負け組ゆとりの語り場

社会に取り残された男が日々を語る

須藤凛々花の結婚発表がこれからのアイドル文化に与える影響

先日のAKB48選抜総選挙で世間の話題を大きく集めたのが須藤凛々花の結婚発表である。その騒動はAKBファンやアイドルファンの中だけにとどまらず、芸能界やインターネット全体をも巻き込む程に発展している。

アイドル史においてもこれほどのことは無いのではないかというぐらい大きな騒動であり、最大級のスキャンダルでもある。

 

この須藤凛々花の結婚発表を自分は元女性アイドルファンとしてどうみたのか、そしてこの騒動が今後のアイドル文化に与える影響はどういったものなのか考察していきたい。

 

まずこの騒動において須藤凛々花を知っていた人と、この話題で初めて知った人に大きく分かれるが基本的には後者の方が多い物と思われる。

全盛期AKB神7に比べて今のメンバーはオタク専門や内輪向けのメンバーが多く、20位とはいえ須藤凛々花を知っていた人はそれほど多くは無いだろう。

自分は数年前にNMB48にはまっていた時期があり「ドリアン少年」のセンターやってた子というイメージしかなかったが、本当にこの騒動の直前ぐらいに動画サイトを見ていたら偶然須藤凛々花の映像を見る機会がありその時に覚えていた。

 

その動画を見て「最近のAKB系列には珍しい変わった子だな」といい意味で評価していた自分がいる。言動が面白かったり独特なことを考えていたり、哲学を学んでいたり麻雀をやっていたり個性あるメンバーで面白くなりそうだなとは思っていた。現実的には悪い意味で変わっていたのだが興味を持ちかけている自分もいた。

女性アイドルに飽きてはいたが「この子はちょっと違うな」と思い、少し将来を楽しみにしていた部分もある。もう応援する気にはならないが今自分が昔のように女性アイドルファンだったら須藤凛々花推していた可能性がある。

 

それだけにその直後にこういった騒動が起きて「やっぱりもう一度アイドルにはまらなくて正解だった」「また騙されるところだった」と思わずほっと安心した。

やはり異性のアイドルを信用し、没頭しお金を投じるものではないなと再確認することができた。今では恥ずかしい事だが自分も本気で女性アイドルを"信仰"し幻想を見ていた時期があり、同じ轍を二度踏む寸前で回避できたのが今回の騒動である。

 

そしてもっと大きな視点でいればかつての自分のように女性アイドルそのものに冷めた人が今回の須藤凛々花の結婚発表でかなり増えたのではないかという事が、タイトルで言うところの「アイドル文化に与える影響」だと言える。

AKB商法やAKBビジネスの信頼性がガタ落ちしたどころか、もはや女性アイドル文化自体が腐敗と闇に満ちた信用ならない物だと考える人が今回の結婚発表をきっかけに急速に増えるのではないか。

これまでも既にスキャンダルがいくらでもあったが、今回の事はアイドルが信用ならない物だという認識を決定づけることになるかもしれない。

もう自分の応援しているアイドルだけは違う、自分の"推し"だけは違うという時代は終わりを告げるだろう。現実に須藤凛々花はオタク向けの側面が強く、彼女のファンも直前までは須藤凛々花は他のメンバーとは違う」と信じていた。しかし結果的にはアイドル史に残る形で裏切られることになった。

 

もはやアイドルを個別で認識し「このアイドルは駄目だが、このアイドルは良い」と考える時代ではなくなり、もはや「アイドルは総じて裏切り者」とういう認識に変わっていく時代が訪れるのではないか。

アイドルや芸能人である時点で自己顕示欲や野心の塊であり、モテたいからアイドルになる、良い相手と恋愛したいからアイドルになり自分の価値を上げようとしている。そういった認識が今後必須になる時代が来る。

むしろ一般の人より異性に関心が強く異性から関心を集めることに熱心な人がアイドルになる、そう考えたほうが自然である。

恋愛したいからアイドルになるわけであり、アイドルになって恋愛しない方がおかしい。

 

もうこれから恋愛市場からあぶれた負け組がアイドルに疑似恋愛を求めるというモデルが成立しなくなり、AKB48が作り上げてきた疑似恋愛に特化したビジネスは終了するだろう。

親近感を前面に押し出し会いに行けるアイドルは崩壊する。それならば初めからキャバ嬢に会いに行ったほうがよほど客を喜ばせてくれるだろう。

 

須藤凛々花ですら信用できない」と発覚すれば、もう自分の推しだけは安全という考えは成立しなくなる。そもそもそんなことは「1年中撮られても何もない」と言い張っていた柏木由紀のスキャンダルがあった時点で学んでおくべきであってこの後に及んでまだ女性アイドルを信じていたファンがいる事のほうが驚きである。

その後も様々なメンバーのスキャンダルが続き、とっくの昔の今のAKB48ファンはスキャンダル耐性が付き、もう期待していないと思っていたが未だにピュアなアイドルファンがいたことにむしろ驚きを隠せない。

 

今回の須藤凛々花の一件は決定打になりさすがに目が覚めたファンも多いだろう。実際「もうアイドル自体に冷めた」と語っているアイドルファンは多く、もうアイドルである時点で信用しない"アイドル不信"に陥った人が続出している。

 

結果若い清楚なアイドルに夢を見る時代は終わり、これからのアイドル文化は「裏切られても良い相手」そもそも期待していない相手」を応援するスタイルに変わっていくかもしれない。

例えば自分はAKB48系列の中ならば指原莉乃を応援しているが疑似恋愛の対象として見ているわけでもなければ、女性として好きというわけでもない。

芸能人や一人の人間として面白いから見ているわけであって、付き合いたいとも思っていないし女性として魅力を感じているわけではない。

よく「指原は顔は良くないがスタイルはいい」と言われるが、スタイルが良いと思ったこともないしそこに魅力を感じたこともないし顔も好みではない。

 

それにもかかわらず自分は指原莉乃が非常に好きであり、これからは「付き合いたいとも思っていないアイドル」を応援する時代が来るのではないか。

元々スキャンダル持ちであり、むしろ次のスキャンダルがどうなるかというのを楽しみにしているほどである。発言の面白さや考え方が面白いから見ているわけであって、女性芸能人が好きという感覚とほぼ変わらない。タレントや芸能人として好きであってアイドルとして見ていることは無い。

 

また今自分は男性アイドルが好きだがこれも付き合いたいと思っててみているわけもなく、かっこいいから憧れていたり、キャラが面白いから興味を持っていたりするという側面が強い。男性アイドルの場合はアイドルとして見ており、本当にかっこいい存在として憧れているが自分は同性愛者ではないためスキャンダルがあっても特に気にはならない。ある意味同性アイドルの応援は気楽であり、スキャンダルがノーダメージという観点ではこれからむしろ同性アイドルを応援するスタイルが増えるのではないか。

 

AKB48関連でも女性ファンは多いが、おそらく彼女らは自分が理想とする同性に近づこうとして見ているわけでありスキャンダルがあったとしても特にショックは受けていないだろう。

女性は女性アイドルに対して「そりゃイケメンやお金持ちと付き合いたいよね」と自分も同じことを思っているのだから納得がいくし、男性は男性アイドルに対して似たような事を思っている。

 

しかしそうは言っても恋愛市場からあぶれた人間はどうしてもその空虚な感情を満たす対象が必要となる。もう今の時代「恋愛市場からあぶれた人間を対象にしたビジネス」は数多くあるが、その大半は結局利用され搾取され裏切られるようにできている。

ネットの有名人もスキャンダルが相次ぎ、声優のスキャンダルも相次いでいる。結局「この人は大丈夫だ」と人は存在せず皆自分がモテる立場なら裏では好き放題しているのである。

二次元アニメに夢を見ようにも昨今のアニメ文化は「アニメキャラの応援=声優の応援」に直結しており二次元だけを楽しむということができなくなっている。「二次元なら大丈夫」という考えすら成立せず声優にスキャンダルが起きればそのアニメキャラクターまで巻き添えを食らう時代になっている。

ユーチューバーや配信者ですらもはやアイドル化しており、彼らに親近感を感じて疑似恋愛感覚を満たしても虚しいだけでしかなくなっている。

 

本当に一番良いのはしっかり自分が恋愛をすることだが、頑張ってもできない人や市場からあぶれる人は一定数必ず出てくる。もうお見合いという文化は衰退し、自由恋愛社会になったことで必ず負け組が出てくる。

お金と魅力がなければ恋愛市場には入れてもらえない、そういった持たざる人間はあぶれる。女性の場合はお金が必要なく魅力があればよいが、逆に言えば魅力がなければ逆転が不可能になっている。

いずれにせよ万人が恋愛市場に参入できるわけではなく、それゆえに疑似恋愛ビジネスが成立している。

 

この状況で恋愛市場に参入できない人は何を心のよりどころにすればよいのか。

お金で解決することもできず、自分の魅力で解決することもできない、失敗続きでもう努力をすることに疲れた。なんとかアイドルに行き着きアイドルを信じていたらアイドルにも裏切られる。今回の須藤凛々花の一件でそういった人が増えたことは間違いないだろう。

総選の人気投票や握手会になけなしのお金を使うビジネスの虚しさが今回のことで決定的に証明されてしまった。そもそも冷静に考えて人気投票にお金を使ったり、握手会で話すためにCDを買うことがおかしいのである。

私生活を切り詰めてまで若い女の子と話すために握手会に行く時点で異様な文化でしかない。

18歳未満のアイドルならまだわかるが、18歳を超えているならば普通にキャバクラやスナック、そして風俗店で働いているわけであり素直にそこに行ったほうがあらゆる面で効率が良い。

向こうも客だと思ってるし、自分の女の子と話すためにお金を使っているという事を納得できている部分があり、お互い割り切った関係がある。

おそらくアイドルに現場に握手をしに行く人々は"夢"を追い求めて、キャバ嬢と違うもっと神聖な存在に会いに行く物だと思っている節がある。

須藤凛々花

しかし今回の須藤凛々花の件ではっきりしたが、もうそんなアイドルなどこの世に存在しないわけでありそれならば最初から"プロ"がいる場所に行ったほうが良いし、いくらでもそういった商売をしている場所はある。

むしろ握手会の法外な値段を考えたときのキャバクラやスナック店のほうがよほど安く、快適な空間で飲食をしながら過ごすことができている。

わざわざCDを大量購入して高い交通費を払って遠いところにまで出向いて、行列を待って話すときは立って話しすぐに次の客にはがされる。

それよりは一人のお客さんとして余程大事にしてくれるキャバ嬢の方がよほど優しいしプロとしての対応をしてくれるのではないか。結局のところ握手権や投票権というのはCDのおまけでしかなくそれをメインだと考えたときに非常に高く効率が悪い。

それよりは値段をサービスに集中している場所のほうが値段で考えたときの効率は良い。

 

「自分は大人のお店にはいかずアイドルに夢を求めているんだ」とアイドルファンは言い聞かせている部分があるが、実際は夢というパッケージで覆っただけのビジネスでしかなくホストクラブやキャバクラと内容は変わらない。それどころかむしろプロだと割り切ってるお店の方がよほどサービスが良いのである。

 

今回の結婚発表でその夢や幻想すらなくなったことが確定したのだから、もう女性アイドルに夢を見るという文化自体がオワコンになるのではないか。

アイドル本人もアイドルファンも現実から目を背けている部分がある。

アイドルになった子はまだ夢を追いかけていて「なぜ握手会をしているんだろう」と割り切れていない部分がある。本当はキャバ嬢と同じことをしているという現実を受け入れられず、「こんな仕事したくない」と塩対応をしたり裏ではファンの悪口を言っている。

一方キャバ嬢や風俗嬢は「お金のために仕方なく大人の仕事をしている」と割り切っているため下手に夢を追いかけていないし自分は人気者のアイドルや声優だと調子に乗っておらず、大人の世界で働いているという自覚を持っている。

むしろちゃんとプロやっているという意味では後者の方がよほど好感を持つ事ができる。

 

更に握手会に行くアイドルファンとキャバクラに行く常連客の違いも全く同じで、握手会に行くファンはまだアイドルに対してピュアな思いがあり"夢"をもらいに行っている部分がある。実際は握手をして話をするためだけにお金を払っている行為でしかないのだが、「アイドルを応援することは素晴らしい事」「少女の夢を応援している」と自分に言い聞かせている。

 

一方キャバクラや風俗に行く客は「俺は女の子と話したいからお金払ってる、それ何が悪い」と現実を割り切っている部分がある。

結局のところアイドルとアイドルファンの関係はお互い中途半端に夢を見ている関係であり、現実から目を背けようとしている。一方キャバクラやそこに行く客の関係は、お互い現実のためにやっているという割り切ったドライな関係がある。

 

「アイドル=夢」という価値観が須藤凛々花という"テロリスト"によって最大の形で破壊されたことで、こういったAKB商法やアイドル商法は崩壊するのではないか。見ないふりをしていた現実をまざまざと突きつけたことで価値観が変わる可能性すらある。そういう意味でアイドル文化にパラダイムシフトがもたらされるのではないか。

実際、須藤凛々花ツイッターを見たところ投票に大金を投じた人が「投票したよ、凛々花は俺の嫁、なんつって」みたいなことを書いており、こういった気持ち悪いファンに思い切り現実を突きつけた須藤凛々花の行為は部外者としては見ていて面白い部分がないわけではない。正直、元アイドルファンですら気持ち悪いと思うしアイドル本人はもっと気持ち悪いと思ってるに違いない。

 

覚えてもらうために自分のネームプレートをつけて来場したり、下の名前で呼んで彼氏気取りしたり、もはや夫婦気取りしているような人間が大勢いるアイドル文化に最大級の爆弾を投じたのが須藤凛々花である。こういった背景を考えるとアイドル側に同情が行く部分もある。

元々スキャンダルが発覚しており、その件が報じられる前に自分で発表するというのはもはや「自爆テロ」にも似ているかもしれない。味方に迷惑をかけてアイドルの信用性すら破壊し、今後ますますAKBメンバーや女性アイドルは真摯な対応をしなければ信じてもらえない時代になる。そしてその自爆テロを容認していたのが実は秋元康や運営なのである。

予定調和を嫌う秋元康は「面白そう」だという理由でこのテロを容認したのである。

 

同業者の女性アイドルがこの一件が批判している「客がさらに少なくなる上に、もっと過剰なサービスをしなければならなくなる」ということが要因にある。

アイドルに冷めた人がファンをやめて離脱し、残ったファンは中々信用してくれず大金を投じてくれるファンになりにくい。

数少ないファンをより過剰なサービスで獲得する競争の時代が訪れればアイドル本人としての負担も増える。

彼氏気取りをしてくる気持ち悪いファンに本当に文句を言うのは当然NGで、本当に彼女の振りをしなければならなくなる。そうしなければ信じてもらえず人気にもなれない。

 

実際は本命の彼氏がいるのに100人いれば100人に彼女の振りをして、ベタベタと何百人もの気持ち悪いオタクと握手したアイドルの手を触るために効率の悪い握手権を購入する文化はもはや終わるだろう。

 

アイドルファンの文化では「接触厨」と言われているらしいが、若い女の子に触りたいがためだけにやってくる気持ち悪いオタクを何人も相手にしたような手をなぜわざわざ触りたいと思うのか。しかもファンの見た目や年齢で対応を変えるのが彼女らである。そんなことのために時間とお金を使うならばもう接触厨同士で握手したほうがよほど手っ取り早いし安上がりなのではないか。

 

結局人間というのは嫉妬深い物でアイドルを応援しても、今度はファン同士で「自分がどれくらい重視されているのか」とも考えるようになる。そして頑張ってファンの中では認めてもらえる立場になっても永遠にそのアイドルには届かない。

裏では勝ち組同士でくっついているのであり、負け組はただの客でしかないのである。

 

今回、須藤凛々花の結婚相手は医者だと言われているが、結局のところアイドルが最終的に選ぶのはファンではなく勝ち組の男だ。

末端のファンがなけなしのお金を使って駆けつけてもただの客でしかない。

医者と結婚できた須藤凛々花が勝ち組であり、アイドルと結婚できたその医者もま勝ち組なのである。

ファンは蚊帳の外、ただそれだけでしかない。ずっとモテてきたようなアイドルは今更末端のファンにチヤホヤされても特に嬉しくもなく面倒なだけなのである。

いつも通り持つ者が勝ち、持たざる者が負けた、ただそれだけの事なのだろう。

この騒動について何を言っても須藤凛々花とその医者の勝ちであり、ファンは負けた惨めな存在でしかない。

 

ついでに言えば結局謝罪することになった大島優子も負けである。なぜ迷惑をかけた当事者である須藤凛々花が謝らず、それを批判した大島優子が謝罪しなければならないのか。

しかし28歳になって未だに男遊びをして本性を晒してしまった大島優子と、アイドルとして一番価値が高い時期に医者と結婚した須藤凛々花ならばどちらが勝ったのかは一目瞭然だろう。芸能活動もうまく行かず男遊びばかりしていたら、いよいよ30代に突入しそうな大島優子はこれからさらに結婚が難しくなるだろう。

一方自分の価値が一番高いときに相手を見つけた須藤はもうこれで「人生上がり」である。総選挙20位のアイドルと結婚できる医者はかなりの勝ち組であることは容易に想像がつく。

 

ただでさえ医者で勝ち組なのにアイドルの彼女までゲットできた男性と、アイドルという将来不透明で若くなくなればすぐに捨てられる仕事を辞めて将来安泰な彼氏をゲットした女性、どちらも清々しいほどの勝ち組である。

 

そんな勝ち組様のために時間とお金を使っていたアイドルオタクの人生とは一体なんだったのか。

俺の嫁、なんつって」といっていたそのオタクは今何を思う。自分の嫁でもなんでもなかったどころか、嫁だと思い込んでいた須藤凛々花もうすぐ誰かの嫁になろうとしている。自分が勝ち組様の養分でしかないことに気付いた彼の人生とは何だっただろうか。

一部では医者ではないという報道もあり安アパートで暮らしているという報道もあるが、そんなことを聞いたところで慰めにもならないだろう。いずれにせよ何百万も使って相手にされなかったのだから虚しい事には変わりない。

 

アイドル文化の恐ろしいところは一度裏切られればそれまで楽しかったことも全て無駄になることである。お金も時間も帰ってこない、楽しかった思い出も全て無に帰す。

そう考えたときやはりお互いお金と喜びのためと割り切れている関係が「恋愛市場からあぶれた人間」にとっては都合がいいのだろう。

自分自身は行くお金もないから行ってはいないが、キャバクラや風俗を楽しみにしている人は人生を心の底からエンジョイしているように見える。

仮に自分がどうしようもなく寂しくなってその時にお金があるのならば、自分は女性アイドルなど応援せずに素直にキャバクラに行くだろう。

 

またセクシー女優を応援している人の人生も楽しそうである。キャバ嬢やセクシー女優を応援している人は裏切られたからと言って騒ぐこともないし、裏切られたときのアイドルファンのような悲壮感はない。

セクシー女優の写真撮影会に行ってる人たちのあの笑顔はアイドルファンには無い。

アイドルファンは常にメンバーの動向をチェックし少しでも気に入らないことがあればイライラしている。

 

AKBメンバーが「ジャニーズが好きだ」ということが発覚しただけで阿鼻叫喚になっているが、セクシー女優を応援している人たちは全てにおいて潔く明るい。セクシー女優もまた自分の仕事について割り切っていて男性の欲求を理解している。

女性アイドルファンはひたすら気持ち悪く陰険でありギスギスしているが、彼らと比べたときセクシー女優ファンは開き直っており非常に明るい。

アイドルファンはまるでアイドルが自分の彼女であるかのように考えているため、その行動を逐一チェックし「自分の彼女としてふさわしいか」を判断している。ジャニーズが好きだと言えばNGで、ファンの事を大切にしない発言をすればこれもNGだ。

むしろ心が落ち着く時間の方が少なく、イライラしたりがっかりしている時間が多い。そしてどれだけ努力しても最終的には結局裏切られる。

 

それよりは最初からお話ししたいからキャバクラに行くと割り切ったり、欲求を満たしたいからビデオを見たり嬢を呼んだりしている方が割り切っていて明るいし精神的にも非常に気楽なのではないか。

声優やアイドルの行動や過去を監視しているファンより、ビデオを見て女優さんのツイッターでも見て楽しんでいるファンの方がよほど幸せそうである。

 

アイドルや声優に夢などないことを割り切って、プロで仕事として頑張っている女性を応援したほうが精神衛生上も良いのではないかと改めてこの騒動で感じさせられた。

一番は自分が恋愛をすることだがその市場に入れてもらえない人もいる。

そういう人間が何に癒しを求めるかと言えば、面倒なアイドルを応援せずもっと即自的なものを見たりそこにお金を払ったほうが結局有意義なのではないか。

女性アイドルなんて信じるだけ無駄、そのことを須藤凛々花は身を持って教えてくれた。須藤としてもこういったアイドル文化の歪な状況に一石を投じたかったのかもしれない。せっかく彼女が現実を教えてくれたのだからこの機会を無駄にするべきではない。

「自分の推しだけは大丈夫」

つい最近まで須藤凛々花推しのファンも全く同じことを思っていたのである。

女性アイドル文化自体の信頼性は失われ、これまで続いていた「アイドル戦国時代」も終わるのではないか。元アイドルファンとして自分はそんなことを思いながらこの騒動を見ていた。この騒動がどういった影響をもたらすのか、その行く末をしばらくの間見守りたい。

 

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渡辺麻友卒業発表について元ファンとして思う事

先日の第9回総選挙で渡辺麻友が卒業発表を宣言した。とあるメンバーの結婚発表の陰に埋もれる形になったが、渡辺麻友卒業発表もまた重大事である。

AKB3期生からこのグループを支えてきた渡辺麻友が去ることの意味は非常に大きい。

 

今熱心に渡辺麻友を応援しているわけではないが、応援していた時期もある"元ファン"としては「いよいよ時代が変わろうとしている」と思わずにはいられない。

卒業発表の後はAKBが完全に変わろうとしていることを感じ、時代に終わりも感じ少しだけ空虚な感情が訪れた。

 

これまでAKBメンバーの卒業は自分にとって他人事であり、有名なメンバーが卒業して行ってもそれほど関心はなかった。せいぜい最初に前田敦子が卒業発表をしたとき驚いたぐらいでその後は毎年恒例のようにメンバーが卒業することに慣れて行った。

 

しかし今回の渡辺麻友は違う。

正直な話もう少し先のことになるとも思っていたし心の準備ができていなかったという思いはある。今回の選抜総選挙への出場が最後だというだけで卒業とまでは行かないと思っていたし、まさか数年前から卒業を考えていたとも思わなかった。

 

ツインテールをやめて女優業を始めたあたりからもう卒業の事は現実的に考えていたのだろう。いずれにせよもう卒業は決まったことで渡辺麻友の性格上この発言を撤回することは無いだろう。

 

そして今回の総選挙、渡辺麻友はまたも"シルバーコレクター"として2位に終わってしまった。指原VS渡辺の何度となく見た決選はレアル・マドリードアトレティコ・マドリードを彷彿とさせる。何度も見たその決勝は結局レアル・マドリードが勝ってしまうように、今回の総選挙もまた指原莉乃がいつものように勝って三連覇を成し遂げて終わった。

 

しかしむしろ渡辺麻友はあの強大な指原と最後まで争うことができたわけであり、今回も2位をキープすることができた。また1位と無縁だったわけではなく一回は栄冠を勝ち取っている。

「2位じゃダメなんですか」という言葉があるが、今回ばかりはその言葉が正しく聞こえる。むしろ最後の総選挙で指原と決選を演じられたこと自体が素晴らしく、このラストで3位や4位に終わらなくてよかったと思う。指原というアイドルでありながら芸能タレントとして勝負して"別競技"を行っているメンバーに勝てなかっただけであり、アイドルとしては実質1位だと言えるかもしれない。

 

そして皮肉なことにその渡辺麻友の"元ファン"の自分が今応援しているのはその指原莉乃なのである。やはり指原にあって渡辺にないものはそのトーク力や面白さ、そしてアイドルファンの身内以外でも話題になる能力だろう。

正直な話まゆゆこと渡辺麻友には「アイドルとしての能力」しかない。

アイドルとしては紛れもなく天才だが、まさにアイドルになるために生まれてきた存在でありそれ以外の才能には乏しい。
本格的に女優業を目指そうとしているようだが少しその分野については心配な部分がある。すでにAKB卒業メンバーが何人も女優志望を掲げこの業界に旅立っているが成功したケースは多くない。

 

更に渡部麻友の場合AKB在籍時に主演で女優業をしているにもかかわらず結果を出せていない。AKB48という肩書がなくなったとき果たして渡辺麻友という個人に女優業の需要があるかはわからない。AKB48ファンやアイドルファンはAKB48という肩書があるから好きなわけであり、その肩書きがなくなれば興味を無くし新しいアイドルのほうへと興味がうつっていく。

これまで渡辺麻友を応援していた人々は渡辺麻友個人よりも「アイドル」をやる渡辺麻友が好きだったわけであり、卒業後女優を続ける渡辺麻友を応援するかどうかは不透明である。

 

AKB48在籍時は絶大な支持を集めているように見えても卒業後波が引いていくようにファンが去っていくケースはこれまでのメンバー卒業でも散見されたことだ。AKBファンは「AKBアイドル」という存在が好きなのであり実は個人のことがそこまで好きではないのである。

握手会に行き大量に票を投じる人は熱心に応援しているが、いわゆるお茶の間層や在宅ファンは簡単にその興味の対象を変えていく。まさに自分が渡辺麻友から指原莉乃へと"推し変"したように、この業界にはいくらでも変わりがいるのである。

 

そう考えたとき残念ながら渡辺麻友の将来に明るい展望を見出すことは難しい。

少なくとも女優業はAKBという肩書があって主演を二作務めたにもかかわらずブレイクしておらず女優としての需要は多くないのが現状だ。

しかし、こういった悲観的な意見を持つ人々の手のひらを変えさせることは"負けず嫌いな"渡辺麻友が目指していることかもしれない。

転んでもただでは起き上がらないのが渡辺麻友である。

壮大に手のひら返しをさせてくれることを期待したいし、その時は「女優で通用せず卒業後消えると言って申し訳ありませんでした」と心の底から謝罪したい。

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なぜ最近ゲームをすることに疲れるのだろうか

「最近ゲームするのが疲れる」という意見や「ゲームに情熱が持てなくなった」という意見を良く見かけることがないだろうか。

特に多いのが「オンライン対戦疲れ」であり、これはSNS疲れと同様に深刻な問題になっている。

とにかく今の時代において「ゲームはガチでやるもの」というのが当たり前になっており、「初心者お断り」という雰囲気がどのゲームにも蔓延している。経験者事態はもちろん新規層の拡大を願っているが、経験者や上級者の何気ない振る舞いが初心者にとって厳しいものになってきている。

 

こういった状況でオンラインゲームをやれば必ず経験者との大きな壁にぶち当たる。

正直今の時代にこれまでやったことがないゲームは始めにくくなっており、実際自分もFPSをやろうとしたことがあるが経験者との圧倒的な差を感じて辞めた。

もう今の時代よほど革新的な新ジャンルでもない限りどのゲームにもその勝手に慣れた経験者がおり、普通に始めれば経験者のサンドバックにされる。

殆どのユーザーが勝つ事だけに拘っており、ガツガツした雰囲気が蔓延している。

自分がやり慣れたゲームや本当に好きなゲームならばその雰囲気も心地よいが、そうでもない場合この雰囲気に疲れることがある。

 

この典型的なパターンが少し前に社会現象にもなったポケモンGOである。

自分は日本配信が始まってすぐに始めたが、ネットを見ればすぐにすぐに珍しいポケモンをゲットしている人が現れ、近くに合ったジムは一週間もたたないうちにガチ勢が居座り絶対に勝てないような状況になった。

ネットはガチでガツガツやっている人の意見が多数派になりすぐに攻略情報が出回り、「ガチでポケモンGOをやって当たり前」という雰囲気になり自分のような末端の地方在住の人間には居場所がなくなった。

こういった上級者や持つ者との格差を実感したとき、持たざる者や下層の人間は疲労感を抱くようになる。また懸命に上位層についていこうとしている人もその厳しい競争から脱落してはならないという強迫観念に支配され疲弊していく。

 

実際は全ユーザー人口の中でそこまで熱心にやっている人は少数派だが、インターネット全盛期の時代にはそういったガチ勢や上位層の意見が支配的になり初心者は発言しにくい雰囲気になっていく。

ネットがまだそれほど普及していない時代はこういった意見も少数派の意見に過ぎなかったが、今はネットが非常に広く普及しそういった雰囲気があっという間に支配的になっていく。

 

つまりゲームをする事に疲れるようになった理由はインターネットであり、ネットがない時代のほうが実はゲーマーというのは幸せだったのかもしれない。

一般のコンシューマーゲームにもオンライン機能がつけられるようになり、もはや今のゲームはほとんどネットがあることを前提に設計されている。

オンライン対戦というのが一部のものだったときはほとんどのゲームはローカルで完結していた。それゆえに自分の実力の無さを感じることもなかったし自分の世界観で満足できた。

 

しかし今の時代ゲームをクリアしてその世界のヒーローになったと思ったら、次はすぐにオンライン対戦をやらなければならなくなり自分の弱さを自覚させられる。今までその世界では最強の英雄だったのに、ネットでは途端にモブキャラになってしまう。

オンライン対戦というのはスポーツにおける全国大会のようなもので、少しその習い事を始めたら急に全国大会に出場させられるような状況になっている。

初心者が集まる場所さえも上級者や中級者との戦いから脱落した人の溜まり場になっており、本当の初心者には居場所がない。

 

しかし実はその初心者が全ユーザー人口の中では大半であり多数派なのである。そして初心者の場所をたまり場にしている脱落してきた中級者も悪気があってそうしているわけではなく、本当は上位層に加わりたいのである。

今こういった「ガチ勢になりたいのにガチ勢にいれてもらえない層」があふれており、こういった人たちが初心者にとって大きな壁になっている。本当に初心者狩りをしたくて初心者狩りをしている人は稀で、ほとんどの人が一生懸命やっているのに中級者を抜け出せないどころか中級者からも脱落してしまう構造になっている。

 

どうしてもネットというのは上位勢の意見ばかりが目立つ傾向にあり錯覚するが、実はそこまでガチでやっていない人が多数派なのである。しかし本来少数派のはずの上位勢の意見がネットでは多数派に見えてしまうため自分が疎外感を感じるようになってしまう。

これは学歴や身長、収入の話になったとき高い人しか書きこまず平均以下の人は後ろめたさを感じて書き込まないことと似ている。ネットでは皆自信のある話題でしか話さず、自分がマウントを取れないジャンルでは大人しくなるのである。インターネットは匿名の場所ですら自分を大きく見せる事に一生懸命になる人が多い。

 

そしてこれもはゲームでも同じなのである。

上手い人や強い人にしか発言権がなく、まるでその世界ではそれが当たり前にように感じてしまう。それゆえにそこに及ばない人は後ろめたさを感じ疲れてしまう。

オンライン対戦においても弱い人や下手な人はすぐに脱落していき数少ない生き残った人がしのぎを削っており、今の時代本気でゲームをやっている人だけがオンラインには溢れている。

 

つまり今の時代ゲームは本気でやらなければならないものになっており、オンラインの登場が競争を加速させた。もう今の時代様々なゲームがコアにガチでやらなければならなくなっておりネットの雰囲気もそうなっている。

かつて普通にやっていればローカルコミュニティではそれなりに勝てた人ですら、気合を入れてやらないといけなくなっている。もうゲームは手軽にやって楽しめるコンテンツではなくなってきている。

ほとんどのユーザーがすぐにネットを見る環境が形成されており、ゲーム自体がネット前提になってる。

そのためユーザーは常に比較と競争にさらされる。そのため競争についていけない人や脱落した人、そして懸命についていこうとしている人はゲームに疲れるようになる。

ゲームが大変なものになっているというのが現代の風潮であり、大変な物だから疲れるのである。

 

しかしここで考え方を変えるべきだろう。

本気でやろうとするから疲れるわけであり、大真面目にガチ勢についていこうとすると身が持たないのは当たり前なのである。

もう今の時代何か本気で極めようとすればお金と時間がかかり精神も疲弊する。

一般の人はゲームをガチでやろうとしても身が持たないわけであり、またゲームという物自体本気でやるものでもないのである。本来ゲームというのはその時に楽しめればおい物であり誰かから評価される為や認められるために懸命に頑張るものでもないのだ。

そもそもゲーム自体がんばっても評価される物ではなく、そこまでガチでやる必要もなくゲームで弱い事は恥ではない。

 

もう今の時代ゲームとは資金と時間と才能に恵まれた人でなければ勝てない時代になっている。戦闘機や軍艦を大国しか開発できない事と同じで、小国にはその軍拡競争についていく力がない。しかし実はその小国の方が世界全体で見たときに多く、その小国が大国に追い付こうとしても不可能なのである。今の時代ゲームというのは持つ者と持たざる者で言えば「持つ者」のために作られている。

なぜならば運営にとってそのゲームを熱心にやってくれる人や課金してくれる人の方がありがたいからである。政治家が"投票してくれる"高齢者層を優先するのと同じで、ゲーム会社は初心者よりも上級者を優先するのである。

 

昔より競争が苛烈な時代になっておりまるで冷戦期や帝国主義時代の軍拡競争のように、ゲームの世界では際限のない実力競争が行われている。

小国がその領域についていこうとしたら国家予算が破綻してしまうのと同じで、一般のユーザーが上級者や中級者と同じことをしようとしたら身が持たないのである。

ゲームは軽くやり、最低限一員感を味わってあとは傍観しておけばよいのであり、まともに極めるには人生を捧げなければならない領域に差し掛かっている。 

疲れないためには本気でゲームをやらない、一歩引いたスタンスが大多数のユーザーに求められているのかもしれない。

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朝から酒を飲みたいのに前日の酔いが冷めない

今日は結局起きたのが昼になる。

時間的にはもっと早い段階で起きていたものの前日飲みすぎた酔いが冷めておらずひたすらソファの上で気分の悪さと戦っていた。そしてようやく昼になって机に向かえるぐらいにはなったもののまだ酔いが冷めない。

こういう時は最悪の気分になる。

「まだ酒が飲めない」となりひたすら陰鬱な感情が支配し、飲める状態になるまでの我慢が続く。冷めない時に無理に飲んでもすぐに気分が悪くなるだけであり、なるべく冷めてから飲むようにしている。

そしてこの時のアセトアルデヒドが血中に溜まっている感がものすごく不快で仕方がない。

 

前日飲み過ぎなかった場合は朝から飲めるが、飲みすぎた場合は日中が単なる「酔いを醒ますだけの時間」として無駄になってしまう。

 

それにしてもなんと哀れな底辺人生なのだろうか。

仕事もろくにしておらず貯金を切り崩しながら酒に入り浸るだけの人生。

まさに人生に浮上の見込みもない底辺負け組の哀れな日記である。

寂れた場末の底辺の日記、そんな駄文を現実から目をそむけながら描く。

「さっさ酒で現実逃避させろ」と荒んだ感情が自分を支配する。それすらもできずに二日酔いが精神状態をより陰鬱にさせる。

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「一体何をしているんだろう」と明日を考えないその日暮らしの人生の中でふと我に返ることがあるが、一度レールを踏み外すとこの社会ではそう簡単に復帰が難しい現実がある。

とにかく普通に頑張るだけでは結局一生同世代の後塵拝するだけの人生が待っている。ただの後追いで一生追い付けない、それどころか下の世代にもどんどんと追い抜かれていく。

 

しかし同時にその後追いを懸命にして普通に頑張ることがまず社会復帰の第一歩だろうということも分かっている。

ニートや底辺はなぜ一発逆転を狙うのか、まず人並みに追い付け」

まさにその通りで一発逆転の夢物語など考えずに、人並みに追いつくことを本当にやらなければならないのである。人生に失敗したのならば人の三倍努力してその失敗を取り返す必要がある。

 

しかし「もう疲れたよパトラッシュ」という心境なのである。

もう嫌なんだ、この人生というステージで負け続けるのは、何をやってもうまく行かないことにうんざりして疲弊してしまっている。

だから酒に溺れる、朝から酒を飲もうとする。

やあ僕はピカチュウじゃなくてアルチュウなんだ、ワイルドだろぉ?とつまらないジョークで気分の悪さを紛らわそうとするがだんだんとまた嫌になってくる。

どこかで頑張り始めなければならないのにあらゆることを先延ばしにして今日は酒が延べればいいと安酒を煽る。

 

そしてまた気分が悪くなり後悔することの繰り返し。

「貧乏人の唯一の楽しみは"これ"なんだよ」と美味くもない酒をアルコール補給目的に飲む。金がないから美味い酒には手が届かない、美味い酒の肴もない。ネットで高級食品の画像だけ見てただアルコール濃度が高いだけの安酒を際限もなく飲んで酔い潰れる。

そして次の日は最悪の気分で昼間に目覚める。ただただ酔いを醒ますだけの地味な戦いが続く。

「朝から飲ませろ」というならば、前日の夜に飲みすぎなければいいだけの話であり完全に自業自得である。そして朝から飲んだ日には結局それも飲みすぎて夕方ぐらいにはダウンしている。

 

溜息しか出てこないし陰鬱な表情にしかならない。

ただただ哀れな人間であり先行きの見えない人生の解決を先延ばしにする。

即自的に今日の事しか考えなくなり、世の中のいろんなものに批判的になる。性格もどんどん悪くなりひねくれ者になっていく。何の成長もなく退化し、酒を飲むことに繰り返しでしかない日々がここ最近ずっと続いている。

 

期待しても努力しても裏切られることが続けば「もう疲れたよ」と言いながらを飲むことだけである。人生の歯車が狂い、ボタンを掛け違えればあっという間に転落人生へと陥る。這い上がる棋力やモチベーションを探そうとするが、それも一時的にしか続かない。結局やってることはいつもと変わらない。

そんなことを言っていたら少し気分が和らいできた、もうすぐしたらまた呑める。

いつもと同じ習慣がまた始まろうとしている。

 

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なぜ日常アニメが今急速に増えているのだろうか?

最近のアニメがつまらなくなり劣化した理由に日常アニメの量産が上げられる。

猫も杓子も日常アニメ、もしくは手軽に自分が活躍した感が得られる異世界転生ものばかり。

実際はそんなことないのかもしれないがそれがテンプレ的なイメージになってしまう程これまで日常アニメが"乱造"されてきたことは事実である。

 

現実に最近もっともヒットしたけものフレンズは日常を舞台にした世界観ではないものの頭を使わずにリラックスして見れるアニメであり、その意味ではこういった類のアニメがトレンドになっていると言えるだろう。

 

こういった「日々のささやかな幸せ」を再評価する傾向はアニメだけにとどまっていない。昨今のユーチューバーの流行のように「日常の中の親近感」や、顔見知りのように感じられる人が普通のことをやっていることを求める傾向はもはや日本全体の雰囲気になっているように思う。

けものフレンズを見る人々も、ユーチューバーの何気ない動画を見る人もその日々の生活の中で手軽に手に入りそうな幸せを求めているのだろう。

その世界観の中でゆるいアニメキャラも、いつもゆるいことをやっているユーチューバーを求める人たちもその本質においては変わらない。

 

つまり今に日本人は「日常のささやかな幸せ」や「平穏な日々」を求めている。

大きな夢や壮大なものを思い描く想像力や体力はなくなり、日本人は現在疲労しているのである。もはや日本人は日常にさえ疲れるようほど体力がなくなった。

そしてその「日常」さえ実は手に入っていないのである。

日本社会全体が停滞しそれまで当たり前だった幸せさえ手に入れられる人が減ったことで、最低限の幸せを提供してくれるものを見るようになった。

親近感のある日常アニメやユーチューバーを見ることは「友達感覚」を手軽に満たすことができる。

 

たとえばブラック企業に勤め日々上司に説教され同僚に友人もおらず、出世も見込めず薄給で頑張っている若者が、家に帰った後日常アニメやユーチューバーを見ることに癒しを求めているならば誰がそれを批判できるだろうか。

今日常アニメやユーチューバー動画ですら数少ない"癒し"になっているのが日本の現状なのだ。

頑張っても何か壮大な物が手に入るわけでもなく、ただ生きるためだけに仕事をしている人が大勢いる。そしてそういった仕事に疲れた人々は家に帰宅したときSNSでのお互いの承認や日常アニメ、親近感のあるユーチューバー動画に癒しを求める。

夢を見ろ!と言っても夢を見ない方が現代日本では生きやすい。

夢を思い描くより日常の何気ない幸せを楽しんだほうがいい、そしてそのかつて手軽に手に入るはずだった幸せすら今は手の届かない者になっているという背景がある。

 

もう今のアニメファンはアニメに壮大な世界や想像の世界を求めていない。

自分たちの生活のフィールドにないものや、自分たちから距離があるような作品には"共感"できない。

手の届きそうな日常や想像力が回る範囲内の世界観には共感できるが、遠くなりすぎると共感できなくなる。

 

ただでさえ日常に疲れて希望も見いだせない人間が重い作品や深刻なストーリーを見たら更に疲れてしまうだけなのである。

かつてアニメといえば想像の中の壮大な世界を楽しむことが目的だったが、今は日常の疲れを癒すツールになっている。

ネットの仲間とアニメを見てそれが楽しければ癒される、それが楽しくなければ製作者を集団で叩いてストレスを発散して束の間の"一体感"を味わいそのコミュニティの一員になっていることの安心感を得る。

 

なんJで同じ定型文を使っていれば仲間意識を手軽に得られるのと同じで、今こういった「仲間」さえ希少なものになっている。リアルで頑張って人間関係を拡大し労力を費やしてその関係を維持するのならば、ネットで手軽に仲間意識を感じたほうがお互い気軽だという時代でもある。

もはやアカウントさえない「なんJ」のような匿名コミュニティはさらに気軽だろう。ヤフコメ民がヤフーニュースにコメントして自分の意見に対する同意の数で安心感を得ているのもまたその一環だ。

 

そういったネットのコミュニティで日常アニメを見たりユーチューバーを見れば「一体感」「癒し」も頑張らずに簡単に手に入ってしまう。

現実で頑張ってそれらを揃えようとすることはもはや億劫な物であり、更に頑張れば必ず保障される物でもない。

一方ネットで得られる友達感覚や癒しはまるでファストフードのように手軽に入る。

現実で100人の友達やコミュニティを作ろうと思えば苦労するが、ネットでは100人の友達など簡単に作れる。今のネット時代に人間関係とは登録情報に表示される「数値」なのだ。人間関係を数だとしか思っていない人が今増えている。

 

そしてそんな仲間たちとアニメを一緒に実況してそれがタイムラインに表示されれば最低限人間が欲しい物が手軽に手に入る。

リアルで頑張るよりネットで頑張る方がいい、そのことに現代人は気づいているのかもしれない。そして皮肉なことに自分もリアルで頑張らずネットで頑張っている人間なのだ。

 

「リアルで頑張ることって意味があるのかな」と考え始めた人たちが今バーチャルの世界にこれまでリアルで当たり前にあるはずだったものを求めるようになっている。

友達感覚もネットで満たせばいいし、現実のささいな幸せも日常アニメやユーチューバーを見れば労力もかからず手に入る。アイドルさえ見ればもはや恋人さえ必要ない。

頑張らなくても手に入る物でそれなりの幸せが得られるようになった。

これを言いかえれば考えずに見なくてもそれなりに面白いと思えるアニメが増えた。

 

結局リアルでガツガツ頑張っていた人も日本の高度経済成長期やバブル景気を最後に消え、アニメを真剣に見ていたオタクも日常アニメ量産時代到来により消え、交友関係が広いことを誇りにしていた人も今はSNSで数値を増やすことで満足するようになった。

まるで日常的に料理を作っていた人がインスタント食品の発明により減少したことと同じで、今はいろんなものがインスタントに手に入る時代になった。

何かのゲームのプレイ技術を真剣に極めるゲーマーも減り、リアルマネーを払えば手軽に強くなれるソシャゲをする人が増えた、これもまた即自的なものを求める傾向の一つだろう。

 

もう難しい物を頑張って手に入れようとする時代でもなくなり日本人総意識低い化の時代が到来している。

簡単に増やせるネットの仲間、簡単に勝てるソシャゲ、簡単に見れる日常系アニメ親近感のある握手会アイドルやユーチューバー、いま日本人はカジュアルさや手軽さを最も重視している。

頑張ることに疲れた、いや頑張っても夢がない社会になった。

 

日本人が現実に気付いてきた。

「そんな世界はない、高価な物なんて買えない、頑張っても夢をかなえられる人はごく一部」だという真実に。

 

そんな現実に気付き始めた人が「インスタント化」を求めるようになった。

「毎日料理って頑張って作る必要ないじゃん」 →インスタント食品

「人間関係ってそんな頑張って作る物でもないじゃん」→ネットのインスタント人間関係

「アニメってそんな真剣に見る物でもないじゃん」→インスタント日常アニメ

この風潮に名前を付けるとすれば「大インスタント化時代」であり「カジュアル至上主義」とでも言うべきだろう。

 

アニメの中に凄い世界を求めるというのが古い発想であり、そもそも日本人全体が凄い物を求めなくなってきてる。

芸能もアニメも人生も人間関係も壮大な世界には興味ない。

高価なものを買うことにも興味もなければ海外に行くことにも興味がなく、雲の上の芸能人に興味ない。

その結果様々なものが小規模に細分化し、小粒化したことは否めないだろう。

 

少し寂しいが壮大な芸能界やアニメというものはもう過去のものになっていくだろう。自分に最適な最低限度の幸せを多くの人が見つけられるようになったのなら、それはもしかしたら幸せになりやすいいい社会なのかもしれない。

リア充リア充でガツガツ頑張っていた時代、オタクはオタクで世間ではどうでもいいとされる物に真剣になっていた時代。

今どちらの人々もそれほど頑張らなくなっている時代が到来している。

 

リアルで壮大な夢を掲げていい高額な収入を得ていい車買っていずれは夢のマイホームと頑張っている人は意識高い系扱いされるし、「リアルで負けた」という意識があったことでオタク界では真剣になっていたかつてのオタクも今は少なくなった。

リア充も腕時計を持たず軽自動車で許されるようになったし、オタクも簡単に手軽になれる存在になった。「男が腕時計もしていないのか」という人はやや時代遅れの人であり、かつてバブル時代に青春を体験し車に憧れていたはずの世代でさえ今は軽自動車に乗っている。

オタクという言葉が持っていた蔑称的な意味合いもなくなり「私オタクなんですよ」とアイドルが気軽に公に口にできるようになった。

 

格差は拡大し一部のハイスペック人間だけが勝者になれるリアルに興味を示す人は少なくなり、ネットでインスタントにいろいろなものを求める。

逆にネットやオタク文化を真剣に追及していたオタクもその風潮に同化しかつてのような濃いコアなオタクは減った。

そういった昔ながらのオタクが好んでいた異世界物アニメやゲームは最初から異世界だったが今は異世界への「転生」になっている。

何でも今の異世界転生ラノベは「ライバル」や「師匠」という主人公より上の存在や越えなければならない存在が減ってきているらしい。なぜならば「手軽」に無双できないからである。てっとり早く自分が"イージーモード"で活躍することをラノベに求めているのに、わざわざそのラノベの世界まで現実と同じように苦労したくないのである。

そしてこちらの現実にいる普通の人間が異世界にいくことで、最初から異世界でいるよりはリアリティがあり想像がしやすい。

 

要するに作中でまで苦労したくもなければ想像したくもない、そこに労力は使いたくないというのが現在のラノベ読者の傾向である。想像力すら現代の異世界転生物のファンにとっては労力のかかる面倒な物であり、そういった人々のためにインスタントにラノベが用意されている。もはやライトノベルではなくインスタントノベルといったほうが的確なほどだ。

そしてこれまで述べてきたように即自的に何かを手に入れるという行為はあらゆるジャンルで行われるようになっている。

 

また日常アニメの増加は家族という当たり前にあった共同体が今では手に入れにくいものになり、穏やかな日常そのものが貴重になってきた時代背景も要因にあるだろう。

日常アニメファンは一見すると日常を求めているように見えるが、実は「自分にない日常」を求めてる。もはや「日常」や「普通」という物でさえ簡単には手に入らない時代になった。

アニメの中で描かれている日常や、それまで普通とされていた生活が高価で敷居が高くなり手に入らない時代になった。よく言われるがクレヨンしんちゃんの野原ひろしでさえ現代社会基準では勝ち組なのである。

壮大な世界はあまりにも非現実的だが、実は日常アニメですら本当は非現実的になっている。

自分は日常アニメを見ているわけではないが、平均以下の暮らしをしてるため日常や当たり前の生活を普通に手に入れることの難しさには共感できる。かといって日常アニメやユーチューバーを見る事にはならないがそういった癒しを求めること自体を批判することはできない。

 

当たり前の日常のありがたさに気づき、それも手が届かなくなった現代アニメファンはもうアニメの中で心を痛めたくない。彼らに重い作品や深刻なストーリーを見る体力は残されておらず、ほのぼの世界を楽しむことで日々の疲れを癒したい。

むしろまだ日常アニメを見る体力が残っているだけでも十分であり、もはや自分に至ってはアニメを25話どころか12話見る気力すら残されていない

 

これらのことを総括すると日常アニメ増加の要因は大きく2つに分けられる。

1:日本人がどんどん貧しくなってきている

日本社会が衰退したことでこれまで当たり前にあった日常や幸せすら貴重なものになっている。日本人が頑張って凄い物を手に入れるという時代に疲れ、程よく手に入る物で満足するようになった。そしてその競争からも落ち、ちょっと頑張れば手に入れられるものさえ手に入れられない層も増えたのが現代の状況。

 

2:簡単にオタクになれるようになった

オタクに限らずインスタントに様々な物が手に入る時代になったことで、オタクという肩書やステータスも簡単に手に入るようになっている。

インスタント食品のように「インスタント友人関係」や「インスタント日常アニメ」「インスタント共同体」が増え始めた。そして「インスタントオタク」も増えた。1つ目の理由と複合したことで更に日常アニメや癒しアニメは増えている。

まるでファストフード店でファストフードを食べながら友達と雑談するように、今は日常アニメがそのお店や料理を代替するようになった。

ファストフードにそこまで意味はなく友達と話すためのツールや場所に過ぎないように、もうアニメも"コミュニケーションツール"の一種になりそこまで大きな意味を真面目に求め考察するようなものではなくなった。

 

わざわざファストフードの味を真剣に追及しないようにもはやアニメを真剣に見なくなった。彼らはアニメが理解できないという以前に理解しようとしない。ファストフードの味を真剣に評論することに労力を使いたくないように、アニメを真剣に考察することや想像することに労力を使う事、その過程が面倒になっている。

 

かつてフランスにマクドナルドが進出したとき味覚や料理の教育に熱心なフランス人はフランスの食文化が失われるとして抗議した。

「もっとちゃんとしたフランス料理を楽しみこの文化を守らなければならない」と保守的なフランス人は自国の美しい食文化の保護に乗り出そうとした。

 

もしかしたらかつてオタク文化を美化し最近のオタクを批判している人は、かつてマクドナルドの進出に反対したフランス人のような存在なのかもしれない。

料理はしっかりと味わい楽しまなければならないという美食家とアニメやゲームは真剣に深く楽しまなければならないというオタク、その両者はその文化を重視しない人々からするとただの面倒な人でしかない。

「視聴者層は広がったが質は確実に落ちた」とかつてのオタク文化を知る人々は語る。自分自身かつてはオタク文化をより拡大しネットを普及させ世の中にこれだけ面白い物を広めれば更に面白くなると信じていた。

しかしその先に訪れた現代はかつてのオタクが思い描いていた理想社会ではなかった。

拡大していくことだけが正義ではないしそのコンテンツにとって幸せとは限らないことに気付いた。

 

その一方で閉じてしまうだけでは衰退を免れないというジレンマがある。 最終的にフランス人はアメリカのファストフード文化や日本のインスタント食品文化を受け入れ今フランス全土にマクドナルドがありカップ麺も数多く売られている。

これも時代なのだろう。

日本やアメリカのカジュアルな食文化を受け入れたフランス人のように、オタク文化もまた「日常アニメ」というカジュアル文化を受け入れなければならないだろう。抗えない時代の流れが様々な遠因となり現代文化に影響を与えている、文化とはその社会の反映でもあるのだ。

elkind.hatenablog.com

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誰も語らない本当のオリキャラの作り方

オリキャラ、つまりオリジナルキャラクターは少し絵を書いたことがある人ならば一度は考えたことがあるのではないだろうか。そんなオリキャラの描き方については様々な人が語っているが、そこには誰も語らない真実がある。

多くの人がその技術論について語るが実はオリキャラの作り方というのは具体的な技術論が全てではない。

正直に言ってある程度キャラクターの絵が描ける人なら誰でも作ること自体はできる。

 

「行うは易し行うは難し」ということわざがあるが、その言葉を応用するなら「オリキャラを作るのは易し、広めるのは難し」だと言える。

実はオリキャラを作ること自体は非常に簡単であり、ある程度キャラクター絵が描ける人ならば誰でも描ける。基本的に自分がいつも書いている画風で、公式のキャラクターにないデザインを使えばそれで十分オリキャラは成立する。

髪型、衣装、名前、設定、目や髪の色などを独自に決めればあっという間にオリキャラは完成する。

髪型も他のキャラクターやヘアカタログを参考にし、少しアレンジを加えれば十分であり良くある髪型でもそれはオリキャラだと言えばオリキャラになる。衣装も上着、靴、ファッションアイテムを個別に何かを参考にして自分の好きな物を貼り合わせていけばオリジナルの物自体は完成する。アレンジを効かせて少し違う物にすれば十分唯一のものとして成立するだろう。

 

真に問題なのはここからであり、本当に大事なのはそのオリジナルキャラクターをどう広めていくかという難関が待っている。

ピクシブなどを見ても「オリキャラ」と検索すれば有象無象のオリジナルキャラクターのイラストが投稿されている。ピクシブではオリキャラは最も投稿されているジャンルの一つであり今もきっと誰かが自分が考えたキャラクターのイラストを投稿しているだろう。

自分自身もそのオリキャラを投稿している者の1人だが、正直に言ってほとんどのキャラクターが「自己満足オリキャラ」となっており自己完結で終わってしまっている。

なぜなら誰でもできることのため非常に供給が多く大半が埋もれてしまうからだ。実際自分も他の投稿者のオリキャラを見ることがあるが、たいていの場合ほとんど印象に残らない。

ピクシブの投稿者はよく「うちの子」という表現をするが、ほとんどの場合本当に「うちの子」で終わってしまい、他者から見ると結局自分には関係ない他人の「よその子」でしかない。

大半のキャラクターは見向きもされず、完全に自分が描いているだけでそこから何かの展開もなく埋もれていくのがこういったオリキャラの日常である。

 

結局ほとんどの投稿者が、それほど他人のキャラクターには興味がなく手間を惜しんで人のキャラクターを描いたり話題にしたりすることは無い。お互い他人のキャラクターには無関心であり、自分のキャラクターが世界一だと思っている。

まるで猫を飼っている人が「うちの猫が一番かわいい」と思っているのと同じで、オリキャラ描きの人は自分のオリキャラを世界一だと思っている。そんなことを言いながらも自分もそう思っている立場であり、自分のオリキャラは公式のキャラクターよりも好きだし逆に他人のオリキャラで覚えてるキャラクターはほとんどいない。

 

ネットで本当に多くの人から認識されたオリキャラというのはほとんど存在せず、よほど絵が上手い人やキャラクターを広めることが上手い人しかいない。

「東方Project」シリーズや「ひぐらしのなく頃に」シリーズは元々ネットのオリキャラだったところからスタートしているらしいが、この領域になってくるともはや別格であり末端のイラスト投稿者にとってはそこまで参考にならないだろう。

夢はあるが現実的にその領域を目指すのは難しい。

 

またネットのイラスト投稿サイトというのはただでさえ供給過多になっている状況であり、一定のレベルに達しない絵はそう簡単に見てもらえない。

ただでさえ見てもらえない画力の人が、どこにも需要の無いオリキャラを描けば想像がつくようにほとんど誰も見ていない。

実際自分もピクシブでオリジナル物を何度か投稿しているがオリジナル物はよほどの才能や画力がなければ厳しいという事も感じている。

 

ではオリキャラはどういった状況が失敗であり、どういった状況が成功なのかについてここで一旦整理してみたい。

 

ネットによくある有象無象の埋もれる量産型オリジナルキャラクターにありがちなこと

・誰もそのキャラを覚えておらずファンがいない

・自分以外に描いている人や話題にしている人がいない

・閲覧数が少ない

・どこかで見たようなデザイン

・画力が低い

・キャラクターデザインだけで終わっている

・そのキャラクター絵を1枚しか書いていない

=自己満足オリキャラ

 

そして「人気になるオリジナルキャラクター」の条件はまさにこの逆である

・多くの人が覚えておりファンが付いている

・自分以外の人も話題にしたり、そのキャラクターを描いてくれる

・閲覧数が多い

・独自のデザインであり既視感がない

・画力が高い

・そのキャラクターが活躍する作品を作っている

・そのキャラクターに関する絵や漫画を多数描いている

=真のオリキャラ

 

そして現実にはほとんどのキャラクターが前者になり、後者の領域に達することができるキャラクターはほとんど存在しない。

ではなぜオリジナルキャラクターがここまで失敗しやすいのかという事を自分のオリキャラを実例として解説していきたい。

しくじり先生風に言うのであれば「私はオリキャラを描いて失敗しちゃった先生なんです」といったところだろうか。結局なぜ自分のキャラクターは自己満足で終わったのだろうかという事を実例を持って考えていきたい。

オリキャラ

これが実際に自分が描いたオリキャラであり、まさに前者のパターンに当てはまっている。まずこのキャラクターについて概要を簡単に説明したい。

名前:空良快晴(そら かいせい)

年齢:18歳

登場する作品:戦略機動伝ガンダKind

作中での役割:主人公のライバル

職業:軍人、パイロット

自分でも痛いオリキャラだと思うがそもそも痛くないオリキャラの方が少ない。むしろオリキャラは痛い方が良いとさえ自分は思っている。

まず戦略機動伝ガンダムKindというのは自分が考えていたオリジナルガンダムシリーズであり、その中で登場するライバルキャラクターという立ち位置になっている。

 

そして実際このキャラクターが人気になることは無く絵を描いてくれる人はほとんど現れず、特に反響もなく「鳴かず飛ばず」という状況に終わった。

 

そしてほとんどのオリジナルキャラクターを描いている人が誰からも相手にされず埋もれているのではないだろうか。

ただピクシブにオリキャラを投稿して何か爆発的な反応があった人というのはそれほど多くないだろう。元々絵師として人気だった人が有名作品の二次創作や同人キャラクターを作ったときようやく反応があるぐらいで、基本的の人のオリキャラにそこまで反応してくれる人は多くない。

なぜかというと素直に言って魅力がないからであり、前述の「うちの子」と「よその子」でいえば永遠によその子でしかないからである。「自分が描いたフィルター」がかかっているから魅力的に見えるだけで、他の人には魅力的でなかったり、魅力を伝える努力が足りないという要因もある。

 

そしてそういったことを箇条書きにまとめて、それに対してどうするべきだったかというのをここからは書いていきたい。

その対策がまさにタイトルの「本当のオリキャラの作り方」となる。

 

1:画力が足りなかった

これはシンプルな事実であり、つくづく自分は画力が足りないという問題に直面した。ピクシブやネットの供給過多の時代に勝負しようとしたらもう最低限画力がなければならず、それが大前提ともいえる。日ごろからイラストサイトを見ている人は目が肥えているため、もう上手くて当たり前になっている部分がある。

まず画力で足きりされてしまっているというのが現状であり、「下手なオリキャラ」というのをわざわざ見ている人は少数派だという現実に自分は気づいた。

正直に言えば自分は正面の絵からしか描けないのである。それゆえに様々なポーズで書くことができずキャラクターの魅力が伝わりにくい。また漫画も描けないためキャラクター性を知るきっかけが少ない。

 

個人的にはそういった手作り感があるイラストのほうがプロ並みに上手い人より好感を持っているけども、現実にピクシブで閲覧数の多いオリキャラはやっぱりある一定レベル以上の画力で書かれていることがほとんどだ。

これはピクシブ全体の傾向として、上手い人の方がいろんな人に見てもらえるという基本も基本の真実。同じオリキャラでも画力がもう少した変えれば結果は変わってくる程画力の影響力は絶大だと言える。

「素人感がいい」ということに甘えていては時代に置いて行かれる、もし自分がまたオリキャラを描くことを再開するならば画力を高めることは最優先にしたい。

 

2:交流の不足

実はオリキャラで画力の次に大事な物はコミュニケーション能力である。キャラデザや設定という詳細な部分は実は多くの人はそこまで見ていない。

この「そこまで見ていない」というのが真理で、基本的にこれだけイラストが多く投稿されている場所で他人は他人の絵にそこまで興味がない。

ただでさえ興味がないのに、そこからそのキャラを描くということまで進むはずがない。オリキャラ投稿者は自分のキャラクターが最高に魅力的だと思っているが、実は他人はそこまでいいキャラだとも思っていないのが悲しい現実である。

 

逆に大事なのはイラストを描いている人同士の交流であって、「その人に興味があるからその人のキャラクターも良く見えてくる」という状況が必要になる。

これはネット全体に言えることだが結局ネットというのはやってることの質よりも人脈や交流が最重要課題であり、人間関係やコミュニケーション能力が実はキャラクターデザイン能力や設定能力以上に大事になってくる。

 

例えば中学時代ぐらいによく一緒に絵を描いている人がいたときに、レベル関係なしにお互いの絵が好きだったことがある。「友達の絵」はレベル関係なしに興味を持つし、お互いそこまで上手くなくてもいいキャラだと思えてくる。

これは子供で例えるならば他人の子供は基本的にどうでもよいが、「自分の子供と友達の子」となると途端に愛着がわいてくるのと似ている。

自分の子供と友達でなければただの「よその子」でしかないが、自分の子供と友達なら「うちの子と仲良くしてくれてる子」になる。

 

それと同じでイラストやオリジナルキャラクターもネット上で仲の良い人の絵ならば魅力的に見えてくるし、そのキャラクターをお互い描こうという形にもなってくる。お互いの絵を描くことで少なくともその人は自分のオリキャラのファンになるし、自分もその人のオリキャラのファンになる。

 

ただ問題なのがこの交流は結局お互いの間で終わってしまう為、そのキャラが真に広まっていくという事はまだ達成できない。よほど描いてくれる人が影響力のある上手い人ならばその人切っ掛けで自分のキャラクターを知ってくれる人が増えるが、実際そこまで上手く影響力のある人がわざわざ末端のオリキャラを描いてくれることは実際ほとんどありえない。

基本的にイラスト投稿者の本音は「自分の画力を自分より画力が下の人のために使いたくない」であり、自分より下の人間のために絵を描いてくれるような親切な人はなかなかいない。

悲しいことにピクシブの世界では画力がその人の価値を決める指標になっており、「身分制」と言ってもいいような壁がある。カースト制度と同じで、基本的に皆自然と同レベルの人と交流するようになる。このサイトではほとんどのユーザーが自分より画力の無い人を無条件に見下しているのが現実である。

 

これもピクシブに「描いてもいいのよ」というタグがあるのだが、ほとんどの人が誰にも書いてもらえずに終わっている。

「暇じゃないんだからわざわざそんなキャラ描くわけないだろ」というのが上手い人の本音であり、ポケモンで弱いポケモンをGTSに預けて、強いポケモンとの交代を迫っても誰も交代してくれない事と似ている。

 

「描いてもらう」という受け身のスタンスでは厳しいし、自分より上手い人が描いてくれることはほとんどない。

また実際自分より上の人に描いてもらったところで、それがきっかけでそのオリキャラのファンが増えたという事は基本的にあまりない。

オリキャラ描きのほとんどが「待ちの姿勢」で孤軍奮闘しており、そこに連携は存在せず、そしてお互い描いたところで一過性のものにしかならない。どれだけ利他的に継続的に個人間の交流を増やしていけるかが自分のオリキャラを普及する方法になる。

 

3:マーケティングの不足

そして次に重要になってくるのがマーケティング能力になってくる。前述のように絵師同士で絡んでいても結局その関係はその個人間だけで完結してしまうことがほとんどである。

よくピクシブは投稿者同士の交流がメインであり同人活動をお互いに楽しむことが目的になっているが、それは同時にただの楽しい交流で終わってしまう。

お互い社交辞令のようにコメントをしあったり、絵を描きあっているだけではただの友達でしかなくそこから何か自分の活動が発展していくことは無い。

いつもいいねとブックマークをお互い入れ合っていたところでそれは一体何になるのだろうか。

 

実際自分は少ないながらも他の投稿者と絡むことがあったが、正直に言えば「楽しいだけ」であり具体的に自分の活動が進歩していくことはあまりなかった。

結局ネットというのはいつも絡んでくれる人との交流だけでは限界があり、本当に大事なのは「見てくれている人」という第三者だと言える。

本当にお互い夢を持って高みを目指して協力していこうというスタンスの人同士であればその交流は進歩をもたらすが、現実にはただ誰にも相手にしてもらえない寂しさをお互いに紛らわすだけにしかならない。

いつも反応してくれる人がいるというのはモチベーションになるが、同時にその人を意識しすぎて好きな投稿ができないという事も発生したりする。

 

つまり本当に必要なのはROM専で見てくれているファン層をどう増やすかが重要であり、反応は無いけど見てくれている人にどれだけアピールしていけるかが重要になる。そしてそういう人たちがいつの間にか自然と反応してくれるようになる、このプロセスは本当に魅力的なことをやっていなければ難しい。それゆえの本当に必要となるのはこの部分だと言える。

結局のところ「お互い反応を返すから見ている関係」というのはある時どちらかが反応しなくなればその人間関係はあっという間に四散してしまう。そういう関係はある時どちらかが去っていく時が来るのであり、自分にはそういう経験が多々ある。

 

そういう意味で交流に加えて第三者層にどれだけ興味を持ってもらえるかという事に取り組んでいく必要がある。ピクシブアカウントだけでなくSNSやブログなどのアカウントもあれば広報の役目を果たすことがある。また漫画版などを描いたり、人目に付きやすい面白いイラストを描くことも重要になる。

また自分自身に人気があれば「その人が描いたオリキャラ」ということで好きになってくれる人もいる。たとえば無名の人が描くキャラクターよりも有名人が考えたキャラクターのほうが当然人気になりやすい。自分の価値を高めることで自分の絵の価値も高めるというパターンもあり得る。

結局知ってもらわなければどうにもならず、「知る切っ掛け」を増やしていくマーケティング作業が実は重要になっているのがオリキャラである。

 

4:創作活動を継続的に行わなかった

創作で最も大事なのはやはりその継続性である。

例えばこの「戦略機動伝ガンダムKind」という作品はほぼ未完成であり、長期間製作を放置している。

正直に言ってモチベーションが続かずやめてしまったというのはある。

 

これが何を意味するのかというとせっかくそのシリーズやキャラクターを面白いと思ってくれた人が次の段階に進んでくれないという事になる。

そのガンダムKindを何らかのきっかけで興味を持ってくれた人がどのように作品を楽しむかと言ったら実はその作品本編の部分で、自分はほとんどそれを準備できていない。

今では恥ずかしいがこれがその本編になる。

おそろしく稚拙な文章でガンダムKindの小説版を投稿しているのだが、これが実は5話までしか投稿できていない。しかももうその投稿すら2年ほど前が最後である。これではなかなかそのキャラクターや物語の深みまで興味を持ってくれる人というのは現れず、前述の「オリキャラのファンがいない」という状況になる。

これもまた失敗の実例である。

www.pixiv.net

ただこのパターンはまだ有象無象のオリキャラの中ではマシで「そのオリキャラいいね」と気に入ったところで、特にその先に何かがあるわけではないというケースが非常に多い。

典型的なキャラデザだけ描いてオリキャラだと言っているパターンであり、それだけではなかなか好きになる人はいない。

例えばガンダムのアムロ・レイとシャア・アズナブルというキャラクターがいる。この2人は機動戦士ガンダムの世界観がありその作中で活躍しているからアムロやシャアという存在になっていて人々はその言動について語りファンになっている。

 

これがただ単にアムロとシャアのキャラデザだけが存在してもそれは何にもならない。ただの少年とよくわからない仮面をつけた怪しい人でしかなく、彼らにファンなど付かないだろう。

つまりオリキャラの人気にとって本当に大事なことはそのキャラクターが活躍する作品本体であり、この部分がしっかりしていなければただのキャラクターデザインで終わる。逆にその作品がしっかりしていればそれほどすぐれたキャラデザでなくとも魅力を感じてくれる人はいる。

オリキャラのデザインだけを考えてオリキャラだと言っても人気のあるキャラクターにはならない。その作品を多くの人が知るきっかけを作り、同じオリキャラ描きの人と絡み、継続的に創作活動を行い、そして画力も上げていく。

そして最後はしっかり深みのある作品を作る。

このプロセスが整って初めて人はその人のオリキャラを好きになる。

途方もないことだが自分のオリキャラを本当に人気なキャラクターにしようとすればそれだけやることも多くなってくる。そしてようやくその努力の先に自分のオリキャラが真のキャラクターになる時がやってくる。

 

まとめ:オリキャラはイラストの総合競技

冒頭でオリジナルキャラクターは描くのは簡単だが広めるのは難しいと書いた。

自己満足オリキャラなら今日から誰でも描くことができる。

しかしそのオリキャラが本当に人気になっていくかどうかは様々な能力が問われる。ユーチューバーになること自体は簡単だが「再生数がありファンの多いユーチューバー」になることは難しい事と同じだ。

始めるのは簡単だが極めることは難しい、それがオリキャラである。

簡単に人気になりたければ人気ジャンルの絵を描いたほうがよく、一定の画力があれば固定ファンは付くようになる。ただ同時にその人気はその作品の人気でもあり、自分が本当に考えたキャラクターが人気になることの喜びややりがいとは異なってくる。

そういったやりがいを求めて人は「うちの子」を今日も描いているのだろう、そして自分もまたオリキャラを描くことを始めたいとも思っている。

 

しかしまさにオリキャラは鬼門でありさまざまな能力が問われるもっとも難しいジャンルでもある。

ただ単に絵が上手ければそのキャラクターが人気になっていくというわけでもなく、キャラデザを極めればそれを認めてくれる人が簡単に現れてくれるわけでもない。

そして当然ながら人脈も必要であり、その人脈を形成するためのコミュニケーション能力や人間としての親近感や魅力も必要になってくる。

「この人が描いた」という時、その書いた人の人となりがわかっていれば少し見え方が違ってくるだろう。

 

しかしただ末端の絵師同士で交流していてもそれはネットの友達でしかなく、「本当にお互いオリキャラで成り上がっていくために協力しよう」という野心ある関係を築くことは難しい。

「お互い協力したほうが得だ」と認めあって全力で協力していくような関係を築くのは難しい。プロに対抗しなければならない世界ではどれだけ無名の人間同士で本気で協力していくかが重要になる。やはり孤軍奮闘をするだけでは限界があるという事も自分はピクシブの体験で学んでいる。

しかし連携ありき、協力ありきだけでも大きな進歩が得られない。

何か一つを強化するだけでは一切成長は得られないのがこのジャンルであり、どの部分を重点的に強化していくかという計画的なマネジメントも必要になってくる。

 

真剣に極めようと思えばオリキャラ作りは難しい。

そしてこれだけ強化すればよいというわかりやすい方法もない。

例えば自分は前述のガンダムKindの小説をしばらく描いていないが、それで停滞しているとは思っていない。むしろブログを書くことで文章力は上がっていき、それが小説の執筆に役立つこともある。

「無名の人間が描いた小説は誰も真剣に読まない」ということははっきりしていることであり、まずそういった部分の改善が必要になってくる。

遠回りをしているようで実は創作に役立っているという事も実は存在する。

まさにオリキャラ創作というのは総合競技であり、何か一つだけを頑張っているだけではうまく行かない。トライアスロンのや十種競技ように様々なことができなければならない。

始めることは簡単だがその先は途方もない。

 

しかしそれゆえに大きな喜びも待っている。

自分のキャラクターを描いてもらったときの喜びは大きく、また他の人のオリキャラを描いたときも楽しい。

自分はオリキャラを作ることはつまらないことや難しいことだとただ単に言いたいがためにこの文章を書いたわけではない。むしろこの文化がもっと盛り上がってほしいとも思っているし、オリキャラを描く人がその創作活動におけるヒントになる物を得てほしいとも思っている。

 

自分がオリキャラのイラストを投稿したことで得た体験はどこかの誰かにとって参考になるかもしれない。

漠然とオリキャラを描いている人が一工夫を入れれば確実に面白くなるだろうし、自分自身まだ工夫が足りないなとも思っている。

オリジナルキャラクターを描いて上手く行っている人の方が少数派であり、多くの人のキャラクターが埋もれてしまっている。それではそのキャラクターがしのばれないし、埋もれるためにそのキャラも生まれてきたわけではないだろう。

各々が何らかの工夫をしてこの文化が成熟していけばきっと面白いオリキャラ文化が待っているのではないかと思う。

社会や世の中に対する憎悪や憎しみの感情があってもいいんだよ

自分は間違いなく惨めな負け組の底辺の人間だ。

社会のレースから落ちぶれ、世間からは取り残され貧困に苦しんでいる。

将来への希望も見えず、やることなすこと上手く行かず何をやっても負け続ける生粋の無能であり誰からも必要とされていない。

 

自分の才能や運命に嫌気がさし卑屈になる。

幸せそうな人間や恵まれた人間を見ると虫唾が走る。どうせ嫉妬でしかないし惨めな負け組の発想でしかないことも分かっている、だけどもうどうしようもないのだ。

 

上手く行かない時に負の感情が湧いてくるのは当然のことだと自分は思う。

そんなネガティブに考えたり世の中を恨んで人のせいにするな、努力が足りないというのは成功者だから言えることだ。

世の中が弱者や持たざる者に厳しく冷淡であることを知らない恵まれた人間だからそういうことを言えるのである。

自分ははっきり言って世の中や社会が憎い、持つ者や上級国民が憎いしなんで自分がこんなところに生まれたんだろうとも嫌になる。

自分のやってることが認められなかったりこの先希望が見えなかったり、いざという時自分を助けてくれなかったり裏切ったり、波が引くように去って行ったり、もうそういうのはうんざりだし疲れた。

 

漫画のカイジでも「結局いざという時はは他人」ということが描かれているけども、本当に皆他人でしかないんだなと思う。

周りの人間に恵まれたり、評価されてチヤホヤされたり優しくされたりするのは何か魅力のある人間に限られる。

能力が無く使えない人間、威力の無い人間に対する扱いは厳しく冷淡だ。

そんなこの社会に生きてると自然と憎悪の感情が湧いてくる。

 

そしてそれをまるで悪い事のように恵まれた持つ者は批判するが、自分は別にそれでいいのではないかと思っている。彼らも同じような状況になれば卑屈な感情を抱くようになるかもしれないからだ。

この社会の倫理では負け組になった人間は全員自業自得であり、自己責任だ。

貧困が憎い、社会が憎い、出自が憎い。

 

「人生なんてどうでもいいや」と思いながらのむ安酒程美味い物は無い。

白目をむきながら世の中全部消えてくんねぇかな・・・と思う夜がある。そんな惨めな自分にそう思っても仕方ないんだよと言ってくれる人はもちろんいない。こんな感情を抱いているのはどうせ自分だけなのだろう。

所詮俺なんて明日居なくなっても皆心配しないしどうでもいい他人でしかないのよ。

そういう誰からも必要とされず、消えても気づかれないような無名の個人が世の中には大勢いる。そんな思いが燻っているはずだ。

 

アドルフ・ヒトラーの名言に「自分は間違っていたが、世の中はもっと間違っていた」というような本当に言ったかどうかわからない言葉があるけど自分の心に響く者はあった。

世の中ほんと他人に対して冷徹で、興味もないんだなと思う。皆自分の事しか考えてないし他人なんてどうでもいいというのが本音。要が無ければ去っていく、そんなもんよ。助けを求めている人間に対してわずかな助けも差し伸べようとしない、結局他人だから。

 

傍観者、他人事、外から様子見、面倒だから関わらない、本当に大切にしてもらえたり心配してもらえるののは一部の人間だけ。

そんな孤独や疎外感を感じてもそれは自然なことだと自分は思う。

自分ってホント誰からも本当に心の底から心配されることってないんだなって思うとこの世の中虚しくなってくるよなぁ。

なんで俺生きてるんだろ、っていう疑問と社会に対する憎悪の感情しかわいてこなくなる。

 

結局世の中勝つ人間や主人公になる人間は決まっているし、負け続ける役目に生まれてしまうとそれで決まってしまう。

そこに抗おうとしていた時期もあったがそういうのが無駄なんだなとか失敗から這い上がれる人も実は限られているんだなとか思うともう人生自体どうでもいい。

失敗から這い上がった美談は一部で、実際一度失敗すると這い上がれずそのまま人生ずっと続くという有象無象の埋もれたパターンのほうが大半でしかない。

 

勝つ星に生まれた人間と、負ける星に埋もれた人間というのは間違いなく存在していてただ自分が後者だったというだけの話なのだろう。

理不尽な人生そんなもんよ、何かのせいにしてないとやってられなくて当然なのだ。

社会なんて憎んでもいいんだよ、そんなことを人生に絶望しているどこかの誰かに伝えたい。そう思ってるのは一人じゃないよと思うし、少なくとも自分はそう考えている人間の一人だ。

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