐かしい思い出となっているのだ。
その時の優勝者がまさにこの田村正資(たむら ただし)率いる開成チームであり、予選で即座に敗退した自分にとっては今もなお憧れの存在として輝いている。
純粋に田村正資の"ファン"としてもこの動画はありがたい。
田村正資と伊沢拓司が同じチームにいて出場していたチームは、おそらく高校生クイズのIQの高さや知識の豊富さでは歴史上最強のチームだと断言できる。
「知の甲子園」の全盛期に大学レベルの問題を解いて優勝した高校生チームが彼らだったのだ。当然のことながら二人とも東大に難なく進学している。
そんな今もツイッターやyoutubeで活躍していたり、そもそも伊沢拓司に至ってはもはやクイズ芸能人と化したりしているので知っている人も多いのではないだろうか。
「俺もあの伊沢拓司と同じ大会に参加したんだよなぁ」というのは、甲子園出場者が田中将大と同じ大会に出場したことや高校サッカー選手権出場者が大迫勇也と同じ大会に参加したことを懐かしむ感覚と似ているかもしれない。
というと非常に大袈裟なのが真実で、実際には高校生クイズの参加自体は非常に簡単なので誰でも参加することができた。
強いて言えば全国大会には行けなかったけど地方の予選には参加したという形だけは偽りではないので、一応同じ大会を目指したという立ち位置になる。
そんな二人が語る高校生クイズの秘訣は「とにかく仲がいいメンバーと組むこと」だと語っており、また最近の形式が依然とは違う事にも触れている。
ここら辺の具体的な話は実際に動画を見てもらえればわかる上に、高校生クイズ出場者向けの話なので割愛する。
しかしやはり形式が大きく変わったことについては、自分もその時出場していた立場なので「そういう形式だった」と懐かしくなるし、やっぱりその時の方が面白かったなとも感じている。
実際行き過ぎた知能重視の路線から変更して以降、自分は高校生クイズはあまり見なくなってしまった。一昨年までは見ていたけれども去年からは見ていないし今年も結局見なかった。
田村正資も動画内で「今は1問正解すればアメリカに行ける時代なので夢があると言えばある」「好きなタレントに合うために参加したチームでも全国に行けるケースが多い」と語っているように、わりと一発に懸ける運ゲー要素が強くなっていることは否めない。
そもそも「頭脳の甲子園」になる以前は運も大事だったので、本来の路線に戻ったとも言えるが頭脳の甲子園時代のほうが面白かったなぁと自分は今も考えている。
他にはユニフォームを決めた方が良いとアドバイスしておきながら「自分たちは制服だった」とオチをつける話も面白く、そして自分のチームも実は制服だったのでちょっと親近感を感じた。
予選敗退チームと優勝チームなので全然違うけれども、そんな意外な共通点もあったりなかったり。
そしてこの高校生クイズの話は前置きで実は本題ではない。
なぜ田村正資について語ろうと思ったのかというと、この田村君が自分の小説というかSSの登場人物なのでちょっと語りたくなったというのが真相である。
既に読んでくれた方もいるかもしれないけれどこの革命をテーマにした厨二病SSのほぼ主役がこの田村正資という人物という設定になっている。
元ネタはそもそも『愛と幻想のファシズム』という村上龍の過激な小説をパクッった話で、これから更に加筆していこうと考えている構想段階の作品である。
(ちなみにピクシブの小説を読む場合背景の色を変更できるので、この話の雰囲気には黒色が推奨設定だと自分は思う。)
話しとしては登場人物についてある程度イメージできたほうが面白いと思うし、読んでみるきっかけにもなってくれればなという思いもある。
本当は自分の自己満足の妄想話で正直なところしらふの時に読んだら自分でも恥ずかしくて仕方がないが、1人で未だにお酒飲みながら何度か読み返すことがある。
なんたって自分を主人公にしている厨二病作品である、しかし"田村総統"の言葉を借りるならば「イタさも含めて高校生クイズ」であり個人創作はイタくてなんぼなのだ。
これからもっと愛と幻想のファシズムや他の村上龍作品のように大きなスケールの話にしたいなという思いもあるし、更にいろんな人物を登場させていきたいという思いもある。
例えば「いい質問ですねぇ」で有名な池上彰を黒幕や重要ポストで登場させるという案も存在する。完全なる構想段階ではあるものの、イケアキ(=池上彰)をどこかで登場させられないかなとか「ダブル桜井」(=嵐櫻井とミスチル桜井)を加えられないかなとも考えている。
更に実はガチでCIAの工作員だったという設定でデーブ・スペクターを強キャラとしてだしたり、開成高校の伊沢拓司を今度は田村正資と敵対するライバルとして登場させたりというアイデアもある。
有名人登場させまくる一夜でアドリブと勢いで書き上げる「おふざけ身内SS」が元のノリなので、追加キャラはいろいろ出していこうかなと一人で妄想している。
あとは自分をスナイパーの設定にして中国から密輸した狙撃銃で政敵を抹消する話とか、愛と幻想のファシズムにも登場する薬物で廃人にさせるシーンなんかも過激な描写として入れたい。
一見爽やかで綺麗な顔をしている田村正資が畜生命令を下したり、サイコパスっぽい感に描いたりとかも面白そう。そういうシーンもあれば自分としては書いてて楽しそうだなとも思うしそれが執筆の原点でもある。
あと親衛隊隊長として登場するもう一人の主要登場キャラクターの「中島健人」については同じくyoutubeで調べてもらえればファンとしてもありがたいなと。
これも結局「やっぱ3人制いいよなぁ」という話で、2人制になった今の高校生クイズはやっぱりつまらないわけですよ。
3人だから持ち寄れる知識やスキルも増えるというのは毛利元就の3本の矢や三国志の桃園の誓いの話にも表れているわけで、高校生クイズがレベルを下げざるを得ないのも2人組にしたからなんだよなぁ。
というボヤキをいれつつ、懐かしの高校生クイズの話で締めたい。
SHINeeジョンヒョン死去にみる韓国社会の闇
韓国のアイドルグループSHINeeのジョンヒョンが練炭自殺を図り遺体で発見されたというニュースが衝撃を与えている。
SHINeeというグループは韓国では既に全盛期を過ぎているという扱いをされているものの、日本では東方神起の弟分的グループとして今も高い人気を誇っている。
それゆえにむしろこのニュースに一番反応しているのは日本の方かもしれない。
自分はそもそも最近、韓国の事情について調べる事が多くガールズグループではTWICEやOH MY GIRLが好きな立場なのでこの問題は決して他人事ではない。SHINeeも名前までは覚えていないものの、「Ring Ding Dong」はTWICEのメンバーが真似していて聞いたことがある。
そしていざ見てみたらこのジョンヒョンというメンバーはメインボーカルを務める主力メンバーだとわかり、このメンバーが自ら命を絶つことを選んだという衝撃は大きい。
一見すると全てを勝ち取ったように見える韓流アイドルも本当はこんなにも闇を抱えながら活動をしているのだと思うと見え方も異なってくる。
日本では時として批判されることもあるけれども、本当に苦悩しているのだと思うと単純に批判はできない。
ジャニーズで例えるならばそこそこ有名なグループの主力メンバーが自殺を図るようなもので、それは日本に置き換えると考えられない。ジャニーズで自ら命を絶つことを選んだメンバーはいないし、そもそもここ最近芸能人の自殺が話題になったこともほとんど記憶がない。
自分など完全なる人生の敗者であり死にたいと思う事は多々あるが、韓国のアイドルグループとして地位を築いているメンバーが死を選ぶことは理解が難しい。
自分の立場からすれば手に入れられるものは簡単に手に入れられて何も困らないSHINeeのメンバーが死を選ぶ理由は想像も付かないし、勝ち組ですら自殺を選ぶ韓国社会に闇を感じずにはいられない。
そもそも韓国は日本を抜いて自殺大国となっており、大統領が自殺を選ぶような国である。
日本の一部ネットで「ノムたん」として親しまれていた盧武鉉も自ら命を絶ったことは日本のネットユーザーに大きな衝撃を与えた。
韓流ファンはパク・ヨンハで経験し一部のネットユーザーはその悲しみをノ・ムヒョンで経験している。
ノ・ムヒョンが崖から舞ったようにSHINeeジョンヒョンも練炭での死を選んでしまった。
韓国版2ちゃんねるのようなイルベと言われる掲示板では、2chから輸入されるような形でノ・ムヒョンがネタにされており「真のブームは韓流ではなく盧流」と表現されることがある。
不謹慎なことを承知であえて言うならば彼は韓流スターではなく盧流スターだったのだ。
貧困に苦しむことも無ければ、誰にも必要とされていないという孤独を味わう事も無いSHINeeのジョンヒョンが死を選ばなければならない理由はどこにあるのだろうか。
妹にあてた遺書メッセージには「これまで苦しかった」と語っているため未来への不安だとは考えにくい。韓国人の不安として考えられるのは兵役だ。SHINeeメンバーであっても韓国人男性に課せられる兵役の義務からは逃れられず、そこに対する不安があってもおかしくは無い。
実際東方神起のジェジュンもこの前兵役を終えて帰ってきたばかりであり、どれだけのスターであっても芸能人が兵役を逃れるという事は特殊な理由を除いてあり得ない。
韓国人の意見などを見てもなぜ男性だけが兵役につかなければならないのかという不満はあり、昨今の韓国社会は女性重視の社会になり過ぎていて不満を抱える男性の負け組層は日本よりも多い状態にある。
そんな負け組どころか、厳しい韓国社会、とりわけ芸能界でデビューにまで漕ぎつけた選りすぐりの勝ち組まで死を選ぶことになる韓国が世界一の自殺大国になるのは必然だと言えるかもしれない。
韓国の芸能界は「薄給」で有名であり人気であっても当のアイドル本人はそれほど裕福な暮らしができるわけではないとも言われている。
「これまで辛かった」というのはハードスケジュールの中でどれだけ頑張っても結果を出しても報われないことを意味しているのではないかとも考えられなくはない。東方神起にしてもKARAにしてもメンバーが分裂したり、事務所との契約を更新しなかったりと随所に闇を感じさせることが多いのが韓国芸能界の特徴だ。
K-POPアイドルグループが日本でのデビューを目指すのも韓国社会は内需が少ないため、自国だけではやっていけない現実があるからだと言われている。
SHINeeは韓国語で「オワコン」のことを意味する「退物」として扱われているが、日本での人気は東京ドームツアーを控えているほど高い。
韓国人は良くも悪くも飽きやすいところがあり、日本人ほど一つのグループを応援し支え続けるという事はあまりなく人気が無くなればすぐに必要とされなくなる現実がある。一番の人気を得ると世界的なスターとしての扱いを受けるが、ブームが終わったときの扱いは日本の芸能界以上に厳しい。
一般人の自殺と違ってメンバーも関係者も多大な影響を受けることは間違いなく、電車への飛び込み自殺以上の影響があるはずだ。今後韓国社会でもこの出来事は大きく議論されて行く事になるだろう。
韓国の芸能界は体質として日本の昭和芸能界に近いところもあるので待遇改善が今後の課題になっていくのではないか。
その昭和芸能界に似た「本当のスター」という意味では確かに今の日本の芸能界以上に華やかさがあり、自分自身が韓国のガールズグループを見ているのもその華やかさが理由の一つではある。
しかしやはり自らの命を絶つというのは韓国社会自体が日本以上にブラックだなという印象を抱かせる。
そもそも韓国社会自体日本を参考にして作られているし、韓国軍は日本陸軍の影響を大きく受けている。韓国の近代化や産業化を指導した朴正煕も満州軍出身者であり、日本の影響は随所にうかがえる。
これは日本が韓国に影響を与えたということを誇る意味で言っているわけではなく、韓国を見て日本も自殺大国だという事を改めて考えなければならないのではないだろうかという意味だ。
韓国の問題として他人事として受け止めるのではなく、日本にもまだこういった闇はいくらでもあるという事を直視しなければならないはずだ。
韓国社会の闇、それは同時に日本社会の闇とも似ているという事でもあるのだから。