負け組ゆとりの語り場

社会に取り残された男が日々を語る

早く働き始める方が得か、それともまだ人生に悩んでいいのか

今の時代、昔に比べて社会人としてデビューする年齢には大きく差がある時代になって来ている。働き始める年齢は人それぞれだ。場合によっては10年以上開きがある事があってもおかしくはない。

 

典型的な例で言えば高校卒業と同時に就職するパターンと、大学卒業後就活をして就職するパターンの二つがある。

戦後初期までは中学卒業と同時に「金の卵」として上京して上野駅に降り立つというケースもあり、高校は比較的勉強できる人が行く場所とされていた時代もある。

また高校を中退したり、そもそも高校に進学せず今も中学卒業後就職を選ぶケースも少数だが存在する。

 

例えば高校を中退するパターンならばキングカズこと、三浦知良が高校を辞めブラジルに夢を追い求めに行き日本代表にまで上り詰めたという例がある。これは上手く行ったケースであり、実際には学校になじめず退学するというケースが多くそこから公認を取って大学に進学する場合もある。

 

そして高校進学を選ばず就職を選ぶパターンとして自分が知っているのはマグロ漁船のドキュメントで見た少年だ。その少年は15歳で都会からマグロ漁船がある地域に憧れてその道を選び、ほとんどを遠洋漁業用の漁船の上で過ごし通常なら高校生の年齢ながら1年で300万円以上を稼ぎあげた。

 

この少年のケースを見て個人的に思うのが、体を動かし技術や肉体で通用するケースならばむしろ若いほど良いということだ。

今の時代大卒でも年収300万など行かない、30代でも月収20万の壁を越えられない人など大勢いてそれがもはや珍しい事ではなくなっている。それが高校1年生で300万ともなれば学生のバイトとは比較にならない。

更にこういった職場は経験を積みその場所で実績を積み重ねていけば昇進していく。

この番組は過去の物なので今は20歳ぐらいになっているかもしれない、そして一般的に大卒の年齢になったころには既に社会人6,7年目となっている。当然年収も大きく上がっているだろう、漁師は稼げることで有名だ。

都会の大学を出て地元に戻ってきたら、勉強などろくにせず漁師になった同級生が結婚もして大きな家を建てていたなんて話も良く聞く。

 

無名の私立大学を出て妥協してブラック企業に就職して薄給で独り暮らしをするのと、中学卒業後若く体力と情熱のあるうちに本当に自分の好きなマグロ漁師をやって経験を積むのと、どちらが勝ち組かは判断が難しい。

前者は大卒、後者は中卒、しかし漁師という過酷な職業に若い情熱をもって適応できた人間と無名の私立大学で腑抜けのように規律を失った人間と、どちらが情熱をもって仕事に打ち込めるかという疑問はある。

ましてその大学を中退したり、就職浪人をしてしまえば末路は悲惨だ。

25,6歳の時に既に同世代に仕事を10年続けてバリバリ出世している人がいてもおかしくないのだ。そのマグロ漁師の少年が20代半ばの時は年収が500万近くに達していてもおかしくはない。この不景気の時代これほどの収入は大学院を出ても中々この年齢では稼ぎだせないだろう。

 

本当に良い大学を出て順調に就活をしてホワイト企業に就職できたならば中学や高校を出てすぐに働き始めた人に追い付けるが、無名の私大を最低限の単位だけとってそれ以外の努力をせず惰性で卒業、もしくは中退したともなれば悲惨な結末しか待っていない。まさにその実例が自分なのでよくわかっている。

 

今になって思うのが情熱や体力のあるうちに労働を知ることがどれほど重要かという事だ。

よく高校生でバイトをするべきかどうかというテーマがあるが、個人的には余程時間に困っていないならばやったほうがいいと今になって思う。

なぜならばどれだけ安い時給であっても高校生にとっては大金であり、若く情熱と体力もあるので「わりにあってる感」が得られるからだ。

「大人になってこんな薄給のバイトなんてやってられるか」というようなものでも高校生の時ならば新鮮な感覚で打ち込める上に、その時給も十分なものに感じる。生活費に回す必要もなく学生の金銭感覚では体感としては大人の時よりも多く感じる。

大人が1時間働いて760円では惨めな感覚しか持てないが、高校生ならばその760円が大金に思える。子供など親の肩たたきを1時間やって100円貰えればいい方だ、それに比べて時給は何と効率の良い事か高校生最高と体感としては思えるのだ。

 

そういった情熱のあるうちに労働の習慣や文化を身に着けることは必ず良い経験になるだろう。自分の場合高校の頃はバイトをしなかったが、無駄に過ごすのであれば少しでもお金と経験に変えていたほうが良かったという後悔もある。どうせ自由時間に勉強もしなかったのだから。

 

とにかく若いころの情熱や体力は貴重だ。

高校生からマグロ漁師になったその少年はむしろ一番体力がある時期に下働きをして下積み時代を終わらせることができたのならばかなり効率がいい。大人になってからはなぜこんなことをしているのかという疑問が芽生えるが、10代ならば情熱をもって打ち込める。そして若いころから始めることで体力や習慣を身に着ける事にも役に立つ。

 

むしろ高校生の頃の方が一番体力がある。体を動かす仕事なら10代にできないどころか、むしろ一番いい時期でもある。

1円にもならない部活動をして理不尽な上下関係に耐えてどうせプロにもなれないだけの3年間を惰性で過ごすのならば、思い切ってその体力を金銭に変える道を選ぶのもありだ。高校生の金銭感覚にとっては天文学的な報酬を得られるとなればただの部活よりやる気も増す。

どうせ高校の部活動経験が評価されるのは一部の人だけだ。

やる気も無く続けるよりはバイトにしろ就職にしろ実質的な金銭に変えたほうがよほど役に立つだろう。

結局働くかどうかは自分のベストなタイミングが重要で、やる気や情熱があるならば早ければ早いほどいいのかもしれない。いざ今度バイトや仕事をしなければならない年齢になると今度はやる気と体力がなくなっている。

 

マグロ漁師の下積みも薄給のバイトも大人になってからは情熱を持って取り組めない。そうすると技術も上がっていかないため永遠にそのままだ。

そうなるぐらいならやる気や情熱があって吸収する意欲のある時に始めたほうがいい経験になるだろう。

情熱、体力、そして金銭感覚、このバランスがいいのはむしろ10代で本当はこんなに大勢が大学に進学せず就職を選ぶ方がいいのではないかと最近自分は思うようになっている。モラトリアム期間など大衆には必要ないのだ、東京の上野駅を目指して中学卒業後すぐに地方から上京していた時期の方が日本には活気があった。

 

その一方で次はこのモラトリアム期間に対する肯定的な立場で考察してみたい。

例えば某公共放送で29歳以下の人生設計について取り上げた番組があり、たまに自分は見ているのだが中々面白い。

この前見たのは27歳ぐらいで美容師としてアシスタントをしつつ、同時にお笑い芸人の夢を追いかけている女の人を特集した内容だった。

 

一見するとキラキラ輝いた充実した人生を送っているように見えるが20歳の時に美容師資格を取って以来まだ7年間一度も実際にお客さんの髪を切らせてもらったことが無くほぼ雑用やシャンプーなどをこなしている。

そしてお笑いに関しても某お笑い事務所に所属しているものの、あくまで駆け出しに過ぎずほとんどお笑いで収益は得られていない。

本人はどちらも本気で「どちらも追いかけたい」と語っていたが、傍から見れば二足のわらじ状態にも正直なところ見えた。

 

しかし自分はむしろこの人に親近感を抱いた。

「皆こんなもんよね、いやむしろこの人はよほど自分より頑張ってる」と思った自分がいた。それにお笑いの世界など"遅咲き"がいくらでもある世界で、この人に限らず芸人を目指して何年も鳴かず飛ばずで過ごしている人など日本に大勢いるだろう。

声優や芸人、漫画家など限られた人しか人気になれず、更にプロになったとしても殆どが薄給で人気が落ちればまた逆戻りになる世界だがそれでも目指している人がいる。

今は「ユーチュバー目指して頑張ってます」みたいな人もここに加わるかもしれない。

 

20代は「まだ時間はある」と余裕を持ったり、「まだ自分より上の人が頑張ってる」と数歳上の人を見つけて安心するような年代でもある。

これは罠のようなもので本当はもうしっかりと人生を見定めたほうがいいのだろう。こうして悩んでいる内にも順調なルートを歩んでいる人には差をつけられ、10代から頑張っている人は経験を多く積んで出世している。

特に学歴が関係ない世界など早ければ早いほどいい。

今の時代は「学歴があったほうがいいのではないか」という強迫観念と「まだ時間はある」という幻想に騙されている若者が多く溢れている。

そしてそんな無為に思える時間の中で何かの"答え"があるのではないかと模索することでしか自分のアイデンテイティを安心させることができない。まさに自分の事だ、人生の路頭に迷い何も先が見えない底辺の中ですべてが嫌になってくる。

 

司法試験浪人や公務員試験浪人をしている同年代など大勢いる、大学受験で浪人したり大学で浪人した人も含めればまだ大学生の人も大勢いる、浪人して大学院にまで行った人だと30近くになってから社会に出るケースも少なくはない、そんな人を見て安心するが彼らとは将来が違い過ぎる現実にも気づく。

「その人たちが数年後公務員や弁護士、医者になることはあってもお前がそうなることはないんだから仲間じゃないぞ」という声が聞こえてくる。

 

もちろんその中の全員が夢をかなえられるわけではなく、ただ弁護士や公務員を目指す振りをしていただけで結局何にもならなく時間だけを無駄にしたという人も現れるだろう。そんな人を勝手に想像して、「みんなこんなもんよ」と安心する駄目な自分がいる。

 

20代の努力が後に大きな差になることは事実だ。

「まだ時間がある」と余裕を持つ事はむしろ危険な考えであり、そろそろ30代のことを考えなければならなくもある。

例えば高1の時にしっかりと大学受験を見据えている人は合格しやすい。逆に高3になってからの1年を本気でやれば大丈夫だという甘い考えを持っていると案の定受験に失敗する。もっともこれは自分の経験そのものなのだが。

 

「20代はまだ時間がある」というのは完全に過去の大学受験における「高2まではまだ余裕、高3になってから自覚が芽生えて本気を出せるだろう」という過ちの繰り返しだ。また自分は同じ轍を踏もうとしているのかもしれない。

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それでも自分は「まだ時間がある」と思う事にしている。

というより、そう思うしかない。まともに現実を見つめればもう既に遅いことに気付くからだ。先延ばしにできるところまで先延ばしにして現実逃避を繰り返して、最期はこれ以上完全に取り返しのつかないところで終わればいいとも思っている。

まともな人生はもう自分には無理だと気付いた。

どこかで順調な人生を諦めなければならない時が来る、それが遂に自分にもやってきただけのことだ。

 

今の所20代は"自分探し"をこの先も続けて、30代は旅人、40代は革命家と政治家、そんな漠然とした人生設計になっている。

何にもならない無為で充実感の無い無価値な日々など「自分探し」と言い換える以外に他無いのだ。

 

「アニメや映画も作りたいし小説家にもなりたい、中田英寿やチェ・ゲバラみたいに旅人になったあと革命家になるのが夢」

こんなことを成人にもなって語っている具体的な進路も見えない奴がいたら多分頭おかしい奴としか思われないだろう。

ただそんな頭おかしい奴が自分なのである。

 

人生が狂い過ぎて行き着いた結論「その内小説家か革命家になる」

ハリー・ポッターの作者も人生ギリギリのところで逆転したから大丈夫、そんなレアケースのなかのレアケースを見て自分にもまだチャンスがあるだろうと信じることでしか自我を保てないのだ。

 

まさかこんな状況になるとは思っていなかった、人生設計では今の自分はもっと輝いているはずだった。

そんな時もう自暴自棄になってわけのわからない夢を掲げる人と現実的な解決方法を探し直す人がいる。また自分はここに来ても現実逃避、そして愚かな選択をすることになる。

ただ後悔なんて後になってからでもできるのだ、後悔はいくらでも先延ばしにできる。それぐらい開き直った図太いメンタリティでもなければ散々な状況は乗り越えられないだろう。

英語や外国語の勉強は何でもいいからとにかくモチベーションが大事

改めて外国語の学習においてモチベーションが大事だということを最近考えている。

最近になってしばらく中断していた、遠ざかっていた英語の学習を再開しているのだがその学習を支えているのはちょっとした些細な動機だ。

 

端的に言えば「英語が話せるアジア人は頭が良いと思ってもらえる」という下心満載の理由だ。

これはアジアの旅行本を読んだ体験談に出てきた話で、付け焼刃や一夜漬けの現地語を話すぐらいなら英語を話したほうがいいというエピソードにヒントを得ている。

 

例えば逆の立場に考えてみるとわかりやすい。

日本に来ている観光客の中国人が中国語で捲し立ててくれば日本人は正直なところ、ちょっと下に見たような感覚になることは否定できない。また中国人が片言の日本語で話していても分かりにくく、これまた稚拙な日本語だと感じたりするだろう。

その一方で中国人が流暢な英語で話して来れば「ちょっとお金持ちの教養のある香港人なのかな?」と想像するかもしれない。

 

アジア系アメリカ人とまでは言わないまでも、欧米の大学に留学経験のあるエリートのように勝手なイメージを抱いてしまう心理がある。英語が話せるというだけで国際的にはただの教養のない東洋人から、むしろIQの高い賢そうなアジア人へと変貌する。

現地語に関してはどうしてもネイティブに対して不利だが、英語という国際的なコミュニケーションツールでは上手に立つことができる。

「英語に合わせろ」というぐらいの推しの強さが無ければ海外ではやっていけない。もちろん現地語を話すことで親近感を抱いてもらえる国がある事も事実だが、あまりそういう人を歓迎しないような国もあるのは事実だ。

 

インド人やシンガポール人が英語ができると言うだけでそのほかのアジア人より凄く感じるように、アジア人と英語の組み合わせはそれだけで仕事ができそうで賢いというイメージに直結する。

逆にインド人やシンガポール人が英語ができなければ、言葉は悪いかもしれないが「開発途上国の人」というイメージになってしまう。

パキスタン人やバングラディシュ人が英語を話せなければ壁を感じるが、一応英語で意思疎通ができるとなれば一気に「教養を持つ知的な文明人」としてそこにリスペクトの精神が生まれる。

 

そして別の言い方をすれば「先進国」としてのイメージがある日本人も、英語ができなければ「未開なアジア人」として扱われることがあるということでもある。

英語が偉いと考えているわけではないが現実的には英語ができない人はちょっと未開だなというイメージは存在する。

日本人が英語出来なくて何が悪い!と思いながらも、いざ英語が通じないアジア人を見たら「ろくに教育も受けてないのか、よくわからない未開な言語で話しやがって」と思うに違いない。

完全なるダブルスタンダードで自分たちは英語が話せないことを開き直っておきながら、いざ外国人に英語が通用しないとなると「教養のない頭の悪い人たち」とみなしてしまうのはおそらく世界共通の現象だろう。

 

現に中国人がカタコトの日本語や中国語で話しかけてくるよりも、流暢な英語で話しかけてきた方が日本人は丁寧な対応をするだろう。

英語への崇拝意識は間違いなく存在する、ならばそれを上手く利用したほうがいいのではないか。ここは素直に英語ができれば賢い文明人に見てもらえるということを利用してそこにあやかることを目的にした方がいい。

変にコンプレックスや意地を持たず、かっこつけるために英語を学んでもいいのではないだろうか。

 

そういったわかりやすいモチベーションがなければ正直外国語の勉強など続きはしない。

自分自身これまで何度も外国語から遠ざかる時期を経験してきた。

やる気がある時は物凄く勉強するが燃え尽きたように勉強しなくなる時がやってくるのだ。そういう時は何でもいいからとにかくモチベーションを喚起する理由を創り出すしかない。

 

時には英語ができない人を見下す意識も必要になるだろう。

アメリカ人やイギリス人のような英語ネイティブは「英語ぐらいで来て当たり前だろ」というノリで自信を持って話している。

英語はスタンダードなのだがらできない奴ができる奴に合わせろという感覚だ。

それぐらい自信を持たなければ英語というのはできない。アジアに行ってアジアの言語を無理やり覚えるよりも「英語をできない馬鹿なお前らが悪い」というぐらいの感覚でゴリ押しすることもときには大事になってくる。

そして英語が上手ければ堪能なほどその権威や説得力は増す。

 

例としてこんなエピソードがある。

どこで聞いたかは覚えていないがアジアのどこかの国で揉めて口論になったとき、英語を使っていたことで近くにいた英語を理解できる人が味方になってくれて議論を優位に進められたという話だ。結局あらゆる問題に置いて味方を多く作れる人の方が有利であり、万人が使う物を使える方が優位に立てるという傾向がある。

 

「英語出来ない奴は未開人」という信念を持てば、英語ができない自分が恥ずかしくなってくる、それで勉強に身が入って最終的に習得出来ればそれはやったもの勝ちなのだ。

どんな目的や意志であっても結局は英語出来たほうが偉い、これは紛れもない事実だと言える。

 

有言実行とかビッグマウスみたいな話で英語ができる自分という虚像を先に作ることでその理想や目標に追い付こうとするのもありかもしれない。

「お前ここまで英語、英語言ってていざ実際に話せなかったら大恥やぞ」と自分であえてプレッシャーをかけることでモチベーションを維持することさえも必要になってくる。決して楽しいだけで努力は続かない、時にそこにはプレッシャーも役に立つ。

 

実際英語ができると頭がよく見える効果というのはアジア人に限らない。

例えばサッカーポルトガル代表のクリスティアーノ・ロナウドは英語ができることで国際的なファッションアイコンとなっている。リオネル・メッシがスペイン語しか話せないアルゼンチンの無教養なサッカーしか取り柄のない選手に見える事とは違う。ズラタン・イブラヒモビッチも英語が話せなければ所詮バルカン系のチンピラにしか見えなかっただろう。

 

英語が話せるとそれだけで凄く見えるという意識はむしろ日本人において顕著だろう。よく英語が話せる芸能人のようなシーンを見かけるがなんだかんだでやはりかっこよく見えるし国際的に活躍しているような人に見える。それまで特にインテリというイメージが無かった人も賢そうに見えてくる。

 

卑屈なコンプレックスといえばそれまでなのだが、そのコンプレックスをもやる気に変えて英語を習得出来ればそれは勝ちなのだ。勉強する動機になりさえすれば理由はどんなものでもあっていい、それほど外国語の勉強を続けると言うのは難しい事でもある。

燃料になるものは何でも使う、外国語はそれぐらいのモチベーションでなければ習得することはできない、いやそれ以前に勉強自体が続かない。

逆に言えば何でもいいからやる気や動機があれば続く、そしてそれこそが最も重要な要素だと思う。

日本人が目指すべきは「英語ができる賢いアジア人」なのかもしれない。

昔の旅行記を見ると懐かしさと幻想を抱ける

ここ数日間読書の秋らしく、古本屋で買った昔の旅行記を読んでいる。

1980年代の旅行記はまだ新しい状態で残っていて日本人がよく海外旅行に行っていた時代の文化が面白く、更にその国の当時の事情も知れて興味深い。

海外であること、そして過去であることがどこか独特な懐かしさを感じさせる。

更に文章を元に想像することによってその幻想的な風景は「もう存在しない遠い場所の遠い過去」へと変貌する。

 

特にアジアの旅行記は日本に近いこともあってどこか肌身で感じるような感覚を持てる。

インターネットが現実の延長線上のものになったり、日本という国自体が衰退して来て自分の人生も上手くいかなくて"現実"が嫌になっているときに古本の世界に閉じこもることは「ここではないどこか」への思いを馳せるためのよくツールとなる。

 

例えば海外旅行に行く動機は「日常」から離れた場所にある非日常の空間に行く事だろう。

しかし現に海外旅行に行こうと思えば膨大な費用が掛かる上に、多くの人気スポット(=手頃に行きやすいために現実的な選択肢となる)には日本人がいるためどうも異国情緒を味わえない気がする。

 

例えばチリのウユニ塩湖はあの風景を見て幻想を持ってはるか南米の奥地に出かけたとしても、そこにはブームに乗ったミーハー的日本人が多く来客してきており日常に引き戻されることになる。今ウユニ塩湖はその評判を聞きつけた日本人で溢れかえっておりおり、そこに秘境にやってきたという感覚を抱くことは難しい。

これは自分が日本人が嫌いだからというわけではなく、どこの国にも共通している現象だ。たとえば高根の花だった日本旅行にやっと来たら自分と同じような中国人ばかりだという事にげんなりする中国人は多い。

 

誰も行かないような場所で日本人に出会うならば、それは親近感を持てる。

例えば村上龍の『愛と幻想のファシズム』は冒頭カナダの先住民がいる北方の辺境の酒場で同じ日本人と出会う事から始まる。

「こんなところになぜ日本人が?」という場所で出会うならば温かみを感じるが、海外旅行に行ったのに日本人ばかりで日本人向けに作られてる物ばかりだと何のために外国にやってきたのかと感じるかもしれない。

そしてそんなところに行っている時点で自分もそのミーハーの一人なのだ。

 

今の時代タイペイやソウルにいったところでインスタに乗せる写真を撮りに来たミーハーな日本人がそこらへんにいて萎えるだろう。バブル時代にハワイに行けば日本人ばかりでもはや実質的に日本語が公用語だったという話のように、人気の観光地にはどうしても日本という現実が垣間見える。

これはきわめて複雑な心理で同郷の人がいないところで同郷人に合えば親近感がわくが、現実から離れようとしている場所で現実に引き戻されるとそれが煩わしくなるという構造があり世界共通の現象だ。そうまるで自分を見ているようで、そしてそれが自分だと突きつけられるようで。

 

逆に自分が行きたいと思っている場所はロシア、モンゴル、中国、カザフスタン、北朝鮮などあまり日本人に人気が無い国だ。怪しげな場所に惹かれるというか、寂しげな場所に行ってみたいという思いがある。

日本でも北海道の定番スポットではなく、北海道の中の離島や寂れた冬の漁港に自分は行くだろう。

 

常に逆張りしたい、素直なことはしたくない、そんなひねくれ者的には旅行地や観光スポットでもなんでもないようなその国のその県の普通の場所に行ってみたいのだ。

ゾロゾロと誰もが行く場所に集団で行ったところでそれは「観光客を観光している」という状態にしかならない。

これはそういう人気スポットに行ける人に対する貧乏人の嫉妬も交じっているのかもしれないが、いずれにせよインスタに乗せるために日本人が良く行ってる場所に行っているだけの人にはあまり好感が持てない。

彼らの心理はカメラを首からぶら下げて写真を撮っていた頃の昔の日本人と変わっていない、ただカメラがスマホに変わっただけであり日本人が日本人の人気の場所にいって帰ってから日本人に話すという体験にしかなり得ないのだ。

初めから彼らの世界観は帰国後の日本人コミュニティに向いてしまっている。

 

そう言いながらも自分自身、樺太やカザフスタン、旧満州地区(例えば哈爾濱)などに行ってその体験を日本語で日本人向けに書いてスマホで撮った写真を載せたいと思っているというのが皮肉だ。

有名な観光地に行っている時点でその自分も周りの日本人と同族の一人であるように、結局そんな自分自身が日本人的なことをやろうとしている。日本人向けの旅ブログを作ることが自分の密かな憧れや夢でもある。

 

そんな夢を抱きながら読むのが古本屋で買った昔の旅行記だ。

当時の政治状況やその国の文化や、日本人にとってのイメージ、その国から見た日本のイメージなどは現代と大きく異なっている。

例えば自分が読んだのは『ソウルの練習問題』という1980年代初頭に韓国に行っていた人の体験記だ。これはどこかの古本屋で数年前に100円で買った物が読まずに眠っていたのを偶然発見したからだ。

情報として面白いのがソウルオリンピック以前の韓国では北朝鮮からの空襲に備えて防空訓練が月に1度実際に街で行われていたり、パク・チョンヒ政権時代は12時以降の外出が禁じられていたりという歴史を感じさせる記述だ。

更に当時の韓国は若者が行くような場所ではなく、風俗店に行く事が目的の中高年男性がツアーで行くような場所だったということを想像して読んでいた。

今の感覚で言えば日本人にとってフィリピンが若者のいくスタイリッシュな場所というイメージではないように、「あっ(察し)」的な場所だったところからここまで劇的にイメージが変化したことには彼らの国家戦略の凄さを感じずにはいられない。

今旅行の定番となっているような場所も、日本人がそれほど行っていなかった時代の旅行記はどこか懐古感情を抱かせる。

 

逆に海外から旅行先としてみた日本もイメージや傾向がここ最近変わりつつあるように思う。

海外旅行が庶民の手に届くようになった中国人が真っ先に行くような場所というイメージになっているのではないか。

 

ちなみに自分が感じた日本に来る観光客の印象は「凄く日本に興味があってきた人」「なんとなく来てみた人」の両極端だ。

観光地に近い場所にあるバーでたまたま隣に座っていた外国人がアメリカ人で、その人がかなりの戦国時代オタクだったことがある。

更に言えばもう一人知っているアメリカ人も「戦国BASARA」きっかけで日本の戦国時代に興味を持ったという人で、自分の地元の大名の話をしたら「すげぇ!」みたいな反応をされたことがある

 

これは自分がスペインから来た観光客に「地元のクラブはセビージャなんだよね」と言われたら、サッカーファンとして「すげぇ!」と思う事と似ているかもしれない。

他にはなぜか岡山県に行こうとしているフランス人がいたり、バックパッカー的に旅をしているドイツ人にもあったことがある。

そしてスペイン人はほぼサッカーの話で盛り上がれる。「イニエスタ」を知っていればブロークンイングリッシュでも大体話せるぐらいに、ワールドカップ決勝でゴールを決めた選手は英雄のようだ。

 

それにしても岡山県に行こうとしていたフランス人二人組は未だに謎だ、ちなみに「シャルル・ド・ゴール」は通じたのに「シャンゼリゼ」は発音がフランス語と遠すぎて通じなかったというエピソードがある。

ただその岡山に行こうとしたフランス人がまさに真の旅行者であり、自分も海外旅行に行くならば観光客がいかないような普通の場所に行ってみたいと思う。

それで言えば日本の中でも「興味ない県」を巡ってみることもいつかしたいという夢がある。

このきっかけがなければ一生訪れることもなかったという街ほど印象に残る。

岡山県の人には申し訳ないけどリアルに自分は岡山に何があるのか知らない、著名な岡山県出身者も一人も知らない。

「大都会岡山」とネットでネタにされていることしか知らないのだ。

 

それゆえに逆に行ってみたい、岡山県に。

よく都道府県の魅力度ランキングというものがあるが、その最下位でもないけど順位的には低いような場所に行くのは面白そうだ。

確か茨城県が毎回最下位ということで「日本で最も魅力がない県」と言われているけども、46位とか43位ぐらいの県とかの居酒屋巡りをしたら中々楽しそうである。

そんなこと言いながらも自分の地元は茨城が大都会に感じるほど田舎である。

 

埼玉県とか「ださいたま」と言われて散々ネタにされてるけど、自分の感覚で言えば「埼玉とか静岡は都会」というイメージがある。まだ関東に合って電車でチョットすれば東京に行けるだけ都会だ。自分など東京には修学旅行で一度訪れたことしかない。

埼玉は「あの渡辺麻友を生み出した上に浦和レッズがある憧れの都会だ」と自分は考えている。

埼玉県出身の渡辺麻友と大分県出身の指原莉乃ならば、前者の方がまだ都会育ちという感覚だ。東京や大阪からすればどんぐりの背比べかもしれないが、「フローゼルは厨ポケ」的なニュアンスで「埼玉は都会」である。

埼玉に行けばまゆゆのような美少女が普通に歩いているのだろうか、そんな慕情も「埼玉人はそんな美人じゃない、あれが例外」という現実に打ちのめされるだろう。

別に自分の地元を見ても、その県出身の美女やイケメンが普通にいるわけではない事と同じだ。

 

ここで個人的に「旅をしたいと一切思わない県ランキングTOP5」を発表したい。

本当にその県出身の方にはジャンピング土下座をしなければならない程申し訳ないがこれが率直な印象でもある。

1位:岡山県

もはや何があるのかすらわからないし有名人を1人も知らない。一切特徴が無く特産物すらも分からない。あのフランス人が何を求めて行ったのか今でも謎でしかたない。

 

2位:三重県

ギリギリ西野カナと伊勢神宮を知っているが、それぐらいしかしらない。

 

3位:滋賀県

実は関西に住んでいたころ暇だから琵琶湖を見に行ったことがあるのだが特にもう一度いく理由は今の所無い。琵琶湖も一度行ってみれば「普通だな」とシンガポールのマーライオンや北海道の時計台並にがっかりスポットである。水がそこまで綺麗ではない、適当に近くの海に行ったほうがマシ。ただ近くの露店にあったアイスクリームは美味しかったため、むしろそのほうが思い出に残っている。

 

4位:佐賀県

行くなら長崎か福岡で、わざわざ行く理由は特にない残念な場所。せいぜい昔エンタの神様ではなわがアピールしてたことしか知らないが何をアピールしていたかは覚えていない。

 

5位:和歌山県

関西に住んでいた頃和歌山行きの電車はちょくちょく見かけたがついに乗ることは無かった。関西の秘境どころか、もはや関西というイメージすらない。

 

この5つの県に住んでいる人本当にごめんなさい、と謝りたいぐらいに自分の中で特に魅力を感じない、いやそれ以前によくわからない。

ただよくわからないがゆえに「何があるのか」という興味もそそられる。

むしろこの5県を1人自転車で一周するという旅は中々面白そうだ。観光地でもない地元民しか立ち寄らない居酒屋や食堂を周りたい、むしろそういう何気ない普通の場所に自分は惹かれる。

変わり身が早いのが自分で岡山県で凄く優しい人に出くわしたら多分自分の中の岡山県の自分内魅力ランキングはFIFAランクで日本代表がザックジャパン時代に12位ぐらいにまで上り詰めたとき並に爆上げするだろう。

 

県の魅力やイメージとして気候は大事な要素のように感じる。

例えば富山県や福井県は石川県ほどではないけども「北陸」というイメージがあって行きたいとは感じる。(石川県を自分の創作キャラクターの出身地に設定しているほど自分は北陸に憧れがある。)

南国でも北国でもない上に、特に田舎だとネタにされることもない中途半端な場所はどうしても興味を惹きつけにくい。

 

そういう意味でいつか「和歌山県を自動車や自転車で一周」みたいな旅行記を描いて見たいとも考えている。和歌山にはみかん以外こういう物がありました、的な旅だ。

というよりその県在住の普通の民家、それも特別田舎というわけでもなく住宅街にあるような普通の家を訪れてみたい。

観光地観光地した場所というのは前述のようにどうしても人が集まってしまうため却って魅力を感じない。

むしろ観光地が無い場所の方が真に魅力的であり、日本再発見ができる。

観光スポットがある駅のひとつ前の駅で降りてその街を散策したほうが思い出になる。

 

例えば国際的に「秘境」のイメージがあるチベットは今やその神秘性を求めた観光客が世界中から集まっていて秘境でもなんでもないだろう。

青い空の下にそびえ立つ荘厳なポタラ宮を見て幻想を持ってはいけない、どうせアメリカ人や中国人が大勢いる。チベットの誰も訪れない寺院には真のチベットの姿があるが、ラサではなく名前すら知らない集落の方がよほど魅力を持っているはずだ。

幸せの青い鳥と同じで、案外「遠い場所にある秘境」というのは地元の自分しか知らな場所だったりする。

「最果ての地」を求めて放浪しても、結局は自分の知っている場所への思いが強くなる。

 

「世界のどこかに綺麗な海があるんじゃないか」と探し回っても、自分が最初に知った海の光景には敵わない。

行ってみたいなぁよその海、しかしどれだけ世界の港町を歩き回ってもその"幸せの青い海"は自分が良く知っている場所だろう。青い海ですらなく、そこまで綺麗ではなくともエメラルドグリーンやオーシャンブルーの観光地よりも自分の知っている海に愛着を感じる。

スペインのマラガにまでわざわざ出かけたところで、ただのリゾートにしか感じない現実が待っているだろう。

 

それゆえにやはり本なのだ。

「過去」と「海の向こう」を兼ね備えた昔の旅行記は憧憬を抱かせる。

結局ゲームは発売前、遠足は前日が一番楽しいのと同じで想像しているときが一番面白い。

創作の世界の景色も同じように旅情を感じさせる。たとえばジブリ映画やポケモン映画、RPGゲームに出てくるような街は存在しないとわかっているがゆえに、その作品の登場人物やストーリーの魅力と共に懐かしい思い出になる。

昔の旅行記を読むというのは、これまたある種の創作だ。旅行記の文章をヒントに自分の中で別の世界を作り上げているからそこには現実と違う世界が生まれる。

旅行記に限らず小説で文章を通してイメージした景色は現実であれ創作であれ、結局読者がイメージする風景は千差万別だ。

 

最近はそうではないかもしれないが「声優」も実際に顔を見るとがっかりすることが多かった時代がある。声だけで想像するから幻想があるように、文章だけで存在するから幻想がある。

憧れの場所には行かない方がいいことが多い、想像を上回ることはほとんど無い。

アメリカの有名なクリスマスソングを作詞した人が実はあまり雪の降らないカリフォルニア州出身だったように、期待に満ちた想像のほうが時には美しい。

 

その意味でまさに昔の旅行記は実際にはほとんど架空の世界のようなものであり、それゆえに想像は膨らむ。

例えば夏目漱石が執筆した『満韓ところどころ』という作品は、漱石が当時の満州や朝鮮を旅した文章だ。

つい最近、姜尚中がその旅程を巡って漱石の視点で見つめるというようなドキュメント番組を見たことがある。これは某公共放送制作で多少左巻きな作りだったが、「日本が攻め落とした203高地から見た旅順港の景色」を取り上げていて当時の浪漫と現実の交錯する感情を読み取ることができた。

 

前述のソウルオリンピック以前の国際的に地位を高めようとしてた頃の韓国面白そうみたいな話で、韓国併合前年あたりの消えゆく大韓帝国の景色を実際に見て見たかったという思いもある。

ちなみに歴史の話をすると思想も関わってくるが、自分としては日本統治時代の朝鮮半島にも憧れがある。当時の歴史の流れで言えば正当性が無かったと断言はできないと考えている。

そんな時代の京城帝国大学や朝鮮総督府が現役で機能していた頃に行ってみたいという旅情だ。同じように日本統治時代の台湾や満州国にも憧れがある。満州国の悲惨な結末の前にあった夢や理想、それもまた想像や架空の話であるがゆえに現実とは違っていて美しい。

 

想像ほど美しい物は無い、そして現実ほど悲しい物は無い。

五族協和を掲げた満州国の理想は美しかったが最期は日本人が集団自決を繰り返しながら故郷に命からがら逃げ延び、逃げ切れなかった人々は悲惨な終わり方をした。

端的に言えば旅情とはそういう物だ、知らないから、その時には遠い未来だから憧れがある。今書かれるSFよりも鉄腕アトムぐらいの時に懸れた未来物のほうが浪漫に満ちていることと同じだ、現実は想像力を削いでしまう。

大陸の浪漫や異国への憧憬、秘境への慕情は現実という鋭い刃に無残に切り裂かれる運命にある。

そして幸せの青い鳥のように、今この場所と現実が自分の心の在り処だと気付く時が来る。世界のどんな海を巡っても、自分が知っているあの海が懐かしいと感じるように。

キャラクターデザインをしてみた

「してみた」も何も個人的に何回もしているのがキャラクターデザインではあるけども、今回は結構自分なりに満足が行く物が仕上がった。

学生時代の授業中の落書きも含めれば何回キャラデザをしたことだろうか。

 

こういう描いた後のテンションは後から「なんやこれ」と後悔することになるのが常だ。しかし自分が過去に描いた物が次の参考になったりもするので後から見て恥ずかしいアイデアやイラストも無駄にはならない。

 

そんな今回のキャラデザは自分が何となく描きたいと頭に思い描いていたものを具現化したような形になる。

何となく描き始めたものが自分なりに上手く行ったときは満足感があって、絵を描くのはやはり楽しいとも感じる。

キャラクターデザイン

キャラクターデザインというのは何度も同じキャラを試行錯誤でデザインし続けるものでもあって、自分なりのキャラデザの方法を今回語ってみようと思う。

まずキャラデザの大前提が「マルチ」であるということで、それが面白い魅力でもある。

ただキャラの絵を描くというわけではなく、いろんなものをデザインしていく楽しさがある。髪型から始まりキャラクターの服、アクセサリー、靴、ベルト、そういうもろもろのを自分なりに考えていく過程は結構面白くいろんな工程がキャラデザの楽しみでもある。

 

まず大事なのが「髪型」でこれは個人的に結構気を使っている部分でもある。

オリジナルキャラクターの作り方でキーとなるのは髪型や目の色が基本的にはもっとも大事で、ここは今のキャラ飽和の時代中々違いをつけるのが難しい。

例えば「金髪ツインテール」「ピンク髪ロング」という王道はもう数え切れない程デザインされていて、普通に髪型を考えるとただのパクりになってしまう。

普通のことをすれば確かにかっこいいしスタイリッシュだけど、それでは何かの模倣でしかないから前衛の方向に行こうとする。

 

今のキャラデザはちょっと変な髪形ぐらいのほうが面白いと自分は思っていて、例えば数年前のドキドキ!プリキュアのキュアソード、剣崎真琴は個人的に面白いデザインだと今も感じている。

もっと具体的に言えば「前髪」に特徴があったほうが面白いし、この部分で個性や違いを出したほうが今は面白いかもしれない。

作者のせいで変な髪形にされた不憫なキャラクターのほうが、実は魅力的なことが多い。

 

逆にリアルにありそうな髪型で、アニメっぽくない髪型も面白い。

昔は美容院のサイトなんかを見て参考にしていたこともあり、アニメっぽい髪型とリアルなスタイリッシュな髪形の使い分けは個人的に考えている部分でもある。ある程度慣れてくると髪型はアドリブやフィーリングになってくる。

「あまりにもアニメっぽいものはかっこよくない」という変なプライドもあったり、あえて前衛的なデザインをしようとして上手く行かなかったり、そういうことの繰り返しだ。

 

これはあくまで自分のやり方ではあるけども、オリキャラデザインをしている人がどういうデザイン方法や参考を元に髪型を考えているかというのは面白い。

デザイン全てに言えることだけども普通にやるとどこかで見たものになるから、開き直って変なものにするとただ単にダサいものになるというジレンマがある。

その中で面白い物は本当に何回もやった中からちょっとしかでてこないけどそれがデザインの楽しさでもある。

本当に何度も失敗して試行錯誤の末に一つの正解があって、それも妥協した末のもので本当はもっと脳内に凄い物がある。

 

このキャラも本当はもっと理想的なイメージがあって「やっと今ちょっとできたかな」とも思っていて、更にあと10回以上繰り返してやっと理想に近づけたかどうかというレベルでしかない。

 

脳内にあるものと実際に描いてみて「ちょっと理想と違うけど、これはこれでいいね」というものの組み合わせの繰り返しがキャラデザの世界でもある。それが次回の参考になったり、そこからさらにアレンジが自分の中で始まっていく。

 

そして今回のイラスト、細部を見れば酷い物ですよ。

結構雰囲気に頼っているというか、特に「手」の描き込みはあまり見てもらいたくない程ド下手もいいところ。

ただ「誰も手なんて見てないから適当でいい」と思うと、次回からも手を抜いてしまうから今回自分にプレッシャーを与えるつもりで「細部の粗探してください」とも思う。

 

正直、自分はかなり全身像やポーズをつけた描き方が苦手で、手は特に不得意としていてて昔はもはや上半身のイラストだけだったこともある。

こういう苦手な物やできない事から逃げるといつまでもできないから、なるべくやったことが無いことにチャレンジすることも大事だと考えつつもいつも自分なりのテンプレをやってしまう。

キャラクターデザイン

それにしても今回のデザインを見ると、描くたびに手足が長くなっていくというかCLAMP体型やギアス体型に近づいていくことに気付く。

前回デザインしたキャラが全員、橋本環奈並のちんちくりんに見えてくるというか無駄に手足を伸ばしたくなるというキャラデザあるある。当時としては結構長めに描いたつもりだったのに、今冷静に見るとちんちくりん感が半端無いというか。

CLAMPの人たちもそういう感覚なんだろうなぁというぐらいに謎の八頭身になっていく。

そういえば2ちゃんねるに八頭身とかいうキャラクターいたよなぁ笑

 

個人的にコードギアス体型好きで、あの世界平均身長ヤバイだろ感がいいよね。

そのコードギアスやCLAMPに言えることとして、彼女らには顔や髪形を描く能力だけでなく独自の「衣装センス」もあるなと思う。

 

キャラデザはまさに同時に「ファッションデザイン」の世界でもあり、自分の場合むしろ顔よりも衣装を見てほしいとさえ思っているほどに服のデザインが好きなところがある。

自分自身の服はどうでもいいと気にしないのにキャラの服は結構考える。

実は自分は「ふわふわ系」の柔らかいデザインがほとんど描けない。

実際デザインを見ても分かるように「トゲトゲ」「ギザギザ」「カクカク」が自分のやりがちなことでもあって、プリキュア的なデザインや女性アイドル的なデザインは大の苦手でもある。

 

逆に「シュッ」っとした感じのデザインは理想で、男性キャラだと衣装にしても髪型にしても結構ジャニーズとか参考にしてもいる。ジャニーズは最近むしろ衣装が気になるというか、本人たちもかっこいいけど衣装がかなり斬新で面白い。

少年倶楽部とかかなり衣装かっこよくていつかジャニーズの衣装デザインできたらいいなという憧れもある。

 

素人のノートの落書きのような遊びでしかないけどもファッションデザインは面白いしいつかちゃんと服飾を学びたいとも最近は考えている。

最近パリコレクションを特集したドキュメント番組を見てファッションデザイン熱が上がってきたり、「パリコレ出たいよなぁ、俺日本のクリスチャン・ディオールになるから」みたいな突拍子もない妄言も内面に湧き出ている。

ただパリコレはかなり参加条件厳しくてなんか何年間工房維持してるとか、そういう条件があるらしい。

 

とにかくパリコレ特集したドキュメントみてファッションは自由だと思ったのは結構今の自分に影響を与えているかなと。

「自分のデザインはオートクチュールだから」と言いながらもパリコレとかオートクチュールも良くわかってない自分がいる。

でもとにかく普通の事ではなくデザイナーの個性は必要だなと世界トップレベルのデザイナーを見て感じたしデザインの世界は面白いという情熱は湧いてきた。

それっぽいデザインできてもそれは自分じゃないよなぁ、みたいな逆張りの意識というか、まぁとにかくまだいろいろ試行錯誤中の中でいろいろ考えていきたいなとも思う。

三大ワイが欲しかったビーストウォーズを語るゾ

トランスフォーマーのビーストウォーズシリーズと言えば今も自分の中で楽しかった思い出として懐かしく、時々ネットで昔の玩具を調べることがある上に創作のヒントにもしている。

 

そんなビーストウォーズは個人的に復活を熱望している作品群の一つで「なんで最近トランスフォーマーは動物や昆虫モチーフの物が少ないのか」という寂しさもある。

更に子供向けコンテンツや玩具からも昆虫や動物を題材にしたものは消えつつあり、グロテスクな生き物までをも再現したBWしか自分好みの玩具が無いという状態にすら陥っている。

 

ビーストウォーズの凄いところはハチやカニ、クモというマニアックなところから更に先に行って、もはや「ハサミムシ」「ダンゴムシ」「蚊」という普通なら誰も注目せずファンもいないような昆虫類にまでスポットライトを当てているところにある。

正確にはダンゴムシは昆虫ではないのだがいずれにせよマニアの中のマニアなモチーフまでしっかり玩具化して展開していたところに希少性がある。

 

「蚊のおもちゃ欲しい」と思ったら今時そんなものは無いし、まして変形までする物となればほぼビースウォーズしか存在しない。

今の少子化時代になり街からおもちゃ屋さんが消滅し大手量販店ですら玩具コーナーが縮小されていく中で、こういったキッズ向けの玩具が大規模に展開できた時代はもはや過去のセピア色の物に変わりつつある。

 

今の子供たちが好きなものと言えばソーシャルゲームのレアカードだろうか。

物体のおもちゃどころかTCGですらもはや過去のものになりつつある時代において、こういう玩具は徐々に作られなくなっていく現実がある。

 

そんなセピア色の時代の玩具について曖昧な思い出と共に振り返ることが自分の趣味でもあるのだが、今回はそんなビーストウォーズの中で「欲しかったけど様々な事情で結局手に入れられなかった」というキャラクターを語ってみたい。

好きなビーストウォーズで言えば当時持っていたものもあるため「欲しかったけど手に入れられなかった」という括りになる。

 

1:マンティス

そもそも「カマキリ」という昆虫自体が消防男子にとっては大の憧れだ。

毎年のようにカマキリを探して育ててたり、バッタをゲットして捕食シーンを観察したりしていた。

 

日本には大体オオカマキリとハラビロカマキリとコカマキリいて、実は最強がハラビロカマキリでもある。オオカマキリとハラビロカマキリを同じ虫かごで飼ったら大抵次の朝にはオオカマキリが消えているという経験をしたことがある人がいるのではないだろうか。

コカマキリを見ると「なんだ、オオカマキリじゃないのか」と思ったのも懐かしい。

 

そんな消防男子大好きなカマキリをモチーフとしたビーストウォーズのマンティスはやはりキッズ憧れでもあった。

結局自分はこのマンティスを買ってもらえなくて最終的に持っていたクラスメイトに譲ってもらった記憶がある。

小学校時代にありがちなのが「おもちゃのトレード」で上げたものもあればもらったものあり、そんな時代だったなとも思う。

 

ちなみに海外版のマンティスは羽が紫らしく、日本販売版の青とは異なるらしい。

個人的なイメージでいえばやはり緑と青の組み合わせが印象的でとにかく鎌がかっこよかったという思い出がある。ちなみに作中での活躍に関しては当時アニメは曖昧にしか見ておらずほぼ玩具勢だったため、今になってキャラクター設定を知ってサプライズを受けたりもする。

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2:タランス

自分は不気味な生き物が凄く好きでもあり蜘蛛の中でもタランチュラは特に大好きな存在として大人になったらペットとして飼おうと心に決めていたほどでもある。

そのタランチュラ好きの原点になったのがもしかしたら初代ビーストウォーズのタランスかもしれない。

 

タランチュラをモチーフにした玩具で、なおかつロボットに変形する物というのはもはやビーストウォーズが唯一無二なのではないだろうか。

ちなみに自分は「コバルトブルータランチュラ」という種類が憧れで、非常に美しいタランチュラに今も憧憬を抱いている。

こういったグロテスクな生き物への趣味を刺激されたという人はビーストウォーズにはまっていた世代に多いように思う。

bwcomplex.html.xdomain.jp

 

ちなみに自分はビーストウォーズのクモ系列ではブラックウィドーのメタルス版を実際に所有していたことがある。

こういった男子向けアニメやゲームに出てくる女性キャラというのはエキゾチックでセクシーなところがあって、デジモンの「ロゼモン」や「エンジェウーモン」的な魅力がある。

 

しかも「ジョロウグモ」という中々マニアックなモチーフでジョロウグモをここまでセクシーに仕上げたキャラはブラックウィドーしか存在しないと言っても過言ではない。

日本人の蜘蛛人気ではクモ同士で戦わせるお祭りがあるほどがコガネグモが支持されていてその巣も美しいと名高いが、忌み嫌われるジョロウグモのほうにエキゾチックさを感じる自分もいる。

ちなみに海外版ではセアカゴケグモがモチーフらしいのだが、いずれにせよかなりマニアックなところを参考にしていることは間違いない。

ameblo.jp

 

3:タイガーファルコン

このタイガーファルコンに関しては名前もよく記憶していなかったほどのキャラで正体を調べるのに苦労した。

タイガトロンとエアラザーが融合したという設定すら知らなかったほどだ。

自分の中にあるイメージといえば、今では閉店してしまった地元にあったおもちゃ屋さんの高いところに置いてあったかっこいいメカという曖昧なものだ。ただその曖昧さゆえに自分の中で神格化されていたのかもしれない。

 

ホワイトタイガーな上に青い羽根までついてるともなれば消防男子的にはもはや最強といっても過言ではない存在で、実際におもちゃ屋さんで見たときは感動した記憶がある。

 

ただ実際には誕生日プレゼントでゾイドのセイバータイガーを買ってもらった気がする。それゆえに自分は手に入れることができず、更にはそのおもちゃ屋さんも閉店し幻へと消えてしまった。

セイバータイガーと最後までどちらにするか悩んだ、それがタイガーファルコンだ。

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「あの頃」はやはり懐かしい、変わりゆく時代の中で今も心の拠り所となるものはセピア色の過去だ。

無くなってしまった地元のおもちゃ屋さん、そんな過去も今では切ない、そして曖昧であるがゆえに美化されてゆく。

その中でも「欲しかったけど手に入れることができなかった」という物はより一層憧れが強くなり今も懐かしく感じる。

いつかそんな懐古玩具を集めてコレクションしてみたい。

きっとそこには失いつつある少年の浪漫が詰まっているのだから。

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人生やる気がないモードに突入したときはどうすればいいのか

ここ最近また無気力状態が復活している。

ひたすらネガティブな思考ばかりが駆け巡り、明るい見通しが感じられなくなってしまう。

今日もまた何も変わり映えの無い日が始まるんだろうなとか、やってもこんなもんかという感覚に支配されていく。

「人生しょーもな、くだらねぇ」と無気力な表情で溜息のようにつぶやき、無表情で録画したテレビ番組を消費するように見てるだけ。ハードディスクに溜まった録画番組を見て削除するぐらいしか達成感が無い。

 

それ以外の達成感、充実感、意義のある事をしている実感、そういうキラキラしたエネルギーは皆無皆無&皆無でしかない。

やったことが何の結果にもならないと楽しくなくなり、やっぱ俺ってこんなもんかと腐る。

この1年ちょっとで本当に諦めが早くなった。

少しでも上手く行かない兆候が出ると「またか・・・」と思うようになってしまう。

しょせん自分の人生なんてこんなもんか、としか思わなくなりやる気やモチベーションが枯渇する。

 

結局必要な時に自信が得られなかったり、最後には勝ったという経験がないから諦めが早かったりすぐ萎えたりしてしまうんだろうなと思う。

例えばサッカーの試合で負けてる時に逆転を信じて走り続けたり、頑張ってボールを奪いに行こうとしたりできるのは、一度は逆転を経験したことがそのキャリアの中であるからだ。

 

なんでこんな試合で我武者羅に走り続けたり守備を出来るのだろうかという選手も、それは過去に公式であれ練習であれ劇的な逆転を経験したことがありその経験の再現を信じられるからだ。

プロの選手なら一度はそういう経験があるから、またその勝利に向かって信じて走り続けられる。

 

しかし自分の場合そんな経験がない。

「ここで走っても無駄やろ、どうせ負けは決まってる」という思考の方が先に来てしまいダラダラして守備もサボるタイプだ。

どうせ重要な局面で決めてヒーローになれる選手というのは決まっている、俺は主人公タイプじゃない、そんな諦めにも似た感情が自分の本心だ。

 

それどころかもはや試合にも出れずベンチで不貞腐れてるような選手だろう。

存在しないことと同義の無価値な選手として人生という試合で活躍できず不貞腐れてるだけ。

ちょっと上手く行かなければすぐ諦める、そしてこの部活早く辞めたいなとしか思わなくなる。何の結果も出ないとこの努力に意味があるのかなと感じられるようになってしまう。

入部したての頃の情熱などどこかに消えて、惰性で練習して早く辞めたいとしか思っていないようなものだ。好きだったものがつまらなく感じるようになってしまう。

 

「どうせ俺はプロどころかこの弱小高校のレギュラーにすらなれない、やっても無駄」

そんなことを考えてる末端の部員のような思考に陥っている。

 

人生頑張れる人というのはある程度それまで上手く行った経験がある人で、その成功体験をもとに上手く行かない時や試練にも耐えられる構造がある。

それが無い時はどうせやってもまたこれまでのように上手く行かないんだというイメージのほうが強くなってしまう。

やってもこんなもんかという現実しか突きつけられず、次はもっと頑張らなくなるから更に何も生まれないという悪循環に陥る。

 

上手く行ってない時ほど闘志や反骨心を燃やして頑張れるタイプならまだ救いようがあるが、もうそういうエネルギーすらなくして不貞腐れるようになってしまった。

まだ少し前は「上手く行ってない時ほど真の実力が問われるんだ!」と言い聞かせていたのに、今ではそういう意識高いのもう疲れたわとしか思わない。そういうことが続きすぎるとひたすらどうでもよくなってしまうのだ。

 

更に「もう時代じゃないんだろうなぁ」と今度は時代のせいにし始める。

達成感、充実感、前進している感覚、そんなものが一切ないと虚無感やだけが支配して不貞腐れるようになる。

こういう人生やる気ないモードに入ったときは長い。

まるで入口の見えない長いトンネルを歩いているような感覚だ。

 

根拠も無く無尽蔵に情熱が湧いてきた時期はとっくに終わっていて、惰性の中から頑張って残り火だけを探す作業が始まる。

そんな無気力な人たちが今増えているのではないだろうか。

 

こういう時は自分の経験上もう充電期間だと思うしかない。

全然違う事をしていれば気分転換になってまた少しだけモチベーションが湧いてくるときがある。それが1か月になるかもしれないし、1年になることもある。

ただ時間をかけることも時には必要なのかもしれない、生き急いでは疲れるだけなのだから。

note.mu

酒しか楽しみが無い底辺生活おくっとる奴www

社会の底辺に落ちぶれてから自分の楽しみの多くが無くなった。

かろうじて出費する対象と言えばほとんどが酒類だ。まさに酔って人生の苦しみを紛らわすためにお酒をほぼ毎日のように飲んでしまっている。

 

その上結局飲みすぎて苦しくなって後悔するのだから何をしているか自分でもわからなくなる。しかし、それでもまた飲みたくなって結局同じことを繰り返してしまう。

何度かお酒を辞めようと思ったがそのミッションは毎回失敗し、ほぼアル中と言っても差し支えない状態だ。

 

アルコール依存者の特徴として理由をつけてお酒を飲むという物があるが、少しでも何かをすると「今日は頑張った」と自分の中で見なして飲んでしまう。それに加えて頑張るために飲むという事もあり、酒を飲んでも仕方がないということをわかっていながらも同じことを繰り返す。

「今は辛いから飲んでもいい、気分を変えよう」という理由も良く使う。


酒を飲んで何かを食べるという誘惑が湧いてきたとき「今回限りは飲んでいい」というともうそれが毎日になる。

いずれ毎晩になり、そして一日中になる。
まるでダイエットのリバウンドのようなものでまたやってしまう。

 

日々の思考の中心が「どう酒を飲むか、どのタイミングで晩酌を始めるか」になり、お酒を飲まなければ何かを始めるやる気すら生まれない。晩酌どころか朝や昼間から飲むこともある、とにかくお酒が入っていなければ何もすることができない。

しかし実際にはお酒で楽しくなっていられる時間など少なく、結局飲みすぎて苦しんで回復までに時間を要してしまうため効率の悪さはとてつもない。

 

楽しみが無いから酒に頼るとも言えるが、酒があるから楽しみを探して得るための努力を行わなくなるともいえる。酒で腐敗してしまっている状態だ。

自分の中でとある大きな失敗があって、人生の歯車が狂い始めてからなおさらその傾向は強くなった。

「もう人生なんてどうでもいいし夢もかなわない」と諦めにも似た感情を抱きながら、酒に依存していく。

本当に味にこだわって良い場所で良い食事をしながら楽しんでお酒を飲んでいるというわけではなく、気に入らない人生を紛らわすために独り安酒を煽っている底辺の飲み方だ。

良い飲み方とは決して言えず、惨めな飲み方でしかないだろう。

酒

気まぐれに過ぎてゆく今しかない最高に退屈な日々と言えば聞こえがいいが、何も希望が見えてこない寂しい人生でもある。安いかどうかが基準になり、お酒もなるべくアルコール効率が良い物になっていく。

単なるアルコール補給の意味合いが強い。

人生の楽しみが酒しかない上に、その酒もなるべく出費を抑えている。

当たり前のことができない日々の暮らしが嫌になり、人生を楽しんでいる人が妬ましく感じるようになる。
金がないと楽しめない、日々がつまらなくなる。
本当に経済的に余裕があれば飲み歩いて、面白いバーを巡る記事でも書いてみたいが現実的にはいつも買う物は決まっていて部屋の中で飲む地味な生活だけだ。


街に出て誰かとご飯を食べて面白い会話をしているわけでもなく、ただ壁に向かって話をしているだけだ。
日々のつまらない往復、酒飲んでネット見る、それだけ。

せいぜい適当に散歩するぐらいでおそろしくつまらない。近くのコンビニまで歩いて行って、お酒を買って飲み歩きをしながら帰ってくるという工夫ぐらいしか変化が無い。

 

お酒しか楽しみが無いならせめてその酒ぐらいは何かの工夫をしたいが、中々何も変わっていかない現実もある。

変えようとしても挫折しいろいろ面倒になる。

その結果「どうでもいいや」と思いながらまた安酒を煽るのだ。

アルコールほど現実逃避に最適なツールは無い。

何の楽しみも無い孤男の底辺負け組にとって最低限酒がある事は助かる、そして人生どうでもいいやと現実逃避ができる。

昔の自分はまだ意識を高く持とうとしていたが、今はもう負け組であるという事を受け入れて意識低く「飲もう呑もう、どうせ世の中くだらない」とヤケ酒のように飲んでいる。

 

世の中真面目に考えるだけ馬鹿らしいし、まぁこんな底辺人生だと諦めがつくのだ。頑張れる人や才能や能力がある人が頑張ればいい、どうせ頑張っても無駄な無能は意識低く安酒に逃げるのが一番。成りたくなかった大人の姿であっても、これが自分なのだと酒さえあれば案外受け入れられる。

大阪の新世界でワンカップ酒を飲んでいる浮浪者、多分それが自分の将来の姿だろう。

ただそんな似た様な仲間同士で寒空の下、肩を寄せ合いながら飲む酒は中々美味しそうだ。

 

人生は今できることをするしかない、そう簡単に変わっていくことは無い。

勝ち組になれる人、人気者や主人公になれて充実感や自信を得られる人、楽しい人生を送れる人、努力が報われる人、誰かから必要としてもらえる人、そんな人は限られている。

その勝ち組の椅子からあぶれた負け組の底辺にとって唯一心の癒しや拠り所となるのがお酒だ。

どうせ勝つ人はいつも決まってる、そんなことを悟りながら飲む酒はまるで砂漠の中のオアシスのように感じられるのだ。

note.mu

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