日本の戦後左翼史意味不明すぎワロタwww
最近の自分は昔への憧憬というか望郷みたいなものがあり、激動の昭和に惹かれている。
戦前も戦後も含めて20世紀の日本が経験した歴史というのは語り継ぎ考察していかなければならないだろう。
最近の日本が面白くないというよりも、自分の人生が面白くないから過去に思いを馳せている部分があるのは事実だ。
自分の今も面白くない、何かアニメや漫画を見ても面白くない、そういう情熱を無くしたゆとり世代の一人として「昭和の歴史おもしれぇ、結局史実なんだよなぁ」という境地に辿り着いた。
とくに戦後の新左翼系列の過激派の歴史は非常に興味深いトピックとして熱中している。
大坂正明が渋谷で暴動起こしたとか、重信房子がイスラエルで銃を乱射したり、森恒夫と永田洋子が連合赤軍を結成してあさま山荘事件を起こしたとか、大道寺将司や今も逃亡中の桐島聡がドイツ赤軍並に爆破テロをしようとしたとか、その辺の歴史は興味深い。
以前から何となく自分はそういった「極左」に魅力を感じていた部分があり、最近改めてその時代の昂揚感や情熱に憧憬を抱いている。
ドキュメント番組や映画で知ったり、ソ連への興味の延長で少し興味があったりしていたため最近勉学中の身だ。
まず前提として自分は基本的に「極右ファシスト」「天皇制擁護」の立場であり、むしろ政治の原点はアドルフ・ヒトラー率いるナチス・ドイツにある。その後ヨシフ・スターリン率いるソビエト連邦に惹かれ、今でもドイツ軍とソ連軍の趣味を行き来している。更に最近では戦前日本軍の魅力にも取りつかれ、言ってみればただ単なる軍事オタクに近い。
軍事については極右である一方で、教育や社会制度に関しては極左的な見方もしている。
「あなたは右翼か左翼ですか?」と言われたら正直返答に困るし、左右で分けること自体がナンセンスだとも思っている。
ナチスは保守的な事ばかりしたわけでもなく、社会福祉を充実させ制度的に実験的なことも行っていたし、ソ連がやったことはむしろ帝国主義だ。そしてそのどちらも好きな自分がいる。
右派だからこうしなければならないとか、左派だからこう考えているに決まっているとか、そういう画一的な話はもう飽きた。
とにかくいろんな政治思想や歴史や軍事に興味を示していく中で、最近は戦後の新左翼系の戦後史は面白いと感じている。
まずシンプルに「あの頃の若者すげぇ」と感じる自分がいる。
重信房子や永田洋子みたいな女子って今時いないでしょっていう悲しさもあるし、逆に言えば自分のような「ゆとり男子」もしょぼいよなっていう自虐めいた感情もある。
逆に言えば生まれる時代が違っていれば重信房子や永田洋子ってそれなりに顔いいからアイドルとかギャルとかになってたのかなという思いもある。
むしろ「オタサーの姫」的なノリで、左翼運動の姫だった元祖かもしれない。
実際永田洋子はその時々の交際相手に思想の影響を受けていることが多く、今でいう彼氏の影響でスポーツ観戦やゲームに興味を持っている女の子に近い側面があった。
その一方で指原莉乃や渡辺麻友のような「ゆとり女子」的な女の子もあの時代に生まれていれば学生運動に加わり過激派になっていた可能性も否定できない。
性別問わずとにかく「今そんな奴らいないよなぁ」的な憧憬みたいなものを勝手に想像しているのかもしれない。決して彼らの行いを美化するわけではなく、むしろ自分は戦後の極左は結局負けたことを批判している立場だ。
そして何よりも専門用語や組織の関係があまりにも複雑すぎて全容を把握することができていない。
内ゲバや内部分裂、組織の再統合などが多すぎて核マル派、共産主義者同盟と革命的共産主義者同盟、全共闘、赤軍派、中核派、スターリニズム、トロツキズム、日本赤軍、ドイツ赤軍etc、などいろいろありすぎて混乱している。
近年のスペイン政治で勢力を拡大している中道左派政党ポデモスのパブロ・イグレシアスが「これまでの左派は専門用語に拘り過ぎていた」と批判していたがまさにそのような難しい言葉が多い。
どの時代も歴史というのは複雑で日本の戦国時代や中国の三国志、ローマ帝国やギリシャの古代史など極めようと思えば覚える単語や登場人物、出来事の多さという煩雑さに行き着く。
その意味でむしろ覚えることが多い歴史というのはそれだけ新しい知識に出会うことも多いという事でもある。
元々「赤軍派」の森恒夫と「革命左派」の永田洋子が連合赤軍を形成したというのも実は最近知ったことであり、更にそこから登場する他の人物も多数存在する。
ただとにかく「昔の人たち凄い」感はある。
最近の若者がやっていることはもはや歴史にも残らず、知ろうとも思わないものが多いが史実に記録されるような人たちは彼らの行いの是非はどうであれ興味を誘う。
共産主義過激派の歴史に限定せず、戦後の極右活動も興味深い。三島由紀夫の「楯の会」の話も興味を誘う。
当時の極右と極左は本当に理論武装し、論理的にお互いを非難し合っていたのではないかとも想像する。少なくも憲法や選挙制度が何かすらわかっていない最近のお祭り左翼や、ただネットで近隣諸国を批判して海外の反応に満足するだけの右翼とは違っていた。当時も実はそれほどレベルが高いわけではなかったのかもしれないが、少なくとも重信房子や永田洋子のようなガチな人はいた。
むしろ今より女性がおしとやかであることが求められていた時代に過激な人がいて、一般的には女性の声が増大したと考えられている現代にはそういう女性がいない。
個性が弾圧されていた時代ほど個性のある人材がいたが、個性が容認されると逆に全員均質化するという理論に似ているのかもしれない。
ネット初期の方が面白い人がいて今は平均化が進んだとか、チェーン店やモール店が普及する以前の方が面白い個人店や商店街が存在していたとか、そういう話と一緒で、今はいろんなジャンルで「平均への回帰」が起きている。
自分がこうして戦後黎明期の政治史を調べているのはもしかしたら、「普通の人が増えたよね」という事に対するささやかな抵抗なのかもしれない。
例えそれが想像や憧憬に支えられた幻想であったとしても、漠然と今や現代に対して情熱を感じられない人は歴史を調べてみると、かつて失ったものを取り戻せるのではないだろうか。
外山恒一のアングラバー巡り記事が面白い
ネットで有名な"危険人物"といえば外山恒一もその一人だろう。
10年前の2007年、東京都知事選に出馬しその時の政見放送が有名になった伝説の男だ。
動画のMAD素材のような使い方をされ、盛大にネタにされたことで多くの人が見たことがあるのではないだろうか。
思想は極左から極右に転向したファシストだと自称しているが、やはりその思想の源流には左派系の流れを汲んでいる。
そう言った詳しい事はともかく、抽象的かもしれないが「アングラ感」や「危険人物感」が好きで、その怪しげな雰囲気に傾倒している。
自分が漠然と追い求めている「政治的に危険な雰囲気」に近い物があり、そういう雰囲気を味わいたくなったときは時々調べることがある。
変な言い方かもしれないが"ファン"のようなもので、ネットが失いつつあるアナーキズム感に惹かれているのかもしれない。
思想的には極左であり極右であるところが面白く、最近のネット右翼的でもないし、かと言ってただの良くありがちな平和を叫んで満足なレベルの低い左翼でもなくちょうどいい塩梅がある。
結局のところ自分は政治を「コンテンツ」として楽しんでいるのかもしれず、その雰囲気自体が好きな層なのだろう。
右翼も左翼も中途半端に馬鹿真面目な面白く無い層と違って、外山恒一の書くことは読みごたえがある。
「危険人物感」みたいな感覚が自分は好きなのかもしれない。
そんな外山恒一の文章で最近気に入っているのが飲み歩き記事で、自分が漠然と追い求めている「政治的なアングラ感」に少し近い物がある。
何も高度なことを批評したいわけではなく単にお酒好きとして「地方の反体制派の拠点になっているバー面白そうだなぁ」と思ったのだ。
「濃い奴や変人多そう」という抽象的すぎる感覚を抱く記事で、この記事を読んでいつかそういうアングラバー巡りしたいなと想像するようになった。
ここではないどこか幻想のようなもので、危険思想をもったヤバイ奴らが多そうなところに行ってみたいと思ったり、そういうところで「同志」を見つけたいとも思う。
寂れた場末のバーで政治や社会の話で意気投合し、革命を志していく日がやってくるかもしれない。
思えばなぜか酒場から出会う話は多い。
自分が好きな『愛と幻想のファシズム』も主人公とその協力者が出会うのは、カナダのイヌイットが住んでいる地区にある寂れた地元のバーである。
小説的というか中二病な幻想なのかもしれないが、「どこかのヤバイい酒場」みたいなものを一度は想像するのではないだろうか。
『アンダルシアに憧れて』という曲でも地下の酒場は出てくる。
自分自身は圧倒的に家飲みが多くあまり外で飲むことは無いが、お金があるならば外で飲みたいと思っている立場だ。
数回しかない外飲みの記憶だが、リアルに閑散として薄暗いバーが通りに合ってそこでカクテルーを飲んだというのが懐かしい。
自分はチェーン店とか華やかなお店があまり好きではなく、寂れてる場末の酒場や客の入っていないような喫茶店が好きだったりする。
二つ並んで店があるならば小奇麗オシャレで若者が多そうな場所よりも、ガチで客が入っていなくて薄暗いところで独り寂しく飲む感じが好きなのだ。
漫画のシーンでも酒場は印象的で、手塚治虫の『アドルフに告ぐ』という作品があり、なんとなく美人女将がいる和風の北酒場みたいな場所で飲んでいるシーンを覚えている。
読んだのが中学の時だったため曖昧なイメージしかないのだが、その風情に惹かれて「いつか日本海の荒波にさらされてるような寂れた場所にある居酒屋で寂しく飲もう」なんてことを考えていた。
『アドルフに告ぐ』を読んだことがある人ならば「そんなシーンあったかも」と思うかもしれないし、『愛と幻想のファシズム』を読んだことがある人は冒頭のカナダのイヌイットが集まる酒場のシーンが懐かしく感じたのではないだろうか。
旅情というか風情というか、そういう感覚を自分は持っていて、外山恒一のこの北陸でかつての反体制派を探す飲み歩き記事も勝手に想像して補完して面白いなと思った。
反オタク文化なのに、オタクの方が自分を知っていたみたいな話題も面白い。
自分がかつて関西で立ち寄った寂れたバーも今思えば懐かしく、中年女性が切り盛りをしていて明らかに顔見知りだろうという男性客が1人やってきたことを覚えている。
あの町の薄暗い寂れたバーで飲んだカクテルの味は今も旅情を感じさせる。
ただ単にバイトが事務的に接客しているだけのお店よりも、こういった個人経営の店のほうが話が弾むというの何も酒場に限らずカフェや喫茶店にも言える。
そう言う場所のほうが客同士の距離感も近く、常連客と結構仲良くなったりすることもある。
「名物客」な人がいて噂話に聞いて、実際にその人に遭遇したときのプレミア感はちょっと嬉しい。
変な店やこじんまりとした個人経営店に集まる客というのはその時点である意味洗練されており、面白い奴に合う確率は高い。
最近自分は漠然と「最近ネットのアングラ感が無くなった」と嘆いているが、政治活動が盛んな地域にあるカフェやバーに今はそういう面白い奴らがいるのではないかと思い始めている。
結局面白い奴を探そうと思ったら結局リアルが大事で、今の時代むしろ面白い奴やヤバイ奴はとっくにネットに見切りをつけてリアルに潜んでいるのかもしれない。
ただやはり問題はお金がかかることで、毎日バーを巡れる時点で既に時間とお金に余裕がある層なのだ。
ブルジョワジーとプリレタリアートで言えばバーに潜んでいる時点で前者だ。本当のプロレタリアや貧困層は部屋で安酒に入り浸ることが精いっぱいなのだ。
部屋で安酒を飲むことすら財政的に厳しくなっている自分が、バーを巡れるようになった時点で既にある程度裕福になったということを意味する。
そうなると満足してしまい革命など興味がなくなるのではないかとも思うし、仮に自分が革命精神を維持できたとしてもブルジョワ酒場にいる連中が革命や政権奪取を夢見る事やそのリスクに打って出ることは無いのではないだろうかとも思う。
つまり「アングラバーに行けば政権転覆を考える危険思想を持った奴に出会える」というのは幻想で、その時点で既にブルジョワジーなのだ。
面白い政治思想持ってそうだなと思ったら、ただ単に左派で安倍政権打倒!とか言ってるだけの浅い奴だとそれはがっかりだし、右派でも近隣諸国の悪口を言いたいだけのつまらない奴だったらそれもがっかりだ。
それ以前に大多数がノンポリで、人生についてもあまり考えていないのだ。
そしてその尊敬してる外山恒一ですら実は既に既得利権層側になっていて、例の政見放送をやらかした時のような情熱はおそらくないだろう。
オードリーの若林がキューバに旅行に行って、ガチで反米闘争をやっていた頃の軍人にテキーラを飲まされまくったという旅行話をしていたが、そういう熱い奴や危険な奴は日本にはもういないのかもしれない。
むしろ南米で地下酒場巡りをして「コロンビア革命軍の残党」みたいなヤバイ奴と遭遇するような、危険で刺激ある体験を自分は求めている。
そしてそれはきっとものすごくお金がかかることで、結局部屋で安酒を飲むことに終始するし、逆に自分もその程度で満足する情熱しかないという皮肉だ。
「実は東大安田講堂占拠事件に参加していた」みたいな全共闘世代の人が日本にいるかもしれないが、多分そういう人はどこかの高級料亭で飲んでいて自分じゃ会えない。
そんなレアな話を聞かせてくれるのは余程親しい仲であり、自分の周りにいるのは結局ただの地方の一般的な酒飲みだ。
「想像の中にある酒場やヤバい客」と、もはや地方の居酒屋にすら行けず部屋で安酒を一人飲むしかない自分とのギャップというのは大きい。
ただ実は有名なクリスマスソングを書いたのが雪が降らないカリフォルニア州出身の作詞家だったみたいな話で、こういう想像エネルギーを創作に発散できればいいのかもしれない。
実際自分が昔書いた小説のワンシーンにあるバーの描写が今では思い出になっている。文章にしてはいなくとも想像したワンシーンが今でも懐かしいことがある。
行ったこともないしそんな世界なんてない幻想が実は何よりも旅情や風情がある事は多い。
かつて自分が執筆した「田舎のお酒自販機記事」はたまに読んでくれる人がいるらしく、おそらくその記事を読んだ人は独自に想像したのではないだろうか。つまり文章だけの記事というのはそこから想像をめぐらす物であり、もはやその人が想像した独自の空間は現実の自分とは違うだろう。
外山恒一のアングラバー巡り話にも通じる事なのだが、人が酒飲んでいる話というのはどこか旅情を感じさせるので面白い。
旅行記や小説などでも自分はお酒を飲んでいるシーンがあるとワクワクする。
海外旅行やローカル旅行で現地のお酒を映している人はなぜか好感を持たずにはいられない。
そして自分自身、自分で書いたお酒話を読んで懐かしくなっているときがある。おそらく旅行記をつけている人は自分でその旅行記を読むように、自分がお酒を飲んだ時というのは後から懐かしくなる。
「お酒を辞める」と言って結局また呑んでいる自分がいるし、ここではないどこかに思いを馳せる時良い友になる。
いつかどこかのアングラ酒場で自分は同志を探しているかもしれないし、独り酒をしながら酔いつぶれているかもしれない。
そしてそんな未来を想像しながら自分は安酒をあおるのだ。
可処分所得と自由時間をもっと増やすべき
現代人が欲しい物といえば「お金」と「時間」だろう。いや、これは有史以来人間の伝統かもしれない。
お金と時間があればできることは多いのにそれを諦めているという人が世の中には多い。
そしてこの「可処分所得」と「個人の自由時間」の少なさが世の中の文化を劣化させ、経済を停滞させているともいえる。
例えば最近の若者はスマホでソシャゲばかりするようになり、かつてのようにテレビゲームをしなくなった。結局どこでも無料でできるという利点は最高に面白いゲームに勝るのだ。
PCゲーマーやテレビゲーマーが「ソシャゲばかりする」という人を批判しており、自分自身もその一人だが、今の時代ゲーミングPCや据え置き機とテレビなどを揃えることは非常に難しくなっているため仕方ないともいえる。
スマホ版FPSも、Cゲーマーからすると稚拙に見えてやる気が起こらないが、スマホ版FPSをやっている人も家でじっくり高級ゲーミングPCで最先端のFPSができる時間と環境があればPCでゲームをしているかもしれない。
それで言えば「腕時計を買わなくなった」という批判や「車を買わなくなった」という批判にも同じことが当てはめる。
「外に出かけよう!」というスタンスで未知の世界をアピールする車のCMがあるが、今時の若者はそういう暑苦しいCMには惹かれないだろう。
「車は熱い!」ということを言われたところでどうせ買えないし、趣味で乗る時間もないから若者はあきらめているのだ。
確かに車がステータスで誰もが憧れていた時代のほうが華やかである事は間違いないが、そこに現実性が打ち勝ってしまう。
「1か月賢明にバイトすれば車が買えた」というバブル時代の話を聞いたところで、今時の若者に響かないのは仕方がない。
ソシャゲの課金が精いっぱいの趣味で、他に華やかな趣味もない、そんな今時の若者やゆとり世代が批判されるがなりたくてそうなっているわけではないというのあ本音だろう。
「若者文化が劣化した」というのはむしろ当の若年層が一番自覚しているかもしれないし、そこにはどうしようもない構造の問題がある。
端的に言えば時間もお金も無く、出費だけは無駄に多く、かといって真面目に頑張っても報われないので頑張ろうと思えないという人が急増している。
そのため世の中を良くしようと思えば可処分所得と個人の自由時間を増やしていく方向にシフトしていくしかない。
若者に限ったことではないかもしれないが、仕事はキツイのに収入は増えていかないという問題を社会人の多くが抱えている。
更に日本全体としても上向いていく見込みに可能性を感じられず希望を失っているし、個人の努力ではどうしようもない部分がある。
昔は忙しかったかもしれないが収入は増えていく感覚があった。どうせ収入がそれほど増えないしもらえないのであれば、せめて休ませてくれというのが現代人の感覚だ。
そんな世代が日常アニメやSNSにただ"癒し"だけを求めるのは必然と言えば必然だろう。2クールもあるような長大なアニメを見て長々と考察している暇も体力もないのだ。
車や旅行といったかつてのリア充趣味も、ゲームやアニメといったオタク趣味も等しく劣化していくことはもはや避けられない。
なぜならば時間とお金がないからだ。
理想は可処分所得と個人の自由時間の両方を増やすことだろう。
これが多くの社会人の生活で実現できれば世の中は活気を取り戻す。
しかし現実的にはどちらかを選ぶ方向になる。
つまり「労働時間や実質的な拘束時間は変わらないが給料は増えるor必要な出費が減る」か「可処分所得は変化がない代わりに労働時間や実質拘束時間は減り自由時間は増える」ということを実現するしかない。
例えば前者の方向、つまり可処分所得を増やす路線で行くならば「若者手当」や「家賃手当」のようなものを導入すれば実現できる。
明らかに貰い過ぎている高齢者層への年金を減額して、若年層に富の再分配を行うだけでも助かる人は多いだろう。更に家賃収入に対してもっと税金をかけるか寄生する貸して、家計における家賃への負担を減らすことも具体案としては必要だろう。
今の時代家賃の為だけに働いているような、何のために生きているかわからないような人が存在する。
家賃収入という既得利権を持ってる人だけが潤う状態をやめさせて、例えば少子化対策として家族連れは手当で優遇するというやり方でもいい。
数年前自分がワンルームマンションに住んでいた時、独身者用の賃貸だったにもかかわらず、一人ですら狭いと感じるようなワンルームにすし詰めのように子連れが身を寄せ合って住んでいるのを見たことがある。
そう言う姿を見るとあまりにも家賃という物が負担になりすぎている現代の状況は変えていく必要があるだろう。
そこまで単純な話ではないが、収入の中で家賃に消えていたものが自由に使えるようになれば消費経済は活況とするのではないか。
次に後者の場合、収入は変わらないが自由時間は増やすという方策だ。
例えば有給や育児休暇を取ることは当然の権利だとして徹底させることや、サービス残業の廃止が具体案の一つだろう。
「会社の同調圧力に負けて有給消化できませんでした」という話を聞くが、外国人が聞いたら「日本って本当に先進国なの?」と驚くだろう。
サービス残業や定時に帰れないことについては、日本にいる外国人は例外なく批判している。
例えば町が綺麗だとか民度が高くて親切だとかそういう表面的な先進国要素を誇りにするだけでなく、こういった後進国的な要素から目をそむけてはいけないのではないだろうか。
先輩や上司を気遣って仕事を先に帰れないというのは、太古の部族が族長を崇拝するような文化と本質的には変わらない。
実質的な時給に換算した場合アルバイトと変わらないような正社員も存在し、サービス残業で手伝わないことがアスペルガー扱いされるような国が日本なのだ。
労働とその対価に対してシビアになるべきであり、個人の自由時間の保障と実質的な拘束時間に対する認識はもっと考え直していかなければならないはずだ。
しっかりとしたホワイト企業ならば定時に帰らず、残業すればむしろ通常よりも多い給料がもらえるようになっているが実際問題としてそういう企業は少ない。
先進国基準で見ればブラック企業だが、日本では普通だとされているケースも多い。
未だに現金社会であったり労働文化や上下関係の文化が時代遅れなところを見ると、日本人は表面的な"先進国"という称号に満足し改善を怠ってきたと言わざるを得ない。
例えば「日本の水道水は美味しい」という海外の反応を見て喜ぶのではなく、日本人が後進国だと思っている中国人がサービス残業や現金社会を疑問視しているという実態も知るべきだ。
シンガポールは一人あたりのGDPも日本より多く、実質的に日本より確実に先進国だと言えるが未だに「アジアで唯一の先進国」という肩書に満足しているように思える。
そしてそういう論理的な批判をしている人に対して「嫌なら出ていけ」で済ましてしまうことで自分たちの首を更に締めている。
他の先進国が休むことを奨励したり義務付けているときに「もっと働いて苦労するべき、苦労すれば真実が見えてくる」という美徳がいまだに根強い。
「今年の休日の少なさに絶望した」と数年前ぐらいに言われていたが祝日が土日と重なれば出勤や通学となり、本来祝日だった日数が考慮されなくないというのも非合理的な考え方だ。
祝日が土日と重なることで、親も子も家族の時間が実質的に削られているのだ。先進国ならばそういった家族の時間を非常に大切にする考え方が根強いが、どうやら日本は少し事情が異なる。
祝日はむしろ今の倍にするべきで、月に一回は絶対に三連休があるというシステムも必要だろう。
受験などでも「皆勤賞だった人が内申点で優遇される」という風習があるが、風邪をひいている人が内申点のためにわざわざ学校に行かなければならないというのもおかしいはずだ。
休むことはそんなに悪で、とにかく通勤や通学を最大限に頑張ることが美徳という価値観に疑問が必要な時期に来た。
バカンスとまでは行かなくとも、もう少し長期休暇が増えても良いだろう。
なぜ大人になれば夏休みが無くなるのか。
フランスでは7月と8月のどちらにバカンスを取るか選べるようになっており、選んだ月によって呼ばれ方が違う文化がある。
社会人=懲役40年と揶揄されるが、もっと休暇を増やしても良いように思う。
かつての日本は西洋に進んだ考え方があればそれを導入して発展してきたが、今では日本の考え方が一番素晴らしいとして改善をしなくなっている。
これらの案は自分が素人アイデアで考えていることに過ぎないが、とにかく最低限「可処分所得」か「個人の自由時間」のどちらかを増やさなければならないのは事実だろう。
最近の若者の文化や価値観は劣化しているというが、そのどちらもないところに遠因があるともいえる。
使えるお金が増えれば「車も持たずソシャゲに少しだけ課金する質素な娯楽」も変わっていくし、自由時間が増えればその中からスキルアップをする人や新しいことをする人も出てくるかもしれない。
理想はどちらも増やすことだが時間かお金のどちらかだけでも増やせればだいぶ助かるという人は多いはずだ。
そしてそういう欲をもっと持って良いし言ってもいい、むしろそうしなければ世の中は変わらない。
そういう個人の意見を一人一人が抑えるべきではないのかなと自分は思う。
日本で極右ファシズム独裁の実現は可能か考察
独裁者と言えば浮かべるイメージとしてナチスドイツとアドルフ・ヒトラー総統の典型的なイメージがある。
そして対極的な社会主義政党による一党独裁、つまりヨシフ・スターリンのような実例があり独裁と言えば極右か極左のどちらかになることが近現代史においては多い。
20世紀という時代を総括するのであれば共産主義と全体主義による独裁、そして民主主義というおおまかな3つの政治制度により歴史が形成されてきた。
帝国主義とそれを打倒する闘争、そしてかつて植民地だった国ではポスト・コロニアリズム、先進国ではポスト・モダンへの希求が論争されてきて現代に至る。
更に日本に置いては新興宗教が台頭し、現在では欧米において回教過激派もその勢力を伸ばしつつある。
その日本に置いては連合赤軍や学生運動、共産主義過激派による運動が敗北し勢力を失っていくことになり現在では過激派という言葉すら歴史上の出来事だ。
そして一時、過激派の運動は80年代の好景気とバブル景気により徐々に衰退していくが、90年代にオウム真理教が台頭し始め例の化学テロを実行することになる。
自分はこの60年代から70年代にかけての出来事と、80年代後半から90年代前半の出来事について考察する場合「左派と宗教の敗北」だと考察している。
より端的に言うのであればこの国でもはや左翼と宗教に勝ち目はない。
彼らがやったことと言えば政権の獲得を民主主義的手法によって諦め、テロに走り公安から逃げ回っただけだった。政権掌握以前にその転覆すら不可能で、公安組織から逃げ回り自衛隊といった実質的な軍事組織が出る幕もなかった。
それは必然だ、所詮連合赤軍が強奪した猟銃ではフルオートのサブマシンガンMP5やPSG1のようなドイツ製最新自動狙撃銃を配備した国家組織に敗北して当たり前なのだ。彼らの中にそういった最低限の軍事理論を身に着けている人材すら存在しなかったのだ。当時はまだMP5やPSG1は配備されていなかったが64式小銃と61式戦車は自衛隊に配備されていたため暴力革命での勝利は不可能だったことは間違いない。
それから一歩進みロシアから旧式の戦闘ヘリを密輸し自動狙撃銃を密造し、毒ガスであるサリンの製造をもくろんだオウム真理教は宗教テロ組織としては画期的だった。
しかし彼らも公安からの捜査を回避するためにサリンを手放し、わずかに残った未完成の毒ガスを地下鉄で散布することが限度だった。戦闘ヘリや戦闘車両を保有し、連日戦闘訓練を積む大規模組織、すなわち自衛隊にはたどり着くことすらなく所詮公安組織に鎮圧されるレベルでしかなかった。
こういった反体制地下組織はどうあがいても巨大な権力に打ち勝つことはできない。
まるで旧日本軍が国民総動員で武器を疲弊しながら製造していた時期に週刊空母を大量に実戦配備して来たことと同じだ。皮肉にも彼らはかつて批判していた戦前右派と同じ過ちを犯したのだ。
基本的に強い物には勝てない、テロですら弾圧される。
日本では逆らっていけない物が二つある。
それは天皇陛下とアメリカだ。
論理的に考えてこの二つには絶対に勝ち目がない。天皇制を敵視するという事は日本民族そのものを敵視することであり、本当の革命や政変を長期的に実現することはできない。
藤原道長、足利義満、織田信長ですら不可能だったのが帝、つまり天皇の打倒だ。第二次世界大戦における敗戦にも負けず存続した天皇制の日本人に対する希求性は論理を超えており、自分自身むしろ天皇統帥権を実現しようとしているほどだ。
また戦後のアメリカによる実質的な半植民地支配による戦後の体制についても打倒はできない。
どれけ反乱を起こしたとしても在日米軍に要請されれば確実にその反体制勢力は崩壊する。
結局のところインテリ層や知的階級が打倒できると思っていた天皇制やアメリカ合衆国には勝てなかったというのが戦国日本史だ。平成においてもシールズによる擬似的な反安保闘争が起きたが、その直後与党は圧勝した。
基本的に日本で左派と宗教が政治的勝利を得ることはもうありえないだろう。最盛期の学生運動やオウム真理教ですら事実上ただ公安に追われることが精いっぱいだった。その先にある自衛隊やアメリカなど遠い夢でしかなかった。
革命や政変と言えば「左派」というイメージが存在するが実はそうではない。
近現代史を遡れば右派が革命により政権を掌握したり維持したケースは多い。
1:ナチス・ドイツの政権掌握
2:イラン・イスラム革命
3:朴正煕による軍事クーデーター
4:フランシスコ・フランコによる独裁政権の維持
アドルフ・ヒトラー率いる国家社会主義ドイツ労働者党はいわゆる左翼による革命ではなく、むしろドイツ帝国以来の保守層を支持母体にしていた。ロシア革命やキューバ革命と違う部分で言えば、きわめて民主的な手法により政権を獲得し、かつての軍部や官僚の支持を得られたことで政権獲得後も政権運営が可能だった。
実はドイツは近代国家として一定の水準で確立されており、暴力革命によってナチスは政権を獲得したわけではない。そのため革命というよりも政変という言葉が相応しい。
一定の文明水準に達した国は民主的手段に打って出る必要があるという事の証左であり、戦前に日本も実は北朝鮮のような一党独裁の国ではなく長い民主主義運動の歴史があった。
次にイラン・イスラム革命だが、これは近年まれに見る保守革命の具体例の一つだ。
日本でよく「ホメイニ師」として知られる宗教指導者により大胆な保守回帰路線が実行されたのがイラン革命だ。
元々イランはアメリカや西側の路線に近い資本主義的な国家だったが、今では世界屈指の反米国家でありイスラム国家として存在地位を築いている。
日本で例えるならば大日本帝国の復活や、平安朝時代の文化の再現に成功した事例と言えるだろう。
次に朴正煕による軍事クーデーターだが、「パク・チョンヒ」と読むのか「ぼくせいき」とよむのかで世代が分かれる。いずれにせよ時代としては北朝鮮初代国家主席金日成と対峙した冷戦直下の時期であり開発独裁と反共産主義を掲げ「西側の独裁者」としては代表格的な存在だ。
アメリカ合衆国という国は民主主義を押し通すように見えて実は自分たちの利益になる国や対立構造の中で利用できる国に対してはある程度、独裁を容認する傾向がある。
かつて最貧国だった大韓民国を「漢江の奇跡」によって新興国にまで押し上げたことは軍事独裁による強硬政策による功績だ。現在でも朴正煕政権に関して韓国では評価が分かれている。いわゆるファシスト的な要素があったことも事実であり長期的な軍事独裁を敷いた。
「アメリカに支援された東アジアの独裁者」という意味では最も朴正煕が近い例だろう。
最後にスペインのフランシスコ・フランコだが、この国は米ソ東西冷戦の真っただ中で翻弄された国の一つだろう。つまり元々フランコはアドルフ・ヒトラーやベニート・ムッソリーニと近しい存在であり、ファシスト陣営の一人だったが第二次世界大戦に参戦しなかったことにより"特例"ともいえる形で許された。
米ソ冷戦終結までアメリカに支援されたスペインは一定の繁栄を謳歌したのは事実だ。
更にフランシスコ・フランコはスペインの王室制度とも対立せず、フアン・カルロス1世を自身の後継者に指名したほどだ。
つまり「西側でありながら王朝と対立せず政権を維持した独裁者」という意味でフランシスコ・フランコは歴史において類稀なるケースだと言える。
仮に日本で何らかの革命や政変を実現しようとするのであれば連合赤軍やSEALDsの敗北のように左派による革命は狙えない。
宗教も実質的に不可能であり現在において公安は監視を厳しくしており、テロリズムに走れば数回何らかの行動をすることが限度だろう。左派と宗教では戦後日本の打倒は不可能だと二つの組織が証明している。
もし何らかの革命や政変を日本で起こすのであればこれはもはや右派によってでしか実行できない上に、実際右派による政権運営は可能だと現代の政治が証明している。
現在でもわずかに過激派新興宗教の支持者や極左が残存しているが彼らを右派の路線に転向させることができれば政変の実現には近づく。つまり極左や過激派宗教組織の中に存在するインテリ層や科学技術者等に右派への転向を迫ることがまず第一歩となる。
つまり「未来永劫左翼や宗教組織をやっていても永遠に勝てない」ということをどう彼らに気付かせられるかだ。なんとなく既存の勢力に反抗していれば楽しい人生で終わるのか、本気で政権を掌握するかだ。
そもそも日本の左派のレベルが低いということにうんざりしている極左も多く、彼らのようなインテリ層が真の革命や政変の右派に転向することが合理的だという事に気付くかどうかだろう。
公安から隠れながらサリンを製造するのではなく、むしろ保護された国家組織の一員としてより強大なものを作るか。つまり歴史上の勢力が開発した毒ガスや自動小銃をただ秘密裏に製造しそれですら不完全で終わるだけで終わるのか、サリンやAK74を開発したナチスやソビエト側になるのか。
更に現在において既存の右派勢力のレベルが向上することが求められる。
現在の右派はかつての三島由紀夫のような知的文化人を欠いており、いたずらに近隣諸国を稚拙な言葉で批判するレベルに終始している。
日本衰退の現実から目を背け「日本の街は綺麗ですね、水道水が美味しいですね」という外国人観光客の言葉に一喜一憂することしか今は日本人が誇りにするものが無くなっている。
左派のレベル低下も深刻だが、そこに安心し右派のレベルの低下から目を背けてもいけない。
仮に右派による革命や政変をより高度な段階で実現するならば、まずは日本左派勢力や宗教勢力からの転向、および既存保守勢力のレベル向上が求められるだろう。
ネットでも言いたいことが言えないこんな世の中じゃ・・・・
最近のネットがなぜここまで面白くないかというと、「言いたいことが言えない世の中」になったからだとしか言いようがない。
もう既にインターネットは自由だという風潮は消え去り、徐々に現実の延長線にあるものとして確立され始めてきている。
アンダーグランドだったインターネットが世の中誰もが利用するものになり、大衆の基本ツールとなったことによりそこにメディアや社会が形成された。
かつて「リアルでは言えないことが言えるネット」だった時代から、むしろ「ネットでは言えないことが言えるリアル」になってきている。
おそらく今の時代「本当に濃い人間」を探そうとすればむしろネットには存在せず、リアルの現実にいる時代になっている。
アングラバーや詩や絵の品評会、改造車の集会、何気ない下町の居酒屋や喫茶店の方が面白みや人間味のある人は存在する。
かつて濃い人の集まりだったコミュニティサイトも今ではいいね!で承認し合う簡易的な擬似コミュニケーションの時代になっており、インターネット上の匿名掲示板もなんJに代表されるように定型文で空気を読み合う場所になっている。
表面的に「いつも見ています」というボタンを押しあうか、自分達だけで通用する定型文で浅い会話を楽しむしかない時代になっている。
今の時代インターネット上ですら「本気で語り合うことは寒い」という時代になってきている。
ちょっとした冗談ですらそれが法に触れればネットでも同じように処罰され、何気ない自慢ですら今ではバカッターとして炎上してしまう。
かつて既存の制度にとらわれないユートピアだったはずのネットが、管理と監視がどこよりも行き届いたディストピア社会になっている。
リアルの会話では録音や撮影をされていない限り曖昧にできる会話でも、インターネット上ではログに残ってしまうためもはや安易な発言ができない。誰もが次に叩けるターゲットを今か今かと待ち構えている。
ネットが新しいものをしようという時代から「何か悪いことをしている人間を叩いて謝罪させる」という時代になっている。
出るい杭を打つという表現があるが、まさにネットがその象徴になっている。
リアルや現実にあぶれた人間が集まっていた時代から、誰もが使う物になり逆に一般化、平均化、均質化した。
漠然とインターネットは多様化を生み出し新しい発想を創り出す土壌になるのかと思いきや、結局最適解の一つにまとまった。新しいタイプの個人より、浅い人間を量産しただけに過ぎなかった。
結局のところ会員制クラブを無料にしたら面白いくない人間が集まるのと同じ理屈で、もはやネットというのは普通の人間が普通に利用する場所になった。
いいね!に代表されるように表面的で形式的なコミュニケーションが重視されるようになり、匿名の場所ですらカジュアルな定型文が増えた。
人間という生物が「挨拶」という簡易コミュニケーションを開発したように、ネットでもいいね!というアイサツが台頭し始めた。
濃い会話や深い議論になど興味が無く、それで認証し合った気分になるし、その数が多ければ独りじゃないような気がしてくる。
その上ネットの規制も厳しくなり、何か悪いことをすればすぐさま足を引っ張るような集団に叩かれる。そういう社会では誰もが無難な事しかしなくなりつまらなくなるのは必然だ。
もはやネットですらリアルと同じように言いたいことも言えない空気を読むことに特化した個人や風見鶏気質の傍観者が増えているのが現実だ。
逆に言えば「リアルではないノリ」であるがゆえに仲間意識をもって話せたという背景も存在する。
昔の2ちゃんねるなら「おまえとはいい酒が飲めそうだ」という慣用句が存在したがが、それが今は「そういうノリ寒くね、所詮ネットだろ」と誰もが冷めている。
誰もがネットは所詮他人でしかなく、その上監視されている場所だという意識が強くなったことによりかつてのような温もりや人情を失ってしまった。
その結果無数の傍観者と浅い人間を量産してしまい、ネットがつまらなくなったとある程度ネットに慣れた層は感じているのかもしれない。
「誰も見ていないから本音で語れる」とか「ネットをしている奴らはヤバイ」という認識から、誰もが見ている場所になり悪いことを言えば叩かれる時代になった。
本音で語らない人間が悪いというよりも、本音で語る人間を冷めた目で見る傍観者やそれを監視する権力者と彼らに協力する人間が悪い。
典型的な「足を引っ張りたがる指摘者」が今のネットには急増し、そちらにいる方が個人としては安全なのだ。
もはやネットですら言いたいことが言えない、そんなディストピア社会が到来されてしまえばどこに"本音"は存在するのだろうか。
インターネットは有象無象の量産型人間を大量生産するだけのツールになろうとしている。
久しぶりにドラえもんやクレしんを見ると面白いよな
漠然とただ単にテレビをつけているという習慣が無くなり、自分はほとんど録画で済ませるようになってきている
そうすると見る番組は極端に限られるようになり、典型的な「テレビ離れ」が進んでいる層の一人になる。
「とりあえずテレビをつける」という習慣が無くなり、更にニートになると曜日のリズムが崩れてしまうため久しぶりにドラえもんやクレヨンしんちゃんを見るととても懐かしく感じる。
昨日は金曜日だったが、お酒に酔って体も動けなくなっていたためとりあえずソファで横になり漠然とドラえもんとクレヨンしんちゃん、そしてミュージックステーションをつけていた。
これは日本人ならではの金曜日の黄金ラインであり、久しぶりに曜日を体感することができた。
「そういえば、土曜日を楽しみにしながらドラえもんとクレしん見てたなぁ」とか「Mステはちょっと大人な奴が見る感じだったよなぁ」と思いながら、休日のありがたさに思いを馳せていた。
昨日のドラえもんで見た話は忍者の道具を使って何かをするという話だったが、それ以上に最後にオチがついて教訓話になるといういつものパターンが面白かった。
「そういえばしずかちゃんにドキドキしてたなぁ」とか、なんだかんだで声優が変わってからもうだいぶ経つなぁとかとも思いながら見ていた。
最近のドラえもんはどうやらエンディングがジャイアンのものになっていて、「これ結構リアルキッズは結構嬉しいだろうな」とも感じた。
メインキャラの中で主人公ではない立ち位置のキャラにスポットライトを当てたエンディングというのは結構うれしいもので「ジャイアンファン」は凄く喜んでいるだろう。
現代の子供もこの金曜日の二大アニメを重視していることは健在で、自分とかつてサッカー仲間だった少年が「俺の弟と妹がドラえもん見たがるから日本代表の試合見れない」と言っていた奴がいたことを覚えている。
あと面白かったのがCMで何気なくCMを見ていたことすら懐かしく感じた。
一人暮らしやニート生活を一度経験すると本当に何かを食べながら何気なくテレビをつけるという日常の習慣自体が消滅してしまう。
普段録画で見ていたら飛ばすし、そもそもドラえもん自体見ずに有益な番組しか見なくなる。CMというのは社会情勢を反映していて、昔のCM集をみると意外と懐かしくなる。ある意味CMというのは10秒前後の間に効果的に情報を詰め込んでいるため、映像としては実は高度なことが多い。
ドラえもんやクレヨンしんちゃんのような有名番組の間に入れられるCMというのはその中でも選りすぐられたエリートなのである。
次にクレヨンしんちゃんだが、自分は圧倒的に「クレしん派のキッズ」だった。ドラえもんは母親が用意してくれた夕食の前半に見るものであり、後半のクレしんが本番だった。小学生ながらに「ドラえもんはちょっと子供で低学年の物」というイメージがあり、クレしんを凄く楽しみにしていた思い出がある。
その上Mステになると音楽に興味がなかったので見ていなかったが、今ではMステに好きなアーティストが出演する時だけ録画で見ている自分がいる。
金曜日の実感が無くなるという典型的ななニート生活をおくっており、「Mステって本来こんなビッグな音楽番組なんだな」ということもなぜか再確認した。
最近「クレヨンしんちゃんの野原ひろしって実はすごいよな」みたいな話題が多いが、何気ない庶民的な家族の姿を再評価する傾向は強い。
自分はどちらかというと昨日登場した「ミッチーとヨシりん」が羨ましいと思ったし、というかむしろまだミッチーとヨシリン現役なんだなとすら感じた。
そもそもミッチーとヨリりんですら、途中から出てきた新キャラだったような気がするのだが、とにかく小学生のころは「なんだこいつら」と思っていた。
「女子が好きな事が男子仲間でバレたらかっこ悪い」みたいな独特な風潮がある時期は男なら誰にでもあり、ちょうどその時期ぐらいにミッチーとヨシリンを見てラブラブカップルみたいなものがダサいと思っていた少年の一人だった。
しかし今見てみると「それめっちゃ幸せだよなぁ」と思う自分がいる。自分がヨシりんぐらいの年齢になって、こうして彼女もいないとそのダサいと思っていた幸せがわかるようになる。
前述のしずかちゃん、そしてミッチーもそうだけどこういうキッズ向けアニメの女性キャラクターの可愛さに一周回って気付くようになる。
中学や高校の時は「萌えアニメのキャラクターかわいい」と思っていたが、最近こういう普通の"一般人向けアニメ"に登場する女性キャラクターの魅力に気づく自分がいる。
ドラえもんでいえばしずかちゃんがかわいいしクレしんでいえば「愛ちゃん可愛い」という境地にも達している。愛ちゃんですら途中から登場してきたイメージがあるが、自分の世代になってくると紅さそり隊のリーダーふかづめ竜子が好きだった自分がいる。
もののけ姫のサンにしても、ちびまる子の城ヶ崎さんにしても萌えアニメオタク向けに作られていないキャラクターのほうが案外かわいい事が多い。
小学生キッズながらにオシャレな高学年女子が可愛いと憧れるのと同じで、自分の場合は紅さそり隊のリーダーやデジモンのミミさんが登場する回を楽しみにしていたし少し年齢が上がるとポケモンのハルカやポケスペのクリスタルに惹かれるようになる。
そしていつしか自分はのび太のお母さんとクレしんのミサエが好きになっていくんだろうなぁとも思う。
「野原ひろし、実は勝ち組論」というのは散々議論されてきたことだが、そういう何気ない幸せですら実は貴重なものになってきているという社会論に発展する。
ある意味昨今の「日常アニメ」以上に何気ない生活の日々を描写しており、究極の日常アニメがクレヨンしんちゃんだとも言える。
ダサいバカップルだと思っていたミッチーとヨシりんが羨ましいし、情けない親父だと思っていた野原ひろしが羨望の的だというのが現代の世相だと言える。
時間が経っても変わらずに流れている埼玉県春日部市の空間に現代人は惹かれている。ある意味で現代人の理想や日常を描いた大衆映画や大衆文学のような存在がドラえもんやクレヨンしんちゃんなのかもしれない。
そしてそれのアニメを久しぶりに見たときに感じる懐古感情そのものが、現代人のリアルな日常なのだ。
部活動強制入部は時代遅れの文化
自分は中学、高校と6年間部活動に所属することがなかったため、俗称で言うところの帰宅部である。
「俺には帰る家がある、帰宅部募集中」というフレーズがあるが最初に帰宅部という言葉を考えた人は面白いネーミングセンスを持っていると思う。
そんな帰宅部のイメージといえば変人やオタクだろうか、それについては自分自身間違っていないと言える。そのイメージで確かに正しい。
日本においては部活動文化が根強く、部活動強制入部の学校や同調圧力によって実質的にほぼ全員が入部するような学校が多い。特に中学校においては顕著であり、学年全員を把握しているわけではないが「部活動を辞めて帰宅部になった」という人や特殊な事情で入部できなかった人を除けば唯一の生粋の帰宅部だったかもしれない。
高校に関しては進学校だったので受験優先で部活動に入部していない人は特に女子生徒に多かった。
問題はその部活動に仕方なく不本意ながらも入部している人が多い事であり、帰宅部の多かった高校ですら「部活辞めたい、部活嫌だ」と日常的に口にしている生徒がいた。
自分は単純なものでそういう人を見て「やめればいいのに、そのスポーツが好きで入ったんじゃないのかよ」と純粋に疑問だった。
日本人にとって部活動は辞めてはならないしはいらなければならないという強迫観念が強いことをこのとき知った。
少なくとも受験や内申点のためであれば、部活動の時間で勉強したほうがよほど効率が良いはずだ。
部活動特有の青春を追い求めているのならば、もちろんそれは自由であり入りたい人はいればいいし楽しいのであれば楽しめばいい。
仮に自分も本当に入りたい部活、すなわちSOS団や日常部、アッシュフォード学園のような生徒会みたいなものがあれば入っていたかもしれないが、特に入りたくもないのであれば無理に入る必要もない。
「3年間頑張って艱難辛苦に耐えたことが人間としての成長だ」というのは綺麗事でしかない。それがいいという人はもちろん存在するが、全員が画一的にその風潮に従う必要はない。
強制および、実質的な強制によってよって無理やり入らざるを得なくなり、そこで嫌な思いをしているのであれば自分はそれがとてもかわいそうなことだと思う。
もっと自由でいいはずであり、部活が好きで憧れて入りたい人はどうぞご自由に楽しんでほしいが、本当は入りたくない人が入らなければならない風潮には疑問を持つ。
自分が小学生のころは「帰宅部はいじめられるから部活には入ったほうがいい」という俗説がまことしやかに囁かれていたが、確率で言えば確実に部活動内でいじめられる可能性の方が高い。
いじめが怖いのであればむしろ先輩後輩との付き合いが少ない帰宅部の方がよほど安全な可能性さえある。
更に放課後することや休日における個人の自由時間も増えるため将来の準備はできる。
これを帰宅部になった結果ニートになった人間が言っても説得力はないが、日本の未開で効率の悪い部活動で前時代的な練習をさせられくらいなら帰宅部で自由に勉強やスポーツをした方がいいだろう。
例えば本当にスポーツ選手やアーティストになりたいのであれば、放課後は近くでより先進的な練習を導入している町クラブや習い事スクールのような場所に行ったほうが良い。これは地方では難しいかもしれないが、ダンススクールや音楽スクールなど習い事は多く、学校以外の場で意識の高い仲間と交流することの方が有意義なはずだ。
地方の吹奏楽部に入るより、ギターやエレクトーンなど最新の楽器に触れられる習い事スクールに放課後は通ったほうが良い。
とくに芸能人は芸能活動やその準備を早くからしているケースが多く、部活動を早期に退部した人や帰宅部だったという人が多い。
野球は今も部活文化が根強いが、サッカーはこれから本格的に部活以外の育成制度のほうが強くなっていくだろう。
一番実力が伸びる時期にボール拾いやボール磨きばかりさせられて、どうでもよい挨拶の練習をさせられるならば、南米や東欧のストリートサッカーのような練習をした方がビッグクラブには行けるだろう。
理想は欧州最先端のクラブユースに所属することだが、それはあまりにも例外だと言える。
しかし有名クラブが日本で経営しているスクールも存在するため、これからは部活が日本のスポーツを担う時代は終焉に向かうだろう。
またこういった日本の部活動文化はそのまま社会にも影響を与えている。密接に日本文化とかかわりがあるのが部活動だ。
つまり大半が部活動経験者であるため職場でもそれが適応されるケースが多い。
・早く帰ってはいけないという文化
・絶対的な上下関係
結局のところなぜ日本人が仕事終わりに早く帰らないかという非効率性は、放課後も部活動をするという文化に遠因があるように思う。
終わった後に帰らないということにそもそも疑問が無い日本人が多い。だからサービス残業もするし、先輩や上司が帰らなければ帰れないし、挨拶してからじゃないと帰れないし、個人の時間というのは日本社会にあるようで存在しない。
更に上司や先輩が偉いという考え方や、年齢による上下関係というのも元々は儒教文化に端を発し、近代の軍事制度や教育制度にも応用されていくことになる。
日本の教育には実質的に飛び級が存在しないが、世界のグローバルタンダードに照らし合わせれば年齢による学年でここまで個人の関係を区分する文化は世界基準ではない。
「先輩」と「後輩」という言葉や日本的な上下関係というのはとりわけ運動部において顕著だ。サッカーではユースなどで「君付け」などが適応されており、最近では部活動文化でもこういう関係自体はゆるくなっているが未だにその文化は根強い。
年功序列制度が日本で崩壊し、海外ではそのような文化を持たない国が多いにも関わらず、教育現場では未だにそういった時代遅れの非効率的なことをやっているのが日本という国だ。
日本のサッカー選手がドイツのクラブに移籍したとき、年下の選手に殴られたという話をしていたことがある。「日本だったらシメている」と彼は語ったが、逆に言えば欧州ではその勇気が無く言いなりになっているのが日本人だ。内弁慶で海外では通用しないという選手も存在する。
逆に中田英寿のように年功序列を無視して遥か上の先輩にも呼び捨てで命令をするような選手が世界では通用した。
現状日本のサッカー選手は部活動出身者の方が活躍しているが、それでも世界基準のレベルには達していない。
サッカーのピッチ上では先輩に丁寧に接している時間などない、そしてそれは現在の国際社会においても同じことが言える。
またそういった部活文化の問題で言えば芸能人のラジオで「部活文化に慣れません」という相談があったのだが、おそらくその生徒も2年後にはその文化に慣れ、その慣習を強要する側になっているだろう。
「自分が嫌なことをされたから、自分がその番になったときは同じことをしてやる」という文化が根強い。
そして現代において部活問題は更なる問題を引き起こしている。
つまり教員側の負担があまりにも大きすぎるという事だ。
部活動の指導はほとんどボランティアに近いような形であり、休日も拘束されることになる。
人数の多い部活動顧問の教員が寝る寸前まで忙しく、次の日からも朝が早いという生活リズムは非常にハードだ。
そして生徒側も休日も部活で部活動の後は塾まであるというスケジュールを取っている場合がある。
こういう社会で「個人の自由時間」という概念が重視されないのは必然であり、誰もが同じように画一的なことをしている。
小学校の例を見ればわかるが、学年が上がっていくごとに帰宅する時間が遅くなっていく。これは「上学年は長い時間勉強しなければならない、つまり大人は長い時間仕事をしなければならない」という事でもある。
良い大人というのは長い時間何かを頑張る人のことを指すのだろうか?
長い時間何かを頑張る人は偉いという風潮が日本にはあるが、短い時間でも結果を出す人間の方が有能なはずだ。
時間をかければいいものが仕上がるという価値観から日本はまだ抜け出せていない。
サッカー選手でもどういうプレーをしたのかという質よりも、走行距離の総量で判断するような見方をする人がいる。表面的に真面目に見える人というの日本人は過度に評価し、敬語や社会人としてのマナーがどうのこうのとか、そういうどうでもいいことに一生懸命注力している人が多い。
日本とドイツの仕事に比較をした番組で、ドイツでは仕事を早く終わらせれば午前中でも帰れるという話を見たことがある。
しかし日本という国は「大人は夜遅くまで頑張るもの」という価値観が横行しており、サービス残業で社会や家族のために尽くすことは美徳なのだ。
小学生は低学年、中学年は早く帰れるが、高学年は5時限目や6時限目まで頑張るので偉い。
そして中学生や高校生は部活動をするから更に偉い、そして社会人はサービス残業をするから偉いのだ。
アメリカ人も部活動はするし、年齢が上がれば学習時間が増えていくのは通常の事だが、厚切りジェイソンから「Why Japanese people?」と言われても仕方がないような効率の悪い価値観は非常に多い。
早く帰ることは仕事でも学校でも部活でも悪で、長時間頑張った人間が偉いし長生きした人間が偉い。
それで通用した時代は日本のやり方に自信を持つ事が出来た。
しかし日本が諸外国に追い抜かれようとしている昨今の現状を見て、日本ってちょっとおかしいんじゃないかなと疑問を持つ人が現れなければならないはずだ。
昔の日本は良い意味でおかしかったしそれで結果が出ていたが、今の日本は悪い意味でおかしくなってきているように思えてならない。