負け組ゆとりの語り場

社会に取り残された男が日々を語る

絵を描いてる人には性格悪い人が多い

よく芸術家には人間性が悪い人が多いという話を聞く。

実際に歴史上の画家や音楽家などを見ても中々の性悪人間が多い。

そしてそれは歴史に名を遺した著名な芸術家だけでなく、一般のアマチュアでも同じことのように思う。

 

自分の場合イラストサイトで絵を投稿しているのだが、とにかく性格が悪い人が多い。ネット全般に言えることだが良い人が1人いれば悪い人が9人いる。

しかも皮肉なことに日に日に自分も性格が悪くなっていっている。ネットやると自然と性格の悪い9人側の人間になっていくのだ。

 

絵が上手くなればなるほど反比例するように性格は悪くなっていく。

これは絵に限らずおそらく芸術全般に言える傾向のように思う。

何かを極めようとすれば人格の面で犠牲にしなければならないことがある。

 

実際匿名掲示板などでイラスト投稿者の本音を見たときに、その醜い本性や本音を垣間見ることができる。とにかくこの手の芸術の世界というのは嫉妬が渦巻く嫌な空間でもある。

更に自分自身が日に日にその醜い心の持ち主になって言っていることも実感する。

例えば絵の世界というのは上手い人間が絶対であり、そこには階級社会が存在する。無条件で自分より下手な人間を見下しており、上から目線の態度で相手にもしないのである。

まるで学校のスクールカーストと同じように結局は似た者同士でつるむことが増える。

逆に自分が下手だと自覚しておらず自意識過剰な人も大勢いる。

多くの人が自分より下を相手にせず、なおかつ自分を過大評価している。

 

そしてそんなことを考えている自分がまさに性格の悪いイラスト投稿者の権化だろう。

自分は最近こんなことを思っている。

「ボランティアでわざわざ誰も見てないし相手にしてないような絵にコメントしてやったのに返信も寄越さないなんてどんだけ偉そうなんだよ」と。コメントがあったら嬉しいだろうなと思って利他的な思いで褒めてやったのに返信すらしないような人が結構イラスト投稿サイトにはいる。

正直「お前何様だよ」と思わずにはいられない。

通りすがりの人間がコメントしてくれるという滅多にない奇跡のようなことに対して、よくもそんな対応ができたものだ。自分なら見てくれただけでもありがたい人に対して無視するような対応はできない。

 

まだ人気絵師のような人がコメントが多すぎて返信しないことにしてるというならばわかる。しかしろくに閲覧数もない上に反応もされてないようなしょうもない絵をわざわざ見てやってコメントまでしてやったのに、感謝の一言もないのは身の程知らずにも程がある。自分が人気イラストレーターと同じ立場だとでも思っているのだろうか。

 

そんな人に対して「すいませんでした、わたくしみたいなド下手な人間があなた様に素晴らしいイラストにコメントしても何も嬉しくありませんよね」と思ってしまう自分がいる。

自分より遥か上空にいる上手い人が丁寧に返信してくれるのに、何を勘違いしたのか落書き以下の絵の人間がスルーする。

「ボランティアでコメントしてやってる」という押しつけがましい考え方の方がよほど性悪なのだが、誹謗中傷でもない上に絵の詳細な部分まで見て大したこともない特徴をわざわざ褒めてやってるのに返信すらしない事は少し残念だ。

もちろん本当に参考やヒントにする部分もあっていろいろな人のイラストを見させてもらっているのだが、何の返信もないとそんな嫌な気分にさせてしまったのかと思わずにはいられない。

 

更に言えば世間に対しても本来は見てくれてるだけでありがたいのに「なぜ世の中は自分を認めないんだ」というようなこれまた嫌な考えを持ってしまっている。

コメントされない上にコメントしてやっても返信されない、どれだけ自分は世の中から軽んじられ無視され続けているのだろうか。

世の中そんなに自分のことが嫌いか、所詮その程度のどうでもいい人間でしかないのかと自己嫌悪に陥る。

 

どんどん性格が悪くなっていく自分がおり、これではいけないと思いながらも醜い感情がわき出てくる。

上手い人は上手い人しか相手にしないし、下手な人にかぎって自分を過大評価してるし、そんなことを考えてる自分も嫌だし性格悪い人しかいないのが絵の世界である。

自分の場合はイラストサイトだが、小説投稿サイトや音楽投稿サイトなどでもこのような嫉妬が同じように渦巻いているだろう。

 

ただ著名なアーティストもアスリートも人格で褒められた人はむしろ少数派なのだ。

たとえばスタジオジブリの宮崎駿や、ガンダムシリーズの富野由悠季などは人間性クズの象徴だろう。

自分は宮崎駿と富野由悠季に憧れて尊敬もしているのだが、性格が良いだけの人間はあの領域にたどり着けないだろう。

宮崎駿も富野由悠季も映画「君の名は。」が流行ったときは嫉妬根性丸出しで知らないアピールや見てないアピールをしていた。

上には嫉妬し下は見下す、そして自分は絶対だと信じる、これが芸術家やアーティストのメンタリティでもありむしろその感情がなければならない。

自己愛性パーソナリティやサイコパスでもなければアートの神髄は究められない。

スポーツの世界でもトップクラスの選手で人格的に善人だという人のほうが稀である。なぜならば善人は淘汰され競争に勝ち残れないからだ。

時として人を踏み台にしてでも這い上がり、人間性を犠牲にしてでも生存競争に勝たなければならない。

 

よくサッカーの世界で「フォワードは人間性がどれだけクズでも点取った人が正義」と言われるが、絵も同じくどれだけ性格が悪くても上手ければ認められる。

クリスティアーノ・ロナウドのような味方のゴールに不満の態度を見せる選手や、もはやサイコパスではないかという人格破綻者のズラタン・イブラヒモビッチが世界屈指のストライカーなのである。

サッカーは人間性の良さを競うスポーツでもなければ、絵は性格が良ければ上手くなるわけでもない。むしろ嫉妬を反骨心にして努力をする人間の方が結局は生き残るのである。性格が良い事と実際の実力は相関するものではない、これはどのジャンルにもいえることだ。

 

むしろ性格が悪い人間の方が面白い事さえある。

芸能人を見てもたとえば指原莉乃はとてつもなく性格が悪いひねくれ者だがむしろそれゆえにコメントが面白く魅力的なキャラクターになっている。

小説家などでも自分は村上龍が好きなのだがこの人もまた斜に構えた物事の見方をしているという描写が多い。

性格が悪い捻くれ者でなければその視点は浮かばないというシーンは多い。

逆に真面目で善良な考えの人間が書いた小説など面白くもないだろう。

 

そしてこれはインターネットの書き込みも同じだ。

綺麗ごと程つまらない物は無く、捻くれた書き込みほど面白い物は無い。当たり障りのない優等生の考えは見ていて飽きる。

ネットが社会の負け組の巣窟だったころは嫌な書き込みが多かったが、今は「そんな考えは不謹慎」みたいな人が必ず現れる。

よく「日本人の陰湿さがネットには現れてる」というが、陰湿で捻くれた考えの方が見ていて面白いのだ。むしろ「日本人は陰湿だ」と言っている人の方が自分を棚に上げていてまるで自分は善良であるかのような言い方をしているのだから性格が悪いだろう。

 

世間一般の建前では素晴らしい考え方でも実際は綺麗事でしかないことが多い。そういった自分は優良な善人だと思い込んでいる人間ほどつまらない存在は無い。自分は善人だと思っている人が本当に善人なことの方が稀だ。

そしてそういう人間ほどいざという時は醜い本性が露呈する。

日本人に限らず人間は陰口が大好きであり、必ず醜い感情を持つ生き物なのだ。

 

むしろその醜い根性は自分が人間だという証でもある。

原始時代の厳しい競争においては良い人というのは生き残ることができなかった。今生きている現代人は誰もが他人を蹴落としてでも生き延びてきた人間の子孫なのである。性格が悪いということは生命力が強いという事でもある。

これまでの自分の人生を振り返ったとき、誰もが一つの真実に気づくだろう。

「良い奴は評価されない、いつも嫌な奴ばかりが得をしている」ということに。真面目に生きることなど損でしかない上に報われないし評価されない。

ただ自分個人としては性格がいい人の方が好きだし、そんな人を評価したい。自分は性格は悪いかもしれないが、かといって性格悪いこと自体を評価するわけではない。やはり良い人が報われる社会であってほしいとは思う。

 

絵が上達するほどに人格が歪んでいくことは間違いない。

その一方で自分は性格の良さを評価されるため絵を描いているわけでもないのだ。サッカー選手も人格者だと思われるためにボールを蹴っているわけではないだろう、ゴールをするために日々練習をしている。

そしてそれで多くの人が楽しめば、それは人を幸せにしているともいえる。

お笑い芸人も性格が良い人の方が少ないが、それで人を笑わせて誰かを幸せにしてる。

自分も良い絵を描いてそれで楽しんでもらいたいと思っているし、面白い作品を作ることが最大の目的でもある。

イブラヒモビッチにしても富野由悠季にしても、指原莉乃にしても性格が良ければそもそも有名になっておらず何も残せていなかっただろう。むしろ自分が好きになるのはそういった人格的におかしい人間やひねくれ者ばかりだ。

人間性が腐敗しているほどに面白いことができる。

 

確かにジレンマはある、絵を描くほどに性格が悪くなっていく自分が嫌になる。その一方でそれは創作に必要な事だと考えることもできる。

悪化していく性格から発生する不満や嫉妬、それをいい形で作品や活動、競技に反映できる人は何かを成し遂げたとき英雄になる。

逆に何もできなければただの嫌な人間で終わる。

実力さえあればすべてが変わる、何も価値がないと扱われていた人への手のひら返しが始まる。

これまで軽んじられ続けてきた人間に必要なのは圧倒的な実力だけだ。

note.mu

note.mu

酒を飲んで楽しくなってもそれは続かない

禁酒生活を始めてからしばらくたったが正直に言って順調ではない。

朝起きて真っ先に酒が欲しくなったり昼間から飲んだりする機会は減ったが、それでもやはり飲むのは辞められない。

飲まない日や飲む時間を遅い時間帯にできた日などが少しあるくらいで、相変わらず変わっていない。

地道な進歩なのか、停滞なのか判別もつかない曖昧な日が続いている。

現状を表すならば禁酒や節酒を意識し始めたという段階に過ぎないのが自分の生活の実態だ。

 

禁酒を始めて最初の2日間は達成することができたが、翌日すぐにお酒を買いに行き反動のように飲んでしまった。

更にその時に買いためた酒類がもうすぐ切れかかっているためどうしようかと迷ているのが今日である。

スーパーのお酒コーナーに久しぶりに行ったのだが、それだけでテンションが上がりワクワクしていた自分がいた。お酒コーナーはなぜあれほどワクワクするのだろうか。

 

子供のころはスーパーや量販店に入れば真っ先にお菓子コーナーやおもちゃ売り場に行っていたが、大人になるとお酒コーナーに来た時が一番テンションが上がる。夢のような空間が広がり、いつかそれらを買い占めることを想像する。

まるでこの場所にあるおもちゃとお菓子を全部手に入れたいと願う子供のように、お酒の国に行きたくなる。

elkind.hatenablog.com

禁酒2日目に考えたのは「妥協案」だった。

つまり今までの昼間から大量に飲む生活を辞め、寝る前に酎ハイを2缶、もしくはロング缶ならば一本にするならば経済的負担も1日200円程度に軽くできると考えた。

それを守るという約束で買いに行ったのだが、案の定「あれば飲む」という状態に陥り予想以上に早く買いためたものを切らしてしまった。

早速買い足しに行こうとしている自分がいるのだが今は自制している。

 

やはりお酒を飲んで楽しくなっても仕方がない上に、それは続かない。

「今お酒を飲めば楽しくなれる」というポジティブなことを考えがちだが、実際にはそう長く続かず結局後から辛くなるだけでしかない。

とにかくこういったアルコール依存対策として重要なことはテンションが上がってこない塞ぎ込んでいる状態に打ち勝つ事でもある。

安易に気分を盛り上げるために何も考えずに酒に頼ろうとしてはまた同じことの繰り返しだ。そして現にここ数日禁酒を決意したにもかかわらず同じ過ちをしてしまった。

 

また楽しくない状態の時にどう気分を変えるかという工夫もしていかなければならない。

今の所もっとも効果があると感じたのが「読書」である。

何もすることが無くただ気分が上がってこない時には、読書をすると時間を上手くやり過ごせることに気付いた。テンションが盛り上がらない状態があることや人生が楽しくないことをまずは受け入れないといけない。

「今楽しくないのは仕方がないこと」だと自分に言い聞かせてストイックに努力したり自分で楽しくする方法を工夫しようする必要がある。

 

お酒に依存してしまうのはメンタルが弱いからでもある。

自分で楽しくする術を考えて、そして精神的に辛い状況にもタフに挑もうとすることが大事なのかもしれない。

少しずつだが今の自分はお酒が入っていない状況を増やすことはできるようになってきた。昨日も最後まで飲まずに一日を終えられる寸前にまでいったため、昼間飲まないということはできるようになりつつある。現に今も飲んでおらず残りわずかにある酎ハイも冷蔵庫に入れてないしあまり飲みたいとも思っていない。

この記事を書いている間に少し冷静になり突発的な飲酒欲求も収まってきた。

こういった禁酒日記を少しずつつけることも助けになるかもしれない。

禁煙やダイエット人気などはネットによくあるが、お酒も同様に自分の中で記録をつけて少しずつでも進歩してっている実感を得ることが助けになる。

 

これまで酒が埋めていた心の溝を別の何かで代替していかなければならない時期に来たのだろう。やはり健康の面でも飲まないに越したことは無い。また現実的に貯金も少なくなってきていることは事実だ。

 

繰り返しになるが、そんな絶望の状況において読書をする習慣を取り入れることは今の自分の心の支えになっている。

自分がまだお酒を知らなかった頃に読んでいた思い出の小説を懐かしみながら読んでいるのだが、それがとても面白いため、つまらない毎日に一つささやかな楽しみが加わった。少しでも何か心の支えになる物があるというのはお酒しか楽しみがなかった生活を変えてくれる。

今までならお酒を飲んで盛り上がろうとしていた状況で、黙々と静かに小説を読むことを選ぶようにはなってきている。

 

お酒を飲んでテンションを上げることは長く続かない、結局飲みすぎて頭が痛くなるだけだ。

静かに小説を読んだり絵を描いたりする事は地味だが、長く続くため「省エネスタイル」ともいえる。

お酒を飲むのはいわばハイオクの燃料を入れて大排気量のスポーツカーを高速で走らせるようなものだ。

一方お酒を飲まず地味なテンションでいるのは軽自動車をレギュラーで長時間、制限速度内でゆっくり走らせるようなものである。

 

今まで自分はアルコールというガソリンを燃やし大排気量の車で最高速で走ることに慣れ切っていたため、お酒が無い状態の刺激の無さやテンションの低さに耐えられなかった。

スポーツカーで走り回ることは楽しいかもしれないが、これからはそんな生活から引退して軽自動車でゆっくりと走るしかない。

これは例えに限らず、実際に高級車を維持できなくなったらそれを売って、安い中古車に乗り換えてまたいい車を買えるように頑張るという話は良く聞く。

つまり今の自分はお酒を一時的にやめて、しっかりと元の生活に軌道修正して今度は更にいい酒を飲めるように頑張る必要がある。

 

安酒を肴も無しで飲んでいたら体調も悪くなる上に楽しくもない。

それよりはいつか高級料亭で最高級のお酒を味わうことを夢見て、今ストイックに努力をした方がいい。

 

こんな底辺生活をいつまでも続けていてもジリ貧になるだけだ。

そんな人生のために生きているわけじゃないし夢もまだ捨てたわけじゃない。

「これでいいのか」と問い詰めることがこれからの人生の分岐点になるだろう。

酒を飲んで今この場しのぎの楽しみを得ても仕方ない。

今飲むことは何も幸せを生み出さない、よし、また禁酒生活を再開しよう。

負け組の底辺を脱却して人生を逆転する、そのためにも今はお酒とは縁を切らなければならないのだ。

少しずつだが進歩していきたい。

少子高齢化対策には本当に移民しかないのか?

日本の人口ピラミッド構造はかつて歴史上のどの国も経験したことが無い領域に足を踏み入れようとしている。

このままいけば未曽有かつ絶望的な超少子高齢化社会が訪れる事は間違いない。

 

その果てに今の若年層は高齢者層の世話をするためだけに働く人生が訪れ、年金が貰えず疲弊した頃に切り捨てられる。そしてその時日本はもはや先進国ではなくなり、外貨も稼げず国際社会の競争から完全に脱落しているだろう。

資源の無い日本で労働力も補えず、国際競争力も落ち数少ない体力のある残された人々は高齢者や既得権益層に搾取され手元には何も残らない。

要するに今の若者はこのままいけば数十年後、貧しい国で貧しい生活をして高齢者の世話をするためにだけに働かされて何も実現できない人生が待っている。

もはや本人の努力ではどうにもならない程に根本的な欠陥が日本社会には存在する。

 

この少子高齢化の社会構造を解決する方策としていくつかの方法が議論されているが、自分は4種類の解決策を提示したい。

1:移民を入れる

2:安楽死制度を導入する

3:富の再分配を行う

4:自分が移民する

 

真っ先に解決策としてあげられるのが第一の解決策である「移民の受け入れ」だ。

人口が増えていく構造が終了している以上、人為的に新しい国民を受け入れなければならないという議論は多く見かける。

個人的に移民は条件付きなら賛成だ。

つまり無作為に受け入れるのであれば治安が悪化し、西欧諸国のような現実に直面するだろう。日本という国は欧米の後追いをする国であり、特に西欧諸国、北米諸国が実行したことを取り入れる傾向がある。

 

しかし現実に西欧諸国を見れば移民政策や多文化主義が様々な社会的な歪をもたらしていることは明らかだ。

更に日本という国は島国であり他民族と日本列島において共存するという歴史をほとんど経験していない。わずかながら他民族を受け入れてきた時期があるが、西欧諸国が受け入れてきた移住者と比べてそれほど多くないにもかかわらず様々な問題が発生している。

 

また移民というのは一度受け入れた場合、よほど強権的なことをしなければ後戻りできないという一方通行のシステムであり現実に西欧諸国はその後遺症に苦しんでいる部分もある。

日本の移民受け入れに関してはもう少し慎重に考えるべきであり、単純に労働力を増やすという考え方はできない。

一定以上の教養や財産を持った移民なら受け入れるという条件を課すならば賛成だが、おそらくこれからの日本の状況を考えたときそういった上位層の優秀な移民はわざわざ日本を選ばないだろう。

 

つまり移民を受け入れるならば治安が悪化しこれまでの文化が大きく変化することを覚悟で、教養的であると認定することが難しい層の人々を受け入れるしか方策がない。

 

良い移民には来てほしいが母国において高水準の教育を受け一定以上の財産を持つ上位層の移住希望者はわざわざ多種多様な移住先が存在する国際社会において日本を選ばない。そのためその基準に満たない移住者を受け入れるしかないというのが日本の移民政策に突きつけられている現実だと言える。

 

"理想的な移住者"に恵まれないため財産を持たず高等教育を受けておらず、日本語も話せないという層を受け入れるしかない。

民族的にも文化的にも近いアジア出身者ならば適応しやすいが、これから発展の可能性が大いにあるアジアの国からわざわざ少子高齢化を迎える日本を選ぶ人はそれほど多くないだろう。

母国で食事にも困窮しているような難民層を受け入れるぐらいにしかこれからの日本には魅力が無く、もはやそれならば少子高齢化と共に衰退していくことの方が最低限の治安は保証されるだろう。

note.mu

次にこの少子高齢化の解決策として2番目の「安楽死制度の導入」という物が上げられる。

理想としては一定の年齢に達した場合健康に問題が無くても安楽死を選択できるという社会にしたほうがよいが、こういった過激な変化は非現実的であり難しいだろう。

ベルギーのような日本人が進んでいると考える西欧諸国でも安楽死制度を採用してるが現実的には抵抗がある。

苦しむ本人もその介護や医療費の負担に喘ぐ周りの人間も不幸なのだが、こういった合理的な選択をすることができないのが日本という国でもある。日本人は情緒的な民族だと言われるが、このような判断を理性的に行うと大きな反発が起きてしまうため不可能である。現在の感情を度外視し長期的な視点で見る事は日本人が最も苦手とする事だ。

 

3番目の「富の再分配」は最も現実的に不可能な事だろう。

今の日本社会は高齢者層が多くシルバーデモクラシー状態になっているため民主主義的な解決方法を想定するならば実現は難しい。富の再分配どころか若者から搾取し良い部分だけを味わう世代の犠牲にならなければならないのが今の若者である。

この傾向はむしろ加速し今後"敬老ファシズム"の時代になる。老人が全てを支配し高齢者至上主義時代が訪れる。

彼らは民主主義を数の暴利で支配しておりもはや新しい世代は立ち向かうことができない。

そのため若者から政治への情熱や関心が失われているのは必然と言えるだろう。

選挙に行かない若者と批判されるが、一票の有効投票数が数倍に拡大されない限り改善は実現できない。そしてそのような優遇策は民主主義という概念を根底から否定する物でありやはり実現できない。

 

数少ない政治に関心のある者も日本の政治議論というコンテクストにおいてはネット上で右派と左派がレベルの低いレッテル張りや人格批判を行うことに終始しており、現実的な解決策は発案されず当然ながら実現もされない。

若者が集まって「年金廃止しろ、富を再分配しろ、既得権益を手放せ」というデモをしても難しい。

この少子高齢化社会から逃げ切れる高齢者層は自分の事ばかりで若年層を支援する気が無い上に、民主主義において最も有利な「数」を支配している。

そして今の若者は政治的な解決方法を諦めている。

 

以上の理由から2番目の「安楽死制度の導入」と3番目の「高齢者層による若年層への富の再分配」の実現性は低い。

人権という言葉を乱用する勢力と既得権益層に反発されるため、民主主義制度の中でこういったラディカルな政策は実現できない。これらの解決策は独裁政権でも現れない限り不可能であり、現実的に議論する価値はそれほど存在しない。

 

このような状況では社会の大きな変革を悠長に待つよりも自分を変える方が早い。

それぞれの人間が自分の人生と生活がある。

この変化を恐れる国においていつまでも改革を待っていてはいたずらに時間が過ぎていく結果にしかならない。

この状況で必要なことは「日本が移民を受け入れるべきか」「日本の少子高齢化をどう解決するべきか」という実質的に解決不可能な問題を議論することではない。

 

発想の転換が必要であり日本の少子高齢化をどうすればよいと考えても無駄でしかない。実行できない机上の空論ばかりを唱えても何も生活も人生も変わらないだろう。

残酷な現実だがもはやこの国は変わらない構造になってる。

さまざまな抵抗勢力や既得権益層が変化を妨害し、未来よりも目先の利益に執着している。

 

今必要なことは移民を受け入れるのではなく、自分が移民するという考えだ。

それが第四の解決策「自分が海外に移民する」という事である。

これまで日本人は我が国に移民をどう受け入れるべきなのかという事ばかり議論してきたが、自分たちが移民になる可能性については考えてこなかった。

 

しかし日本人は中世の時代は東南アジア、近代の時代南米や満州に移住していた時期がある。実は鎖国気質のようにみえて海外に移住していた時期は存在するのだ。

そして日本の歴史において今最も海外移住が必要な時期に来ている。

日本人という民族は日本列島に住み、日本国籍を保有していることが条件ではない。その社会の構造やシステムに身を置くことが、自分がどのような人間であるかを完全に定義するとは限らない。例え海外に移住しても日本人としての心が失われ消えゆくことは無い。

自分は日本や日本人が嫌いなわけではなく、むしろ日本人が生き残るにはどうすればよいかという生存戦略を考えてる。

 

もはや日本の若者層は無条件で外国語を勉強しなければならない時期に来ている。

生活の為、生きるために必死に海外への移住を模索しそのために語学とスキルの習得を求めるしかない。

インド人が英語勉強しないと社会の上位層になれないどころかまともな書籍も読めず知識すら得ることができないのと同じように、日本人も外国語が必要な時期が目前に迫っている。人間というのは必要性を感じたとき、どれだけ遅くとも外国語を習得できる能力がある。

日本人が日本語だけで暮らせた時代は幸福な時代だった。

 

高齢者層が自分たちが最も尊いと考え、自身の利益だけを追求するならば若年層も同じ考えで対応しなければならないだろう。

着々と訪れようとしている敬老ファシズムにNOと突きつけなければならない。

海外という新天地、そしてその地で生き抜くための語学やスキル、今の日本の若者が必要としているのはこの2つだ。

絶望的な少子高齢化社会という沈みゆく船と心中するのか、いち早く抜け出すのか、そのことを真剣に考えなければならない日は刻一刻と迫っている。

elkind.hatenablog.com

elkind.hatenablog.com

本当に幽霊はいないと断言することはできるのだろうか

夏と言えば心霊や怪談の季節という風物詩なぐらいに、この季節になると幽霊の話が増える。それに伴い幽霊は本当にいるのだろうか、信じている人はピュア、信じない人は面白くない人という議論も巻き起こる。

 

結論から言えば自分は典型的な幽霊否定論者である。

ホラー映画や心霊番組もほとんど見ないのだが、それはすべてが嘘だとわかっているので感情移入して見る事ができないのが理由だ。

 

まず幽霊が薄暗い場所や夜間に多く出没されているというのがおかしく、また夏に増えるというのも冷静に考えてみると意味不明である。幽霊は夏に増える夜行性の昆虫と似た特性があるというのも不思議だ。

 

更にホラー映画怖い話にありがちなこととして、幽霊は人間を襲い危害を加えようとする。しかし現実には幽霊によって死亡させられたケースは存在せず、現実にそのような事が起きていたら大問題になるだろう。

つまり幽霊がいると考えなければ証明できないような事象は存在しないのだ。宇宙人が原因だと考えても不思議ではない現象は存在しなくはないが、幽霊が原因だと仮定しなければ説明がつかないようなことは存在しない。

 

また決定打として自分がこれまで幽霊に遭遇したこともなく、心霊現象すら経験がないためどうしても信じることができないのである。

 

そうドヤ顔で幽霊や心霊現象を否定しているのだが、おそらく世の大半の大人が思っていることでありわざわざそんな当たり前のことを言ってイキりたいがためにこの議論を行っているわけではない。

「幽霊なんていない」と断言して大人ぶりたい中二病の時期はもう過ぎているのだ。

 

今回自分が考察したいことは幽霊だけを否定することの矛盾や整合性の無さについてである。実はこの考察をしている時にふと思ったことがある。

幽霊を否定するのであれば死者の魂や神までをも否定しなければ筋が通らないという事だ。自分は死者の魂や神々に対してはある程度敬意を払っているのだが幽霊だけを否定することに、線引きの曖昧さを自分で感じたのである。

 

幽霊否定論者ならばこういったオカルトごと全般を否定しなければ中途半端だろう。一度命がなくなったならば生物学的な活動は終わり、死後の世界は存在しないという科学的な見地に自分は立っているのだが、例えば死者の魂を祭る施設については一定の経緯を払っている。

戦没者を追悼する施設や、墓地のようなものにはどこか死者の魂が眠っているような気がするのだ。

また山や大木に精霊や神々が宿っているように感じるのも縄文の時代から続く日本人の感性だろう。

神や宗教と心霊は違うように見えて根柢の部分では通じている部分がある。

 

また幽霊などいないと断言している割には、行くのが怖いような場所もある。自分はお化け屋敷に怖がる年頃でもなく、深夜に一人で出歩くことは特に問題ないのだが本当の心霊スポットや夜中のトンネルなどは少し行くのが怖いと感じることはある。

 

現実には治安の悪い場所を出歩くことの方がよほど危険なのだが、悲劇的なことがあった夜中の廃墟で電気をつけずに朝まで過ごさなければならないと言われれば少し怖い。

そもそも人間が暗い場所に不安を感じるのは、夜行性動物ではない人類が危険を回避するための生物学的メカニズムによるものでしかないのだがやはり怖いものは怖い。

またメカニズム時代は解明されているが、こっくりさんも怖いので挑戦する勇気はない。ちなみに金縛りという現象は良く経験するのだが、これに関しては科学的に説明がつく現象なので特に恐怖を感じることは無い。

 

なぜ自分が完全な幽霊否定論者になれないかと言えば、実は自分は昔は神霊やオカルトファンだったからでもある。

小学生の時は誰しもが一度は心霊コンテンツに熱中するのではないだろうか。

自分の場合は小学校の図書室にあったオカルト本を熱心に読んでいた時期があった。田舎の小学校なので少し古い雰囲気が校舎全体にあり、書籍の更新なども積極的には行われていなかったため自分の世代より少し前の古い本が多く残っていた。

その中で少し古めの心霊本は人気が高く、自分もよく借りていた。

また本当にあった怖い話のような心霊番組も楽しみに見ていた。アニメ版の学校の怪談や四谷怪談の実写化番組なども楽しみにしており、本当に怖くなって夜中には眠れなかったことも今では懐かしい。

 

その時を懐古していて思うのが幽霊を全否定している今よりも、心霊を信じて怖がっていた頃の方が楽しかったという事だ。

自分の家庭は父親がこういったことに興味を示さず、母親が心霊番組をよく見るタイプだったのだが子供のころはそういった父親がつまらない人間のように思っていた。

しかし現実的には自分がそういったつまらない人間になってしまった。

自分に限らず幽霊を否定している人間は現実ではそれほど面白くない人が多い。理屈っぽく心霊現象を否定する人間よりも、幽霊はいるかもしれないとなんとなく思っている人のほうが面白い人は多いだろう。

 

そもそも今は世の中全体としてこういったやらせや嘘、作り話に寛容ではなくなってきている。またCGの技術が発達したことやテレビの画質が向上したこと、そしてインターネットですぐに真実が暴かれることもこういった心霊番組の減少に拍車をかけている。

今はネットの力が大きくなりすぎてしまい、あらゆることにつっこみや指摘が入るようになっている。ネットで真実を追求することも行き過ぎれば世の中を面白くなくしてしまうのだ。現にネット上のオカルトサイトや掲示板も衰退しており、またユーモアのある人が減り真剣に指摘をする人が増えたこともその背景にあるだろう。

全てが作り話認定されるよりも、怪しげなオカルトサイトがあった時代の方が面白かったように思う。

 

今の世の中が息苦しい事の原因は中途半端に賢いインターネット脳の人が増えてしまったことや、誰もがネットの触れられる環境を手にしたことにあるだろう。

実は大部分の人間がメディアや企業に騙されている時代の方が幸せで活況としていたし、アングラ文化やオタク文化もその対極として面白かったのである。どんな番組もやらせ認定し、どんな流行も捏造認定する時代が本当に面白くて活気があることなのかは疑問だ。

ネットが小規模だった時代にはその過程も面白かった部分はあるが、真実を全て暴けば世の中が面白くなると思って訪れたのは冗談の通じない監視社会でしかなかった。

elkind.hatenablog.com

 

少し話が飛んだが、自分は幽霊は信じていないが宇宙人未来人、UMA、陰謀論は信じている。日本人に多いのだが典型的なダブルスタンダードのタイプであり年末はキリスト教のイベントに始まり、仏教式の除夜の鐘を聞き、新年は神道式の生活を送るというスタイルの人間である。

幽霊はいないと言ってるのに少し怖い場所があったり、神や死者の魂は信じていたりする。

 

それと同じようにオカルトの批判的であるかに見せかけて、宇宙人や陰謀論には好意的に見ているのである。

本気で信じているというよりは「いてほしい」という願望にも似たものかもしれない。ただ涼宮ハルヒの憂鬱でいうならば宇宙人と未来人はいるが、超能力者は存在しないという自分の中だけの謎の基準もある。

また森の精霊や大木に宿る神様のようなものも、もののけ姫の世界観が好きだからであり信じたいから信じているという完全に主観に過ぎない。

 

その一方でキリスト教については否定的であり、クリスチャンの知り合いが進化論を本当に否定したときは驚愕させられた。しかし海外サッカー選手が十字を切って、天に感謝している姿はかっこいいと思っているためこれもダブスタである。

その上、神道や仏教文化は肯定しており何だかんだで聖書も読むと面白いと思っている。

 

妖怪は信じていないが、昔の妖怪は今でいうUMAのような概念に近く解明されていない生物や現象自体はどの時代にも存在する。そういう意味で自分はUMAを信じている、というよりも今では有名な生き物も元々はUMAだったのだ。

ツチノコもいないとは説明できずUMAの一種だろう。

ただイヤホンを絡ませる妖怪とリモコンを隠す妖怪は間違いなく存在するはずだ。

 

結局のところ自分は他者の信仰を本気で否定するつもりもなく、自分の信仰を押し付ける気もない。それぞれが自分の信じたい神や観念を信じればよいと思っているタイプであり、そのクリスチャンの知り合いの人の前で創造論を否定することもしない。

 

宇宙人や陰謀論も面白そうだから信じているだけであり、それを本気で否定しにかかってくる人がいたら嫌悪感を覚えるだろう。

フリーメイソンやイルナミティのような陰謀組織がいたらなんとなくワクワクする、そうあって欲しいから話半分で軽く信じているだけに過ぎない。

幽霊や心霊番組も、信じている人にわざわざそれは嘘だと言ったり論破したりするつもりはないしそういった話やコンテンツで楽しんでいる人がいるならばそれでいいと思っている。

彼らを幽霊否定論者に"改宗"させても、特に意味はないし楽しんでいる人の邪魔をしても仕方がないのだ。

 

前述の「全てをやらせ認定すれば世の中が面白くなる」という理論と同じで、こういったオカルト要素を全否定するとワクワクがなくなってしまうのである。全てを否定し真実を追求しても、現実はそれほど面白くなく浪漫もないという事に気付かされるだけでしかない。

 

結局無いことを証明することは難しく悪魔の証明であり、証明できない以上楽しんだほうが得でもある。

神や心霊現象にしろ、宇宙人や陰謀論にしろ全否定しにかかっている人は余裕が無く、あまり楽しそうには見えない。

自分の信じたい物だけ軽く信じて楽しむスタイルが一番気楽で面白いのである。陰謀論を信じている人が中二病と見せかけて、実はそれを全否定しにかかる人のほうがこじらせた中二病なのだ。

ネットにも身の回りにもそんな人がいないだろうか。

少しは騙されているぐらいのほうが面白い、そんな余裕が今の社会にはあっても良いのかもしれない。

なぜ日本人はエアコンを贅沢品だと考えるのか

毎年この季節になるとエアコンがつけられなかったり我慢したりして熱中症になる人が現れる。特に経済的な余裕のない高齢者などが病院に運ばれるケースは多い。

 

こういった事情の背景には日本人がエアコンを贅沢品や甘えだと捉えていることが存在する。昭和の時代に「スポーツをしているときに水を飲むことは甘えであり健康にも良くない」と水分補給が禁止されていたことと似ており、未だにエアコンを制限する価値観は根強い。

 

実は自分の家庭もそういった価値観が根強く、典型的なエアコンアンチ的な風潮がある。現在もエアコンがなく夏は暑く冬は寒い環境で過ごさなければならない。

そしてこれは自分の家庭に限らず日本社会全体に「エアコンはもったいない」という価値観が横行しており、28度制限という世界的に見てありえないような考え方も存在する。

 

更に平成生まれですら学生の頃は教室にエアコンがなかったという経験を持つ人は多く、自分自身ゆとり世代だが小学校の頃は暑い教室でひたすら授業を受けいていた。

さすがに現代の小学校でエアコンが無いというケースはレアだが、高校などはまだエアコンが導入されていないのところもあるのではないだろうか。

 

日本という国は見かけ上は先進国だがこういった古い慣習を廃止できていないことが多く、なおかつ多くの人がそれによって落ちている生産性を気にしていないことが多々ある。

「自分が我慢できるから他人も同じように我慢できるはずだ」

「自分は苦しんできたから下の人間も同じように苦しむべきだ」

こういった価値観が根強く、時として効率性や生産性を度外視してでも慣習を押し通すことがある。

例えばサービス残業を廃止できない事や仕事を早く終わらせれば帰宅できるという考え方が根付いていない事もその典型例だと言える。

年金という制度が現状のシステムのまま存続していること、新卒至上主義、未だに現金支払いが多い事、鬱病は甘えだという考え方、そして今回のようにエアコンを我慢することを美徳と考える価値観など上げればきりがない。

 

我慢を美徳だと捉えたり根性論がいまだに根強かったりする点も根本的な問題であり「皆で苦しんで我慢する」ということを強制する文化が根強い。

 

世界の暑い国は外は暑いが、屋内ではエアコンをしっかり効かせている。

しかし日本は暑い国であるにもかかわらずエアコンを贅沢だと考える風潮がある。

表面的な電気代だけを見て「もったいない」と考える人も多く、それで落ちている生産性と比較することあまりない。

更に「冷暖房は健康によくない」という迷信もこういった風潮に拍車をかけている。この猛暑の中で苦しむことの方がよほど健康によくないのだが、冷房や暖房を健康ではないと考える価値観もある。

それを自分の中だけの健康法として取り入れるなら良いが、他者に押しつける人も多く自分の家庭がまさにその典型である。

 

こういった謎の健康法は昭和の時代の水分補給禁止と同じく非科学的な事なのだが、わりと日本という国は非科学的な迷信が未だに国民の価値観から廃止できていないことが多い。地球温暖化を促進するからよくないという考え方も多いが、そもそも地球温暖化自体が迷信でもある。

どの国にもその国特有のしがらみや古い考え方があるのだが、日本は先進国にもかかわらずこういったことが非常に多い。マイナスイオンやコラーゲンが肌に良い、水素水が体に良いといった似非科学も未だに多く信奉されている。

こういったことを全て迷信だと暴いていくことはナンセンスなこともあるのだが、中には本当に変えていかなければならない価値観もあることは事実だろう。

 

また昨今の節電ブームもエアコンの"自粛"を呼び寄せており、むしろ数年前に比べて悪化すらしている。

「夏にエアコンをつけるのは当たり前であり、それは贅沢なことではない。むしろエアコンを我慢して効率性が落ちることの方がもったいない」という考え方をもっと普及させていかない限り、この風潮は変わらないだろう。

エアコンをつけるだけで甘えて贅沢をしているという目で見られるのは本当に変えていかなければならない事であり、日本という国は暑い国なのだから冷房を効かせることは真っ当な権利であるという考え方にシフトしていかなければならないのではないだろうか。

 

こういった価値観はいわゆる貧困家庭に多く、底辺の連鎖というのはしかるべくして受け継がれる。

「エアコンはもったいない」といった価値観で育った人は自分の家庭でもそれを継承することが多く、なおかつ他者にも押し付ける傾向にある。

特に自分の家庭は壊れたものをなかなか買い換えようとしなかったり、使えなくなるまで新しい物を購入しないことが多かった。例えば電子レンジが壊れたときは買うことがなかったし、テレビも地デジ化の直前まで一向に買い替えなかった。

 

こういった家電は新しい物の方が電気代も安く早く買い換えたほうが良いのだが、効率が悪いことに気付かない貧困家庭ではこういった買い替えが順調に進まない。

日本人の「もったいない精神」は美しい価値観ではあるが、それが時として本当のもったいなさに気付いていない事が多い。知的水準の高くない家庭はそこに気付いていないことが多く、生産性の低い物をいつまでも使い続ける傾向がある。

 

家にいる自由時間で集中して頭を使う習慣がない家庭は特にこうった気温や大気に対して疎い。頭を使うには快適な気温が必要なのだが、そういった習慣がない人はその重要性に気付かないこと多い。

家にいる時間に両親が何も現状を改善する工夫を行わず、それでなかなか収入も増えていかないという貧困の連鎖が続く。両親の悪い慣習は子供にも受け継がれやすく、貧困家庭出身者が同じように貧困に陥りやすいことには相関がある。

 

つまり「エアコンがもったいない」という家庭で育った人は両親と同じように貧しい人間になりやすい。エアコンに限らず効率が悪いことに気付かない家庭で育つと知的水準が向上しにくい。

こういったことを防ぐためにもやはりエアコンはもったいない贅沢品だという価値観は変えていかなければならないだろう。そんな時代遅れな考えを持っている人は少ないように思えるが、実は未だに価値観を抱いている人は多い。

「冷房は28度まで」という謎の制限が多くの職場などで廃止できていない事はその証左でもある。

 

エアコンをつけることははもったいない事でもなく、甘えでもなければ贅沢品でもない。分煙や受動喫煙対策が昭和の長きに渡り推進されていなかったことや、少し前まで運動中の水分補給禁止が横行していたように日本という国は我慢古い慣習が好きであり外圧がなければ中々変わっていかないことが多い。

エアコンに対する制限や残業制度に関してはまだその変化の途上にあるのだろう。

こういったことを声を大にしてはっきりと主張していかなければ中々日本の慣習は変えていくことができない。

長い物に巻かれるだけの傍観者にならず、しっかりと個人が主張していくことが大切なのではないだろうか。

人生は他人と比較してもそれほど意味がない

最近の自分のは他人と比較することの無意味さや虚しさに気付き始めている。

単刀直入に言えば優秀な他人と比較したところでそう簡単には追いつけず劣等感に苛まれるか、自分より下を見つけて情けない自己満足に浸り安心感を得るしかないからである。

 

上を見ればきりがない、下を見ても意味がない、それが世の中だ。

正直に言えばもう自分はこの際限なき比較や競争の時代に疲れている。誰かを自分と比べる事に疲弊しきってしまい、大切なものを見失ってきた。

 

とくに現代のインターネットの時代は誰かとの比較に晒されやすい時代になり、人間としての価値が数値に現れやすくなった。スマートフォンとネットの普及によりもはやバーチャルな世界は日常生活の一部となった。

それに伴いSNSや自分のアカウントのフォロワー数や、何かの閲覧数や再生数、いいね!の数などが明確に数値に現れそれが人間としての価値に直結するようになった。

以前に比べ現代人はより明確な数値によって自分の価値が決まり、マウントを取り合う時代になった。

正直なところフォロワーや登録者数、いいね!の数など上辺だけの社交辞令によるものが多く、実際にその中で見ている人や心の底から賞賛している人など半数にも満たないのだがそういった表面上の数字に踊らされる人が今は増えているのだ。

 

「自分に興味を持ってください!」と言ったところで、そんなことを言っている人間は他者から見れば鬱陶しいだけの存在なのだ。

ネットを見ていれば本人は頑張っているのかもしれないが他人から見れば面倒なだけの人間がいる。現実には一人の面白い人間なのかもしれないが、ネットではそういった者が煩わしく感じる。

 

そして皮肉なことに自分もまたその一人なのである。

絵を描いてイラストサイトに投稿すればどうしてもえ閲覧数や評価などが気になり、思うような賞賛が得られなかった場合精神的に苛まれ、世界から無視されたような気になる。

イラストサイト、動画投稿サイト、ブログ、SNS、今や誰もが情報発信者になる時代において「人からの反応」は重要な物であり、更に同じジャンルの場所で活動をしている「人気者」に対して嫉妬をせずにはいられない時代になった。

 

例えば自分は今ではツイッターをやっていないが、やっていた時期はフォロワー数が多い人に嫉妬していたし「リツイートのようなわかりやすい反応されないと見られてる実感がない」と他人の反応を求めていた。

しかし実際のところネットというのは多くの人が他人に対して無関心であり無反応なのである。

 

そして自分も誰かに興味を持ってもらいたがっているが、実際には他人にそこまで興味が無いのである。

「自分は他人に興味を持ってあげようとしないのに、自分は受け身で他人に興味を持たれたがっている」

そんな人間が大勢いるのがネットの空間であり、自分もまたその一人なのだ。

 

更に言えば反応をくれる人も実際は自分に対するお返しや見返りを求めていたり、社交辞令だから仕方なくやっているだけで人間関係がこじれればその日からどこかに去っていきお互い無視し合うのである。

そんな儚い上辺だけの関係に依存しても、結局は赤の他人でしかない。ただでさえ他人との関係は表面的なものに過ぎない中で、ネット上の関係など明日でも消えてしまう風前の灯のようなものでしかない。

その中で誰かとの比較をしても意味がないのだ。今のネットはすぐに全国レベルや世界レベルの上位者が目につく、そんな人と競争しても勝てないのは当たり前だ。

そして下層を見てもきりがなく、そこで安心しても現実の自分には何も成長が無い。

 

この際限なき他者との比較や誰かの反応や評価に依存する時代において、今誰もが「自分の立ち位置や評価」を気にしなければならない時代になっている。

インターネットを誰もが利用する時代になったことで、自分より優れた人も自分より劣った人も目につきやすくなった。

そうなれば誰もが他人を意識する。

 

その時代に本当に考えなければならないのは他者と競争してもそれほど意味がないという事である。

比較や競争というものが完全に意味がない物だというわけではない。

例えば誰かに憧れ、そこに近づこうとすることやライバルと競い向上していくことは悪い事ではない。

しかし世の中には自分が不幸になるだけの比較という物も存在する。

世の中には自分の気に入らない人間をネットでひたすら監視しているような人もいるが、そういった嫉妬や怨嗟に満ちた生活など幸せではないだろう。

 

結局のところ他人と自分は全てにおいて違うのである。

スタートラインも違えば、生まれ育った環境、生まれ持った才能、これまでの人生における運や生きてきた時代、人種や国籍、そのすべてが違う。

元々人間というのは不平等でありフェアではない。

当然ながらどうやっても勝てない人間もいれば、何もしていないのに勝てるような人間もいる。

そんな他者との比較に一喜一憂して右往左往していればただ疲れるだけなのだ。

 

それよりももっとも相応しい競争相手がいる。

それは「昨日の自分」だ。

自分の人生の信条として「今できることをやるしかない」という考え方がある。

どうジャンプしても追い付かない人と比較しても勝てないものは勝てない、そこに嫉妬して苛まれても仕方がない。そして人生が虚しくなり努力を辞めてしまえば何も進歩がない。

 

そうなってしまうよりも昨日の自分という丁度良い比較対象と競い合い、自分の中での成長だけを目指すことが大事なのかもしれない。

敵わない相手にいきなり追い付くことは無理でも、昨日の自分に比べて一歩だけでも進むことは決して難しい事ではない。そしてその積み重ねの先に大きな進歩を果たせることだってある。

人間というのは今できる範囲内の努力をするしかない。

無駄な他人との競争や比較に苛まれるよりも「昨日の自分に比べて成長した部分はあるか」と問いかけることの方が有意義だ。

他人は他人でしかない、そして自分は現実で今できることを努力するしかない。

 

サッカー日本代表の本田圭佑は「成功にとらわれるな、成長にとらわれろ」と言った。その意味は努力してもそう簡単に成功して結果が出るわけではないが、自分の中では進歩している部分があるならばそれはそれで素晴らしいことだという意味である。

 

世間的にも客観的にも上手く行かなかったかもしれないが、自分の中で間違いなく昨日の自分より進歩したならばそれは無駄ではない。

一朝一夕に明確な結果が出て誰かから認められるという順調なストーリーはそれほど多くは無い。

そういう時に言い聞かせなければならないのは、昨日の自分より成長できたならその成長は無駄ではないという事だ。

他人からの評価や誰かとの比較ばかり気にしていても、天才でなければなかなか思うようにはいかない。

 

凡人や凡才は、自分だけがわかる成長、そして誰も気にも留めない小さな一歩を着実に積み重ねていくしかないのである。

その成長や進歩を誰も褒めてくれないし、認めれくれないし気付いてもくれないだろう。

しかしそこで諦めてはいけない、自分だけはその成長がわかっているはずだ。

誰もが他人に無関心で無反応な時代において、最後に頼れるのは自分だけなのである。自分の本当の理解者は究極のところ自分しかいない。

 

ネットの馴れ合いや社交辞令は何も生まない。

途方もない相手と比較しても、それは追い付けないのが当然なのであり、遥か下の人間に勝った気になったところで虚しいだけだ。

上も下も他人も無数にいる時代において本当に見失ってはいけないのは自分である。 

本質や本当の価値を追求し、自分の出来る領域で着実に進歩を目指す、現実にできることはそういった地道な努力だけだ。

今できることを今の環境や条件で行う、その現実の積み重ねだけが次なるステージへ自分を導いてくれるだろう。

オリキャラの立ち絵は何か工夫が必要

少し今までの自分の画風と変えて、これまであまり意識してこなかったオリキャラの立ち絵や全身像を描くことにした。

ポーズが付いた構図や全身の立ち絵というのは苦手意識があったためこれまで避けてきたのだが、もうピクシブの世界ではそうも言ってられない。

「下手なオリキャラ」ではいつまでたってもピクシブ底辺の現状を抜け出せないため、上手くなるしか手段はない。イラストは上手くなることから逃げてはいけないし、この競争と供給過多の時代には上手くなければ生き残れない。

 

今までの自分は下手でも「アイデアやデザインを見てほしい」というスタンスだったが、その部分が評価されるのは一定以上の技術があってからになる。

下手な絵をわざわざ見ようという人はよほどマニアックな人でしかないため、絵の技術を磨く以外に方法は無い。

 

そうし今まで描いてこなかった表現に取り組み立ち絵を完成させて、今の所自分では満足している。客観的な視点ではなくあくまで主観的な視点でしかないが、自分が今まで描いてきた絵にくらべれば少しはマシになった。

www.pixiv.net

しかし世間の評価は違った。

正直なところ閲覧数も反応もパッとしない。自分の中ではかなり上手くなったという感覚があったため、閲覧数や評価がもっと増えるのではないかと期待していたが閑古鳥が鳴いている。

正直なところ自分の中で上手くなったという自己満足であり、第三者から見れば何も変わっていないというのが現実だろう。

 

ただでさえ無名の人間が描いたオリキャラというのは需要が無い上に、単純な立ち絵でしかなく背景も構図も工夫が無い。更に上手さという観点においても本当にテクニックやセンスのある人に比べれば無価値に等しい。

「見たくなる要素」というものが皆無なのがこの絵に対するリアルな評価なのだろう。

 

その結果考えたのが何か「付加価値」を追加するというアイデアである。

失敗の原因を追究することが次回の解決策にもなる。反応がないと嘆くだけでは何も変わらない。

 

ただ現状の画力で立ち絵を描くだけでは特に変化がないと分かったのはむしろ進歩かもしれない。

現実に背景を書かずシンプルなオリキャラの立ち絵で評価されている人はピクシブに大勢いるため、全ては上手く描きさえすれば解決するだろう。

しかし一朝一夕に上手くなれば苦労はしない。

そこで自分が現状の出来る範囲内で加えることができる付加価値というのが「武器」である。

武器のイラストというのは自分がこれまで専念してきたいわば"本業"であり、本来キャラクター絵は自分にとって副業のようなものである。そこで勝負しようとしては勝算がない。

他のオリキャラを描いている人にない長所としてこういったオリジナル武器のようなもので差別化できないだろうかと考えている。

つまり次回以降は武器を持たせたような構図にチャレンジしてみたい。

 

このオリキャラは軍人という設定であるため、その世界観におけるライフルやハンドガンを持たせた構図も面白いかもしれない。ガンダムSEEDのOPで銃を持っているキャラクターがいるが、そういった構図でも良いだろう。オリジナルガンダムのキャラクターとしてむしろ銃を持っていたほうが魅力が伝わる。

 

ただでさえ誰も知らないオリキャラな上に画力も乏しいイラストがこれだけ評価が低いのは必然だと言える。

それを補う何かとして武器を持った派手な構図はヒントになりそうだ。技量を向上させることを諦めるわけではないが、その部分だけで勝負しても上手い人はいくらでもいる。

自分にしか書けない絵というのをどう究めていくかが重要になる。

これまで自分が積み重ねてきた複数の要素を組み合わせて一つのイラストに仕上げられないか、そういう工夫もしてみたい。

またこれは自分に限った問題ではなく、オリキャラのイラストを描いている人に共通する課題でもある。

見たくなる要素やキーワードを増やす、そういった工夫はオリジナルキャラクターの絵を描く上で必要になってくるだろう。