負け組ゆとりの語り場

社会に取り残された男が日々を語る

ニートが頑張って酒を辞めてみた ついに一週間達成

ここしばらく続けている禁酒生活でついに自分は一週間一滴もお酒を飲まないという偉業を達成した。もはやこれは奇跡であり、大躍進である。

頑張ればできる、不可能はない、これは他人にとっては小さな一歩だが自分にとっては大きな一歩だ。

他者から見れば子供がひらがなの「か行」まで書けるようになったぐらいの進歩でしかなく当たり前のことでしかないのだが、自分にとっては考えられもしないような成長であり感動している。

 

そういえば聞こえは良いが実質的には消極的な理由である。

そろそろ生活が行き詰りつつある哀れなニートが仕方なく節約しているに過ぎず、生活の実態は悲惨そのもの。働いてもいないのに昼間から酒に入り浸るという最底辺の生活を辞めただけでしかない。そんな当たり前以下のことさえ大袈裟に自分で褒めるしかないのが現状だ。

まるで赤ん坊が歩けるようになったことを誉めたてるように、アルコール依存者は少し頑張ってお酒を飲まなかっただけでも偉大な成功のように自分で自分を褒めてあげる必要がある。

他人はわざわざそんな当たり前以下のことができたところで褒めてくれないだろう、だから自分で褒めてあげるしかないのだ。

小学生が逆上がりできたり補助輪なしで自転車に乗れたというぐらいの褒め方を自分にしてあげなければならない。お酒を辞めるというのはアルコール依存者以外からすればよちよち歩きで頑張って歩く赤ちゃんにしかみえないが、どちらも本人は一生懸命なのである。

 

思えばこの一週間本当に大変だった。

何度もお酒を飲みたいと思ったことはあったしとにかくつまらなかった。人生が楽しくない時にすぐお酒に頼っていた自分は中々つまらない時間帯に耐えることができなかった。

お酒に頼らずとも楽しいことに恵まれている勝ち組ではなく、底辺の負け組人間にとっては日々がとにかく楽しくなく陰鬱でありお酒にしか逃げ場所が無い。

 

自分がこの期間において心がけたことは「楽しくないことに慣れる」ということだった。お酒を飲まない状態や低いテンションで過ごす状態を日常として受け入れていくことからがスタートだった。

やることが無い時はとにかく小説を読むか録画していたテレビ番組を見る、何か嗜好品が欲しい時はガムで我慢する。

この程度の生活が何も社会に貢献していないニートの自分にとって身分相応なんだと言い聞かせて、ひたすら地味なことに徹していた。そうしていくと徐々にお酒を飲んでいないことが普通に感じられるようになり、むしろ創作活動なども積極的に行えるようになり少しずつ精神面で充実し始めてきた。

 

とにかく朝起きたときに快調ということのありがたみを感じる。

気分が悪い状態で起きなくて済むし、お酒が切れていれば買いに行かなければならないという面倒なこともなくなった。この一週間飲まなかったことでだいぶ酒代も浮いたことは間違いなく、健康面と金銭面でも大きな進歩があった。

今回の生活のルールは完全なる断酒を目指しておらず、節酒であり完全に飲んではいけないというわけではなかったが綺麗になりつつある内臓をもう少し維持したいという思いが打ち勝った。

自分のルール上飲んでも問題はないが、ここで飲んでしまうと積み木が崩れてしまう事と折角綺麗になりつつある内臓をまた元に戻してしまうのは良くないと感じた。今は脳も体も完全に元に戻す過程にある。

また一度その快楽を取り戻してしまうと、おそらく次の日からまた同じことが繰り返されるだろう。今日だけはお酒に頼っていいという考え方をしてしまうと、その基準がどんどん緩くなってしまい結局また元に戻ってしまう。

お酒

しかし禁酒をしたからといって劇的に人生が変わることは無い。

酒がなくなったことでつまらない生活には拍車がかかっている。

小説を読む機会は増えたものの、本当の充足感は得られない。

相変わらず暑くてつまらない生活が続く。

金もなければ夢も希望もない、彼女もいなければ予定もなく仕事もなく、実力も才能もなく、魅力も人脈もなく挙句の果てには情熱もやる気もないときた。

完全にないない尽くしである。完全に誰にも必要とされない生きてる価値のない人間だ。最下層の人間が幸せに生きることができない社会だけが広がっている。

 

とにかく何をやっても充足感と達成感が得られない。

無気力だからと言って何もやっていないわけではないのだが結局結果が出ず上手く行かないため、いつのまにか吊り下げられた人参に向かって走る馬のように思えてくる。

勝てない上に楽しくないゲームをやろうと思わないように、人生というゲームに依然として自分はうんざりしている。人生というゲームの攻略が下手なうえに雑魚みたいなキャラしか使わせてもらえないのだから楽しくないに決まってる。

 

その心の隙間を埋めるのが酒だっただけに、空虚感は強くまだ完全なる代用品を見つけられていない。

唯一心の支えになっているのは小説で、何もすることが無い時に仕方がないから読書をしている。つまらない中から少しは面白い物を探すという消極的な楽しみ方だ。

創作に関しても特に面白い反応は無く「自分の為だ」と言い聞かせてる物の、特に達成感もなくすぐにモチベーションは下がるということの繰り返し。

相変わらず楽しい物は見つけられていないが、所詮無能ニートの実態などこの程度でしかないのだろう。無価値な人間は楽しんではいけないのがこの社会だから仕方がない。

 

他に楽しいことがある人がお酒を我慢することは比較的簡単だが、ほとんど楽しみが無い人や楽しみを作ろうとしても結局上手く行かず失敗する人というのは酒から脱却することが難しい。

それゆえに自分はこの長い間酒に入り浸っていた。

酒があるから他に楽しみを見つけようとしないともいえるし、楽しみを見つけようとしても上手く行かないから結局酒に頼るともいえる。明確な境界線は無く卵が先かヒナが先かという議論に近い。

 

つまり今の自分は楽しくないのにお酒まで奪われている状況であり、非常に葛藤している。ただ自分は完全には悲観していない。

まだ1週間でありこれはゴールではない。

徐々にお酒を飲んでいなかった頃、10代の頃の情熱と夢を取り戻して再スタートしていけるように時間をかけながら頑張っていくしかない。

五十音で言えばまだ「か行」に来たところである。こんなところがゴールだとは思ってはいけないし、自分はメンタルが強いと言い聞かせながら這い上がっていくしかない。

自分は駄目なんだと諦めてしまえばまた同じことの繰り返しだ。

赤ん坊だって頑張って歩こうとして子供だって頑張って文字を覚えようとしている、その姿と同じように地道な進歩を続けていくしかない。

自分は自分の戦いをする、今できる地味なことを頑張る、それしかできないがその積み重ねの先にしか新しい道は開かれないのだから。

テキスト中心の外国語学習はオワコンになる

日本人にとって外国語学習とは翻訳を想定したテキスト学習が主体になっている。これは明治時代の近代化の時に西洋の文書を翻訳し先進文明を取り入れる必要があったことが大きな要因になっている。

 

学校の英語の授業を想像すればわかるように丁寧に文法を教え単語のスペルを一字一句間違わないように覚え正しい文章能力を求められる。

そしてこれが日本人の英語が海外で通用しない最大の理由でもある。

実は日本人の英語というのは格式ばっておりやや古風な表現が多く、日本語で例えるならば外国人が「ごきげんよう」「~でござる」という表現を最新の日本語だと思って使っているようにネイティブには聞こえるようだ。

 

つまり日本は口語的な英語や本当に使われているリアルな英語教育を軽視しており、あくまで受験で高得点を取り学習能力の高さを査定するツールとしてしか英語は機能していない。英語ができれば何となく優秀だろうという曖昧な価値観であり、実戦的な英語力は軽視されている。

 

更にこういった文章主体の外国語能力はいずれ必要とされなくなる時代が来るだろう。なぜならば現在翻訳ソフトの性能は非常に高くなっており、10年後は人工知能に取って代わられてもおかしくはない。

もう外国語を勉強していればそれだけで安泰という時代ではなくなっており、将来的にテキストを翻訳するという仕事はほとんどがAIに代用されているだろう。苦労して難解な文章の翻訳能力を身に着けても10年後は需要が消えているという事態に直面する可能性は高い。

 

こういった状況において次に必要とされるのはリアルな会話能力や外国人とのコミュニケーション能力になる。テキスト文章を機械的に翻訳することは人工知能で代用できるが、実際に人間同士が面と向かって会話したり信頼関係を築き本音で語り合うということはやはり実際に言葉で話さなければ不可能だ。

 

まず話し言葉を翻訳するというツールが開発されたとしても、個人個人の話し方やトーンによっては正確に翻訳できない場合があり雑音が多い場所などでは更に難しいだろう。辞書には載っていない個人の独自のフレーズも人間同士の会話には存在する。

また翻訳ツールを通したコミュニケーションには限度があり事務的な関係しか築けないため外国人と信頼関係を築いたり海外で生活するという事には大きな壁がある。

間に何か挟んで話すことと、直接自然なトーンで話すことは大きく違う。

正しい文章はソフトができるようになるが、間違っていても楽しい会話は人間にしかできない。

リスニング能力においても綺麗な環境で受験用に録音された台本通りの会話ではなく、雑音のある場所や何かの行動をしながら何気なくしゃべる物を聞き取り、それに対する返答も求められる。

 

テンポよく冗談を交えて話すことはいくら翻訳ツールが発達しても不可能であり、少なくともテキスト化された文章が完全に翻訳ソフトに対応しきるよりはさらに後の事だろう。近い将来において文章翻訳の需要な徐々にソフトで十分になり、かつて人力で行われていたものがロボットで代用されたことと同じ現象が起こる確率は高い。

 

もはや文章を翻訳し正しい文法知識を備えるという従来の日本的外国語学習はオワコンになりつつあり、これからの時代は外国語を使って外国人と何をするかという時代になってくるのではないか。

外国語はその時に必要な道具の一つになる。

 

言葉ができるようになることが目的だった時代から、「言葉を使ってどこで何をするか」というその先の行動が求められる時代になるだろう。

非常にあいまいな言葉かもしれないが「人間力」のようなものが試されるのではないかとも自分は考えている。いくら難解な外国語の文章を読めたとしても、外国人と堂々と話せなければそれは意味をなさないだろう。

 

シェイクスピアを原文のまま読む英語力は確かに高いかもしれないが、イギリス人で実際どれだけの人がシェイクスピアを読んでいるだろうか。

日本にはシェイクスピアやヘミングウェイが読めるのに、英会話はネイティブの小学生にも及ばないという人が結構多いのだ。

 

そういった難解な文章よりは彼らの今の文化を知り、今風の喋り方を理解しカジュアルな会話を嗜むことの方が実は重要なのではないか。

高度な文章を読んで理解することより、カフェやバーのような環境で簡単なフレーズを聞き逃さない事の方が実は重要だ。

 

一人で部屋の中で黙々と外国の古典や論文を読み進めるのは研究者がする事であって、本当に必要な能力はもっとリアルなものなのかもしれない。もちろん海外の上流階級の人と付き合うのであればそういった教養も必要だが、それ以前にどんな環境下でもコミュニケーションを取ったり何かの行動を積極的にしていくという事の方が求められているのかもしれない。

海外の論文などどはれだけ難しくてもその内AIに任せる時代が来る、しかし一人の人間同士として付き合うことがAIに取って代わられる時代はまだ当分先の事だろう。

ピクシブで閲覧数が増えていかない最大の理由

ピクシブにイラストを投稿している人ならば誰もが閲覧数の事を気にするだろう。わざわざインターネット上で自分の絵を公開しているのだから客観的な評価を求めていることはすべてのイラスト投稿者に共通することである。

「閲覧数とか評価には興味ない」という人はそもそもネット上で誰かに絵を見せることなどしないだろう。

 

そんなピクシブで閲覧数が増えていかない最大の理由を結論から述べよう。

「実力のない無名の人間が描いた絵には誰も興味がない」

至極当然の事でありとにかくこのシンプルな事実に行き着く。要は個人の知名度も無ければ絵の実力もなく面白くもない人間が描いたイラストに誰も惹かれないのである。

現状自分もその一人で、正直なところ伸び悩んでいる。

 

これはイラストの内容にもよるのだが、ここに「オリジナル物」という要素が加わった場合更に見られにくくなる傾向がある。版権物のイラストや同人物のイラストならばまだその方面からの需要があるが、オリジナル物でやっている人はよほど実力があるか特殊な工夫をしているかのどちらかぐらいでしか自分の絵をヒットさせることは難しい。

 

ただ安心してほしいのが「皆そんなもの」という事である。

自分だけが人気無いと思う必要はなく上と比べたときに見劣るだけで実際の所閲覧数が少ない人は無数にいるのだ。

自分より画力が高く頑張って細部まで描いているのに全然見られてない絵というのは有象無象に存在する。

更に決して需要が無いというわけではない、ただ単に供給が多すぎるだけなのだ。

ピクシブは需要はもちろん大事なのだが、需要のあるジャンルというのは供給も多くなりやすい傾向がある。

更に閲覧数が無いからと言って自分が下手というわけでもなければ自分のやってることに価値が無いわけでもない、つまり自信を失う必要はない。

確かにピクシブの中では下手な部類かもしれないが、別の言い方をすれば周りが上手すぎるのである。

需要が無いのではなく供給が多い、実力が無いわけではなく周りが上手すぎる。

もちろん需要が無い事と実力が無い事はその通りだが、要因はそれだけではない。

 

それに加えて前述の突出した実力を持たない無名の人間が描いた絵は見られなくて当然という事を考える必要がある。

閲覧数や評価が少ないからといっても、周りも似たようなものであり一部の上手い人と比べても仕方がない。更に無名の個人のオリジナル物が見られないのは当たり前の事であり、供給が多く周りが上手い環境で埋もれるのはむしろ必然なのだ。

閲覧数が伸びない理由はこれだけ揃っているため悲観しすぎることは無い。

ここに2つのイラストがある、自分が描いてピクシブに投稿したものだ。

両方とも同じオリジナルキャラクターを描いており右の方が新しいイラストになる。

 

自分は以前これまでの画風から変えて新しい需要にマッチするようなイラストを目指したと書いたが、まさにこの試みがこの2つの絵である。

顔だけではなく全身のイラストやポーズをつけたり何かを持たせるという工夫を試みたのだが、結果は惨敗。

 

正直なところ自分は新しい右の絵の方が閲覧数が増えると思っていた。

銃を持たせてポーズをつければ何か変わるのではないかと期待していたが、特に大きな変化はなかった。ただの立ち絵ではつまらないから何か工夫を加えようとしたのだが特に結果にはつながらなかったのだ。キャラクターのイラストにこれまでやったことが無い武器を持たせるという工夫を加えれば何か変わるだろうと淡い期待をしていたが甘かった。

 

結局のところオリジナル物の実態というのはこんなものなのである。

自分の中では大きく変わったり頑張ったように見えるものも、他人からすれば微差でしかない。赤の他人の無名の人間のイラストなど少し変わったところでどうでもいい変化に過ぎない。

 

このブログは創作日記的な側面もあるため自分の中の試行錯誤についても記述していきたいのだが、ここからどうするかということも考えたい。

エジソンの電球開発のエピソードと同じで「失敗ではなく上手く行かない方法が分かった」ともいえる。自分の中でいろいろ試しながら自分が本当に描きたいオリジナル物でどう結果を出すかというトライアンドエラーを繰り返していくしかない。

 

まず第一の解決策はやはり上手くなるという事であり、これが最大の方法だろう。

結果が出なくとも腐らずとにかく描きつづければ絵の実力自体は上がる、それがいつか花開く時が来る。もっと描けるポーズを増やしていくことや、現状の範囲内でやれることを少しずつ増やしていくしかない。

絵というのはすぐに上手くなるものでもない。

おそらく次描いたとしてもやはり同じように結果は出ないし評価もされないだろう。そして自分でも成長の実感がわかないはずだ。

しかしそういったことを10回続ける、そうすれば自分の中で変化がようやくわかるようになる。そして100回続ければそれは客観的に見たときにもわかる変化となる。

前述の2枚のイラストは自分以外からすれば変わり映えの無い微差でしかない。

圧倒的な変化をもたらすにはあと100回描く必要がある、絵というのはそういう世界なのである。あともう2,3段階実力を上げなければ客観的な評価は目に見えて向上していかないだろう。

 

またそもそもオリジナル物というのは自分の絵の練習になりさえすればいいという割り切りも必要である。版権物に比べて自由に書きやすいオリジナル物は思う存分に試行錯誤ができる。誰も見てなくてもそれを書いて絵が上手くなったそれはかけがえのない財産でもある。オリジナル物で上手くなってから需要のあるジャンルを書き始めるということもできる。

 

絵の世界はある意味で自分の探求でもある、とにかく黙々と書き続けるしかない。

上手く行かない方法を1万通り見つけるぐらいの覚悟で何度も失敗することが必要だろう。閲覧数が少ないという客観的な評価やピクシブの構造を受け入れた上で、それでも腐らず続けるかどうかが大事な事なのかもしれない。

エジソンもマイケル・ジョーダンも何度も失敗して、ゴッホやピカソもいきなり評価されたわけじゃない。芸能人やアイドルでもいきなり売れたグループより下積み時代が長い人の方が結局は息が無い。

下積み時代が長ければ長いほど、自分の活動の寿命も長くなるかもしれない。

そう言い聞かせて今の地味な下積み時代を黙々とコツコツとやっていくしかない。

読者のレベルに合わせた小説は面白くない

現代の文化というのは資本主義や商業主義に適合しなければならないため、大多数の人に合わせたカジュアルな物が多くなっている。

世の中頭がいい人と頭が良くない人、頭を使う人と頭を使わない人ならば圧倒的に後者が多数派なのである。

 

そのためその大多数の大衆に向けて簡単なものを提供するということが昨今の風潮になりつつある。たとえばこの傾向がもっとも顕著なのが文学界だろう。

 

東進の林修はテレビでこのような趣旨のことを発言していた。

とにかく今の小説は簡単になりなるべく難しい言葉を使わず簡単にサクサク読めるようになっている。本が売れない時代において出版社はなるべくカジュアルな小説を出そうとするため文章間のスペースも広くなり1ページ当たりの文字数も少なくなってきている。

逆に昔の文学は難しい言葉のオンパレードであり、1ページにびっしり書かれていた。

現代文のエキスパートは公の場でこのことを指摘した。

 

確かにその傾向はあるだろう、世の中が徐々に"長文アレルギー"になってきていることは間違いない。たとえばネットの掲示板も昔は本当に濃密な人々が喧々諤々議論を交わしていたのだが、今はそういう場所ですら長文は避けられるようになっている。

またツイッターという144字のSNSが普及したことでこの現象は加速しており、その144字すら完全に使い切ることは長文ツイートとさえ言われる。

今の時代は144字ですら長文なのだ。

実際ツイッターを見ても長文でしっかり描いている人はカジュアルな雰囲気の中で真面目に語っている浮いた存在のようになってしまう。

ネット環境も活字アレルギーの多数派向けに変化しつつあり、真剣に語る人は空気が読めない人になってきている。メッセージアプリなども長文で語ると少し面倒な人に映り、長い文章を書けない人や読めない人が急増している。

 

これはもしかしたら世の中の娯楽の多様化と、現代人の多忙化が関連しているのかもしれない。

やることがいくらでもあり一つの事に時間を費やせない時代に、悠長に文章の世界に時間を費やしていられないのである。

簡単に要点だけをまとめて重要な部分だけを効率よく取り入れることが求められている。

文学も空いた時間に簡単に頭を使わずに楽しむことが求められている。

本を読むという比較的知的な楽しみを求める層でさえ今はカジュアル化してきており、そしてカジュアル化は商業主義、資本主義、そして多忙化の時代においてダーウィンの進化論で言うところの適者生存なのである。

 

誰が悪いというわけでもなく背景に大きな構造が存在しており、これはもはや避けられないのかもしれない。

実際自分もこの傾向を批判しておきながら短い文章のやり取りやわかりやすい定型文による会話が繰り広げられる掲示板の書き込みやそれをわかりやすくまとめたものを見ることが多いし、報道なども先に要点をまとめているものの方がありがたいと思っている。

他人の長い主張や冗長な作品、煩雑な情報に付き合っていられない時代になっている。

 

また提供者側のスタンスも変化してきているだろう。

昔の文学者、具体的には戦前の文学者は「我々は高度なことを突き詰めたい、理解できる人だけがついてきてほしいし理解できない方が悪い」という考え方に近かった。

一部の選ばれたエリートが本を発売できていた時代において、文学は高尚な物であり読者側もそういった知的階級に憧れていた。また世の中の文化をリードしていくという自負があった。

 

しかし現代に近づくにつれ出版数は増加し、大量生産と大量消費の時代が訪れる。

更にテレビというメディアが増え、現代ではインターネットという新時代のツールも登場している。ラジオと文章しか大衆への状況提供手段がなかった時代とは違い、他の種類のメディアとも競争しなければならない時代になったのが戦後だともいえる。

戦前も勿論映画はあり、音楽もあったが戦後はテレビが国民的に普及し現代はネットで誰もが多数の情報にアクセスできる時代になったことでより伝わりやすい情報メディアが選ばれるようになる。

 

供給する側が選別され少なかった時代には難解な思索を思う存分追求することができたが、今の時代に置いてはより多くの人に理解されるために読者側に合わせなければならない時代になっている。

読者が文学者の知識に追い付こうとしていた時代から、文学者が読者の知識に合わせようとする時代になった。

 

そしてこれは文学だけに限ったことではなく、ありとあらゆる文化においても言える事だろう。たとえば前述のような短文SNSの登場はその象徴であり、現代人は一つの事にゆっくり時間を使えなくなっている。

アニメなども現在は1クール日常アニメが急増しており、「考えずに見られるアニメ」が求められている。またユーチューバーのように子供でも楽しめる娯楽が台頭しており、世の中が簡単で身近な物を希求し渇望し始めている。

 

現代人は考えたくもないし難しい事から遠ざかりたい、そんなことをする余裕はなく皆忙しく疲れているのである。

そして実は資本主義の時代においてこれは良い事でもある。実は賢い人が頭がいい人が多い社会というのはそれほど資本主義的にはあまり良くないのだ。

「コスパが悪い」という言葉があるが、頭がいい人は考えて商品を購入するため購買意欲が低くなる傾向にあり財布の紐が固いことが多い。

一方あまり考えない人というのは良くも悪くも行動がシンプルで、とにかく体力と情熱があり良く働き、そしてよく消費活動をする。実は資本主義社会において大多数の人が後者だった時代の方が活気があり盛況としているのである。

日本経済が低迷しているのは先のことを考え「コスパが悪い」という言葉を多用する人がネットだけではなく現実でも増えたことが原因でもあり、購買意欲が低く貯蓄率が高いのはこの問題と関連している。

中途半端に大衆の知的レベルが向上することは実は経済や資本主義の面で考えたときにそれほど良いことだとは言えない。

 

小説もこれと同じで、難解な小説を好む人が必ずしも出版業界や小説家、文学者にとって良い消費者だとは言えない。

一つの難しい本をずっと読んでいて、しかもそれが図書館で借りてきたような本ならば市場には何も影響をもたらさない。

それよりは世間で流行っているカジュアルな小説を話題についていくために読みもしないのに購入する消費者の方が出版関係者や書店としては助かるのである。

難解な事や高尚な事、真実に近づくことが正解だとは言えないのもまた真実だと言える。

時代が変化したことで正解も変わったのだから、簡単でカジュアルな小説が増えたことも一概に悪いことだとは言えない。

小説

しかし個人的な考え方としてはやはり読者のレベルに合わせたような小説は面白くないと思っており、むしろ一つの本をずっと読んで考えているようなタイプである。

世間で流行っているから小説を読もうと思ったことは一度もないし、流行についていきたければ素直に芸能の話題でも多く取り入れたほうが良いと思っている。文学というのはそういった流行からは閉ざされた閉じた濃密な世界であって欲しい。

中世ヨーロッパの哲学者が自室にこもり著書を執筆し、周りで起きている戦争に終戦まで気付かなかったというエピソードを聞いたことがあるが本来、文学や哲学というのはそういった探求の世界なのだ。

 

例えば今現在自分は歴史用語や専門用語が多用される小説を読んでいるのだが、これが非常に面白い。

自分がわからないことを書いている小説は面白く、理解することの喜びもあり新しい知識や視点を得られることも楽しい。

それが自分の興味があるジャンルに関連しているならばなおさら面白いだろう。

自分は漠然と「小説家は自分より凄い人であってほしい」と考えているし、芸能人やアーティストにも同じことを求めており昨今重視される"親近感"にあまり興味がない。

もちろん例外はあるが特に文学においては基本的に尊敬できる人物が書いた物を読みたいと思っている。

 

最近の"なろう作家"が書いたようなライトノベルに惹かれないのもまさにそれが理由で、やはり読書という比較的頭脳を駆使する行動においては高いレベルのものを読みたい。読書というのは労力がかかることであり、その対価として高品質な物や高度な情報を得たいと思っている。

労力をかけずに簡単に楽しみたいならば他にいくらでも娯楽があるためにそちらを選べばよくわざわざ活字を読む必要もないだろう。

 

親しい人が書いた小説ならば例外だが、基本的に無名の素人の文学を読むのであればそれは自分が書いたほうがいい。

しかしそんな批判をしておきながら自分もいつかは小説を書きたいと思っている。

元々大学も文学部志望だったため、この世界には憧れがあり現在もそういった創作活動の準備はしている。

 

そこでやはり思ったのが読者のレベルに合わせたような小説を書いても何も残らないという事であり、思う存分難しいことを書きたいと思っている。

最大限に難解なことを突き詰めたほうが自分にとっても成長になるだろう。

また一般の人が読者に合わせるような文章を書くというのは合わせるというよりもなんなるレベルの低下に過ぎない。

本当に知的レベルが高い人が大衆に合わせて書くのであれば良いが、そうでもない人が読者に合わせるようなことをしたらただ何に手を抜いているだけでありクオリティが更に低下する結果にしかならない。

つまり一般の人間は全力で書いたほうがちょうど良い難しさであり、難解なことを懸命にやろうとしてようやく知的レベルの高い人がが書いた大衆に合わせて執筆したレベルになるのである。

 

また現代の潮流として、むしろこれから高品質かつ難解な事への回帰が始まるのではないかとも考えている。

過度なカジュアル化や親近感重視の時代が進行し、それらが氾濫しすぎた結果、その反動として高尚な物への回帰が訪れるのではないか。人間というのはいずれ飽きるものであり、やはりレベルの高い物の方が面白いという再評価がされる時代が来るかもしれない。

「ネットには頭をあまり使わない人向けの質が低く中身のない物しかない」ということに愛想を尽かした人々がまた新しく何かを始めるのではないか。誰もがカジュアルが何も考えずに楽しめる物やただそこに生じるコミュニケーションやコミュニティばかりを求める時代は終わりを告げるのではないか。

つまり文化のルネサンスがこれから始まるだろう。

 

現に自分はネットに動画が大量に溢れている時代よりも、テレビがまだ力を持っていた時代やネットにおいて動画がレアだったフラッシュ全盛の時代を再評価し始めている。提供される物が選別されていた時代の方が、実は多様化細分化の時代よりも濃密だった。昭和の時代や20世紀にまで遡らずとも少し前まではその時代の名残があった。

消耗品としてネットの意見重視で1クールアニメが量産される時代やSNSの流行が大衆文化を席巻する時代がそれほど良い時代だとは思えない。

 

よく言われるのがプロ野球とJリーグの比較論でチームが多すぎると却ってよくわからなくなり一つ一つのありがたみや個性がなくなるという事に近い。自分自身はサッカーファン側なのだが、理論としてはこの考え方に賛同できる。

海外サッカーにおいても興味があるのは上位チームだけで、大部分は興味が無く冗長な存在でしかない。

毎回バルセロナやレアル・マドリードが下位相手に大量点差で勝つ余裕の試合をするのであれば、界のチームは連合チームでも作ったほうが試合内容自体は面白くなるだろう。サッカーのリーグ戦の面白さはそれだけではないのだが、世の中の文化としては選別されたものの方が良いという事は言えるだろう。

 

サッカーの話で言うならばチームは強くないが地元だから応援するといういわば親近感や愛着の問題であり昨今の文化もそうなっている傾向がある。

ネットに有名人は自分に近い感じがして握手会に行けるアイドルは自分のことを覚えてくれるから親近感を抱ける、そして応援に熱が入る。

いわば現代文化というのは降格圏や下部リーグにいる弱小チームのような人やコンテンツが増えている状態だともいえる。

自分もまさにその一人であり弱小チームの中で更に弱小的な存在なのだが、当事者でありながら昨今の傾向はいずれ終焉するだろうと悲観的に感じている。

 

まだサッカーの場合は弱小チームと言えどもリーグには20チームだが、現在の文化はいわば1部リーグに100チームほど混在する時代になっている。更に2部リーグにも500チームぐらい存在する時代においてもはやわけがわからない状態だ。

AKB48グループも年々、数だけは拡大しているが神7を多くの人が覚えていた時代に比べて華やかさは失われた。それどころか誰も知らないような謎のアイドルグループも増えている。

その結果有名人気取りをした誰も知らないような勘違いアイドルが増えている。

 

このように選べるものが増えるというのは実はそれほど良いことではなく、選択肢が増えるほどそれぞれの個性は低下することになる。

自分に合ったものを選べるというのは聞こえが良いが実際はそうではなく、「親近感」というもので錯覚しているにすぎないのだ。

 

ポケモンで最初の3匹が草、炎、水の3タイプだからよいわけであってこれが18タイプ全て選べたら御三家の意味合いが却って薄れてしまう。それどころか今の時代は18タイプに留まらず良くわからない必要のないような謎のタイプが追加されている時代でもある。

新しいタイプとして炎タイプに統一していれば良いのに熱タイプが登場しているのが現代文化だ。

そうなればどのタイプを選ぶかという議論もあまり活性化せず、それぞれが好きなものを選んでいるだけで皆それぞれ好きなものを選んでればいいし自分には関係ないという雰囲気になってしまうだろう。

 

そしてネットや現代の細分化時代はまさにその状態を引き起こしているのである。

ポケモンが18タイプ選べて、Jリーグに100チーム存在しているような状態が現代のあらゆるコンテンツに当てはまるのだ。

意味が分からないため本当に好きな人だけにしかわからないし、それぞれの質が低いため後世には何も残らない。

 

一見するとポケモンで18タイプを選べるならば本当に好きなタイプを選べるし、Jリーグなら本当に自分に近い町を応援できるだろう。

自分は御三家のタイプより氷タイプの方が好きなため、それを選べるならば確かに嬉しい。

しかし草、炎、水の3タイプから選ぶことで御三家選んでる感がありそれが大きな話題として盛り上がるのだ。本当は18タイプを選べることにそれほど価値が無いわけであり、自分が好きなタイプを選べてると言う事自体にに自己満足しているに過ぎない。仮に岩タイプを選んでいる人がいたら、氷タイプを選んだ自分にとってはどうでもいい他人でしかないのだ。

 

それよりは3タイプで何を選んだかという話題が盛り上がる方が本当は楽しいし、御三家も後の世代の人も話題にして覚えているのである。

例えばジョウト地方はヒノアラシ、チコリータ、ワニノコだということはポケモンファンならば覚えているがこれが毎シリーズ18タイプ収録されていればもはや次のシリーズの時には誰も覚えていないだろう。氷タイプや岩タイプで三段階進化する最初に選べるモンスターが登場したとしても、これまでの御三家に比べて印象にも残らない地味な存在にしかならずその時だけの楽しみにしかならない。

その時は本当に自分の好みに合ったモンスターが選べることが嬉しいが、後から振り返ったときに何も残らず誰も話題にせず消えていく。

 

サッカーも同じで現実にはチームが多いJリーグよりもチームが少ないプロ野球の方がわかりやすく盛況としている。それぞれのチームが閑散として一部のサッカーファンしか興味が無くメディアにも取り上げられないよりは、チームの数が少ないほうがファンも集中してどのチームが好きかというのが話題の共通項として盛り上がるだろう。

「このタイプを選べてうれしい」「地元にチームがあるのは嬉しい」「あのアイドルは自分のことを覚えてくれてうれしい」という事の裏で実は失っている者が多くあるのだ。

 

そしてこれは大衆文化の多くについて言えることでもある。

小説を筆頭に芸術もこれと同じで個人のレベルに合わせたようなものが乱造される時代には何も残らないだろう。商業主義としては前述のように間違いなく正しいのだが、商業とは無縁の個人までもがそれをするというのは何も文化的に価値がない。

 

自分も絵や小説を投稿し公開していこうとしている立場だがあまりウケを考えずにひたすら自分の好きなことを追求したいと思っている。自分はこれから小説を書くにあたって少し話をレベルを落とそうと考えていたが、むしろ引き上げて自分ができることを全てしたいと今は考えている。

前述の「一般の人は全力で書いて丁度よいレベルになる」論にも通じるが、ネット上の無名の投稿者までが大衆に迎合するようになれば本当の似た作品しか残らず、現にどの投稿サイトも独創性のないテンプレばかりになっている。

一時的に人気が少し増えたところで結局何も変わらないし夢は叶わない。

 

そしてこのような考えに至ったのは最近自分が読んだ小説を見てやはり作者が自分の高いレベルで突っ走っている作品は面白いと感じたからでもある。

そういう作品の方が結局は受けるし歴史に残るし、消耗品として終わらず大きな影響を与える。

ちなみにこれまで具体名を出してこなかったが自分が読んでいる小説は村上龍の『愛と幻想のファシズム』である。この小説は非常に多くのクリエイターに影響を与え、例えば新世紀エヴァンゲリオンの登場人物には愛と幻想のファシズムで使われていた名前の影響を受けたキャラクターが多い。その過激な作風はクリエイターに限らず多くの人に影響を与え、今も名作や問題作として語り継がれている。

 

この『愛と幻想のファシズム』を読んでやはりレベルの高い小説は間違いなく面白いと再確認した。

専門用語や固有名詞が多用され、作者の哲学が語られ、歴史の象徴的なエピソードが随所に記述されている本作品は非常に読みごたえがある。

小説投稿サイトで一時的に閲覧数を稼ぐためにそのサイト受けする人気のテンプレ小説を乱造してもその他大勢で埋もれてしまうのだ。少し人気になったという錯覚意外に得られるものなど何もない。

 

そしてこれは自分がイラスト投稿サイトでも感じていることだ。

見る人が微増することに意味は無く、そのために自分の信念を捻じ曲げても何も残りはしない。

 

それよりも何かを作る人間というのは大袈裟かもしれないが、本当にトップを取り時代に革新をもたらす覚悟で、チャレンジャーとして挑まなければならないのではないか。

それぐらいの覚悟がない人間が「ちょっとやってみた」程度でネットに参入してくることが現代文化が劣化していることの根源ともいえるだろう。

制作や創作をする提供者側が本気で自分のやりたいことを追求する時代に戻らなければ現代文化はただの一時的な消耗品となり、いずれ誰も見向きもしなくなるだろう。

即上達!60歳からの小説の書き方全極意 楽しい!!やりがい!!ボケ防止!!人に役立つ!!一 [ 五十嵐裕治 ]

 

ガムを食べる事でアルコール依存を脱却できるか

先ほど近くのコンビニに寄ってきたのだが、自分の中で大きな進歩がみられた。

それはお酒コーナーを前にしても自制を効かせて酒類を買わなかったという事である。これまで自分は近くにあるこのコンビニで何度もお酒を買ってきた。割高なお酒を定期的に買うのだから地域経済に貢献する良い客だっただろう。ここで何度もお酒を買い、遠くにある量販店よりもすぐに寄れる為、なにかあったらここに行き結局はお酒を買っていた。

 

しかし今回は禁酒生活の真っ最中であり、自分としてもまたコンビニに行けばお酒が欲しくなってしまうのではないかという不安があった。

その不安は杞憂に終わり、自分は特にお酒が欲しくもならず今は買ってはいけないと言い聞かせることができた。まるで人が変わったようにそこを通り過ぎることができたのだから自分でも驚きだった。

 

そして今回新しい試みとしてガムを日々の嗜好品として取り入れることにした。

本来は必要な物だけを買って帰るつもりだったが、ボトルのキシリトールガムを見つけたので試しに買ってみることにした。しばらくガムを食べていなかったので美味しそうに見えたことと、何か口に入れたくなったときにちょっと食べるのにちょうど良いと思ったからだ。

自分がこれまでお酒を飲んでいたのは何かを飲食することに楽しみを見出していたからでもある。

 

その清涼感が頭のリフレッシュにもなる上に、歯にも良い。

更に何かを噛むという事は頭脳への刺激にもなるため本を読むときなどに丁度良い。何かを口に入れて気分を変えたい時に、こういった粒ガムは手軽に食べることができる。

また少し割高ではあるがお酒に比べれば非常に安い。一粒当たりの値段はそこまで高くなく、またいろんな味が入っているタイプのため飽きが来ない。

700円少しの値段だったが、お酒ならば1日で飲み干してしまう量でもある。これで何日も持つならば非常にコスパが良い。10粒食べても大した値段にはならないどころか、2,3日で食べきっても問題がないほどだ。

 

それほどお酒を飲んでいなかった頃はこういったボトルガムは貧乏性として少しずつしか食べなかったが、今回は嗜好品として食べたい時によく食べる方式を取り入れたい。

結局こういうボトルガムは少しずつ食べていたら結局飽きて食べきらないことが多い。

結局飽きたり長時間空気に触れた状態にすることで味が劣化したりするので、もっと頻繁に食べても差し支えは無い。

ひたすら味の為だと割り切ってガンガン食べても良いし、言うまでもなくお酒より安い。また味も非常に良いため、まずい安酒を酔う為だけに飲むことよりよほど健康的であり楽しい。

 

ジュースで代用すればそれもまた高いが、ガムならば小分けにしてちょっとずつ自分のペースで食べられるというのもいい。机の上に置いておけば食べたい時に食べられるというのは地味ながらメリットが大きい。

とにかく何か味が欲しいという時に粒ガムは頼もしい味方になりそうだ。今まで安易にお酒に頼っていた部分を代用できる。更に自分は子供の頃ガムが元々好きだった。その頃に戻れるならばいくらでもガムを噛んでいたい。

 

長期的にそれほどお金がかからない上に、気軽に摂取できるためちょっとしたときの気分転換にもなる。

お酒を辞めた代わりに取り入れるのだから遠慮なく食べても良いというのは心強い。

さっそく食べてみて現状かなり感触はよく、アルコール依存対策の一つとしてまたお酒が飲みたくなったときに落ち着かせるのに役立ちそうだ。

少しずつでも何か新しい楽しみを見つけ、ちょっとした進歩に喜びを見出す、そんな地道なことが大事なのかもしれない。ここしばらくガムで代用し様子を見ていきたい。

断酒生活3日目に突入、ここが正念場

最近続けている断酒生活は今日が3日目になる。

一昨日と昨日は無事一滴も酒を飲まずに乗り切ることができた。朝を快適な状態で迎えられるというのは非常に喜ばしいことだと改めて思う。

朝が不調というのは前日の快楽を犠牲にする価値が十分にある。しかもここ2日お酒を飲んでいないことで出費も抑えられているためその達成感もある。時間をかけて体を綺麗に戻していくという挑戦はやりがいがある。

 

しかし3日目というのは以前挫折したことがあり、アルコール依存状態に陥ってからは乗り越えられたことが無い難所になる。

その時は2日目の段階ですでに酒を買いに行き明日のために準備していた。その後反動のように1週間にわたり飲み続けて結局また元に戻ってしまった。

ダイエットのリバウンドのように、一度何かを我慢すると次それが解放されたときに以前より悪化してしまうことがある。

二週間分の酒を買いためたはずだったのに一週間で切らしてしまう程ハイペースで飲んでしまった。

 

今回は前日に明日飲んで発散しようという予定を立てていなかったので、断酒生活を順調に続けられるかもしれない。一回目の失敗に学んで徐々にお酒ない状態に慣れようとしている。

やはり地味に聞いているのが小説を読むという習慣で今回はこれがあることで何もやることが無いときにお酒に走ることを避けられている。何も楽しい事ややることが無いから即自的な快楽に走ってしまうが、黙々と読書をする習慣を作るととりあえず何かをしたい時の暇つぶしになる。

また音楽を聞くというのも十分しらふ状態でもテンションが上がることに貢献することも発見した。

今までの自分は酔っているときのテンションをさらに高めるために音楽を聴いていたのだが、そうでない時に音楽を聞いても楽しいというかつての感覚を取り戻しつつある。

 

アルコール依存になると、飲んでいない時は何をしてもつまらないという錯覚に陥り積極的に何かをやろうとしなくなってしまう。考えることはただお酒が欲しいという事だけになってしまうのだ。何かを楽しむにはまずお酒を飲んでからという思考回路が形成されてしまう。

「そんなことをやっても楽しくない、まずは酒を飲みたい」という発想になっていく。

あらゆることがアルコール無しでは楽しめなくなるのだ。

 

そのため今の自分は地道に飲んでいない時に楽しむ方法を少しずつ探し、なるべく自暴自棄にならないようにしている。散歩をして自販機でジュースを買って飲むだけでも陰鬱とした気分の発散にはなる。

 

それでも時折まだお酒を飲みたいと思う時がある。

ふいにかつての生活や習慣が懐かしくなり、もう一度その時のような体験をしたくなる。これだけ我慢したのだからご褒美でこれぐらいならいいのではないか、そんなことを考えてしまうのだ。そして積み重ねてきたものをまた元に戻してしまう。

何かをつまみにお酒を飲む晩酌を一度楽しんでしまえば、それが次の日もしたくなる。一日だけ限定で楽しむということができなくなり、毎晩の習慣になってしまう。これがまだ働いている人が夜に一日の疲れを癒すためにするならば問題はないだろう。

しかし自分のような暇を持て余し、やるせない鬱屈とした思いを貯めこんでいる無職の人間はやることが無ければそれが1日中の行動になってしまう。

 

「飲めるときは飲む」という習慣になり、ただひたすら1日を怠惰に過ごすことになる。それ以上の快楽が無いことで、てっとり早く楽しめるお酒に頼ってしまうのだ。

そして徐々に貯金が浪費されていく。

一度快楽を覚えればそれが毎晩の事になり、そして終いにはすべての時間を費やすようになり、破滅する。

かつての自分がまさにそうだった、ただ醜く怠けて何かを先延ばしにし終局へ向かっていた。ウイスキーを薬のように毎日飲み内臓を傷つけるという狂気の沙汰のような生活をしていた。底辺の負け組の象徴のような哀れな人間だったのだ、そしてそんなことをしていても何も変わらない。

elkind.hatenablog.com

 

人間は本当は餓えている状態のほうが良い。

元来人間や生物というのは常に食糧や快楽にありつけている状態の方が珍しいのだ。現代人は三食毎日食べるということが習慣になっているが、人類が登場したころは農耕もなく狩猟採集の生活を行っていた。

そして人類の歴史を紐解いたとき農耕を開始してからの時間は非常に短く、更に近代国家が形成されより食料供給が安定するようになった時代は更に短期間になる。

 

生き物というのは不思議なもので食べないことが不健康のように思えるが、実は毎日食べていることの方が不健康になりやすい。餓えて人間が息絶えるまではかなり時間がかかり、水さえあればなんとな生活できる。

胃に常に何かがある状態より、何も入っておらず餓えている状態の方が自然なのである。

ましてそれが人類が発明したアルコールという物ならばより不自然だ。

酒は人間を堕落させてしまうのだ。

アボリジニという偉大なオーストラリア原住民のハンターは、西洋人が持ち込んだアルコールによってその感覚を完全に失ってしまった。今アボリジニはオーストラリア政府の補助金に頼り酒ばかりを飲んで暮らしている。

 

現代人は快楽や食欲が満たされていることで狩猟をしていた頃の感覚を失っている。

本来人類は氷河期さえも乗り切る強い能力があるが、現代人の多くが無人島に何も持たずに送り込まれただけで息絶えるだろう。

常に快楽に恵まれている状況では本能を失ってしまう。

まさに今までの自分は毎日酒におぼれあらゆる感覚が鈍っていた。

感性を研ぎ澄まし、眠っている潜在能力を発揮する為にもこの断酒生活は重要なのである。人生を変える飛躍を遂げるには、これ以上酒におぼれ能力を衰えさせていてはいけないのだ。

断酒で人生を変える、もうそれしかない追いつめられた段階に今の自分は来ている。

徐々に酒断ちが上手く行きつつある

禁酒や節酒を意識し始めてからしばらく経つが、少しずつコツをつかみ始めてきている。

まだ完全にお酒を断つことはできていないのだが、徐々に「お酒を飲んでいない時間」に慣れつつある。本来ならばお酒が入っていないしらふの時間が当たり前なのだが、アル中になってくると逆にしらふの時間がおかしな感覚に感じるようになってくる。

 

その特殊な感覚を正常な感覚に戻すことが復帰への第一歩となる。

完全にお酒を辞めることや1日飲まないで過ごすことをいきなり目標にしては続かない。最初はお酒を飲んでいない事自体に慣れていくことからスタートしていく必要がある。

 

そういう意味で昨日は無事禁酒に成功した。

少しずつお酒を飲んでいなかった頃の感覚を取り戻しているし、酔っていない時間の過ごし方を工夫するようになっている。

深呼吸をして落ち着く、笑顔になる、冷静になろうとする、そういったメンタル面の小さな工夫から始めてすぐにアルコールに頼るという状況を作らないようにしている。

一度お酒に依存した生活に陥ると、何かあったらとにかく飲んで解決しようという発想になる。

 

まずこの発想から変えていかなければならない。

お酒はそこまで絶賛するほどのものではなく幸せをもたらしてくれるものではない。目先の少しの時間のまやかしにしかならず、その内頭も痛くなり次の日はお腹の調子も悪くなりやすい。更に気づけば貯金が減っている。

こんな酷い飲み物は無いという認識をして、そこまでして飲むものでもないという思考作りをしていく必要がある。犠牲にするものがあまりにも多すぎるのだ。

酒を敵視するという考え方をするぐらい極端な考えに振り切らなければ、依存症の脱却は難しい。人間というのは自分が嫌っている物を摂取したがらないため、お酒が嫌いになればよいのだ。

 

やる気や精神の安定をアルコールに頼ることが習慣になればお酒が入らないと何もできなくなる。頑張ればお酒が入っていない時にもやる気は出せるし、かつては飲まずにもエネルギッシュになれていたことがあったはずだ。

そして酔っているときの楽しさより、酔った後苦しんでいるときのことを考えるようにする。少しずつだが飲みたいという気分を抑え、そして飲まない状態に慣れていくようにする。

 

自分は昨日飲まなかったことで、1日が酒によるダメージが無い状態からスタートするという当たり前の事にありがたみを感じるようになった。またお酒を飲んでいなくても面白い状況があることに気付き始めている。

正確にはかつて当たり前だった感覚を取り戻しつつある。

リハビリやダイエットのように時間をかけた長期戦になるだろう。体も頭も元に戻していくことには時間がかかる。

 

前回2日ほど断酒生活をした時はとにかく飲みたくて仕方がなかった。

しかし今回は徐々に飲みたいという思いが消えつつある。

飲まないで過ごしたことの喜びが、飲む喜びを上回るようになれば大きな進歩だ。

お酒が入っていないことで頭も体もクリーンな状態であることに喜びを見出すようになれば、アルコールを入れたいという思いがなくなる。

もちろんまだお酒を飲みたいという感情はある。

それを少しずつ抑えることが最初の始まりだ。

 

自分が今回酒断ちが上手く行っている理由として、あまり美味しいお酒を知らない事や買えないことも理由にあるだろう。

金銭的に余裕があり美味しい酒を知っており快適な環境で飲むことができる人は相当難しいことは想像がつく。

自分の場合安酒を家で飲むことが限度なため、美味しくもない酒を酔う為だけに飲むことへの楽しむを抑えることができつつある。

 

しかし酒の場という環境に面白さを見出している人や人間関係が関わっている人、美味しいお酒を簡単に手に入れることができる人などはまた複雑な要因が絡むだろう。

一人で美味しくない安酒を飲んでいるだけでも十分楽しいのだから、楽しい場所で美味しいお酒を誰かと飲むことができる人は中々それを立つことが難しいだろう。

自分一人だけではなく他社との生活習慣が関わってくる場合断酒はさらに難しくなる。

美味しいお酒と料理に恵まれている人も同じだ。

目の前に高級酒と高価な料理があった場合、正直なところ自制を効かせる自信は無い。更に今でも辛い時はやはり酒に助けを求めたくもなる。

 

そういう時に飲みすぎたときの頭への不快感や翌日の体調の悪さなどをどれだけ考えることができるかが重要になるだろう。少しずつでもお酒に対する良い印象を自分の中で減らしていき、飲んでいない時間になれるようにしていく習慣が必要になる。

本来それが当たり前だという感覚をほんの少しずつでも取り戻していく。

そんな地道な進歩を積み重ねていくことが最終的な酒断ちに続く道なのではないだろうか。