負け組ゆとりの語り場

社会に取り残された男が日々を語る

なぜ独裁政権の話はワクワクするのか

独裁政権の歴史を調べることが面白い理由はスケール感の大きさにあるのではないかと思っている。

例えばアドルフ・ヒトラーが第三帝国を作ろうとしたり、ヨシフ・スターリンが戦後核開発や宇宙開発を推し進めたり、毛沢東が文化大革命を行おうとしたり、とにかくやろうとしていることが大きく歴史の勉強としては非常にワクワクするものがある。

 

スターリンが水爆作ろうとしてた頃とか極秘の核施設を作ろうとしていた頃は本人も側近もかなりワクワクしていたんだろうなと思うし、その時代を想像するとかっこいいと思う自分がいる。冷戦初期の新しい秩序が形成されていく激動の時代に惹かれる。

スターリン様式の建築もかっこよくモスクワ大学は特にデザインがかっこいいし、計画だけで終わった建築も実際実現していた場合の姿を想像したくなる。

ソ連の秘密都市や閉鎖都市も、極秘感があってそういう物に惹かれるのは厨二病的心理がある。日本でも田中角栄が日本列島改造論を実行しようとしてロッキードで失脚するまでの流れは戦後史の中で非常に面白く、キャラとして独裁者や強力な指導者面白いよなぁと思うのだ。

 

朝鮮半島もパク・チョンヒVSキム・イルソンのキャラ濃い指導者同士が競い合っていた時代は面白そうで、いつ本当に朝鮮戦争が再開するかわからない切迫感をイメージせずにはいられない。

 

仮にドイツが戦争に勝っていたらゲルマニア計画が実行されて、ベルリンが凄い都市になっていたのだろうかとも考える。

独裁者にありがちなのが昔から権威を示すために巨大建造物を作ろうとするところであり、織田信長の安土城も一種の独裁者が作った建築物の一つだと見ることもできる。

あまりお城に興味が無い自分でも安土城には浪漫を感じるし、巨大建築物へのワクワク感はいろんな人に共通しているのかもしれない。一昔前世界最大級の廃墟と言われていた北朝鮮のリュギョンホテルや、北朝鮮版凱旋門なども魅力があり共産圏の独裁者変な物作りがち説はよく言われる。

 

良くも悪くも民主主義だとできないことを好き勝手やれるからスケール感のある事ができるのが独裁政権だろう。

とはいえ日本も戦後初期の新幹線が作られていく時代の開発に懸けるエネルギーや高度経済成長の時代の話は光と影があって体験して見たかったという思いもある。

漠然と今の世の中につまらなさや閉塞感を感じていると過去に思いを馳せるようになる。

冷戦初期のソ連で北極に近い場所を移動するソ連軍戦闘機や艦船などの姿を想像すると浪漫あるよなぁとも感じるし、独裁政権や悪役陣営の怪しいイメージが自分は好きなのだろう。

 

機動戦士ガンダムで言えばジオン公国の首都ズム・シティも憧れがある、そういう創作の世界の話も想像してワクワクする自分がいる。ガンダムSEEDの方プラントのアプリリウス市とかもかっこいいと思うしその辺設定もっと見てみたいな。プラントでザフト軍用のモビルスーツ作ってる姿も見たいし、カーペンタリア基地のように基地系列もかっこいいなと思う。

「大規模感」というか「大正義感」というか、スケールのでかい話がやっぱり面白い。強いエネルギーで発展していく雰囲気自体への憧憬とでもいうのだろうか、街が変わりゆく激動や刺激を自分は求めているのだろう。

田舎にいると気付くんだよ、また一つ店が閉鎖したなという事に。子供の頃に合った店がどんどん無くなっていくことのあの何とも言えない寂しさを日本人の多くが今リアルタイムで経験しているだろう。

その寂寥感とまさに正反対なものが発展していく激動の世の中の情熱だ。

 

仮にこれから大規模感のある開発が行われるとしたら宇宙開発だろう。

ただこのこの宇宙開発も現代ではコストパフォーマンスが悪くて割に合わないものになっている。冷戦期だったから米ソの威信をかけた開発が行われていたが、今は宇宙開発も徐々に下火になって来ているらしい。

米中冷戦の時代が激化すれば国力を競うために宇宙開発がもう一度盛り上がるかもしれないが、今は残念ながらそういう時代ではない。

大規模な建築物や巨大な開発が行われない時代になって来ているのは少し寂しい。軍事でもどこも軍縮ムードで、税金の無駄遣いができないからしょぼい物しか作れなくなってきている。

ドイツという敵に続きソ連という敵が消滅して西側もやることが無くなった感は否めない。ソビエトというラスボスを倒した後に訪れたのは情熱の無い寂しい世界だったとアメリカ人は思っているのではないか。

ただのテロ対策が精いっぱいな時代になって、弱小国に対してワンサイドゲームをする時代になった。少し前のイラク、そして最近ではシリアで大正義感ある争いは無くなってきている。

戦争をエンタメやスポーツ感覚で語って不謹慎ではあるが、ワールドカップで言うとグループリーグのどうでもいい試合ばかりで、準決勝や決勝のような組み合わせが無いことは盛り上がりに欠けるよなぁと。

 

発展していく感が味わいたければやはり中国や東南アジアに旅行しにいくのが一番なのだろう。

マレーシアは今本当に来ているらしく、首都のクアラルンプールはかなり日本人が過ごしやすいとも言われているし、インドネシアのジャカルタやベトナムのハノイもエネルギーがある。

そういう旅番組が自分は結構好きで、少し前にみた旅番組の景色が懐かしく感じることもある。

中国も共産党一党独裁だからできることもあり、日本で言う大阪規模の都市が中国全土に存在するほど巨大国家になっている。冷静に考えてアフリカの総人口以上の人口が中国一国に存在するというのはスケールが大きくて当たり前なのかもしれない。

 

それで言えばインドとアフリカもかなり今来ている国で、10年前の未開なインドというイメージは無くなってきている。中国が人民服を着て自転車で走っているというイメージもとっくの昔のことになっていて、子供の頃にちょっとだけそういうイメージがあったぐらいだ。

これからインドが中国のようにイメージが変わっていくだろう。インドの核開発の話もワクワクするもので、インドの技術者がどんな感じで核開発をしているのだろうかという現場への想像力も掻き立てられる。

 

日本がエネルギーある開発をしていたのは明治の近代化か戦後復興の時代だろう。

これも意見が分かれる物で、明治時代の東京近代化戦後昭和の高度経済成長どちらがワクワクするかというのも意見が分かれる。東京駅のような西洋風の建築が作られていく過程か、東京タワーが出来上がっていく過程かどちらがワクワクするだろうか。

 

「花の都東京」として日本人が東京に憧れた時代の話は今にないエネルギーがある。

日本にそれまでなかったものが東京から出来上がっていく感は今中々ないし東京に憧れる理由も減ってきている。

「東京に凄い物できたらしいぜ」的な話題は今の時代無くなってきている。せいぜいハロウィンで仮装大会をして、それを冷めた目で見るという時代になって来ている。

東京が偉そうな時代で、東京から何か新しい物が発展していきそれが全国に波及していくというやり方が実は日本にとって最も適したスタイルだった可能性はある。

「東京に行けば凄そう」みたいな漠然とした憧憬は無くなって気付くけど、今になってみればやっぱり必要だったなとも思う。昭和や明治の頃の東京への憧れ凄かったんだろうなという思いもあるし、大正時代のハイカラ文化で喫茶店や洋菓子店が普及し始める頃もかなりワクワクする。

 

浪漫で言えば満州国の完成形を見てみたかったなという思いはある。五族協和の王道楽土、日本の生命線、首都新京、アジアの多民族国家、そこに憧憬がある。

満州国は悪いイメージで語られがちだけども、建築物や施設を見るとかっこよく日本にはない最先端の設備もあったようだ。

日本植民地時代の京城も興味があるし、当時の大連や旅順なんかも夏目漱石の「満韓ところどころ」にあるような旅情がある。

「行ってみたいな、よその海」という歌詞があるけども知らないから幻想や旅情を抱けるのかもしれないし「ここではないどこか」に思いを馳せて旅に出たいと思うのは人間の本能なのだろう。

 

独裁政権の話で言えば、スペインとポルトガルの大航海時代に新大陸を目指して海出たというのは当時の国王や女王が支援していたという話も聞く。そういうことができるのがやはり強固な政権なのだろう。

現在の日本でも青年海外協力隊というものがあるが、あれは簡単になれる物なのだろうか、そんな簡単なものではなさそうではあるが興味を持ったら調べてみたい。

 

冷戦時代のモスクワの街並みや、毛沢東がいたころの北京、ヒトラーが作ろうとしていた第三帝国の世界首都ゲルマニア、今は存在しない満州国、今より閉鎖的だったころの平壌、想像と現実は違うのかもしれないがそういった場所に憧憬を抱く。

日本人がパリに行ったらがっかりするという事は良く言われるが、知らないから良いのかもしれない。

過去は甘美だ、知らないから幻想を抱けるのだろう。

壮大な計画でエネルギッシュなことが進んでいく激動の時代、その空気感や情熱に思いを馳せることも体験していないからむしろ楽しいのかもしれない。

ここではないどこか、今ではない過去か未来、つまらない今と対極にある幻想にも似た世界が自分の心に今日も一滴の希望を与えてくれる。

オリジナルキャラクターの製作には計画と組織が必要

自称「オリキャラの専門家」と考える自分はオリキャラ論について語りたいことが様々にある。このブログはそういった創作論についても全力で語る場にしていきたいと思っているけども、その考察はオリキャラ文化発展のためのものでもある。

 

素直に言って自分は大のオリキャラ好きであり、キャラクターを独自に創作するという文化の愛好者だ。

公式に設定されたキャラクターだけが正義ではない、そう考えている。

まだ"オリキャラ文化"は黎明期であり、これからより深く考察していかなければならないだろう。ユーチューバーと呼ばれる人々が芸能人に匹敵する存在になったように、これからは個人が創作したオリジナルキャラクターが公式のキャラクターに匹敵する時代になってくのではないか、自分はそんな未来を思い描いている。

 

しかしそれは理想や夢だけが存在する薔薇色の世界ではない。

自分自身ネット上にオリキャラのイラストを投稿してきた人間だが、正直に言ってこの世界はシビアでありそう簡単に自分のキャラクターが普及していくわけではないという現実をよく知っている。

 

まず大前提として現代において「キャラクター」というのは半ば飽和状態にある。地下アイドルも含めればアイドルが無数に存在するアイドル戦国時代のように、今キャラクターというのは公式キャラクターやオリジナルキャラクター問わず無数に存在する。

公式のアニメキャラクターやゲームキャラクターでさえ飽和状態であり、すぐに"消費"されていく。この激烈な競争時代に個人の考えたオリジナルキャラクターがそう簡単に普及するはずもない事は想像がつくだろう。

 

そういった状況の中で今日もオリキャラが"乱造"されてはネット上に配信され、誰にも見向きもされず埋もれていく。

ただ自己満足オリキャラを描いて「描いてもいいのよ」とタグをつけて、反応や描いてくれる人を受け身で待っているという人が多い。

自分もレベルの低いオリキャラ描いてる立場で自嘲気味に語るのであれば、どうでもいいオリキャラ描いてる人が本当に多いなとも思う。もちろん自分がその一人で、どうすればいいのかなと思い悩んでいる部分はある。

まずはオリキャラ文化発展としてこういったあまり語られない裏事情をしっかり明文化して、これからオリジナルキャラクターを描いていこうと考えている人が認識することが重要なんじゃないかとも思う。

少しでもこういった考察がこれからオリキャラを描きたい人の参考になればよいなとも考えている。

 

そしてこの状況を打開するのは「計画」と「組織」なのではないか。

ユーチューバーの世界と一緒でユーチューバー事務所所属の人がもう今は有利なように、これから個人創作も組織の時代になっていくのではないか。

もう素人が無名の所から這い上がってくる時代ではなくなっている。

 

ただ難しいのがネットは案外創作仲間が集まりにくいという構造がある。これは端的に言えば「皆自分の創作で忙しいから」であり、一つの作品を共同で作るという状況は発生しにくい。

創作している人は自分の創作で忙しいから、人に協力する暇があったら自分のものを作りたいという人がピクシブを見ていても殆どのように思う。

そんな無名の個人が小規模で誰も見向きもしない物を作っているというのが現状で、正直なところ自分もその誰も見向きもしない創作を細々と作っている人間の一人だ。

 

1年前から閲覧数全然変わってない人もいて、やはりネット上の個人創作には限界があるのも事実だ。細々と独りで何か自己満足でするよりも、グループや組織で大きなことをした方が間違いなく良い結果にはなる。

ただそれができたら苦労しない話でどうすれば良いのかなと現状もがいて悩んでいる段階だ。

画力やスキルはあるけど特に作りたいものが無いと言う人にどうやったら協力してもらえるのかとも考えて模索している。協力したほうが得だということに気付かず細々とやってる人が多い、そしてそんなことを言いながらも自分から誰かに協力しようとも思わない自分がいる。

これがまさにジレンマで、案外ネットでベストな創作仲間が集まることは少ないし、協力し合ったほうがいいのはわかるけどいざ自分から積極的に誰かに協力しようと思わないと言うところに難しさがある。

 

そもそもネット全体として今の世の中プロや組織の物になってきており、個人サイト的なものがどんどん減ってきているという寂しさはある。

初期の素人感がなくなってきていろんなものがガチ化してきて、プロやプロ予備軍の物になってきている。

ユーチューバーが初期の素人文化から既に芸能人より有名な時代になり、事務所まで作られて、事務所に所属している人やプロになれるスキルがある人が有利という時代になってきているのはその典型例だろう。

 

ネットで細々とオリキャラ創作している人は肌身でそれを感じているのではないだろうか。コミュニティをどう作っていくか、本当に協力し合える人をどう見つけていくか、それが本当に難しい。

社交辞令的な表面上の関係ではなく本当に大きな物を目指していく意識がある人がどれだけいるのかというと現実はシビアなのが実情だ。

 

理想としてはバンドやサークル的な感覚で、一つの作品を作る組織を作れないかと思っている。

漫画家集団のCLAMPはまさに理想で、あの人たちのようなグループを作れないかと自分は考えている。もう今の時代個人でできることは限られていて、細々と個人創作して埋もれている人が大量に存在する時代になっている。

小説投稿サイトでも2,3話書いただけで放置されているようなものも多いしユーチューバーになろうとして無名で終わっている人が多い。

オリキャラもその典型で有象無象のオリキャラが大量に作られ、誰にも相手にされず消えていく光景ばかりでもったいないと思わずにはいられない。

 

そう言う人が集まって数人で運営するサイトを作って、盛り上がっている雰囲気を作り出していけば面白いコミュニティになるんじゃないかなと思うし、お互いに無い物を補い合うという考えを共有できる人を集めたいとも思っている。

物々交換のような感覚で、お互いスキルや人脈を補い合えば大きなことができるのではないか。

 

オリキャラもただ描きあうだけなのは、それこそただいいね!を押しあってるだけの先が無いことで、具体的に大きなものを制作していくことには発展していかない。

正直なところ1回描きあって終わりというパターンが本当に多くて、本当に何か大きなものを作りたいわけではないというケースも多い。

 

楽しく描きあってても仕方がないし持たざる者がどれだけ連携しても仕方がないというのは自分が創作していて痛感したことでもある。

それで言えば自分が悪いということに尽きる、正直これは自分がしょぼいから凄い協力者も現れないというシンプルな構造がある。

下手な選手に上手い選手がパスしようとしないのと同じで、レベルの低い創作者に上手い人は協力してくれないのは当たり前だともいえる。自分のレベルが高くなりやってることが魅力的なものになれば自然と協力してくれる人が現れるのではないか。

個人のレベルアップが重要で、技術や能力がない人間が最初から連携に頼っていては意味がない。

漠然と創作仲間欲しいなと思ってても、皆自分のことで忙しいし自分のレベルが低ければ結局は烏合の衆の形成が限度になる。

その人脈を形成する時間で成長できる、成長すれば自然と人もやってくるとも考えている。枢軸国は持たざる国同士で集まって負けたわけでレベルの低い人同士が集まっても烏合の衆にしかならない現実はあるだろう。 

やはり自分自身がレベルアップしなければならない、そんないつもの結論だ。

note.mu

第三次世界大戦もやっぱりドイツが始めるのだろうか?

ドイツ議会の総選挙が行われ極右政党が第三勢力に躍進したというニュースが入ってきた。「ドイツのための選択肢」という政党が存在することは何度か移民関連の話題で聞いたことはあったが少数勢力であるような見方が大半だった。

今回どうやら得票率が12%で94議席を獲得したらしくフランスに続きドイツにも右傾化の波が押し寄せている。

 

これは結構大きいニュースというか、いよいよドイツでも本格的な右傾化路線が始まったというのは衝撃だ。

やっぱりメルケルおばさんがあまりにも右往左往しすぎたのが支持率の低下を引き起こしたんだろうなと自分は見ている。

あのおばさん最初は「多文化主義は限界にきている」みたいなことを言ってオランダやフランスを引き合いに出していたのに、難民の問題が出てきて以降偽善者気取って「難民歓迎!」とか言い出してテロが起きればまた厳しくして、とにかく手のひらクルクルおばさんだった印象がある。

 

フランスの国民戦線にしても、アメリカのドナルド・トランプにしても元々泡沫候補でしかなかった保護主義的な勢力が躍進することが続いているがいよいよドイツもそういう時代になってきたのだろうか。

そしてドイツで極右政党の躍進といえばやはりナチスと第二次世界大戦の印象が強い。ドイツの左派的な人は「ドイツのための選択肢はナチスの再来だ!」というレッテル張りをしているのだろうか。移民関連のドキュメント番組を見るとそういうデモは良く見かけるが、そういう勢力に嫌気がさした人が選択肢に投票したのかもしれない。

隠れトランプ派や隠れルペン派が実は多かったように、戦争反省していると見せかけているようなドイツ人がまた戦争をたくらんでいる可能性もある。

 

不謹慎だけどもドイツ軍ファンとしてはちょっと楽しみな自分がいるという本音はある。WW2の映像を見ると当時としては破格のかっこよさがあるのがドイツ軍で、今ドイツが本気を出したらまたかっこいい兵器や軍服が見れそうだというワクワク感もある。

ドイツ人もいい加減反省疲れを起こしたのかもしれないし、また戦争が恋しくなっているのだろうか。やっぱり第三次世界大戦もドイツから始まるのか、そして負けるまでがテンプレというお決まりの展開になるのか。

「サッカーとは最後にドイツが勝って終わるスポーツだ」という元イングランド代表選手の名言があるが、その逆で「戦争とは最後ドイツが負ける競技だ」という言葉があっても面白い。

 

EUが実質的なドイツ第四帝国と言われるほど、ドイツの1人勝ち状態になっているのがヨーロッパ経済だと言われているが果たしてどうなる事やら。ヨーロッパを率いるドイツが離脱したイギリスに懲罰で攻め込んだら面白そうだし、またフランスとやるかもしれない。

元々EU自体が独仏の対立をもうしないために石炭の協定を結んだのが始まりらしいのだが、アンチ原発のドイツと原発大国のフランスという対立構図があるのは事実だ。

ユーロファイターとラファールで対戦したらどっちが勝つのかなとか、ルクレールVSレオパルド2は後者の方が有利だろうというミリタリーファン的な楽しみもある。ドイツ代表とフランス代表の試合みたい的なサッカー感覚だけども、フランスとドイツの試合の行方に興味を抱かずにはいられない。

ドイツ代表見てると本当にドイツ軍服似合いそうな選手が多いから楽しみではある。最初メスト・エジル見たとき悪役ドイツ兵そっくりだと思ったほどだ。

 

戦争に勝つ方法は簡単で「ドイツじゃない方」に着けばいい。

日本はもう今度はドイツとは組まない、あっちが行けそう感出しても安易に乗らない、これが大切だというのが歴史の教訓だ。

フランスさんの勝ち組に滑り込む能力だけは天下一品なのでそっちに着くことが大事。

ただドイツも負け続けているイメージがあるけども、実は普仏戦争では勝っているし逆にフランスのほうが近代史では負けまくっていてむしろ純粋に勝った試合の方が少ない。結局のところ戦争というのは陣営として勝利して戦略の面で勝利すれば良いため、一応フランスは大国気取りができている。

サッカーでイングランド代表が強豪国の振りをしているのと同じで、戦争ではフランスが大国気取りしているのも面白い。

 

シナリオとしてはフランスが次の総選挙でルペンになってEU離脱して、離脱仲間のイギリスと組んでドイツ第四帝国と対戦する組み分けになったら何かがあるかもしれない。

第三次世界大戦という名の第三回ワールドカップが開催されれば日本も出場するチャンスが巡ってくる。

そして最近はドイツと中国が仲良いから、その二カ国が同盟を組んでルペン応援のロシアが英仏露の同盟を結ぶというかどこかで見たような組み合わせが出来上がる。そして米軍撤退させるとか言ってるトランプのアメリカが最初は介入しないが遅れて参戦するまでがテンプレ。

 

イギリス「ドイツ最近調子乗ってるよな」

フランス「それな」

アメリカ「中国も調子乗ってるだろ、日本もそう思うよな?」

日本「お、おう」

 

ドイツのための選択肢とは戦争だったというオチまでついた選挙が数年後見られそうだ。同盟としてはやはり技術力のあるドイツと物量をいくらでも揃えられる中国は相性がいい。そもそも昔から癒着している国同士でもあるため、WW3では高確率でドイツと中国が組みそうである。

中国がドイツ側に入るとなれば、中国が支援しているアフリカの国々もその同盟側に回る可能性もあるため組み分けとしては中々面白そうだ。

アフリカの権益を巡る争いなのか、移民政策やテロ対策の面で対立し始めるのか、21世紀の国際情勢はどうなっていくか予想は尽きない。いずれにせよドイツで右傾化が始まったことはヨーロッパに大きな影響をもたらしそうである。

 

ドラゴン 1/35 WW.II ドイツ軍 ティーガーI 中期型

 

秋の風が吹き始めると切なくなるよね

つい最近まで夏の暑さにうなだれていたら、少しずつ肌寒さを感じ秋の訪れを感じる今日この頃を皆様どうお過ごしでしょうか。本当に少しずつ風が冷たくなってきていることをわずかに感じる。

そしてこんな辺境の寂れた場末を見ている人にはどうこの秋風を感じられるのだろうかと少し思いを馳せる日々だ。

 

秋はなぜ切ないのか、心地よく良い香りもする秋風がなぜか迫る孤独や厳冬を予感させることで寂寥感をくすぐるからなのか。昨日まで苦しんでいた暑さがいつの間にか終わり、それすら懐かしく感じるようになる。そして忍び寄る冬の寒さに少しずつ怯えるようになる。

そんな狭間のような秋はカーニバルと言われるように最も過ごしやすい季節だ。

気温が本当に最適で昼間はそこまで暑くなく、夜は丁度良い夜風が吹き付け散歩や散策には最適な季節だと言える。

 

子供のころは夏休みがある夏と冬休みやクリスマス、お正月のある冬が好きだった。冬や雪の美しさに傾倒していた時期も自分の中ではある。

しかし今になって最も素晴らしく美しい季節は「秋」だと感じるようになった。好きな季節はいつかと言われれば四季の中では秋を選びたい。

 

子供の頃の秋のイメージといえば虫好きの少年だった自分は「虫が少なくなっていく寂しい季節」だと思っていた。そうは言っても山に行けば未だにツクツクボウシがせわしなく鳴いているのだが、その音もいずれ寒さの訪れとともに静かになっていくのだろう。

夏休みが終わり昆虫採集ができなくなる季節が始まる、その時から自分は漠然と秋に寂寥感という肖像を抱いていたのかもしれない。

海やプールも水温が低下し入れなくなる、夏ならではの楽しみが無くなることに小学生は寂しさを感じるだろう。夏休みが終わったり、海水浴や虫取りというイベントが無くなったり、夏限定のイベントや映画がなくなったりいろんなものが寂しく感じる。

甲子園も無くなるし、ポケモン映画も公開されなくなる、かき氷も食べられなくなるし二学期が始まる、小学生のころはそう思っていた。

 

「日本の夏」というのはなんだかんだで美しい情緒があり、世界的にもビッグサマーや明るい夏へのイメージは存在する。そんな季節が終わる寂しさそのものが秋という季節が持つ寂寥感の正体なのかもしれない。

 

桜が散りゆく姿に思いを馳せるように、夏という盛況が終わりゆく秋に美を見出すようになればそれは大人になったという事なのだろう。

終わりゆくあの夏と迫りくる冬の間に挟まれた秋というわずかな時期が今自分の心に沁み渡る感覚がある。寂しさと寂しさの間に挟まれた秋という季節の中で何を思えばいいのだろうか、そういえば読書の秋という言葉もあるから哲学に思いを馳せても良いのかもしれない。

 

日本人は秋という季節とどう向き合っているのだろうか。

ハロウィンやカーニバルという文化が定着しているわけでもないし、桜の春や海の夏、クリスマスの冬というような邦楽の名曲もあまりない。秋を歌った有名な曲に聞き覚えがないのだが、四季の中では最も地味な季節であることは間違いなさそうだ。

この地味だけども大人になるとその旅情というか情緒みたいなものがわかるようになる。

 

秋と言えば紅葉だけども邦楽に歌われるような若者的スタイリッシュ感はあまりない。紅葉と言えば老夫婦が老後の旅行で紅葉狩りをしているというイメージがあり、秋の良さがわかる若年層はあまり多くない印象がある。

最大級に盛り上がる夏と、イベントが豊富な冬の間の中間地点のような立ち位置でせいぜい体育祭があるかという感覚だ。その体育祭も楽しかった夏が終わり面倒な行事が始まるという感覚で、当時はその練習の時に吹く秋風の心地よさも分からなかった。

「食欲の秋」と言われても子供の頃の味覚だと秋刀魚の苦味や茸の味わいよりも、かき氷やアイスキャンデイーのほうが甘美に感じられた。

秋

今となってはこの秋の味覚や寂寥感を催す秋風の心地よさの魅力がわかるのだが当時はそれも分からなかった。

子供の頃から秋が好きだったという人はかなり大人びていたはずだ。子供なんて夏休みに虫獲ってかき氷を食べて夏スペシャル的な番組見て心霊番組を怖がっているもので、冬はクリスマスやお年玉が楽しみなのだ。

そういう時何のイベントも無い中間地点の秋は何も魅力がないつまらない時期のように思えてくる。

 

しかし大人になるとこの絶妙な切ない寂寥感が不思議と魅力に感じるようになる。

切なく少し肌寒い風が頬を揺すると良い秋だなと感じる自分がいる。

虫の獲れない紅葉の樹木の華麗さも分かるようになり、しみじみと鑑賞できるようになる。

秋、それは夏と冬に挟まれた少しばかり落ち着く静かな季節なのかもしれない。

「飲んじゃいなよ」←これの破壊力www

お酒を我慢していたり、まだその日に飲んでいない時に「飲んじゃいなよ」と言われると心が解放されたかのような気になりついつい飲んでしまう自分がいる。

実際に人に言われるというよりも広告でそのフレーズを見たり、時には悪魔のささやきとして自分の心からその言葉が湧いてくる。

 

そんな時日本で最も意識の低い男の一人である自分は即自的な快楽に溺れてしまうのである。最も自分に甘く意識が低い駄目人間、それが自分だ。言い訳、先延ばし、現実逃避の天才である。

この記事読んでる人も飲んじゃえばいいのに、飲もう呑もう、どうせ明日はやって来る、現実も押し寄せてくる、一時的にでも忘れたほうがマシだ!

「くぅ~意識低くストロングゼロ飲むの最高ぅ~w」

このブログは意識低く見る事推奨です。

 

意識の最底辺が底を知らないレベルに落ちぶれていく自分がいる。

「俺ほんと駄目になったな」と思ったのが、カップル見てあんまり嫉妬しなくなったところだよね。さっきコンビニにいってお酒買ってきた時、そこまでかっこよくない奴が可愛い彼女連れてたけど昔だったらもっと嫉妬してたと思う。

ある意味冷静になっているというか畜生とは内心思うけど、「昔だったらもっと嫉妬してたなぁ」というぐらいに冷めてる自分がいる。

そりゃ不快にはなるけども、昔ほどはらわた煮えくり返るような感覚には陥らなくなった。欲求や夢がどんどんなくなってきて、どっかヒモにしてくれる女の人いねぇかなと漠然と思うだけになった自分がいる。

そういうエネルギーすら劣化して意識低くなってる自分を見ると、ちょっとこれじゃいかんなと思いながらも結局お酒飲んでどうでもよくなるのだ。

「いろいろダルくなった」という端的な表現に行き着いた哀れな姿に落ちぶれている。メンタル的には老後の領域になっているかもしれない。

 

関心事がお酒しかなくなるとどんどんつまらない人間になって言ってることを自覚するが、まぁそれも意識低い化現象の一つであり日本中に意識低い人が急増していることはチューハイやビールのアルコール度数が高まっていることにも現れているだろう。

 

東欧やロシアの人はもっと意識低くて、彼らの人生はもはや酒である。東欧やロシアの酒事情調べるの結構好き、モンゴルや中央アジアでもロシア文化の影響でアルコール度数の高い酒が人気だと聞く。海外の酒事情を調べるのは結構面白く、旅情を誘う物もある。中国の内陸部の田舎で酒飲んでる人とか謎の親近感があるよなぁ。

皆現実辛くて酒を飲んで現実逃避しているのだ、世界にはもっと駄目な奴がいるから安心してもいいのである。

 

上を見たら本当にキリが無い、そして下を見ればいくらでもいるのだ。

自分も誰かを下に見ていることはあるが、逆に言えば誰かが自分を下に見て安心したらそれはそれで全く構わないと思っている。

むしろ「日本で最も意識の低い男」として下層階級を極めようとさえ思っているほどだ。下層階級の底辺の負け組で上等ですよ、ほんまに。

「飲んじゃおうよ」という魔法の言葉が全てを吹き飛ばす。

 

世の中人生に悩んでる人がいたら、考えなければいい、どうせ頭痛くなるだけだから。それより酒だ、とにかくアルコールで発散することが大事。

ストイックになっても努力しても仕方ない、どうせ夢叶わないから、そんなもんでしょ人生。

意識低く飲んじゃおうぜ!

むしろ意識低いコミュニティや文化を作っていってもいいかもしれない。頑張っても無駄なんだからこの世の中、終わってるんだから仕方がない。悪いのは自分でもあなたでもない、他の誰かや社会が悪いんです。

即自的な快楽に逃げて先の事なんてどうでもいいや精神を持てばいろいろ楽になる。野心家だった自分はもういない、酒が自分を腐敗させた。

ただそれでいいのだ、意識低く飲もう呑もう、人生そんなもんよ。

チェスを高度に学ぶには英語が必須

世間の将棋ブームに対する逆張りで今チェスを学びたいと思うのならば、日本語で得られる情報だけでは厳しいと言わざるを得ない。

自分がリアル中二病時代にチェスをやっていた頃はまず最初「ギコチェス」から始めて基本を覚え、その他いくつかのフリーソフトと対戦して勝てるようになってからヤフーチェスに入り浸るようになる。

ただ当時でさえヤフーチェスは過疎状態にあり、現在では廃止されている。

その結果自分はいくつかの海外のオンライン対戦サイトに居場所を求め、対戦相手の殆どが外国人だったことを覚えている。

典型的なコーヒーを飲みながらチェスをして自分の世界観に酔いしれるという中二病行為をやっていたのが昔の自分だ。

 

その時に比べて今が有利なのはスマートフォンのアプリで結構チェスソフトがあるという事だ。自分もスマホにインストールして、数回したことがあるが非常に軽くて良いゲームだ。

ソシャゲやるぐらいならチェスアプリをした方がいいんじゃないかなというぐらいに種類があって驚いた。

チェスや将棋、囲碁の良いところはスペックが低いPCや携帯でもできる事であり、通勤や通学の間にやることもお勧めだろう。将棋で言うところの詰将棋にあたる「チェスプロブレム」というのも一つずつクリアしていくのは謎解き感覚で面白く、特に子供や学生には脳の成長を促すため良いゲームだと言える。

 

また日本は将棋ブームだが、全くチェスへの環境が整ってないわけではなくネットを探せば戦術を解説しているところはある。

自分が学んだサイトもおそらくまだ現役で、実際ギコチェスも未だに現役だ。

そしてアプリも豊富で、良い時代になったことは間違いない。

将棋のように日本人同士で対戦するという事は難しいが、逆に言えば外国人と対戦できるというところも魅力である。

将棋の対戦サイトで国旗が表示されるところがあるが、ほとんど日本人ばかりであまり意味がない機能のように見えるが、自分が入り浸っていた「チェスコム」はいろんな国籍の人がいてワールドワイド感があった。

 

よく将棋のオンライン対戦はガチ化して中々勝てないと言われるが、チェスの世界は広いため外国人の初心者もかなり多く独学でも勝てたぐらいにレベルの低い人も多かった。

日本人のオンラインゲーマーにありがちなのが平均的にレベルが高く、弱い人はあまりやらないということだが、逆に外国人は上から下まで幅が広くものすごく弱い人も大勢いる傾向がある。天才的に強い人もいるが、ガチで初心者も恥ずかしがらずやっているというのが外国人ゲーマーの特徴だ。

日本人同士の将棋より、むしろ外国人相手のチェスほうが気軽に対戦できるというメリットはあるかもしれない。

自分がやっていた頃の話なので現在仕様が変わっているかもしれないが、国旗が表示されてフィリピン、インド、中国、フランス、ドイツなど様々な人と対戦したことを覚えている。

 

ただそういったアプリでちょこちょこやって、日本で販売されている日本語書籍か日本語サイトで学ぶだけではやはり限界がある。

そこで満足していたのがまさに自分の過去の過ちであり、今後悔することがあるのならばしっかり英語で学んでおけばよかったかなということだ。

仮に今中学生、高校生がチェスを始めたいというのであれば英語の勉強も兼ねて海外のサイトで戦術や定石を学ぶというのがおすすめだ。

思考力と同時に英語力も鍛えられるため、勉強の無駄にもならないし好きなことで英語を勉強することが語学習得への近道でもある。

youtubeで「chess」と検索すれば、日本では放送されていないような番組もいくらでもあるし、将棋は興味はないけどチェスならやってみたいという人は海外の動画で雰囲気を味わうことも良いモチベーション維持方法になる。

 

将棋道場は本当にどこも満員らしく、この将棋ブームの最中にあえてチェスを始めるという人がいたらぜひ応援したいしもし世界的チェスプレイヤーが育てば非常に素晴らしい事でもある。

 

しかしチェスの世界は甘くない、正直に言えば将棋よりよほど競争が激しくプロ棋士を超えるレベルの頭脳が無ければ世界的チェスプレイヤーに離れないだろう。

残酷な現実として日本から世界的チェス選手が登場する可能性はほぼ皆無だろう。

ヒカル・ナカムラが日系人としてはランキング上位だが、テニスの錦織圭のように日本人が世界ランキング上位になる日は遠い未来の話だろう。そもそもグランドマスターにすらなった人がおらず、羽生善治ですらGMにはなれない世界なのだ。

チェス

将来的に日本がチェス強豪国になるのであれば、まず今の世代が徹底的に海外サイトや海外書籍で勉強してそれを翻訳して日本語として取り入れる事だろう。

明治時代の近代化の時に日本人は徹底的に海外の文献を翻訳し、自国の言語で高度な学術書に触れられるようにしたという翻訳文化がある。

海外のサイトで英語のついでに独学して、そこで学んだことをブログやサイトを解説して翻訳していくような人が現れれば次の世代はもっと早いうちから勉強を始めやすくなる。

 

更にその前段階の話で、チェスの知名度そのものが低すぎる上にチェスについて個人的に語る人が少なすぎるという問題もある。そもそも趣味について個人で語る人がかなり少なくなってきているというのはどのジャンルでも進んでいる、まとめサイトかSNSが最適解になっている現状はある。

 

将棋を見ていて思うのが、とにかくエンターテイメントとして将棋を語る人が多くまとめサイトなども充実していることで興味を持つきっかけが多いということだ。

仮にチェスのまとめサイトを作ったとしても、元となる2ちゃんねるにほとんどチェスについて考察したり話している人が少ないため更新ペースに書き込みが追い付かないだろう。そのコメント欄で更にファンが語るというコミュニティも成立しえないのも欠点だ。

 

個人ブログでもSNSや掲示板でもとにかく何気なくチェスについて語り始めることが最初の段階であり、今の日本のチェスはそのレベルにある。

もはや戦術書を翻訳して取り入れてサイトを解説して、日本での対戦環境を整えるというのはもっと先の話で、今はとにかくただファンを作り語る文化を醸成していくことからスタートしなければならない段階だ。

 

更に将棋の良いところは有名棋士が多くて、将棋のルールを知らなかったり実際にプレーしなかったりしたとしても棋士の話で盛り上がれるというところにある。

来日して羽生善治と対談したことでガルリ・カスパロフの知名度は上がったが、マグヌス・カールセンやトパロフ、アーナンド、クラムニクを知っている人がどれだけいるかは不透明だ。

更に歴史上の名手として「ボリス・スパスキーVSホビー・フィッシャー」の東西冷戦真っただ中の名勝負を知っている人も日本では少ない。

海外サッカー選手を応援する感覚で、ほとんど外国人選手が日本では大半になるだろう。

FIDEレーティングを見たところ、ヒカル・ナカムラはこの激戦区の中で10位と健闘しており、日本のメディアでもっと取り上げられても良いはずだ。

 

ただ外国人棋士について語るのもまだ先の段階だ。

今は駒のデザインや雰囲気がかっこいいからとかアニメやドラマで見てかっこいいと思ったからという動機から実際にルールを覚えてみようという人をどれだけ増やせるかに懸っている。

自分自身はチェスで非常に弱いが、一応ルールを覚えていると言うだけですでに日本人全体の中では上位層のチェスプレイヤーでもある。

モンハンを一度でもやったことがある人が一切やったことが無い人よりは上手いというレベルの話でしかないが、それでもまずチェスをやったことがあってルールを把握している人が少ない。

 

しかしこれはかつてアメリカも一緒で、ホビー・フィッシャーがチェスを始めたころはほとんど専門的な最先端のチェス書籍は英語で存在せず彼は独学でロシア語を学び始めたと語っている。

今は英語で十分書籍があり、英語さえ使えればネット上にいくらでも海外のサイトが存在する。

日本語の書籍を買うよりも、英語で独自に調べたほうがよほど高度な情報があるのも事実だ。

 

英語を使えるだけで得られる情報が数百倍に膨れ上がるが、日本人が日本語で日本のネットで得られる情報だけで十分楽しいためあまり英語を勉強しないという背景もある。日本人は本当に驚くほど自国のサイトしか見ない傾向があるが、これだけインターネットが発達した時代に外国語で調べないというのは少しもったいない。

自国の言語だけでこれだけコンテンツが充実しているというのはもちろん幸せな事でもあるが、そこに外国語で調べる習慣が加われば更にインターネットは面白くなる。

 

「アルファベットで検索する」という習慣だけでもあれば全然違ってくるため、チェスに関して調べるときは英語で調べることをお勧めしたい。

ホビー・フィッシャーがロシア語で最先端のチェスを学んだのと同じことを、いま日本人のチェスプレイヤーはしていかなければならないだろう。

明治時代の学者が英語やドイツ語、フランス語で西欧文明を取り入れたように、チェスの世界も積極的に英語やロシア語などで吸収していく必要がある。

 

そしてまず何より語る事や議論することが大事なのではないだろうか。チェスが好きなら簡単な事でもチェスについて語ってファン文化を盛り上げていくことが第一歩なのかなと自分は思う。

日本語で得られる情報が少ない、日本語でチェスについて語っている人も少ないというのが現状だ。

 

更に今チェスを始めようという動機がそもそも少なくなっている。

自分がチェスを始めようと思ったのがアニメの「コードギアス反逆のルルーシュ」という作品を見て、主人公のルルーシュがチェスをしていたから独自にルールを調べて覚えるようになった。

そして前述の「ギコチェス」を倒せるまでやってある程度実力をつけたという経緯がある。

今の時代に若い子がチェスを始めたいと思うようなアニメやドラマとかあるのかなという疑問はある。

 

「咲-saki-」で麻雀が流行った感覚でチェスアニメが作られれば少しはプレイヤーが増えるだろうか。ただ自分の場合咲やアカギを見て麻雀の雰囲気自体はかっこいいと思って一応覚えようとしたのだが、覚えることが多すぎて即座に挫折した立場だ。

競技物の作品を見て実際に競技を始める人というのは全体の数%にも満たないというのが現実だろう。「けいおん!」を見てギター買って今も楽器を続けている人が実際どれくらいいるのだろうか。

更に今の時代確実に若くて頭の良い子は藤井聡太に憧れて将棋の方に行っているわけでまさにチェス冬の時代でもある。

いずれにせよとにかく現状認識を限られたチェスファンの中だけでも共有することが本当の最初の一歩なのかもしれない。

自分の中だけで愛着のあるオリキャラっているよな

最近オリキャラ創作熱が下がってきているし、個人のオリキャラってやっぱ限度あるのかなぁと思ってもいる。

ただそれでも昨日ふと自分のオリジナルキャラクターが懐かしくなった。どれだけしょぼくてもやっぱ自分が考えたキャラって愛着あるよなぁと。

 

自分の中でガンダムKindのキャラは特別であり、唐突に自分の妄想した世界が懐かしくなる。

城ヶ崎建嶺、空良快晴、軌流洵作、花鏡時久、坂之上高行の5人は今でも特別というか思い入れは今もあるしそのキャラの過去編を脳内妄想しているという完全に痛い行為をやっている。その内作中でも登場させようかなと考えているが、一向に制作は進まない。

最近では酔ってセンチメンタルな気分になると、創作していた頃が懐かしくなって続きを妄想することもあるし「いつか完成させたい」と言いながら先延ばしにしている。

 

まだ自分の場合公開しているから最低限自己満足じゃないという感覚はあるが、自分の友人のレベルになると完全に自分の為だけに小説を書いていてそのキャラに愛着があると語っているから面白いし、そういう創作論を話すことも楽しい。

創作している人同士の創作議論というのは非常に面白い。

 

その友人が書いているのが彼が好きなTCGやガンプラを競技にした甲子園ストーリーのあだち充的な作品なのだが、最近彼の中だけで愛着がわいて何度も読み直していると語っている。

それで言えばその友人から数年前に見せてもらったガチ身内を登場人物にしたようなガンダムSSがあるのだが、今となってみればそれを読んでいた頃すら懐かしいし、その時に想像した世界も「また行きたい場所」のようになっている。

ガンダムKindの脳内世界に関しても友人から見せて貰った個人創作小説にしても、本人の中で独自の世界観が形成されていて、形になっていなくともその想像した世界が自分の中だけの居場所にもなっている。

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その「居場所」でいえば小説を読んで想像している世界というのも一つの空間なのだと思う。

村上龍が『愛と幻想のファシズム』に登場する3人のキャラクターは『コインロッカー・ベイビーズ』の3人のキャラの生まれ変わりでまた他の小説にも登場するとあとがきで書いている。

そういう作家の製作裏事情は面白いしどの作家にも自分の中だけの愛着みたいものがあるのかもしれない。

 

自分の中の懐古ブームで言えば、数か月前「愛と幻想のファシズム」を読んでいた頃すら既に懐かしく、もう一度読みたいと思っている自分もいる。いろんなシーンがふと旅情を誘う。

小説を読んで想像した世界というのは行ったこともないのに旅をしてきた気分になり後から懐かしくなる。究極にコスパの良い旅行と言えるかもしれない。

 

「身内SS」というジャンルがあるのかはわからないが、自分と友人間だけにある「俺らメンバー」的な存在がいる。

友人の大学時代の極左の名物教授がいてそこから全てのネタが始まっていて、最近ではその教授のライバルが池上彰という独自設定にまで発展している。

若干茶化しているおふざけの部分があって、その教授の弟子が自分と友人というオリジナル設定があり、友人がSS内でその教授を裏切って池上彰側に着くというテンプレ展開もある。本格的に書く小説ではなく本当に一発ネタでしかないがこれが結構楽しい。

 

他にもかつての中学時代のクラスメイトなんかが登場して、初期メンバーは本当の身内だけで固められていた。しかし池上彰のように政治家や芸能人もメンバーとしてカウントされるようになり特に自分が好きな指原莉乃は常連となっている。

他には友人が好きなミスチル桜井、そして自分が好きな嵐櫻井で「ダブル櫻井」というネタが合ったりする。

一発ネタで軽いSSを作って楽しむというノリで、いろんなメンバーが登場するようになっているし完全に身内の中だけで完結している世界観だ。

 

そのSSに登場する芸能人や身内というのもある意味では「オリキャラ」なのかもしれない。

ガンダムKindのオリキャラも自分の中では愛着があるし、友人との身内ネタで登場するキャラも愛着があるし、完全に自分の中だけのキャラも愛着がある。

この前の記事で愛と幻想のファシズムにインスピレーションを受けたアングラ革命小説も、今の所脳内で結構進行している。

昨日も第二次世界大戦のドキュメント番組を見ていたのだが、それを見ながらいろいろ妄想している自分がいる。

elkind.hatenablog.com

もはや自分ですら把握できない程に脳内にいろんなオリキャラがいて、そのキャラクターも芸能人やスポーツ選手を元ネタにしていたり学生時代の人をヒントにしたりしていたり境界線が曖昧な部分がある。

「ノートの落書き感」というのを自分は創作において大事にしていて、大したものではないけど身内や自分としては面白いというのがノリでもある。

ピクシブも本当はノートの落書きの延長から始まったようなもので、改めて自分自身その原点に戻る必要はあるのかもしれない。

 

創作歴が長くなり慣れてくるとどうしても本格的に作ろうとしてしまうが、初期の軽いノリで作っていくほうが結局完成するのではないかと思う。

最近ガチろうとしすぎている自分がいるというか、もっと適当感があってもいいとも自分で自分に言い聞かせたい。

 

上述の厨二病革命小説も、先回しにするよりも一晩で書き上げるぐらいの勢いでもいいのかもしれない。そういうのを何回も作っていくことで実力は伸びていくはずだし、適当でも作らないよりはマシだろう。

いきなり「愛と幻想のファシズム」並に作ろうとしても村上龍のようにできないのは当たり前で、最初の内はそのレベルのものを作ろうとしてはいけない。

 

一晩の勢いで書き上げられる小説ぐらいのほうがボリューム的にもちょうど良いだろうし個人創作というのは本来そのレベルでも良いのだ。

自分の中でハードルを高くして、理想を高く持ちすぎているがゆえに「今はまだつくる実力が無い」と先延ばしにしてしまう。

今ある能力でできることを精いっぱいやっていた頃の創作熱をもう一度取り戻す必要があると自戒しなければならない時期に来たのだろう。