本当に幽霊はいないと断言することはできるのだろうか
夏と言えば心霊や怪談の季節という風物詩なぐらいに、この季節になると幽霊の話が増える。それに伴い幽霊は本当にいるのだろうか、信じている人はピュア、信じない人は面白くない人という議論も巻き起こる。
結論から言えば自分は典型的な幽霊否定論者である。
ホラー映画や心霊番組もほとんど見ないのだが、それはすべてが嘘だとわかっているので感情移入して見る事ができないのが理由だ。
まず幽霊が薄暗い場所や夜間に多く出没されているというのがおかしく、また夏に増えるというのも冷静に考えてみると意味不明である。幽霊は夏に増える夜行性の昆虫と似た特性があるというのも不思議だ。
更にホラー映画や怖い話にありがちなこととして、幽霊は人間を襲い危害を加えようとする。しかし現実には幽霊によって死亡させられたケースは存在せず、現実にそのような事が起きていたら大問題になるだろう。
つまり幽霊がいると考えなければ証明できないような事象は存在しないのだ。宇宙人が原因だと考えても不思議ではない現象は存在しなくはないが、幽霊が原因だと仮定しなければ説明がつかないようなことは存在しない。
また決定打として自分がこれまで幽霊に遭遇したこともなく、心霊現象すら経験がないためどうしても信じることができないのである。
そうドヤ顔で幽霊や心霊現象を否定しているのだが、おそらく世の大半の大人が思っていることでありわざわざそんな当たり前のことを言ってイキりたいがためにこの議論を行っているわけではない。
「幽霊なんていない」と断言して大人ぶりたい中二病の時期はもう過ぎているのだ。
今回自分が考察したいことは幽霊だけを否定することの矛盾や整合性の無さについてである。実はこの考察をしている時にふと思ったことがある。
幽霊を否定するのであれば死者の魂や神までをも否定しなければ筋が通らないという事だ。自分は死者の魂や神々に対してはある程度敬意を払っているのだが幽霊だけを否定することに、線引きの曖昧さを自分で感じたのである。
幽霊否定論者ならばこういったオカルトごと全般を否定しなければ中途半端だろう。一度命がなくなったならば生物学的な活動は終わり、死後の世界は存在しないという科学的な見地に自分は立っているのだが、例えば死者の魂を祭る施設については一定の経緯を払っている。
戦没者を追悼する施設や、墓地のようなものにはどこか死者の魂が眠っているような気がするのだ。
また山や大木に精霊や神々が宿っているように感じるのも縄文の時代から続く日本人の感性だろう。
神や宗教と心霊は違うように見えて根柢の部分では通じている部分がある。
また幽霊などいないと断言している割には、行くのが怖いような場所もある。自分はお化け屋敷に怖がる年頃でもなく、深夜に一人で出歩くことは特に問題ないのだが本当の心霊スポットや夜中のトンネルなどは少し行くのが怖いと感じることはある。
現実には治安の悪い場所を出歩くことの方がよほど危険なのだが、悲劇的なことがあった夜中の廃墟で電気をつけずに朝まで過ごさなければならないと言われれば少し怖い。
そもそも人間が暗い場所に不安を感じるのは、夜行性動物ではない人類が危険を回避するための生物学的メカニズムによるものでしかないのだがやはり怖いものは怖い。
またメカニズム時代は解明されているが、こっくりさんも怖いので挑戦する勇気はない。ちなみに金縛りという現象は良く経験するのだが、これに関しては科学的に説明がつく現象なので特に恐怖を感じることは無い。
なぜ自分が完全な幽霊否定論者になれないかと言えば、実は自分は昔は神霊やオカルトファンだったからでもある。
小学生の時は誰しもが一度は心霊コンテンツに熱中するのではないだろうか。
自分の場合は小学校の図書室にあったオカルト本を熱心に読んでいた時期があった。田舎の小学校なので少し古い雰囲気が校舎全体にあり、書籍の更新なども積極的には行われていなかったため自分の世代より少し前の古い本が多く残っていた。
その中で少し古めの心霊本は人気が高く、自分もよく借りていた。
また本当にあった怖い話のような心霊番組も楽しみに見ていた。アニメ版の学校の怪談や四谷怪談の実写化番組なども楽しみにしており、本当に怖くなって夜中には眠れなかったことも今では懐かしい。
その時を懐古していて思うのが幽霊を全否定している今よりも、心霊を信じて怖がっていた頃の方が楽しかったという事だ。
自分の家庭は父親がこういったことに興味を示さず、母親が心霊番組をよく見るタイプだったのだが子供のころはそういった父親がつまらない人間のように思っていた。
しかし現実的には自分がそういったつまらない人間になってしまった。
自分に限らず幽霊を否定している人間は現実ではそれほど面白くない人が多い。理屈っぽく心霊現象を否定する人間よりも、幽霊はいるかもしれないとなんとなく思っている人のほうが面白い人は多いだろう。
そもそも今は世の中全体としてこういったやらせや嘘、作り話に寛容ではなくなってきている。またCGの技術が発達したことやテレビの画質が向上したこと、そしてインターネットですぐに真実が暴かれることもこういった心霊番組の減少に拍車をかけている。
今はネットの力が大きくなりすぎてしまい、あらゆることにつっこみや指摘が入るようになっている。ネットで真実を追求することも行き過ぎれば世の中を面白くなくしてしまうのだ。現にネット上のオカルトサイトや掲示板も衰退しており、またユーモアのある人が減り真剣に指摘をする人が増えたこともその背景にあるだろう。
全てが作り話認定されるよりも、怪しげなオカルトサイトがあった時代の方が面白かったように思う。
今の世の中が息苦しい事の原因は中途半端に賢いインターネット脳の人が増えてしまったことや、誰もがネットの触れられる環境を手にしたことにあるだろう。
実は大部分の人間がメディアや企業に騙されている時代の方が幸せで活況としていたし、アングラ文化やオタク文化もその対極として面白かったのである。どんな番組もやらせ認定し、どんな流行も捏造認定する時代が本当に面白くて活気があることなのかは疑問だ。
ネットが小規模だった時代にはその過程も面白かった部分はあるが、真実を全て暴けば世の中が面白くなると思って訪れたのは冗談の通じない監視社会でしかなかった。
少し話が飛んだが、自分は幽霊は信じていないが宇宙人や未来人、UMA、陰謀論は信じている。日本人に多いのだが典型的なダブルスタンダードのタイプであり年末はキリスト教のイベントに始まり、仏教式の除夜の鐘を聞き、新年は神道式の生活を送るというスタイルの人間である。
幽霊はいないと言ってるのに少し怖い場所があったり、神や死者の魂は信じていたりする。
それと同じようにオカルトの批判的であるかに見せかけて、宇宙人や陰謀論には好意的に見ているのである。
本気で信じているというよりは「いてほしい」という願望にも似たものかもしれない。ただ涼宮ハルヒの憂鬱でいうならば宇宙人と未来人はいるが、超能力者は存在しないという自分の中だけの謎の基準もある。
また森の精霊や大木に宿る神様のようなものも、もののけ姫の世界観が好きだからであり信じたいから信じているという完全に主観に過ぎない。
その一方でキリスト教については否定的であり、クリスチャンの知り合いが進化論を本当に否定したときは驚愕させられた。しかし海外サッカー選手が十字を切って、天に感謝している姿はかっこいいと思っているためこれもダブスタである。
その上、神道や仏教文化は肯定しており何だかんだで聖書も読むと面白いと思っている。
妖怪は信じていないが、昔の妖怪は今でいうUMAのような概念に近く解明されていない生物や現象自体はどの時代にも存在する。そういう意味で自分はUMAを信じている、というよりも今では有名な生き物も元々はUMAだったのだ。
ツチノコもいないとは説明できずUMAの一種だろう。
ただイヤホンを絡ませる妖怪とリモコンを隠す妖怪は間違いなく存在するはずだ。
結局のところ自分は他者の信仰を本気で否定するつもりもなく、自分の信仰を押し付ける気もない。それぞれが自分の信じたい神や観念を信じればよいと思っているタイプであり、そのクリスチャンの知り合いの人の前で創造論を否定することもしない。
宇宙人や陰謀論も面白そうだから信じているだけであり、それを本気で否定しにかかってくる人がいたら嫌悪感を覚えるだろう。
フリーメイソンやイルナミティのような陰謀組織がいたらなんとなくワクワクする、そうあって欲しいから話半分で軽く信じているだけに過ぎない。
幽霊や心霊番組も、信じている人にわざわざそれは嘘だと言ったり論破したりするつもりはないしそういった話やコンテンツで楽しんでいる人がいるならばそれでいいと思っている。
彼らを幽霊否定論者に"改宗"させても、特に意味はないし楽しんでいる人の邪魔をしても仕方がないのだ。
前述の「全てをやらせ認定すれば世の中が面白くなる」という理論と同じで、こういったオカルト要素を全否定するとワクワクがなくなってしまうのである。全てを否定し真実を追求しても、現実はそれほど面白くなく浪漫もないという事に気付かされるだけでしかない。
結局無いことを証明することは難しく悪魔の証明であり、証明できない以上楽しんだほうが得でもある。
神や心霊現象にしろ、宇宙人や陰謀論にしろ全否定しにかかっている人は余裕が無く、あまり楽しそうには見えない。
自分の信じたい物だけ軽く信じて楽しむスタイルが一番気楽で面白いのである。陰謀論を信じている人が中二病と見せかけて、実はそれを全否定しにかかる人のほうがこじらせた中二病なのだ。
ネットにも身の回りにもそんな人がいないだろうか。
少しは騙されているぐらいのほうが面白い、そんな余裕が今の社会にはあっても良いのかもしれない。
なぜ日本人はエアコンを贅沢品だと考えるのか
毎年この季節になるとエアコンがつけられなかったり我慢したりして熱中症になる人が現れる。特に経済的な余裕のない高齢者などが病院に運ばれるケースは多い。
こういった事情の背景には日本人がエアコンを贅沢品や甘えだと捉えていることが存在する。昭和の時代に「スポーツをしているときに水を飲むことは甘えであり健康にも良くない」と水分補給が禁止されていたことと似ており、未だにエアコンを制限する価値観は根強い。
実は自分の家庭もそういった価値観が根強く、典型的なエアコンアンチ的な風潮がある。現在もエアコンがなく夏は暑く冬は寒い環境で過ごさなければならない。
そしてこれは自分の家庭に限らず日本社会全体に「エアコンはもったいない」という価値観が横行しており、28度制限という世界的に見てありえないような考え方も存在する。
更に平成生まれですら学生の頃は教室にエアコンがなかったという経験を持つ人は多く、自分自身ゆとり世代だが小学校の頃は暑い教室でひたすら授業を受けいていた。
さすがに現代の小学校でエアコンが無いというケースはレアだが、高校などはまだエアコンが導入されていないのところもあるのではないだろうか。
日本という国は見かけ上は先進国だがこういった古い慣習を廃止できていないことが多く、なおかつ多くの人がそれによって落ちている生産性を気にしていないことが多々ある。
「自分が我慢できるから他人も同じように我慢できるはずだ」
「自分は苦しんできたから下の人間も同じように苦しむべきだ」
こういった価値観が根強く、時として効率性や生産性を度外視してでも慣習を押し通すことがある。
例えばサービス残業を廃止できない事や仕事を早く終わらせれば帰宅できるという考え方が根付いていない事もその典型例だと言える。
年金という制度が現状のシステムのまま存続していること、新卒至上主義、未だに現金支払いが多い事、鬱病は甘えだという考え方、そして今回のようにエアコンを我慢することを美徳と考える価値観など上げればきりがない。
我慢を美徳だと捉えたり根性論がいまだに根強かったりする点も根本的な問題であり「皆で苦しんで我慢する」ということを強制する文化が根強い。
世界の暑い国は外は暑いが、屋内ではエアコンをしっかり効かせている。
しかし日本は暑い国であるにもかかわらずエアコンを贅沢だと考える風潮がある。
表面的な電気代だけを見て「もったいない」と考える人も多く、それで落ちている生産性と比較することあまりない。
更に「冷暖房は健康によくない」という迷信もこういった風潮に拍車をかけている。この猛暑の中で苦しむことの方がよほど健康によくないのだが、冷房や暖房を健康ではないと考える価値観もある。
それを自分の中だけの健康法として取り入れるなら良いが、他者に押しつける人も多く自分の家庭がまさにその典型である。
こういった謎の健康法は昭和の時代の水分補給禁止と同じく非科学的な事なのだが、わりと日本という国は非科学的な迷信が未だに国民の価値観から廃止できていないことが多い。地球温暖化を促進するからよくないという考え方も多いが、そもそも地球温暖化自体が迷信でもある。
どの国にもその国特有のしがらみや古い考え方があるのだが、日本は先進国にもかかわらずこういったことが非常に多い。マイナスイオンやコラーゲンが肌に良い、水素水が体に良いといった似非科学も未だに多く信奉されている。
こういったことを全て迷信だと暴いていくことはナンセンスなこともあるのだが、中には本当に変えていかなければならない価値観もあることは事実だろう。
また昨今の節電ブームもエアコンの"自粛"を呼び寄せており、むしろ数年前に比べて悪化すらしている。
「夏にエアコンをつけるのは当たり前であり、それは贅沢なことではない。むしろエアコンを我慢して効率性が落ちることの方がもったいない」という考え方をもっと普及させていかない限り、この風潮は変わらないだろう。
エアコンをつけるだけで甘えて贅沢をしているという目で見られるのは本当に変えていかなければならない事であり、日本という国は暑い国なのだから冷房を効かせることは真っ当な権利であるという考え方にシフトしていかなければならないのではないだろうか。
こういった価値観はいわゆる貧困家庭に多く、底辺の連鎖というのはしかるべくして受け継がれる。
「エアコンはもったいない」といった価値観で育った人は自分の家庭でもそれを継承することが多く、なおかつ他者にも押し付ける傾向にある。
特に自分の家庭は壊れたものをなかなか買い換えようとしなかったり、使えなくなるまで新しい物を購入しないことが多かった。例えば電子レンジが壊れたときは買うことがなかったし、テレビも地デジ化の直前まで一向に買い替えなかった。
こういった家電は新しい物の方が電気代も安く早く買い換えたほうが良いのだが、効率が悪いことに気付かない貧困家庭ではこういった買い替えが順調に進まない。
日本人の「もったいない精神」は美しい価値観ではあるが、それが時として本当のもったいなさに気付いていない事が多い。知的水準の高くない家庭はそこに気付いていないことが多く、生産性の低い物をいつまでも使い続ける傾向がある。
家にいる自由時間で集中して頭を使う習慣がない家庭は特にこうった気温や大気に対して疎い。頭を使うには快適な気温が必要なのだが、そういった習慣がない人はその重要性に気付かないこと多い。
家にいる時間に両親が何も現状を改善する工夫を行わず、それでなかなか収入も増えていかないという貧困の連鎖が続く。両親の悪い慣習は子供にも受け継がれやすく、貧困家庭出身者が同じように貧困に陥りやすいことには相関がある。
つまり「エアコンがもったいない」という家庭で育った人は両親と同じように貧しい人間になりやすい。エアコンに限らず効率が悪いことに気付かない家庭で育つと知的水準が向上しにくい。
こういったことを防ぐためにもやはりエアコンはもったいない贅沢品だという価値観は変えていかなければならないだろう。そんな時代遅れな考えを持っている人は少ないように思えるが、実は未だに価値観を抱いている人は多い。
「冷房は28度まで」という謎の制限が多くの職場などで廃止できていない事はその証左でもある。
エアコンをつけることははもったいない事でもなく、甘えでもなければ贅沢品でもない。分煙や受動喫煙対策が昭和の長きに渡り推進されていなかったことや、少し前まで運動中の水分補給禁止が横行していたように日本という国は我慢や古い慣習が好きであり外圧がなければ中々変わっていかないことが多い。
エアコンに対する制限や残業制度に関してはまだその変化の途上にあるのだろう。
こういったことを声を大にしてはっきりと主張していかなければ中々日本の慣習は変えていくことができない。
長い物に巻かれるだけの傍観者にならず、しっかりと個人が主張していくことが大切なのではないだろうか。
人生は他人と比較してもそれほど意味がない
最近の自分のは他人と比較することの無意味さや虚しさに気付き始めている。
単刀直入に言えば優秀な他人と比較したところでそう簡単には追いつけず劣等感に苛まれるか、自分より下を見つけて情けない自己満足に浸り安心感を得るしかないからである。
上を見ればきりがない、下を見ても意味がない、それが世の中だ。
正直に言えばもう自分はこの際限なき比較や競争の時代に疲れている。誰かを自分と比べる事に疲弊しきってしまい、大切なものを見失ってきた。
とくに現代のインターネットの時代は誰かとの比較に晒されやすい時代になり、人間としての価値が数値に現れやすくなった。スマートフォンとネットの普及によりもはやバーチャルな世界は日常生活の一部となった。
それに伴いSNSや自分のアカウントのフォロワー数や、何かの閲覧数や再生数、いいね!の数などが明確に数値に現れそれが人間としての価値に直結するようになった。
以前に比べ現代人はより明確な数値によって自分の価値が決まり、マウントを取り合う時代になった。
正直なところフォロワーや登録者数、いいね!の数など上辺だけの社交辞令によるものが多く、実際にその中で見ている人や心の底から賞賛している人など半数にも満たないのだがそういった表面上の数字に踊らされる人が今は増えているのだ。
「自分に興味を持ってください!」と言ったところで、そんなことを言っている人間は他者から見れば鬱陶しいだけの存在なのだ。
ネットを見ていれば本人は頑張っているのかもしれないが他人から見れば面倒なだけの人間がいる。現実には一人の面白い人間なのかもしれないが、ネットではそういった者が煩わしく感じる。
そして皮肉なことに自分もまたその一人なのである。
絵を描いてイラストサイトに投稿すればどうしてもえ閲覧数や評価などが気になり、思うような賞賛が得られなかった場合精神的に苛まれ、世界から無視されたような気になる。
イラストサイト、動画投稿サイト、ブログ、SNS、今や誰もが情報発信者になる時代において「人からの反応」は重要な物であり、更に同じジャンルの場所で活動をしている「人気者」に対して嫉妬をせずにはいられない時代になった。
例えば自分は今ではツイッターをやっていないが、やっていた時期はフォロワー数が多い人に嫉妬していたし「リツイートのようなわかりやすい反応されないと見られてる実感がない」と他人の反応を求めていた。
しかし実際のところネットというのは多くの人が他人に対して無関心であり無反応なのである。
そして自分も誰かに興味を持ってもらいたがっているが、実際には他人にそこまで興味が無いのである。
「自分は他人に興味を持ってあげようとしないのに、自分は受け身で他人に興味を持たれたがっている」
そんな人間が大勢いるのがネットの空間であり、自分もまたその一人なのだ。
更に言えば反応をくれる人も実際は自分に対するお返しや見返りを求めていたり、社交辞令だから仕方なくやっているだけで人間関係がこじれればその日からどこかに去っていきお互い無視し合うのである。
そんな儚い上辺だけの関係に依存しても、結局は赤の他人でしかない。ただでさえ他人との関係は表面的なものに過ぎない中で、ネット上の関係など明日でも消えてしまう風前の灯のようなものでしかない。
その中で誰かとの比較をしても意味がないのだ。今のネットはすぐに全国レベルや世界レベルの上位者が目につく、そんな人と競争しても勝てないのは当たり前だ。
そして下層を見てもきりがなく、そこで安心しても現実の自分には何も成長が無い。
この際限なき他者との比較や誰かの反応や評価に依存する時代において、今誰もが「自分の立ち位置や評価」を気にしなければならない時代になっている。
インターネットを誰もが利用する時代になったことで、自分より優れた人も自分より劣った人も目につきやすくなった。
そうなれば誰もが他人を意識する。
その時代に本当に考えなければならないのは他者と競争してもそれほど意味がないという事である。
比較や競争というものが完全に意味がない物だというわけではない。
例えば誰かに憧れ、そこに近づこうとすることやライバルと競い向上していくことは悪い事ではない。
しかし世の中には自分が不幸になるだけの比較という物も存在する。
世の中には自分の気に入らない人間をネットでひたすら監視しているような人もいるが、そういった嫉妬や怨嗟に満ちた生活など幸せではないだろう。
結局のところ他人と自分は全てにおいて違うのである。
スタートラインも違えば、生まれ育った環境、生まれ持った才能、これまでの人生における運や生きてきた時代、人種や国籍、そのすべてが違う。
元々人間というのは不平等でありフェアではない。
当然ながらどうやっても勝てない人間もいれば、何もしていないのに勝てるような人間もいる。
そんな他者との比較に一喜一憂して右往左往していればただ疲れるだけなのだ。
それよりももっとも相応しい競争相手がいる。
それは「昨日の自分」だ。
自分の人生の信条として「今できることをやるしかない」という考え方がある。
どうジャンプしても追い付かない人と比較しても勝てないものは勝てない、そこに嫉妬して苛まれても仕方がない。そして人生が虚しくなり努力を辞めてしまえば何も進歩がない。
そうなってしまうよりも昨日の自分という丁度良い比較対象と競い合い、自分の中での成長だけを目指すことが大事なのかもしれない。
敵わない相手にいきなり追い付くことは無理でも、昨日の自分に比べて一歩だけでも進むことは決して難しい事ではない。そしてその積み重ねの先に大きな進歩を果たせることだってある。
人間というのは今できる範囲内の努力をするしかない。
無駄な他人との競争や比較に苛まれるよりも「昨日の自分に比べて成長した部分はあるか」と問いかけることの方が有意義だ。
他人は他人でしかない、そして自分は現実で今できることを努力するしかない。
サッカー日本代表の本田圭佑は「成功にとらわれるな、成長にとらわれろ」と言った。その意味は努力してもそう簡単に成功して結果が出るわけではないが、自分の中では進歩している部分があるならばそれはそれで素晴らしいことだという意味である。
世間的にも客観的にも上手く行かなかったかもしれないが、自分の中で間違いなく昨日の自分より進歩したならばそれは無駄ではない。
一朝一夕に明確な結果が出て誰かから認められるという順調なストーリーはそれほど多くは無い。
そういう時に言い聞かせなければならないのは、昨日の自分より成長できたならその成長は無駄ではないという事だ。
他人からの評価や誰かとの比較ばかり気にしていても、天才でなければなかなか思うようにはいかない。
凡人や凡才は、自分だけがわかる成長、そして誰も気にも留めない小さな一歩を着実に積み重ねていくしかないのである。
その成長や進歩を誰も褒めてくれないし、認めれくれないし気付いてもくれないだろう。
しかしそこで諦めてはいけない、自分だけはその成長がわかっているはずだ。
誰もが他人に無関心で無反応な時代において、最後に頼れるのは自分だけなのである。自分の本当の理解者は究極のところ自分しかいない。
ネットの馴れ合いや社交辞令は何も生まない。
途方もない相手と比較しても、それは追い付けないのが当然なのであり、遥か下の人間に勝った気になったところで虚しいだけだ。
上も下も他人も無数にいる時代において本当に見失ってはいけないのは自分である。
本質や本当の価値を追求し、自分の出来る領域で着実に進歩を目指す、現実にできることはそういった地道な努力だけだ。
今できることを今の環境や条件で行う、その現実の積み重ねだけが次なるステージへ自分を導いてくれるだろう。
オリキャラの立ち絵は何か工夫が必要
少し今までの自分の画風と変えて、これまであまり意識してこなかったオリキャラの立ち絵や全身像を描くことにした。
ポーズが付いた構図や全身の立ち絵というのは苦手意識があったためこれまで避けてきたのだが、もうピクシブの世界ではそうも言ってられない。
「下手なオリキャラ」ではいつまでたってもピクシブ底辺の現状を抜け出せないため、上手くなるしか手段はない。イラストは上手くなることから逃げてはいけないし、この競争と供給過多の時代には上手くなければ生き残れない。
今までの自分は下手でも「アイデアやデザインを見てほしい」というスタンスだったが、その部分が評価されるのは一定以上の技術があってからになる。
下手な絵をわざわざ見ようという人はよほどマニアックな人でしかないため、絵の技術を磨く以外に方法は無い。
そうし今まで描いてこなかった表現に取り組み立ち絵を完成させて、今の所自分では満足している。客観的な視点ではなくあくまで主観的な視点でしかないが、自分が今まで描いてきた絵にくらべれば少しはマシになった。
しかし世間の評価は違った。
正直なところ閲覧数も反応もパッとしない。自分の中ではかなり上手くなったという感覚があったため、閲覧数や評価がもっと増えるのではないかと期待していたが閑古鳥が鳴いている。
正直なところ自分の中で上手くなったという自己満足であり、第三者から見れば何も変わっていないというのが現実だろう。
ただでさえ無名の人間が描いたオリキャラというのは需要が無い上に、単純な立ち絵でしかなく背景も構図も工夫が無い。更に上手さという観点においても本当にテクニックやセンスのある人に比べれば無価値に等しい。
「見たくなる要素」というものが皆無なのがこの絵に対するリアルな評価なのだろう。
その結果考えたのが何か「付加価値」を追加するというアイデアである。
失敗の原因を追究することが次回の解決策にもなる。反応がないと嘆くだけでは何も変わらない。
ただ現状の画力で立ち絵を描くだけでは特に変化がないと分かったのはむしろ進歩かもしれない。
現実に背景を書かずシンプルなオリキャラの立ち絵で評価されている人はピクシブに大勢いるため、全ては上手く描きさえすれば解決するだろう。
しかし一朝一夕に上手くなれば苦労はしない。
そこで自分が現状の出来る範囲内で加えることができる付加価値というのが「武器」である。
武器のイラストというのは自分がこれまで専念してきたいわば"本業"であり、本来キャラクター絵は自分にとって副業のようなものである。そこで勝負しようとしては勝算がない。
他のオリキャラを描いている人にない長所としてこういったオリジナル武器のようなもので差別化できないだろうかと考えている。
つまり次回以降は武器を持たせたような構図にチャレンジしてみたい。
このオリキャラは軍人という設定であるため、その世界観におけるライフルやハンドガンを持たせた構図も面白いかもしれない。ガンダムSEEDのOPで銃を持っているキャラクターがいるが、そういった構図でも良いだろう。オリジナルガンダムのキャラクターとしてむしろ銃を持っていたほうが魅力が伝わる。
ただでさえ誰も知らないオリキャラな上に画力も乏しいイラストがこれだけ評価が低いのは必然だと言える。
それを補う何かとして武器を持った派手な構図はヒントになりそうだ。技量を向上させることを諦めるわけではないが、その部分だけで勝負しても上手い人はいくらでもいる。
自分にしか書けない絵というのをどう究めていくかが重要になる。
これまで自分が積み重ねてきた複数の要素を組み合わせて一つのイラストに仕上げられないか、そういう工夫もしてみたい。
またこれは自分に限った問題ではなく、オリキャラのイラストを描いている人に共通する課題でもある。
見たくなる要素やキーワードを増やす、そういった工夫はオリジナルキャラクターの絵を描く上で必要になってくるだろう。
ゲームを極めることに意味があるのかと考えるこの頃
ゲームをすることは非常に面白く、自分も昔からずっとゲームをし続けている。
「ゲームが人生」だと言えば大袈裟かもしれないが、自分の人生の中で真剣に追及していきたい物の一つでもある。
小中学生の頃の夢はゲームクリエイターになることでもあり、まさに人生の中で重要な物である。自分は決してゲームが嫌いなわけではない。
つい先ほどもゲームをしていてやはりゲームは楽しいと思ったし、ゲームを批判しようとも思わない。よくゲームは無駄な事だとか、子供にさせてはいけないとか、精神に悪影響をもたらすと言われるが、そういった偏見にはもちろん反対の立場である。
ゲーマーは様々なタイプに分類される。
・キャラクターや世界観を目的にプレーする人
・ゲーマーのコミュニティがもたらす楽しみを重視する人
・コミュニケーションツールとして考えている人
・プレーの質や実力を極めることを目的とする人
自分はどちらかというと最後の質を拾究めることを目的としたタイプである。
ひたすら自分がこれだと決めたタイトルばかりをし続けて上達するために練習し、向上することに喜びを見出す。
自分が上手いプレーができたときは一人で自惚れているタイプだ。エキサイティングな勝負を求め良いプレーや美しいプレーに酔いしれる、そんなプレイヤーである。
その一方で最近はふと考えることがある
「このゲームが上手くなって自分はどうしたいんだろうか」
「この先の果てに何が待っているのだろうか」
「正直そこまで上手くはならないのではないか」
もちろんゲームをメリットがあるかデメリットがあるかでやることはナンセンスであり、やりたいからやっていることは間違いない。
その一方で楽しいことをやり続けるだけが人生ではない。これ以上上手くなるのか、そしてやり続けてどういったことが実現できるのか、そういったことも考える必要がある。
自分は今やっているゲームにおいてオンラインランキング最上位層になりたいとも思っているし、世界的な有名タイトルでもあるため世界大会に参加したいとも思っている。
理想は世界チャンピオンになることであり、強くなりたいとも思っているし上手くなりたいとも考えている。結果と中身の両面を追求したいと考えており「魅せて勝つこと」を信条としている。
その一方で現実にゲームを極めようとした時その世界は途方もない。
自分はオンライン対戦の高度化を批判的に見ている一方で、やはりオンライン対戦がゲームを高度にしたことについても評価している。
そして自分自身も真剣にプレーを磨き練習している立場である。
今の時代どのゲームも高度化しすぎて忙しいと思っているが、同時に本当に自分が好きなゲームについてはやはりオンライン対戦や高度な競争があってほしいと思っている。
ゲームは競技の領域に差し掛かっており真剣にすることは決して悪い事ではない。初心者がなかなか勝てず、どのゲームもすぐに上級者や経験者に叩かれる状況になっているが同時にそれだけ洗練されていることだともいえる。
インターネットを知らなかった時代を懐かしみながらもいざ無くなったら困るように、今オンライン対戦がなくなったらそれはそれで困る。
しかしそのオンライン対戦がやはり「途方も無さ」を感じさせる。
昔は全国大会も世界大会も縁遠い事に過ぎなかったが今ではすぐにその世界に直結させられる。オンライン対戦であっという間に全国や全世界の上級者と対戦することができる時代だ。
「ゲームが上手くなる」ということが曖昧だった時代に比べ、今では明確に数値化される。
おそらくそのゲームにおいてオンラインランキングの上位半分に加わることができれば大抵の場合その地域コミュニティにおいて屈指の実力者になったと言えるだろう。
しかしオンラインになればそれでもまだ半数以上の人には負けてしまうのである。オンライン対戦における中級者になれば十分実力者と言えるのだが、同時にそれで物足りなさもある。
オンライン対戦がなかった時代には十分満足できた領域も今の時代では満足できない。
例えばスポーツにおいて全国大会出場者というのは、その競技人口全体における上位10%に確実に入るエリートである。誰もが頑張ればなれる領域ではなく途方もない努力や備わった才能を要する。
こういった全国大会出場者は世界大会やプロと比較した場合は末端に過ぎない。甲子園や高校サッカー選手権に出場しプロに慣れた無かった無名の選手など無数に存在するが、現実のスポーツではそれは十分名誉や誇りになる。
しかしゲームのオンライン対戦にはそのような指標が存在しない。
地域コミュニティや現実のスポーツにあてはめた場合十分な実力者でも、ゲームの場合は所詮広大なオンラインの中の1人に過ぎない。
いきなり全国や全世界を一まとめにしてその中で位置づけが決められてしまう。またゲームでそういった上位に入っていることは自己満足でしかなく、現実のスポーツのようにそれがリスペクトされることは無い。
現実のスポーツならば経験者や実力者として尊敬されるレベルでその競技を極めていても、ゲームだとそれはあまり価値がない物にしかならない。
レーティングやランキングを誇りにしたところで誰も理解できない無意味な自己満足にしかならない。そのためどうしても「そこまで真剣に努力をして意味があるのか」という疑問が投げかけられる。
勝利を重ね上位になることだけを目的にしていれば、それが実現できなかったときに虚無の境地に達することになる。
もちろんそういった自分独自の世界を追求し、その領域を楽しむことは素晴らしい。万人に理解されるよりも少数の人にしか理解できない特殊な世界観を楽しみたいのもまた人間だ。
「わかる人だけにはわかるプレーの質」という境地に喜びを見出すこともこういった競技やゲームの魅力であり自分もその部分を追求している。
自己満足ではあっても本当に自分が好きなプレーを極めたときは楽しい。
「練習は裏切らない」という言葉のように、練習し上達しプレーの質が向上したときに大きな喜びを得られる。
昨日よりも上手くなったことが嬉しい。
その一方で、練習は裏切らないがゆえにその世界が途方もない。自分にはこのゲームさえあればいいというモチベーションでひたすら極めている人には練習量で叶わないし追い付けない。自分の努力も裏切らないが、他人の努力も裏切らないのである。
スポーツのプロの世界で練習しなければ生き残るのが難しいように、ゲームもまた練習が必要となる。
そういったことを考えたとき「自分はこのゲームを練習し続けて何が実現できるのだろうか」という疑問に駆られる。
前述のように自分はゲームが非常に好きであり、未知の領域を極めたいという探究心もある。
しかし自分の人生はゲームだけではない。
仮に時間が無限にあるのならば自分は今やっているゲームを永遠とし続けるだろう。時が止められるならば気が済むまでゲームをやっていたい。
人生がゲームだけをしていれば良いのならば幸せだが、他にもやりたい事ややらなければならない事がある。
ゲームも好きだが他にも好きなことがある、それならばゲームに投じる努力を他の好きな事に使っても良いのではないか。
例えば自分が重視している「プレーの質や美しさ」を目的とするならば、最初から芸術方面に注力したほうがいいだろう。ゲームの世界はどちらかというと実力や勝敗が重要であり、芸術性を楽しむ文化がそれほど盛んではない。
そういった芸術方面での自己実現を求めるのであれば初めから文学や美術の方面で頑張った方がいいのかもしれない。
小説や絵は自分の想像を反映できるため好きなことができる上に自由度が高い。ゲーム以上に理想とするものを作り出せるだろう。
これから芸術に時間を使って実現できる世界とゲームに時間を使って実現できる世界とを天秤にかけたとき、どちらかが自分の理想とするものに近づけるだろうかと考えたとき後者の伸びしろはそれほど多くは無い。
ゲームの実力は確かに練習すればするほど伸びているのだが、今後数年やり続けても劇的にプレーの向上が見込めるとは思えない。自分の中では上手くなった程度で無数に上位層が存在する。
更にゲーマーというのは他人のプレーに厳しく、辛口な傾向にありよ程のことがなければ他人の実力を認めない。そんな厳しい世界で「上手い」という言葉を貰おうと思えば途方もない努力をしなければならない上に、批判の方が集まりやすい。
その一方で芸術関連の世界というのはゲームに比べたとき人の才能を評価する傾向にある。
芸術の世界というのは趣味や好みが重視されるため、実力や上手さ以外のものでも評価されることがある。
もちろん芸術も競争社会であることには変わりないのだが、ゲームよりは比較的「嗜好」というものを重視したり評価する傾向にある。
自分の場合本気でこれから極めるのであればやはりゲームより芸術の方が自己実現できる可能性は高いだろう。これは自分のケースにあてはめた場合だが、他にやっている趣味と比較した場合ゲームを本気でやるべきなのかどうかは多くの人が考える必要があることなのかもしれない。
綺麗なことがやりたいのならばゲームよりも絵や文学を志したほうが本当にやりたいことができるだろうし、勝利が重視される世界では理想だけでは戦えない。それどころかゲームの世界は年々勝利至上主義に傾いており、質や趣きを重視することは綺麗事とみなされるようになっている。
その一方で自分はゲームをやめるつもりはないと思っている。
日本古来の考え方として「道」という概念がある。
それは必ずしもすべての競争に打ち勝つことが目的ではない。日本の近代競技やスポーツの概念がもたらされる以前は武道は精神的な修行に近い側面があった。
例えば剣道をすることは決して誰よりも剣術に秀でた存在になることが目的の全てではない。
己を鍛え、限界に挑み、自分がこれまで会得できていなかった精神的な境地に達することが目的の一つであるともされてきた。
剣道をすることは全国大会や世界大会で競技として優勝することが全てではない。
昔、剣道のドキュメント番組を見たとき80歳を過ぎても最高段位になることを目指し鍛錬を続けている剣道家を見たことがある。
もはや彼らにとって精神修行の領域に達しているのだろう。世俗的な考えとは距離を置き、ひたすら自分の世界や能力を突き詰めることは美しい。弓道などでも大会で優勝することより自分の段位をひたすら極めていくために照準する人もいる。その立ち振る舞いの美しさや精神面の鍛錬に黙々と打ち込む。
剣道や弓道においてはただ結果を出すだけでは昇段することができない。
本質を理解していなければ段位を上げていくことは不可能であり、勝利以上に大切なものが存在する。
これは武道に限らず市民大会などで実施される競技においても同じことが言える。マラソン大会などは民間で数多く開催されているが、上位に入ることが全てではない。最下位だとしても完走することに喜びを見出す人もいるし、自分の前回の記録を1秒でも上回ることを目指す人もいる。
市民大会への参加と記録の向上を生きがいとしているお年寄りランナーは、決してオリンピックのマラソン種目に出場できるわけではないだろう。
登山などで難所とされている険しい山に挑むのもそういった「自分との勝負」が目的なのかもしれない。
まさに自分の限界と向き合い少しでも向上すること自体に喜びを見出しており、人に勝つ事だけが全てではない。自分と向き合い、自分の限界に挑む、そのことにエネルギッシュな喜びを感じることもまたスポーツの楽しみ方である。
そしてそういった末端の競技者が競技全体を支えている。
ゲームももしかしたらそういった考え方が適応できるのかもしれない。
ランキングに入れない末端のプレイヤーもそのゲームを支えている一員である。
さらに優れたプレイヤーの上手さを理解するためにも自分が経験者であるという事は理解の助けになる。
どの競技にも言えることだが、少しでも自分がその競技をした経験があるとその上手さが理解しやすくなる。上手い人のプレーを理解するためにその競技を行うという考え方もできる。たとえばサッカーのリオネル・メッシがなぜ上手いのかというのは、ボールを蹴ったことがある人と蹴ったことがない人では理解度に違いが出る。
本当にメッシの凄さを理解したいならば自分がドリブルやシュートの練習をしてみることが有効である。いくら映像で何度も見るよりも、自分で実際プレーしたほうがその凄さに気付くことができる。
末端の競技者であってもその世界の一員であり、経験者であることで上級者の凄味が理解できるようになる。
トッププレイヤーの上手さを理解するために末端のプレイヤーになるという考え方もできる。
ゲームにあてはめるならばFPSや格ゲーなどは世界大会も開かれているが、ほとんどそのゲームをやったことがない自分には上級者の質と初心者の質の違いが判らない。それゆえにその世界大会を楽しむことができない、なぜならば全員同じプレーにしか見えないからだ。
その競技のプレーの質は経験者や普段から観戦している人にしかわからない、この法則はほとんどすべての競技に当てはまる。
例えそのゲームや競技の上位層になれなかったとしても、最低限の実力があるだけ上位プレイヤーの質の違いが楽しめるようになる。
そう考えると強くなれなくても自己実現できなくても、その経験は無駄ではなくなる。
それは将棋や囲碁も同じなのだろう。
おそらく凄い世界が広がっており、高度な戦いが繰り広げられているのだろうが勉強したことがない自分にはそれが理解できない。
逆にサッカーの試合でワールドカップ決勝やチャンピオンズリーグ決勝が行われた場合「これは凄い」と自分は楽しむことができるし、見ていない人はもったいないとさえ思う。例えその世界の末端の人間であっても、その競技を知っているか知っていないかだけで楽しめる物の数が増減する。
その世界において最下層の競技者であっても、その競技を知らない人よりは最高峰の試合を楽しむことができる。
最高峰にたどり着くことよりも、最高峰のものを理解することが目的であっても良いのかもしれない。自分が実際にやってみる事で上位者のクオリティを理解するヒントになるのであれば、それはどんなに弱くても下手でも無駄な事ではない。
楽しいからプレーする、勝って上位になりたいからプレーする、自分の世界を追求し向上するためにプレーする、上手い人のプレーを理解するためにプレーする、そのコミュニティの一員になるためにプレーする、人それぞれゲームをする動機を持っている。
ゲームを極めることの意味や目的、それは人それぞれ多岐にわたる理由があるのだろう。
ゲームをすることに迷った時は自分がこれまで考えていなかった理由を探してみたらより面白くなるかもしれない。
貧乏だと日常生活が苦痛で仕方がない
ただ日常生活をしてるだけで嫌になる、生きてるという活力がわいてこない。
特にこの夏自分を苦しめていることが2つある。
それはエアコンと冷蔵庫が自由に使えない事である。
エアコンに関してはそもそも壊れており使えない、そして冷蔵庫は家族との複雑な事情があり自由に使うことができない。
しかも家族の吸うタバコの副流煙が入ってこないようにするために部屋を閉め切っておかなければならずなおさら熱気がこもり、閉め切った部屋で扇風機をかけるしかない。いつ熱中症になってもおかしくないような状況にいる。
世の中エアコンが28度設定について揉めているが、そもそも自分はこの夏をエアコンなしで過ごさなければならない。
特に夕方の時間帯は西日が直接当たる部屋にいるため非常に苦痛で仕方がない。
その為あらゆるやる気が削がれており人生が嫌になっている。
この状況を改善するには自分でエアコンを購入しなおかつ電気代を払わなければならない、そして冷蔵庫も自分専用の物を買うしかない。
しかしそんな金があったら苦労していないのである。
本音を言えばより自由なリズムで生活するために一人暮らしをしたいが、民度の高い住民が住んでいる場所にある良質な物件に住もうと思えば天文学的な費用が掛かる。
自分は日常生活のストレスに左右されやすいタイプであり、本来はこういった逆境に耐えて這い上がっていかなければならない事は自覚しているがそうは言ってもやはり苦痛だ。
ここからさらに暑くなるというのだから絶望しかない。
結局はこの日常の苦悩のすべてが貧乏や貧困に起因する。
自分が今満たされない感情や日々のイライラや苦痛もお金があれば解決するだろう。よく鬱病の人間が大金をもらったらその日から元気になると言われることと一緒で、自分も大金が手に入れば急に明るくなるだろう。
まるで伊藤カイジのように「金だよなぁ、結局金」と独り言をつぶやくしかない。
「助けて!○○ちゃんが心臓の病気でアメリカで手術をしないといけないから2億円必要なの!」と高額な募金を募っているが自分はこういいたい。
「助けて、ニート君が快適な生活をこれからもしたいから2億円必要なの!」
前者は乞食だと自覚していないが、自分は乞食と自覚しているだけマシだ。
そんなくだらない冗談でも言いたくなるほどに困窮している。
こんなことを言っても誰も手を差し伸べてはくれないだろう。
「自分より下の人間や同レベルの人間がいる」と安心したいがためにこの惨めな自分を"鑑賞"しているに過ぎない。しかし自分もかつて負け組や底辺のブログを見て満足していた時期がある。その償いの時が訪れたのかもしれない。
見下していたら、自分が見下される立場になる。
もう思う存分この惨めな生きる価値もない底辺である自分を見て満足すればいい。結局関わろうとせず他人事として傍観者にいる時が心地よいのである。
そこまで生活を変えたければ働きに出ればよいのだが、もう底辺職しかないのが嫌で日雇いバイトさえもしたくない。
つまり「良くない環境で我慢しながらダラダラ暮らす」VS「仕方ないから働きに出る」の両者を天秤にかけて前者を選択しているのである。なんという消極的な選択だろうか。
そしてこんな生活もいつまでも続かずいずれジリ貧になるだろう。
はみ出し者が今更社会に入っていこうとしても底辺職しか残されていない。その結果いつものように「階級社会や一度失敗したら終わりな社会が悪い」「自分を評価しない世の中が悪い」「不況と少子高齢化が悪い」という責任転嫁にも似た愚痴が口癖のように湧いてくるといういつも通りのループ状態に陥る。
何かをやるたびに失敗していればいつの間にか努力や挑戦の気力すらなくなりダラダラと無気力に今を過ごすことが日課になる。成功体験を順調に重ねられず自信を得られなかった人間の末路がこれである。
「がんばって努力をすれば報われる」と思える人間と、「がんばってもまた失敗するだけだ」と思ってしまう人間がいる。
賭博黙示録カイジという漫画に「バスケットゴールが高い位置にあればいずれ投げようとしなくなる」というという自分が大好きなセリフがあるのだが、まさにそのような精神状態に陥っている。
しかしこれも身分相応の生活なのだろう。
誰の役にも立たない価値のない人間としてはむしろいい暮らしを出来ている方だ。
価値のない人間はそれ相応の生活をするしかないのである。
世の中は階級社会であり、その底辺の人間などいい暮らしを出来なくて当たり前なのである。それを手に入れたければ成功するしかない。
しかし成功しようにも「勝ち組の椅子は埋まっている、自分は椅子取りゲームに負けた惨めな敗者だ」とこれまたテンプレのような"いつも通り"の言い訳を呟き、指をくわえながら勝ち組様を眺めるしかない。
価値のない人間や役に立たない人間、必要とされない無能に居場所などないのである。
また駄目人間としての思考ばかりが駆け巡る、もうこのくだりを何度やったことだろうか。
無価値な人間にはそれ相応の生活しかない、そう言い聞かせながらこの気だるい暑さの中でネガティブな発想ばかりを考える。
つい最近聞いた話ではテレビ局は現在ほとんどがコネ入社になっているらしく、無能でも嫌われ者でも親が既得権益層の上級国民ならば高い給料を得られるらしい。
しかしコネ入社と言っても、そういった勝ち組の御子息の連中は海外留学経験があり幼いころから社会の上層部の人間と食事をしたりしているから実は有能で品がある人が多いらしい。
また芸能人なども二世タレントが多く、世の中間違いなくコネ社会や階級社会になっている。アイドルグループなどを見ても、親が有名人という人は多く優秀な形質や能力が受け継がれ優れた教育を受けているのである。
勝ち組はいつまでも勝ち続け、負け組はいつまでも這い上がれない。
インドのカースト制度と同じように世の中「出自」や「身分」が大半を左右する。社会には身分差別がまかり通っている。外国人差別より深刻なのは日本人同士による差別だ。そして自分は比喩的な意味合いにおいて"被差別階級"なのである。
差別され蔑まされいつまでたってもこの社会の上層には入っていけず、上流階級に憧れながらもその夢はかなわず下層階級で一生を終える。
そしてそういう恵まれた連中に身分社会の底辺に置かれた人間は「努力不足だからそうなったんだ、自己責任だ」と言われ見下される。
エアコンもない暑苦しい部屋の中で「金持ちか有能な家に生まれたかったなぁ」と虫の声のように溜息をもらす。
これもそれ相応の生活なのだろう。
誰だって夢を見て自分が特別だと思いたいが、その内これが自分にはふさわしい生き方なんだろうなと諦めていく。
そして世の中そんな有象無象の負け組人間がいくらでも存在して不満を募らせている。遂に自分もその一人になってしまった、いや最初からそうなる相応の運命にあったのだろう。
断酒生活、とりあえず1日目は無事成功
昨日から始めている断酒生活だが、まずは久しぶりに1日もお酒を飲まずに終えられた。朝の目覚めは非常に良い。いつもならば今ごろ前日のアルコールがアセトアルデヒドに変わり頭痛や吐き気に苦しんでいるはずだ。
胃のヒリヒリ感もないため間違いなく健康には良いという実感も得えられている。
しかし既に朝から飲みたいと思っているのも正直なところだ。
むしろこれだけ体調が万全ならばいい飲み時だとさえ思っている。
飲めば朝から苦しい、飲まなければ朝から飲みたい。
どちらにしてもジレンマがある。
そもそも昨日1日を通じて「酒を飲みたい」という考えに支配され続けていた。何気なく読んだ小説にも飲酒シーンが出てきて飲みたいという感情に襲われる。
おそらくテレビを見ていたらアルコール類のCMが流れ、それ以上に飲みたくなっていただろう。アルコール中毒者のために「のどごし音」が自粛されたというニュースを聞いたことがあるが、確かに禁酒生活中だとそれは刺激になるだろうしそもそも日本の文化自体がそこら中が酒であふれている。
自分は決してそういう事を規制してほしいとは思わないし、そもそも今も美味しい酒が飲めるならば今すぐにでも飲みたいと思っている。
ぬるくて美味しくもない酒をつまみも無しで飲まないといけないから嫌になっているだけで、キンキンに冷えたロックの果実酒が目の前にあれば有無を言わさず飲むだろう。
正直なところ心の底からお酒を辞めたいと思ってこんな生活をしているわけではない。現状の環境ではぬるくて美味しくもない酒を我慢しながら飲まないといけないから仕方なくやめているのと、金銭的な事情もあるから制限しているだけに過ぎない。
しかし、それでも1日飲まずに過ごしたことで大きなメリットがあることに気付いた。
まずは自分自身の稼働時間が非常に長くなったことと、即自的な快楽がなくなったことでいろいろな努力をするようになったことが大きな変化である。
いつもならばお酒を飲みながらダラダラ過ごしていたため日常生活の基本的な事すら怠り腐敗していたが、昨日は飲まないことでエネルギッシュになり久しぶりに溜めておいた部屋の片づけをすることができた。
かなり動いたため疲れたが、肉体的に生きているという実感を得られたし達成感があった。
また前述のように小説を読むようになり、夜中に静かに小説を読むのは久しぶりに楽しいと思った。お酒で酔っているとどうしても小説を読むことが億劫に感じて音楽を聞くか映像を見るか、ただ横になっているかがメインになっていたが活字を読む習慣を上手く作れるようになりそうだ。
元々自分は小説や文学が好きではあったのだが、最近はお酒の量も増え読書からは遠ざかっていた。
また稼働時間が増えたことで絵や文章を書く時間も今まで以上に確保できるようになった。今までならば動けなくなって絵も描けなくなっているような時間帯にイラストを描けるようになった。小説を読んだり絵を描いたりすればお酒を飲まずとも楽しめそうである。音楽を聴きながら絵を描くことはお酒が無くても十分楽しめると感じた。
自分で何かを作っていく充足感をよって楽しむことで代替できれば生産的な生活になるだろう。
ゲームをすることや面白い作品を見ることなども良い代用になるかもしれない。
更にお酒を飲んでいない事そのものに達成感や充実感を得られることにも気づいた。
「味の悪い安酒を飲んでわざわざ頭を痛くして何になる」と言い聞かせてストイックに過ごせばそれなりに達成感がある。傍から見れば1日酒を飲まなかっただけで何がストイックな生活なのかと思われるかもしれないが、まるでしっかり運動したり筋トレしたりしたかのような充足感がある。
また酔っていない状態の時も「頭痛を抱えながら寝込んでいるときよりはマシ」と言い聞かせている。酔いの楽しい時間が過ぎてダウンしているときは、アルコールがきれいさっぱり体から消えて欲しいという感覚になる。今はその理想の状態になっていると思えば満たされていなくてもやり過ごせる。
結局お酒を飲んでも楽しい時間はそれほど続かないのである。ましてや一人で安酒を飲んでいるときは酔う事や現実逃避が優先事項になりどうしてもハイペースで飲んでしまう。安酒なはずなのに量が増えるため結局はお金がかかる。
そういう金銭面でも飲まない事にはメリットがある。1日飲まないだけでかなり節約した気分になり、少し節酒するだけでもある程度お金が浮く。
決してものすごく楽しいというわけではないが、1日が今まで以上に長く感じることはできた。酔っている状態が短距離走のように激しい物だとすれば、飲まない生活というのは体力を上手く分配し長距離走をじっくり走るようなものかもしれない。
ちなみに以前久しぶりに飲まない日があったときは翌日がっつり大量に飲んだ。
真の関門は2日目以降である。初日を達成することよりも継続して実現することが最も難しい。
気を引き締めながら今日も過ごしたい。